【小説】星の子ルシアは黄泉の国



プロローグ


   むかし、むかし。

 世界が、闇に包まれていたころ。

   光の一筋も入らないその世界は、悪魔や魔獣の住む、闇の世界となった。

 それを見た神様は、その世界にポンと、ひとつのおひさまを投げた。おひさまの光を嫌った悪魔や魔獣たちは、暗闇を求めて逃げ去った。

 光輝く世界を気に入った神様は、そこに、国を創った。
   太陽を司る、はじまりの国。

  その国の名を、あまついの国と言う。

 そして、その神様の名を、太陽神アマテルと言う。

   太陽神は、数多いる神々の中の頂点に君臨する、神々の王様。

 さて、王が創るのなら我もと、次々に神が地上に舞い降りた。

 雨の神は、青しぐれの国。

 風の神は、風かおる国。

 植物の神は、わかくさの国。

 雷の神は、なるかみの国。

 海の神は、さざ波の国。

 夜の女神は、小夜の国。

 影の神は、ほしかげの国。

 時の神は、とこしえの国。

 それぞれの神は、自身の力を分け与えた民を創った。民はその力を「魔力」と呼んだ。

 

 そんな世界が、これからお話しする「魔法界」

 魔法を使う、魔女や魔法使いの住む世界。












1 運命の出会い



  13歳の誕生日の夜。わたしの運命は大きく変わってしまった。



「―――さま、ルシア様。」

  誰かが、わたしを呼んでいる。

―――だ、れ・・・?

   重たい瞼を、顔を顰めながらゆっくりと開ける。きらり、と暗闇でも分かるくらい、さらりと長い銀糸の髪が視界に入った。次いでふいと顔を上げると、覗き込むようにして見知らぬ人の顔が間近にあった。長いまつ毛に縁取られた透き通るようなシルバーグレイの双眼が、じっとわたしを見つめていた。

「お目覚めですか、ルシア様。」

   ホッとしたような声音は、ガラスのように透明で、澄んでいた。

「あ、あ、・・・あなただれ!?」

   思わず叫び出しそうなのをぐっと堪えた。寝ぼけてなければ、ここは、わたしの部屋でわたしのベッドの上で間違いないはずなんだけど。

「―――私は、貴女をお守りするドラゴンです。」

   その銀髪の男は、音も立てずに跪いた。サラリと長い銀髪が、ゆるやかに床に広がるのをぼんやりと眺める。

「・・・えっと、人違いじゃない?」

「いいえ・・・いいえ、ルシア様。貴女様こそ、私が探し続けた、ただ一人の主。」

   いつの間にか開いていた窓から、ふわりと夜風が白いカーテンを踊らせた。窓から零れる淡い月明かりが、男の人の銀髪をキラキラと輝かせる。深々と頭を下げたまま動かないことに戸惑いながらも、言うべきことを言うために、静かにベッドから立ち上がる。

「人違いよ。わたしはただのパン屋の娘、誰かに跪かれるような身分じゃないわ。」

「―――私は、貴女の本当の父君から、貴女をお守りするよう命じられ、この地に来たのです。」

   本当の。その言葉にチクリと刺さるものがあった。だから、思わず、聞いてしまった。

「父君って…?」

「魔界の王です。」

「魔界の、王…!?」

「はい。ルシア様は、偉大なる我らが王、ルシフェル様のご息女であらせられます。」

   深々と下げられた形のいい後頭部を、じっと見つめる。

―――何を、言っているの?

「あの、さ。」

「はい。」

「わたしはね、ポルポロンベーカリーの一人娘、ルシア・ポルポロン。」

   言い聞かせるように呟いたわたしの言葉に、彼は簡単に首を横に振る。白銀の髪が静かに揺れて、きれいだな、なんて、ざわりとして落ち着かない心の片隅で思った。

「―――貴女は、魔界の姫君です。」

「だから、違うって!わたしは!ルシア・ポルポロン!この家の、」

 娘。そう言おうとして、言葉がぐっと喉に詰まった。

   だってわたしは、この家の本当の子じゃない。

―――わたしは・・・

  風が吹いた。いつの間にか汗で背に張り付いたパジャマの裾が、ふわりと夜風に膨らむ。

「―――ルシア様のその瞳が、何よりの証です。」

「ひとみ・・・?」

「はい。魔界を継ぐ、王家の証。」

  サアァァァ・・・

   強い、風が吹いた。雲を散らし、月が覗く。窓から差し込む月光で、チカリと背後の鏡が反射した。

「―――ウソ」

   振り向いたら、赤紫色の瞳と目が合った。思わず目元に手を伸ばして、ビクリとする。

―――髪が・・・

   手の甲にさらりとかかった長い髪は、夜の闇が染み込んだような漆黒色になっていた。  

「これ…」

「貴女の真のお姿です。」

「嘘よっ!わたしの髪は、綺麗なブロンドで・・・」

  相手の顔を見て、ハッとした。

   透き通った銀色の瞳は、穏やかな湖面のように、静かに凪いでいた。

   何の反応も返せず立ちすくむ。ひと房手にした自分の髪は、どうしたって黒かった。

   その時、コンコンコンとノックの音が響いた。

「―――ルシア?どうかした?やっぱり、まだお腹痛いの?」

「な、なんでもないの!ちょっと、怖い夢を見ちゃって寝ぼけちゃったみたい!」

   扉に駆け寄り、ドアノブを抑えて早口でまくしたてる。

「あら・・・トトも心配してたわよ?よく眠れるホットミルクでも・・・」

「全然大丈夫だよ!夢だから、覚めたら終わるでしょう?それにもう、寝ようと思ってたし!」

「ふふっ、それもそうね。それじゃあ、おやすみ、ルシア。今度は、良い夢を。」

「おやすみ、リリー・・・」

   扉越しに足音が遠ざかるのを感じて、わたしは崩れ落ちるようにズルズルとその場に座り込んだ。

―――本当に、夢ならいいのに。

   これは、悪い夢。わたしは本当にこのポルポロンベーカリーの一人娘で、トトは本当のパパでリリーは、本当のママ。それが本当なら・・・なんて最高の夢だろう。

「ルシア様。私は、」

  ゴオゥッ・・・!

   生ぬるい風が吹いた。次いで瞬きをした瞬間に、部屋の中に黒い影のようなものが開いた窓から部屋へと入って来た。

「見ツケタ、王ノ娘・・・!ソノ器、欲シイィィィィ‼」

   大きな赤い目から、目が、逸らせない。

―――ザシュッ

   銀色の、鋭い爪が影を切り裂いた。

「―――卑しき下級悪魔め。身の程を知れ。」

   地を這うような低く、冷たい声にその場の空気がズシリと重くなる。分裂した影は、一目散に四方八方出て行った。

   一瞬の出来事だった。

 一瞬のうちに、黒い影が、赤い目が、わたしを見た。そして、銀の爪に切り裂かれて・・・。

「お怪我はありませんか、ルシア様。」

 この人の手が、銀色に鈍く光ったと思ったら、空間を切り裂くように黒い影をいともたやすく切り裂いたのだ。その光景に、ドラゴンとは魔界の魔獣。危険で野蛮で不用意に近づいてはいけない。そう、授業で習ったのを思い出した。何も答えられずに固まっていると、銀色の爪を瞬時に人の手の形に戻して、彼は言った。

「驚かせてしまって申し訳ありません。ですが、ルシア様。貴女は・・・今多くの悪魔に狙われております。」

「どうして・・・?」

「貴女のお父上が、貴女の存在を全魔界に発表されたからです。その発表を聞いた者たちが、次期後継者は娘だと、噂しているのです。」

―――じ、次期後継者?

