【短編小説】七月のトレンチコート(第二回すべて失われる者たち文芸賞)
私は陽子、三十五歳。ヘアスタイルはショートカットを選び、今も独身を通している。
金融機関の数字に囲まれる日々。実家で母の背中を見ていると、誰かと生活を共有する熱量など、どこからも湧いてこないのだ。
三年前、三十二歳の夏に訪れたロンドンは、裏切りの季節だった。
ヴィクトリア駅からハソックスへ向かうため、ブライトン行きの列車に乗り込んだ。三十分ほど経った頃、窓の外には不穏な雨雲が垂れ込めていた。
途中の駅のホームに目をやると、奇妙な光景があった。重厚なトレンチコートを着込んだ男や厚手のセーター姿の女性のすぐ隣を、Tシャツ一枚の若者が平然と歩いている。私はといえば、場違いな半袖ブラウスの腕をさすり、自分の選択の間違いを認めざるを得なかった。
ふと、銀髪の老女が目に留まった。ローラ・アシュレイのような、可憐な小花柄のパフスリーブのワンピース。それが違和感なく、見事に彼女に馴染んでいる。
冬と夏が、互いに見ないふりをして同じ場所に立っている。ここでは、誰も正解を教えてはくれない。私は苦笑いすら飲み込んだ。
ハソックスの駅を降りても、空は相変わらず不機嫌な色をしていた。タクシーで向かったスタジオは、想像よりずっとこじんまりとして、生活臭の漂う場所だった。
「オー、ヨーコ」
オーナーは私の名を聞いて、使い古された冗談のように微笑んだ。ヨーコという名前は、とっくに世界中で共有する記号になっていたようだ。
オーナー夫妻と、息子のような若い男性。彼が作業場で無表情にナイフで粘土を削り取っていく。その乾いた音が、私の旅の目的までも少しずつ削り取っていくようだった。
ロンドンに戻り、ホテル近くの店で学生時代からの友人、文子とパスタを食べた。その時の旅の同行者だ。
薄暗い店内の照明で見る彼女は、やはり日本人離れした容貌をしていた。大きな黒目がちな瞳、少し肉感的な唇。映画『レオン』や『ブラックスワン』のナタリー・ポートマンを彷彿とさせる、知性と危うさが同居した美しさだ。
彼女は、運ばれてきたボロネーゼをフォークの先に数本ずつ、慎重に巻き取っていく。その仕草があまりに丁寧で、まるで自分の崩れそうな感情をひとつひとつ繋ぎ止めているようにも見えた。
「ハソックスはどうだった?」
彼女が訊く。私は、車窓から見た厚手のセーターの女や、粘土を削るナイフの音を思い出す。けれど、口から出たのは「思ったより、こじんまりとした場所だったわ」という、起伏のない感想だけだった。
彼女は「そう」とだけ言って、ワイングラスに手を伸ばした。彼女の視線はさっきから、窓の外の救いようのない暗闇に張り付いたままだ。
彼女ほどの女性を、世の男性が放っておくはずがない。かといって、彼女が理想を求めて彷徨っているようにも見えなかった。彼女が時折見せる、深い淵を覗き込むような沈黙。
彼女には、誰にも言えない場所がある。私には、誰にも言う必要のない時間がある。
私は自分が注文したパスタの味をほとんど覚えてない。ただ、フォークが皿に当たるカチカチという硬質な音だけが、私たちの会話の隙間を埋めるように響いていた。
「陽子はいいよね。いつも自分を持っていて。揺らがないし」
不意に彼女が言った。それは賞賛というより、届かない場所から発せられた諦念のように聞こえた。当時の私はそれを「独身を謳歌している」という意味に受け取り、「自由なだけよ」と、これまた一点の曇りもない正論めいた笑みで返してしまった。 同じテーブルを囲んでいても、私たちは違う深さの泥の中にいたのだ。
私は自分宛てに、ロンドンらしい絵柄のポストカードを送ることにした。
このカードが海を越え、私の住むマンションの狭いポストに届く頃、私はまた、数字と効率に支配された日常に戻っているだろう。その時、この「正解のない駅の風景」は、私を救うだろうか。それとも、ただの虚しい幻影として映るのだろうか。私は自分の筆跡がわずかに乱れているのを認めながら、カードをポストの闇に落とした。
「それでも、良いじゃない」
あの時の独り言を思い出す。人は誰しも、自分だけの季節を生きている……そう信じたかったのだ。
それから三年の月日が流れ、三十五歳になった私に、予感は正解だったと知らされる。
彼女にはやはり秘密の恋人がいた。そして彼女がそれを私に言えなかったのは、私がかつて「正論」というナイフを無自覚に振りかざして、彼女の居場所を否定したからだった。
私は、自分がいつ彼女を傷つけたのかさえ、もう正確には思い出せない。
良かれと思って口にした言葉が、誰かの逃げ場を奪っていた。
結局、人は何も分かち合えないまま、それぞれの勝手な服を着て生きている。
窓の外の空は泣き出しそうな色のまま、誰の問いにも答えず、ただ頭上に広がっていた。
1975文字
※花澤薫さま
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