「じょ、冗談じゃない!わたしには、ここにちゃんと家族も、友達もいて、将来の夢だって・・・」

   将来の夢。その言葉に無意識に拳を握りしめた。

「ルシア様もお気づきのように、貴女にはもう魔力は残っておりません。」

「・・・わたしのこと、何でも知っているのね。」

 震える声が、掠れた。この魔法界の者ならば、生まれ持ってくる力、魔力。その力の大きさに違いはあれど、魔力のない者などいやしない。

「心配なされなくても、これからは私が貴女をお守り致します。どうぞご安心ください。」

  エルの冷静な声に、視界が熱くなる。

「そういうことじゃない・・・そういうことじゃないの。魔力のないことが、この世界で、どんなに、どんなにツラいことか・・・あなたには、分からないでしょう?」

 パタタ、と熱い水滴が頬を滑り落ちた。

   もう二度と、ホウキで空を飛ぶことさえ出来なければ、立派な魔女になることを夢見ることも出来ない。

―――もう、この世界には、きっといられない。

 魔力が絶対のこの世界で、魔力のないわたしが何になれる?何が出来る?

 何にもなれず、何も出来ない。だって、ここは魔法界。魔女や魔法使いの住む世界。

「魔力は無くとも、貴女は魔界の王の血を引く尊い御方。魔界は貴女を喜んで迎え入れますよ。」

 わたしの心を読んだかのように、男は言った。

「・・・わたしを魔界に連れて行く気なの?」

「いえ、私はあくまで貴女をお守りする龍。貴女の道は、貴女自身がお選び下さい。私は、それに従うだけです。」

 再び恭しく膝を着いてから、男は「しかし、」と付け加えた。

「貴女がこの世界にいる限り、悪魔は貴女を狙ってやって来ます。先ほどの女性など、悪魔の前ではひとたまりもないでしょうね。」

「・・・何が言いたいの?」

「ただ、事実をお伝えしたまでです。」

 ニコリと人好きのする笑みを浮かべて、男は言った。

「―――行くわ、魔界に。」

  わたしの声に、男はサッと頭を下げ「御意」と言った。

「でも、勘違いしないで。わたしは、決して後継者になる気はないし、魔界に住む気もない。ただ、わたしの本当の父親だというその人に文句を言いに行くだけよ。」

 いきなり後継者だなんて勘弁して欲しい。わたしの居場所は、ここなのに・・・。

「御意のとおりに。」

 銀髪の男は、エルと名乗ってわたしの手を恭しく取ると、背中から銀翼を覗かせた。

「では、参りましょうか。我らが姫君。」

 星と月が美しく輝く夜。

  それは、十三歳の誕生日の特別な夜。

  わたしの運命は、大きく動き出した。




2 ニンゲンの少年


  冷たい夜風が頬を刺す。

―――ホウキ以外で空を飛ぶなんて、はじめて。

 闇夜を難なく飛ぶ、背中の銀色の翼に感嘆の息をもらす。

「ドラゴンの翼はいかがですか?」

 自信たっぷりに、わたしを抱えながらエルは尋ねた。

「・・・ホウキで飛ぶのより早いわ。」

 そして、高い。グングン、グングン。星明かりを導に、闇夜を自在に飛び回る。

「本来の姿なら、もっと素敵な空中散歩にお連れ出来るのですが。それだと、ここではあまりにも目立ってしまいますからね。」

 またのご機会に。そう言って、エルは目の前の雲を避けるようにグンと低空飛行した。

「本来の姿の翼はもっと大きいの?」

「はい。誇り高い、ドラゴンの翼ですから。」

 エルは本当に誇らしそうに、嬉しそうに顔をほころばせた。

―――そんな顔も出来るのね。

「ルシア様、少し雲行きが怪しくなってまいりました。」

  と、エルは険しい視線で前を見据えた。その声に顔を上げると、大きなもくもくとした灰色の雲の絨毯が、空一面を覆うように広がっていた。

  ポツリ

「あ」

  頬に手を伸ばした瞬間、待ち構えていたようにパラパラと雨が降ってきた。

「しっかりと、捕まっていて下さい、ね!」

 エルの翼が、ギュンッと軌道を変えて下へ下へと急降下した。



 ザアザアザア、パラパラパラ・・・。

 一時避難として、大きな木の下に逃げ込んだものの、雨は勢いを増していた。すっかり濡れて濃紺色になってしまった元・青空色のワンピースの裾をギュッと絞ると、思っていたよりもぼたぼたと雨雫が地面を濡らした。

「申し訳ありません。」

 スラリとした長身のエルはしゃがみながら、心配そうにわたしの方を見上げた。

「え、何であなたが謝るの?」

  驚いてその顔を見上げると、エルは目を閉じて何かを呟いた。

 すると、ふわりとワンピースの裾が膨らみ、ポォッと体が温かいものに包まれた。

「か、乾いてる⁈」

 濡れてすっかり冷たくなったワンピースは、おひさまの光に当てたようにポカポカで、雫が滴った髪の毛もサラリと軽く揺れた。

「あ、あなた、魔法使えるの⁉」

  驚いてエルを見ると、彼は驚くわたしを可笑しそうにクスクス笑った。

「ドラゴンに魔力はありません。これは、ドラゴンの持つ炎の力を微調整したものです。」

「へぇ~!すごいのね!ありがとう!」

  いえ、と控えめに首を振るエルの前髪からポタリと雫が零れた。わたしを自分の外套で包み込むようにして、濡れないようにかばって飛んでくれたエルの方が、わたしの何倍も濡れていた。

「ねえ、エルも早くその炎の力で乾かしたら?」

「いえ、わたしは大丈夫です。」

 ずぶ濡れだと言うのに、にこりと笑みを浮かべてそんなことを言う。もしかしたら、自分には効かないものなのかもしれない。

―――何にせよ、家を出る前に持って来てよかった。

  カバンに詰め込んだタオルを、ふわりとその銀髪にかける。

「ルシア様⁉私などより、ご自身のためにお使い下さい!」

 咎める声に、気にせずガシゴシと頭を拭いていく。

「ほーらっ!動かないで!」

  腰まで届きそうな長い髪は、雨粒がキラリ、キラリとまるでビーズのように銀髪を光らせていた。

「本当に、キレイな髪ね~・・・」

「・・・お褒め頂き、光栄です。」

 エルは、あまり光栄そうには聞こえない声音でムスッと呟いた。

「―――この分ですと、今夜は止みそうにありませんね。」

 エルは話を変えるように、降りしきる雨を見上げた。エルにつられて、鉛色の空を見上げる。いつの間にか、月と星は隠れ、森の中の夜は真っ暗だった。

「仕方ないね。」

 そう言いながらも、心のどこかではホッとしている自分がいた。魔界は、太陽の上らない暗黒の世界。未知の世界。そんな世界に行くなんて、十三年間一度も考えたことはなかった。

―――まあ、少し猶予が出来ただけで、行かなくて済んだわけではないんだけど。

「そうですね。しかし、他にどこか雨宿り出来る所があればいいのですが・・・。」

 わたしを気遣ってか、エルは立ち上がって辺りを見回した。

「ちょっと!濡れちゃうよ!」

 せっかく拭いたのに、という小言は雨音にかき消された。

「少し、この辺りを見て参ります。何かありましたら、すぐに名をお呼びください。」

 エルはそう言って、背中の翼をはためかせて雨の中を飛んで行ってしまった。

「行っちゃった・・・」

 止める間もなく飛び去った背中に、自分のためだろうとは言え、ため息を吐く。

―――こんな雨の森に一人にされる方が不安なんだけど・・・

 まだ、エルを完全に信用したわけじゃない。でも、一人ぼっちよりよっぽどいい。それに、ずぶ濡れになりながらわたしを庇ってくれた、心配してくれた瞳が、嘘だとは思えなかった。

 ガサリ!

 少し離れたところで、茂みをかき分ける音がした。ビクリと肩がはねて、ゴクリと息を飲む。

  また、悪魔が来たのだろうか。エルを呼んだ方がいいかもしれない。けれど、わたしの耳元では、降りしきる雨の音と同じくらい、バクンバクンと心臓が早鐘を打っていた。水分を吸って重くなったタオルをきつく握りしめる。もしかしたら、動物か何かかもしれない。

―――もし、悪魔だったらすぐにエルを呼ぼう。

 ガサッ、ガサッ、ガササッ!

 近づく音と、揺れる茂みにゴクンと息を飲んだ。

 ドン!

 突然、茂みから飛び出してきた何かにぶつかられ、地面に両手を着いた。

「いって〜・・・」

 男の子の声に驚いて顔を上げると、バチリと深い黒の瞳と目が合った。その目は、わたしを捉えると驚いたように丸くなった。何も言えずにただ黙って、見合う。しばらく、強い雨音だけが響き渡った。

 互いの沈黙を破ったのは、相手の方が先だった。パシャン、と水たまりの音がした。

「・・・ごめん、立てる?」

  スッと目の前に差し出されただろう手を、手探りで取って立ち上がる。

「あ、ありがとう。わたしこそ、ごめんなさい。まさか、こんな所に誰か来るなんて思わなかったから・・・。あ!濡れちゃうからここに!」

 その子の手を掴んで、先ほどまでいた大きな木の下へと引っ張る。けれど、お互いもうすっかり濡れねずみになってしまった後だった。

「雨宿り出来る場所を探して、森の中を走っていたんだ。急にぶつかって、ごめんな。」

  そう言って謝る少年に、律儀だなぁと思いながら、「雨、急に降ってきたものね。」と返す。

  心なしか、雨音が強まった気がする鈍色の空を見上げた。

「―――君は、こんな所に一人でどうしたの?」

「あ~、さっきまでは一人じゃなかったんだけどね・・・実は、一緒に来た人が雨宿りの場所を探しに行っちゃって。」

「へえ?」

 そうなんだ、と相槌を打ったきり会話は途絶えた。ただ、雨が葉に落ちるパラパラという音や、水たまりにぴちょんと跳ね上がる音だけが響いた。

―――きっと、お互いこんな時間にこんな所にいる子供なんてろくな子じゃない、とか思っているんだろうなぁ~・・・。

 家を出る直前に、手紙を残したと言ってもほぼ家出のように出てきてしまった。

―――朝になったら、心配、してるかな⋯⋯

 朝はやく起きてパンの仕込みをする、無口なトトに、お店を開ける準備をする、ほがらかなリリーの姿が脳裏によぎって、途端に心細くなった。

「⋯⋯ねえ、君に聞きたいことがあるんだけど。」

 突然、少年がわたしを見て言った。その声の真剣さと探るような瞳に、反応が遅れた。

「⋯⋯な、何?」

「俺、魔法を探しているんだ。⋯⋯人を、生き返らせる魔法。君、何か知らない?」

 こちらを見る目は、真っ暗で、何も映していないような目だった。思わず、ザリッと一歩下がる。パラパラと肩に木の葉からの雫が落ちる。

「……⋯あなた、誰?どこから来たの?」

 この魔法界において、死者を生き返らせる蘇生魔法は固く禁じられていた。それらが記された書物を持っていることさえ、厳しく処罰される。この世界の子供なら、誰だって知っている、常識だった。

「俺はセイヤ。人間界から来た、」

 人間だよ、と何でもないことのようにセイヤは言った。

「ニンゲン⁉人間って、あの・・・」

―――魔力を持たない代わりに、水とか風とか自然の力を使って生活している人達よね?カガク技術とかいうのが発展してるって、習ったな、そういえば。

 人間界は、魔法界のご近所さんみたいなもので、ふとした所で繋がっている穴があったり、なかったり。でも、大抵そういう穴は結界で塞がれていたり、門番が立っていたり、しっかりと管理されているから、人間が迷い込んでくることは、多くない。いや、ぶっちゃけかなり少ない。

―――どこから入り込んだの、この子⋯⋯

  じっと、少年――セイヤを見る。人間なんて初めて見た。

「あなた、どうやってこの世界に来たの⋯⋯?」

「そんなつまんないこと、どうだっていいだろ?―――ねえ、君何か知らないの?君は魔女なんだろ?」

  魔女、その言葉にもやりと胸の中がもやついた。

「⋯⋯それが、禁術だってことは知ってるわ。」

「へぇ?禁術、ねぇ。⋯⋯そういう魔法をやる魔法使いはいないの?」

  セイヤはせせら笑うような声音で言った。

「魔法界ではあまり聞かないわ。大罪だもの。」

  禁術を使うような魔法使いや魔女は、厳しい罰則を受けることになる。

「魔法界では、ってことは他の所だったらやる所もあるってこと?」

「⋯⋯まぁ、場所とお国柄によっては?」

  よく知らない、そう付け加えて言うも、セイヤは何かを考え込んでいるのか、少し黙った。暗くて顔はよく見えないけれど、黒い双眼が闇夜にきらめいて見えた。

「―――例えば?」

  ふいにその目がこちらを見て、少し気まずくてぱっと目を逸らす。

「⋯⋯魔界、とか?」

  完全なるイメージでそう言う。そもそも、禁術に関する詳細な情報は、基本的に一般市民には知らされていないのだから、例えばも何もない。

「魔界ってどうやれば行けるの?」

  行く気満々なのか、セイヤはかなり食い気味に聞いてきた。

「さ、さぁ?よく知らない。危険だし?」

  ついさっき、自分が魔界の姫だと知らされたことは黙っておこう。

「⋯⋯よく『知らない』のに、『危険』だってことは知ってるんだ?」

  煽るような言い方に、思い切り顔をゆがめた。

―――うわぁ、何コイツ。あんまり、関わりたくない!

  黙っていたら、セイヤはふっと息を吐いた。

「―――君、何か知ってるんだろ?」

「え?」

「魔界の話になった途端、ソワソワし出した。」

  何て返そうか言い淀んだわたしの肩を、セイヤは掴んだ。

「頼むよ⋯⋯何か知っているのなら、教えて欲しいんだ。俺は!どうしてもアイツを助けなければいけないんだ⋯⋯!」

  セイヤの声はそんなに大きな声ではなかったのに、この雨の中、よく響いた。グッと肩を掴む手は、小刻みに震えていた。

 ゴオゥッ!

 突風が吹いて、雨が飛ぶ。

 気づくとわたしとセイヤの間に、エルが銀翼を降りかざし立っていた。

「エル!」

  思わず声を上げるわたしに、エルはこちらも見ないで、短く「ご無事ですか」と聞いた。

「な、何だよ、コイツ⋯⋯今、どこから…⋯⁉」

 腰が抜けたのか、エルが吹き飛ばしたのか、セイヤは水たまりにお尻を着ける形でこちらを見上げた。

「⋯⋯この匂い、下等なニンゲン風情が。」

 白銀の鱗に覆われた、とびきり鋭い爪がギラリと闇の中で光った。

「我が主に触れたこと、後悔するがいい。」

  ひらり、と銀髪が風に舞う。とっさに、一筋のその髪に手を伸ばす。

「と、止まって‼」

 グイッとその髪の毛先を思い切り引っ張られて、エルは顎を上げて止まった。

「⋯⋯どうされました?」

 エルはわたしに髪を掴まれながら、振り向いた。

「この人、セイヤっていうんだけど、わたし、何もされてないから!大丈夫だから!止まってよ、エル。」

 エルは、ポタリポタリと髪から雫を落としながら、静かに爪を下した。

「⋯⋯はい。申し訳ありません。」

 力なく俯くエルにホッとして、わたしはセイヤに駆け寄った。

「立てる?」

 手を差し出すも、セイヤはわたしの方なんて見向きもせずに、じっとエルを見ていた。

「何だよ⋯⋯コイツの手⋯⋯。」

 バケモノ、とセイヤが呟いたのとエルの爪がセイヤの喉元にあてがわれたのは、ほぼ同時だった。

「誇り高き龍の爪を侮辱するとは⋯⋯よっぽど死に急ぎたいように見えるな、ニンゲン。」

「⋯⋯ハッ、人間をバカにしたのはそっちが先だろ。」

 セイヤは、薄く笑った。喉元にあてがわれた鋭利な爪など、まるで見えていないかのように冷ややかな視線をエルに投げかけた。エルがピクリとそれに反応した。

「ちょっと!こんな所でやめてって・・・は、はっくしょいっ!」

 大きなクシャミに驚いて、鳥が二~三羽バサバサと飛び去る音がした。心の中でごめんよと思いながらも、ちょっと恥ずかしい・・・。

「ルシア様!失礼いたします。」

  エルは慌てて自分の外套を脱いで、また何やら呟いて、サッとわたしの肩に掛けた。きっとまた、ドラゴンの炎の力を使ってくれたのだろう。雨の中を飛び回っていたエルの外套は、濡れているはずなのに、少しも冷たくなくて。ほわりと温かかった。

「ありがとう、エル⋯⋯」

 その白い外套は、かなり大きかった。裾を手繰り寄せなければ、引きずってしまう。

「あちらに何やら、使われていない建物がありましたので、そこで雨宿り致しましょう。」

 ささ、お早く、とエルはわたしを促した。わたしはくるりと、後ろを振り返る。

「ねえ、一緒に行こうよ。」

「は?」

 セイヤは訳が分からないというような声を上げた。

「ルシア様」

 エルも咎めるような声を上げたが、気にせず続ける

「どうせ当分、この雨は止みそうもないし。雨宿りがてら、話聞くよ?」

 セイヤは少しの間の後、はあとため息を吐いた。それを肯定と受け取り、わたしはエルを見上げた。

「さ、行こ行こ。」

 エルは何か言いたげに口を開いたけれど、結局「分かりました。」と言葉を飲み込んだ。

































3 森の中の教会


「すごい⋯⋯こんな所、よく見つけたね。」

  エルが言っていた建物は、ツタで覆われた古い教会だった。かなり立派な石造りの大きな教会は、森の木々に隠れるようにしてひっそりとあった。入口前にはちょっとした階段があって、少しの扉は少し奥まったところがあったから、少しは雨が防げそう。

「―――誰も、いないのか?」

 セイヤが、ギイイィと音を立てて木の扉を内に押した。

「⋯⋯真っ暗、だね。」

 ひょいと中を覗くも、暗くてよく見えない。

「ルシア様、私が確認して参りますので。」

 エルは、そう言って一歩足を中に踏み入れた。かと思うと、エルは足をピタリと止めて、奥の天井を見上げた。その視線につられて、上を仰ぐ。

「わあ⋯⋯きれい~⋯⋯」

 入口から真っ直ぐ奥の天井近くに、丸く大きなステンドグラスがあった。真っ暗なのに、そこだけ淡く光を放っていた。もっとよく見ようと、思わず足を踏み入れた。

  クラり。目眩がした。

―――なに、これ⋯⋯

  ぐにゃりと歪んだ視界に、思わず膝を着いた。セイヤの驚いた声が近くでした。頭が痛い。視界が揺れる。震える手で床に手を付き、体を支えるのがやっとだった。サラリと黒く、長い髪の毛が視界に入る。

「ルシア様!」

 駆け寄ったエルの手が、わたしをゆっくりと立たせ教会の外へと連れだした。

「⋯⋯あれ?」

 その途端、嘘みたいに体が楽になった。

「おそらく、この教会の聖なる気に中てられたのでしょう。」

「えっ!そんなこと、今まで一度も⋯⋯」

  そこまで言って気がついた。今の自分の髪と瞳に。

「―――しばし、こちらでお待ちを。」

  すぐに戻ります。エルはそう言って、背中に銀翼をはためかせ、止める間もなく雨の中へと飛び立った。

「⋯⋯君、何者なの?」

  セイヤが教会の扉にもたれながら、怪しむようにわたしを見ていた。

「⋯⋯あ、自己紹介まだだったね?わたし、ルシア!よろしくね。」

  にこりと笑って、セイヤを見遣る。

「別に、名前を聞いたわけじゃないんだけどさ。」

  軽いため息を吐いて、セイヤは気だるげに降り続く雨を見た。ポタリ、とセイヤの前髪から雫が落ちた。

「⋯⋯中で、休んでたら?」

「君は?」

セイヤはわたしをチラリと片目で見遣った。

「わたしは……エルを待ってるから。」

  教会の中にいると具合が悪くなる、なんて言えっこない。

「……ふぅん?」

  けれどセイヤは、その場を離れようとしなかった。かと言って、何を話すでもなく、黙って止まない雨を見ていた。

  ストン、と近くの階段に座る。少し汚れていたけれど、ずぶ濡れの今は、もうどうでもよかった。ぐう、とお腹が鳴る。

「……ねえ、お腹空かない?」

「……?」

  いつの間にか目を閉じたまま立っていたセイヤが、パチリと目を開けて首を傾げた。

「わたし、い〜いもの持ってるんだけど半分食べる?」

  ゴソゴソとバックの中身を片手で漁って、透明な袋に入ったものを取り出す。

「何それ」

「何って、この国一のパン屋!ポルポロンベーカリーの人気ナンバー3!クリームサンドメロンパンよ!」

  ふんっ!と意気込んで、パンの袋を掲げる。

「まあ、一個しか持って来てないんだけどね〜

  袋の口をしっかり縛っておいたから、中は濡れていなかった。少し、潰れてはいたけど。

「だからほら、はんぶんこ。」

  ん!と割ったメロンパンの片方を後ろ手に差し出す。そろり、とそのパンをおそるおそると言ったように、セイヤは受け取った。それを確認して、わたしは「いただきま〜す」と大きな口でメロンパンにかぶりつく。

「ん〜っ!しあわせっ!」

  外はザクザク!中はふわふわ!おまけに、たっぷりの白い生クリーム!これが幸せと言わずなんと言うのだろう。

「……あ、美味い。」

  思わずといったように、セイヤはポロリと呟いた。

「ふっふーん!でしょう?トトの作るパンは最高なんだから!」

  そう、ベッドの下に夜食用にと隠しておきたくなるくらい、最高なんだ。もちろん、賞味期限は考慮して消費しているから大丈夫!

「君の家、パン屋なんだ。じゃ、そのトトって言うのが父親?」

  口いっぱいに頬ぼったメロンパンを、ごくんと飲み込んだ。

「……そうだよ」

  その一言を乾いた喉に力を込めて言ったら、少し掠れた。

「ふぅん。それじゃあ、毎日パンなわけ?パン屋の娘は。」

  俺は、ご飯の方が好きだけど。なんて、続けるセイヤの言葉にじわり、と視界が滲んだ。

「・・・それで、幸せそうなパン屋の娘が、深夜にこんな所にいるのは、やっぱ家出とかなの?」

  吐き出すように投げやりに聞かれたその質問に、手にしたメロンパンをぎゅっと握った。

「―――するわけないじゃない……」

「は……?」

「家出なんて、するわけないじゃないっ!帰れるなら……帰れるなら、今すぐ帰りたいわよ!!!もうっ……」

  勢いよく口から飛び出した言葉に、瞳のダムが決壊した。ポロポロと流れては溢れる涙を、止めるように必死に両手で頬をぬぐう。けれど、涙は止まることを知らなかった。

「わ、悪かった。ごめん。君には君で事情があるのに、嫌な言い方して……だから泣くなよ、な?」

  いつの間にか、セイヤがわたしの隣に座っていた。泣いたのはセイヤのせいじゃない。それを伝えたいのに、「ふ……うっ、うぅ……ヒック……」言葉の代わりに嗚咽が漏れて、手の甲でゴシゴシと目元を擦る。

「あ、擦ったらダメだって。ほら、これ。」

  深緑のハンカチが差し出された。そのハンカチを受け取って、顔を突っ伏す。少し湿った、柔らかな布の感触に、呼吸が次第に落ち着いた。その様子にホッとしたように、セイヤは息を吐いた。

「……別に、セイヤのせいじゃないよ。」

「え?」

「……これは、わたしの問題だから。」

  そう、わたしの問題だ。誰かが解決出来るものじゃなければ、誰かのせいでもない。

「……それでも、悪かったよ。」

  ごめん、と重ねて謝るセイヤにクスッと笑ってしまう。

「いいって言ってるのに。」

  その真剣な瞳に、ふと聞いてみたくなった。

「・・・セイヤは、誰を生き返らせるつもりなの?」

  黒い瞳を一瞬、大きく見開いてから、ぽつりと一人言のように言った。

「……弟だよ」

  息を飲んだわたしに、セイヤは続けて言った。

「殺されたんだ」

  その固い声に、何を言えばいいのか分からなかった。

「俺が、もっとしっかりしていれば……あの時、アイツをちゃんと守ってやれたんだ。だから、俺は……どんな犠牲を払ってでも、アイツを助けなければいけないんだ。そのための犠牲なんて、どうだっていい。」

  ベタりと黒い双眼は、何も映していなかった。

「……怖くないの?禁術に手を出したら、セイヤも危険な目に合うんだよ?」

  最悪、死んでもおかしくない。

「弟のいない世界でのうのうと生きていくより、ずっといい。」

  セイヤは、迷いなくそう答えた。

「……強いんだね、セイヤは。」

「別に。もう、後悔なんてしたくないだけ。」


  自分で、自分の命を賭ける選択をして、弟を生き返らせようとしている。その強さに、真っ直ぐさに、どうにかならないものかと考える。禁術に手を出す以外に、何か方法があったら……。

「―――ねぇ、わたしは禁術については全く知らないし、魔界についても本当によく分からないの。でも、エルなら何か知っているかもしれない。」

  ドラゴンは魔界の魔獣。エルもここに来る前は、魔界にいたはず。

「禁術を使わずに済む方法を、セイヤと弟くん二人が笑い合えるように、一緒に考えようよ!きっと、弟くんもお兄ちゃんが居なかったら悲しいよ。」

  もっと自分を大切にして欲しいと思った。光のない瞳は、いつかそのまま消えてしまいそうに見えたから。

「……不可能に近いことを実現させるためには、それ相応の代償がいるんだよ。禁術だろうが、何だろうが、代償も無しに虫のいい話があるなんて、はなから思ってないし。」

「でも!もし、自分を損なわず目的も叶えられたら、それ以上の最適はないんじゃない?」

「そりゃ、そうだけど……」

  少しの肯定を見逃さずに、一気に畳み掛ける。

「じゃあ!一緒に探そうよ!その方法。この世界に詳しい魔女と魔界のドラゴンと一緒の方が、絶対いいに決まってる!ほら、人間界のことわざに……三人居れば、呪文の……完成ってあるじゃない?!」

「三人寄れば文殊の知恵、な。」

  小さなツッコミは、スルーする。

「とりあえず!一人より二人!二人より三人よ!三人いれば何とかなりそうじゃない?!」

「……何で、君がそこまで必死なのさ。所詮、他人事なのに。」

  セイヤが探るような目でわたしを見つめる。その目を真正面から受け止める。

「だって、セイヤの力になりたいと思ったんだもの。理由なんてそれだけよ。」

  あの、一筋の光も通さない真っ暗な瞳を、放っておけないと思った。わたしに何か出来るのなら、何かしたいと思ったんだ。

「何だよ、それ……」

  セイヤはぽかんと呆けてから、ぷっ!と吹き出して少し笑った。

「あははっ!君って変わってるね。」

―――今……どの辺で笑ったんだろう?

  首を傾げていると、セイヤはふうと息を吐いた。

「ありがとう。」

  その緩んだ顔に、ホッとした。

「よーしっ!セイヤの弟くんをなんとか生き返らせようっ!」

  おーっ!とハンカチ片手に手を振り上げた。片方の手に、メロンパンがまだ一欠片残っていることに気づき、パクン!と口いっぱいに頬張った。

「……クシュンッ!」

  クシャミの音が、雨音の中で響く。

「……ねぇ、やっぱりセイヤだけでも中で温まって来なよ。」

「いいよ、別に。」

  赤い鼻を擦りながら、セイヤはそっぽをむくように立ち上がるとまた扉の方へと行ってしまった。

「だって、寒いんでしょう?」

「……君は、どうするんだよ?」

  寒くない、とは強がれなかったのか、セイヤは控えめに鼻を啜った。

「わたしは、そんなに寒くないもの。……あ、もしかして一人で中に入るのが怖いとか?」

  からかい気味に聞くと、セイヤは首を横に振った。

「別に、そんなんじゃないよ。俺が中に行ったら、君ここに一人になるじゃないか。」

「別に平気よ?」

  わたしの言葉に、セイヤはハアとため息を吐いた。

「平気じゃないだろ、まだ子供なんだから。」

「なっ!失礼ね〜!あなただって、わたしとそんな年変わらないんじゃないの?」

「俺十五だけど?」

  うっ、わたしよりも二個も上!

「い、意外と大人なのね・・・」

「分かったら、年上の言うことはよく聞くよーに。」

  クスッと笑って、セイヤが再び扉にもたれかかろうとした、その時だった。

ギィィ……

扉が、ひとりでに開いた……!!?

  今まさに寄りかかろうとした大きな木の扉が、軋む音を立てながら静かに開いた。二人して息を飲んで固まっていると、「おや」というおばあさんの声が聞こえた。

「―――珍しい」

  ギィィイ……

  扉が更に内側へと引かれ、中からぼんやりと揺れる燭台の灯りを手にしたシスターが、立っていた。

「こんな夜更けに、客人かい。」

  カツン、と杖を床に着きながらシスターはすぐ近くにいるセイヤを見上げた。

「おやまぁ、ずぶ濡れじゃないかい。早くお入り、風邪を引いてしまうよ。」

  優しい声音にホッとして、セイヤがわたしを振り返る。

「あの、ありがとう。助かります。」

  立ち上がり、扉の方へと駆け寄る。シスターの瞳がわたしを捕らえると、にこやかな笑みがスッと引いた。

「ヒッ、ヒィィイッ!」

  カラン!

  燭台が落ち、揺れる火が消える。

 シスターのつんざくような悲鳴が、辺りに響いた。

「ど、どうしたんですか?」

  すぐ近くにいたセイヤがシスターに聞くのと、彼女が胸元から小さな小瓶を取り出すのはほぼ、同じタイミングだった。

  バシャッ!

「ここは、お前のような汚らわしい者がいていい場所ではない!」

  ぽたり、と額から水が零れた。聖水だった。

  何が起こったのか、分からなかった。今の今まで、微笑んでいた人がわたしを見て、怯え、怒っている。

「ばーさん!ちょっと、なに」

「お下がり、坊や。あの赤紫の目、間違いない。あの娘は魔界の悪魔さ。」

  セイヤが、わたしを見た。びっくりしたような、信じられないものでも見たような、そんな目だった。

「っ……!」

  駆け出した。
  違うとも、そうだとも、言えなかった。エルの長い外套に何度も躓きながら、右も左も分からない道を駆けずり回る。枝や葉が顔や腕に擦れても、もう止まれなかった。

「……ッハア、ハァ、ハァ」

  長い黒髪も、大きな白い外套も、雨を吸って、吸って、重くまとわりつく。それでも、止まれない。戻れない。クン、と足首に何かが巻きついた。

「わっ?!」

 確認しようと足元を見た時にはもう、パシャン、と音を立てて水たまりが揺れた。

「っうっ……ふ、うぁ……」

  じわり、と涙が浮かぶ。転んだ衝撃で、手も足もジンジンと、痛かった。

「……悪魔なんかじゃない、のに」

  語尾は、すぼんで消えていった。涙を拭おうとして、手にセイヤのハンカチを握っていることに今更気がついた。深緑色だったハンカチは、雨や涙だけでなく、水溜まりの泥がついて、もう何色か分からなかった。泣いても解決しない。そんなこと分かっている。分かっているのに、涙が止まらなかった。

「っ!うっ、ううっ……ふっ、うぅ……」

 頬を流れる涙は、雨と混じって落ちていく。

『キーッヒッヒッヒッ!』

  黒板に爪を立てたような、耳障りな笑い声がした。慌てて顔を上げて、辺りを見回す。

―――こんな所に、井戸?

  石造りの丸い井戸が、すぐ目の前にあった。暗くて分からなかったという理由以上に、ツタや苔で覆われたそれは、井戸というよりも、自然と一体になった何かの植物のように見えた。

『キヒッキヒッキヒヒヒヒッ!』

  再び耳障りな笑い声が耳に刺さる。立ち上がり、キョロキョロと周りを、上を見回すけれど、何もいない。

『ヒヒヒッ!ヒヒッ!』

  ハッとして、目の前の古井戸の中を覗き込む。深く暗い空間が広がっているだけだった。井戸から顔を上げて、バッチリと真っ赤な二つの目がわたしを見ていることに気がついた。

「ひえっ⁉」

『キヒッ!』

  黒い物体は、ぴょんとわたしの肩に飛び乗った。

「エッ・・・んんんんん‼」

  助けを呼ぼうとしたら、何かに口を塞がれた。それが、その黒い物体の長い尾だと気づいて、ゾッとした。

―――叫ばれないように、口を……?

  赤い目は、まるで品定めでもするみたいに、ただじっとりとわたしを見つめた。どうにかしないと、と思うのに恐怖で体はカタカタと震えて、力が入らなかった。

―――だれか……

「―――ルシアッ!」

  セイヤの声がした。暗くて、どこからかは分からない。けれど、ザカザカと草をかき分ける足音の近づいて来る音に、ホッとした。心底ホッとした。ホッとしてから気がついた。

―――セイヤは、ただの人間だ。

  ガブッ!

『キヒヒヒヒィッ⁉』

「来ちゃだめ‼」

  戻って、セイヤ―――!!

  尾を噛まれて怒ったのか、グルン、と首元にその尾が巻きついた。

「かはっ!」

―――くるしっ……!なんとか、しないと……!

  でも、わたしにはもう魔法は使えない。自分の体の中に、魔力はもう感じなかった。

『キヒッキヒッキヒッ』

  黒い物体は、苦しむわたしの顔を嬉しそうに見ながら、キヒキヒと笑っている。

―――ふっざけないでよ!!

  がっ!と首にまとわりつく黒い尾を、力いっぱい掴む。

『キーヒッヒッヒッ!』

  グググ、と力を入れる。ヒュルン、とわたしの顔に手足を巻き付け、絶対離さないというように、赤い目が笑った。

―――離しなさい……よっ!

  渾身の力を込める。その時、ズルッ、とぬかるんだ地面が滑った。あ、と思った時にはもう遅かった。わたしの体は、井戸の中へと真っ逆さま!!!

「きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!?」

  いつの間にわたしから離れたのだろう。井戸の屋根にへばりついた赤い目と目が合った。

『キヒッ』

「―――ふっざけないでよぉぉぉぉ!!!!」

  落ち続けるわたしの叫びは、井戸の中でグワングワンと反響した。遠くの方で、ルシア、と呼ぶセイヤの声がしたけれど、上も下も分からな井戸の中は真っ暗で、もう何も見えなかった。
















4  行き先は


  チュン、チュン、チュン。

 小鳥のさえずりに、うっすらと目を開けた。

「ん……」

 見覚えのある天井に、首を傾げる。

「あれ……?」

 わたしの目がおかしくなければ、その天井はポルポロンベーカリーの屋根裏の天井。つまりは、わたしの部屋なわけで。

「ど、どういうこと⁉」

 ガバッと毛布をはね飛ばし、飛び起きる。肩でサラリと金髪が揺れた。ちょうど、その時。

 カンカンカンカン!

 甲高い金属音が鳴り響き、わたしは慌ててパジャマを脱ぎ捨てた。



「……お、おはよ〜?」

  階段を下りて一階に行くと、トトがムスッとした顔で待ち構えていた。

「遅い」

  一言それだけ言って、トトはくいっと顎で扉の前を示した。そこには、ほかほかと焼き立ての食パンがこれでもかと、バスケットに積まれていた。その横には、ホウキがきちんと立てかけられていた。

「おはよ~、お寝坊さん。いい夢見れたかしら?」

  奥から、歌うような声が聞こえてきた。ひょいと、顔を出したのはリリー。

―――絶賛、夢を見てる気がするんだけど……。

「あの、わたし……」

―――ホウキに乗れないから、もう配達は出来ないの。

「遅ーい‼」

  カンカンカンカンと奥から聞こえた音に、喉元まで出かかった言葉は消えた。

「い、行ってきまっすっ!」

 反射のように大きな声でそう言って、すぐそばにあったホウキとパンの籠を掴む。

「ふふっ、いってらっしゃい。」

 リリーの声を背に、わたしはカランカランと軽快なベルを鳴らして、扉を開いた。躍るような飾り文字で『ポルポロンベーカリー』と書かれた看板が揺れた。

 何も変わらない。わたしの日常。手にしたホウキをきつく握る。

―――今なら……夢の中なら、まだ飛べるかもしれない!

  そっとホウキにまたがり、目を閉じる。魔力を集中させて、トン、と地面を軽く蹴る。

  わたしを乗せたホウキは、ふわりと宙に浮いたかと思うと、ビュンッ!と風を切って大空へと飛び出した。

「と、飛べたあ‼」

  初めて飛べたときのように、わたしはグルン!と大きく一回転をして、冷たくて気持ちのいい朝の空気を切り裂くように、ホウキを走らせた。

「いっけ~!」

 わたしの声にホウキは、ボンッ!と毛を逆立てたかと思うと、フルスピードで目の前の白い雲を突っ切った。



 カリカリに焼かれて丸まったベーコンに、ツヤツヤの半熟目玉焼き、キラキラのサラダに、焼き立てのふっくらとした食パン。

―――これこそカンペキな朝ごはん!ブレックファーストオブブレックファースト‼

 食卓の上に並べられた朝ごはんに、目を輝かせる。

「ルシア?どうかした?」

 コトリ、とミルクの入ったグラスを置いてくれたリリーにブンブンと勢いよく首を振った。「いただきまっす!」

 パン!と手を合わせて、フォークを手に取る。すると、向かい座るトトがゴホンゴホンと咳払いをした。

「……今日は、早く帰ってこい。」

  それだけ言うと、立ち上がって厨房の方へと行ってしまった。

「……何で?」

 もぐもぐとパンを食べながら、首を傾げる。

「あら、忘れたの?今日は、あなたの13歳の誕生日じゃない。」

 リリーが、にこやかに笑って言った。

「13歳の、誕生日・・・。」

 エルが来た日だ。

「それより、ルシア?もうこんな時間だけど。」

 リリーののんびりとした声に、ふいと顔を柱時計に向けて、飲んでいたミルクにむせた。

「げほっ!ゴホッ、ゴホッ・・!」

 口元に手を当てて、スックと立ち上がる。

「行ってきます!」

「はい、行ってらっしゃい。」

 近くに置いていたカバンをひっつかんで、肩に掛けながら駆け出す。カランカラン!と、ドアベルを元気よく鳴らして、家を出た。



「は~、きっもちいい~!」

 全身に朝の風を浴びながら、わたしは目を閉じた。

「な~にが、きっもちいい、だよ。このねぼすけ。」

 呆れた声に、片目を開けて隣を見遣る。燃えるような赤髪に、ハアとため息をついた。

「朝っぱらから、お元気ですねえ。エドワード坊ちゃんは。」

「坊ちゃんて呼ぶな!この小麦ヤロー!」

「小麦粉大好きだから別にいいもん~!」

 べーっと舌を出して、あっかんべをする。

「おっまえ!このっ!」

 伸ばした腕をヒョイッと避けて、わたしはにんまりと笑う。

「ね、競争!どっちが先に、がっこーに着くか!よーいどんっ!」

 どん、でバビュンッ!と勢いをつけて、青空を一直線に飛び出した。背中に「きたねーぞっ!」と文句が聞こえるが、気にしない。キラキラと熱い太陽を近くに感じて、目を細める。風になびくわたしの髪は、その光を浴びてきらりと、金色に光った。



「セーフッ!」

 ガラッ!と勢いよく教室の扉を開けたのと、間延びしたチャイムが鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。

「おはよ~、ルシア」

 入口のすぐ近くの席のノノが、ふわりと微笑んだ。

「おっはよ!ノノ!」

 にっこりと、ノノに笑顔で挨拶する。ノノは牧場の娘。うちが使っている小麦は、ノノの所のなんだ!ちなみに、朝飲んでたミルクも、ノノの所の!

「あら……」

 ノノがわたしの後ろを見て、苦笑いをした。

「ん?」

 振り返ると、エドワードが息をゼエハアさせて、わたしを恨めしそうに睨んでいた。

「おっまえなあ⁉お前のせいで、朝からいらん体力使ったわ!」

「はあ⁉わたしは、遅刻しないようによかれと思って、提案してあげたのよ?感謝して欲しいくらいだわ!」

「な~にが、感謝だっ!あのまま飛んでれば、十分間に合ったのに!お前が変なとこばっかりビュンビュン飛ぶからっ!」

「あ~ら、着いてこられたのね~?燃やすだけしか能がないと思ってたけど?」

「んだと?」

 ボウッ!と手の平に赤い炎を出して、エドワードはにやりと笑った。

「お望みなら、今すぐこげパンにしてやるよ。」

「上等じゃない!やれるものなら!」

 やってみなさい、と人差し指をエドワードに突き付けた。

「水よ!かの者の炎をっ」

「何事だっ‼」

 その声に驚いて、つい指先をエドワードから扉の方へと向けてしまった。

 ぴゅうっ!

 水鉄砲くらいの水が、扉の前に立つ先生のネクタイを濡らした。

「……」

―――やっばい!グレイ先生じゃない!!

 魔法薬担当のグレイ先生は厳しいことで有名だ。切れ長の細い目は、ポタリ、ポタリ、と水滴を落とす紺色のネクタイをじっと見て、次にわたしの顔を見た。

「ルシア・ポルポロン。校内での魔法の私闘は禁じているはずだが?」

 スウッと細められる灰色の瞳に、ひやりとした。

「す、すみません、でした。」

―――こうなることは分かってたんだから、回避しようと思えば、出来たのに……

  魔法を使えることがあまりにも楽しくて、ついつい調子に乗ってしまった。

「先生、俺が先に魔法を使おうとしたんです。すみませんでした。」

  スッと目の前にエドワードの手が伸びてきた。ふと顔を上げると、エドワードが庇うようにわたしの前に立っていた。

「ほお、エドワード・サン・ライズ。王族とは思えない振る舞いだ。」

 サン・ライズは、ここ、あまつい大国を統べる王家の姓。エドワードは、この国の第二王子。燃えるような真っ赤な髪に、ルビーの様な深紅の瞳が、太陽の力を受け継ぐ者の証。

「はい。思慮にかけておりました。反省しています。」

 エドワードは、グレイ先生に深く頭を下げた。

「王族だからといって、規則を守らない者を処罰しないわけにはいかない。」

 青白く、骨ばったグレイ先生の手が、つい、と廊下を指した。

「放課後、本フロアの全ての廊下及び窓の掃除を魔法無しで、行うように。―――お前たち、これが初めてではないだろう?」

 トーンの落ちた低いその声に、ひいっと逃げ出したいのをこらえて、わたしとエドワードは、返す言葉も無かった。そう、この時が初めてではない。顔を合わせれば、常に追いかけっこだのどっちの魔法が強いだの、何だかんだと競っていた。



「ったく。今日は、お前のせいで散々な目にあった。」

 エドワードは深々と大きなため息を吐きながら、窓を気だるげにカラカラと開けた。

「ちょっと!早速サボんないでよね!今日のはお互い様でしょ!」

 パシャン!と水を入れたバケツを床に置く。

「そうよ~、喧嘩両成敗っていうでしょう?それより、早く終わらせよう?」」

 ノノが、ぎゅうっと雑巾を絞った。

「は~い……」

 手伝ってくれているノノに申し訳なくて、わたしはとっとと終わらせるため、モップの柄を握ってたーっと走り出す。

「せっかくの誕生日なんだから、別の日にしてもらえれば良かったのにね……」

 ノノがわたしの気持ちを代弁するように、小さなため息を吐いた。その当の本人が、引き起こした結果なんだけどね。ごめんね、という気持ちを込めて、わたしは黙々と、廊下の端から端まで、キュッキュッとモップ掛けをする。

「たんじょーびのひとつやふたつ、ただの平日じゃねーか。」

 窓を拭く専用の道具に顎を乗せるエドワードに、キッ!と睨みを利かせながら、すいっと、その前を通り過ぎる。たまには、忍耐も必要よね。

「あ~あ、日も暮れて来たし、やってられっかよ、こんなの。」

 気だるげに夕焼け空を横目で見る姿に、ちゃんとやれと叱りたくなる気持ちを抑えて、モップを手に走りつつ、再びその背中に念を送る。

―――こっんのバカ王子!掃除の1つもまともにできないのかしら!

 その背の向こうに広がる夕焼け空に、何故かざわりと胸騒ぎがした。

「ルシア?何、サボってんだよ?」

 わたしの怒声がオレンジ色に染まった校舎に、響き渡った。


「あ~、遅くなっちゃったな。」


 廊下は、思っていたよりも長く、窓は思っていたよりも汚れていて、わたし達3人は、終わりの見えない、無言の闘いに入っていたのだけれど、担任の心優し~いホワイ先生の、「もう暗くなってきたから、帰りなさい。」の一言で、解放された。廊下を何往復もしたから、もう足はパンパン!ノノは、空を飛ぶのがあまり好きじゃないのか、登下校の時は、牧場のポ二―に乗って来る。今日も今日とて、ノノの栗毛色の可愛いポニーがお迎えに来ていた。

「じゃあ、2人とも気を付けてね~。ルシア、誕生日おめでとう~お祝いはまた今度ね~?」

 バイバーイと手を振りながら、ポニーに乗るその顔はかなり疲れ切っていた。

「ノノ、手伝ってくれて本当にありがとう!また明日ね!」

 疲れていたけれど、お礼はきちんと言わないと!ブンブンと力強く手を振ると、ノノは弱弱しくも微笑んで、手を振り返してくれた。そんなノノの背を見送って、ヒョイとホウキにまたがった。隣で待っていたのか、エドワードがムスッとした顔でこちらを見ていた。

「アンタもありがとうくらい言ったら?」

「……礼は、明日ちゃんとするよ。」

 小声で呟くように言って、エドワードはふいと目を逸らした。

「王子だからって、立場に胡坐かいてありがとうの1つも言えない男になんか、ならないでよね!かっこ悪い!」

「……分かってる。」

  王子だからプライドが高いというより、エドワードは昔から女の子が少し苦手だった。

「じゃ、わたしは帰ります~」

「待てよ」

 グイッと手首を掴まれて、何よ?と顔を傾ける。

「お、お……」

 何と戦っているのか、歯をギリギリと食いしばりながらも何かを伝えようと、じっとわたしを見る目に、いたたまれずホウキを降りる。

「な、なに?」

「だからっ、お!」

「お?」

 その先を促そうとするも、エドワードは何か言いたくないことなのか、はたまた言いにくいことなのか、「だ~~っ!」と頭を掻きむしった。

「おめでと!」

 半ば怒っているような口調で、そう言ったかと思うと、そのままくるりと背を向けて、ホウキにまたがるや否や、ぴゅーんっとお城の方へと飛んでった。

「……ふふっ、あははっ!」

 1人取り残されたわたしは、お腹を抱えて笑い出した。去り際のエドワードの耳は、少し赤くなっていた。

「ありがと、エド。」

 照れ屋な幼なじみに、わたしはこっそりと呟く。

「さっ!わたしもか~えろっと!」

 再びホウキにまたがり、ふわりと夕焼け空へと浮かび上がる。そのまま、すい~っと前進する。急いで帰らなければいけないはずなのに、わたしは沈みゆく夕日をぼうっと眺めた。

―――何だろう、この気持ち。すごく、ざわざわする。

 朝食べた目玉焼きの黄身のように、とろりと空に溶けて沈みゆく太陽は、沈んでいるというのに、その輝きが損なわれることはなく、むしろ空全体に広がって、まばゆい光を放っている。わたしは、そんな夕焼け空を眺めているのがとても好き、だったはずだ。夕陽でだいだい色に染まった空や雲。伸びた影。目下に見える家々からの、美味しそうな晩ごはんの匂い。夕方のこの時間帯の空気は、ひやりと冷たくて。でも、どこかあったかくて。切なくてさみしくもあるのに、どこかホッとする。そんな、朝と夜の曖昧な境界線にあるこの時間が、とても好き、だったはずなのに、今はこんなにもざわざわと胸をざわつかせる。嫌な感じがするのに、目が逸らせない。わたしはしばらく、ぼうっと夕焼けを眺めながら、のろのろと家路へと飛ぶ。

  ざわりと、髪と瞳が揺らいだ。

 空の片隅に仄かに残っていたオレンジ色が、完全に夜の闇にとぷんと、飲み込まれた。その時、やっと思い出した。

―――そうだ、夕日が沈むと同時に魔力が無くなったんだ。

 グラリ

 落ちる。そう思った時には、もう遅かった。ふっ、と糸が切れたように体の力が抜けて、わたしは真っ逆さまに下へ落ちていた。

「きゃああああああああああ‼」

 ぱこん。

 間の抜ける音がした。

「君~、ここは相席だよ?他のお客さんも居るから、もう少し静かにしてね~。」 

 その声に、「え?」と顔を上げる。

 いつの間にか、わたしは座っていた。全身に感じた風圧も、風の吹きすさぶ音と制服がバッサバッサとはためく音も、全部一瞬にして耳の奥に消えた。

「……何、コレ……ど、どーゆーことっ⁉」

 近くにいた紺色の制服らしいものを着たおじさんに、掴みかかる。その首にぶら下がった黄色のメガホンが揺れた。

「どういうことって、走馬灯でも見てたんじゃないですか~?」

 ふあ~あ、と眠そうな欠伸をして面倒くさそうに言うおじさんに、「ちょっと!」と怒る。

「失礼ねっ!まるで死ぬ前みたいな言い方!」

「え?」

 おじさんは、はてと首を傾げた。

「これは、黄泉行きの汽車ですよ?」

「よみってどこ!てか、キシャ?って何!」

「黄泉は、死者が行く所ですよ。汽車は今、あなたが乗っているこの乗り物のことです。ふあ〜あ〜……じゃ、静かにしててくださいよ。あなたみたいな生きのいい死者が来ると、駅員の仕事が増えて大変なんですよ、本当に。」

 ガラガラガラと透明なガラスの扉を閉めて、エキインさんとやらはどこかに行ってしまった。

「え、わたし、死んだの?嘘でしょ?嘘よね⁉誰か……嘘って言って~~~~~‼」

 わたしの絶叫がガタンゴトンと無慈悲に音を立てて進む汽車とかいう乗り物の中に、響き渡った。

「―――嘘、かもしれませんよ。」

 え?と顔を上げると、いつからいたのだろう。長い黒髪の綺麗な女の人が、にこやかにこちらを見ていた。

「あ、えっと?」

「この汽車に乗るのは、黄泉に行く人ですけど、みんながみんな死ぬわけじゃないんです。」

 女の人は、窓の外を憂いを帯びた瞳で見た。その目は、黒にも濃い青にも見えた。

「まれに、あの川を渡らずに戻る人もいるんですよ。」

  指を指して言ってくれたけれど、窓の外は暗くてよく見えなかった。

「どうしたら戻れるんですか?!」

「この世界の神、イザナミ様にお願いする以外、方法はないと思います。」

 イザナミ様……。

「どうやったらその神様に会えますか!?」

  ガタン!と立ち上がって聞く。神様に会う、だなんて言葉は何だかおかしかったけれど、今の自分のこの状況よりおかしいことなんてない!

「ふふ、焦らなくてもこの汽車を降りて、生者申請をする列に並んだら、無事に謁見出来ますよ。」

  上品に笑う人だと思った。

「そ、そう、なんですね。」

「だから、汽車が停るまではこうしているしかないんです。……私は、この時間が1番嫌いだわ。」

  独り言のようにそう呟いて、窓の外の暗闇を見つめる横顔は、華奢で儚げで。白く細い輪郭が、今にも消えてしまいそうだと思った。

「―――走馬灯、みていたんですか?」

  ふいに聞かれた質問に、「あ、はい。たぶん!?」としか答えられなかった。

「いいですね。走馬灯って、私1度もみたことないから……」

その悲しげな表情に、思わず口をついて出た。

「お姉さんは、どうしてここに?」

  あ、まずいことを聞いたかもと後悔した時にはもう、遅く。女の人は、パッとわたしを振り返った。

「ふふっ、お姉さんって、歳でもないわ。私、こう見えても母親よ?」

  ふふふ、と可笑しそうに頬を染めて笑う顔に、恥ずかしくなって、席に座り直す。座席はよく見ると、金糸で縁取られた赤い布張りの、ふかふかなソファーだった。そして、自分の服が井戸に落ちる時のままだった。

―――エルの白い外套に、お気に入りの青いワンピース。

  雨と泥で汚れていたのが、すっかり綺麗になっていた。おまけに、緑のハンカチまでアイロンが掛けられたようにピシッと正方形に畳まれたものを、しっかと握っていた。

―――いつの間に、こんな綺麗になったんだろう?

「……そのハンカチ、あなたの?」

  ふと、女性がわたしの手のハンカチをじっと見つめていた。

「あ、これは友達のなんです。借りっぱなしで……」

「そうなの……無事に、返せるといいわね。」

  一瞬陰った顔は、スッと消えて、にこりとお面のような顔で微笑まれた。

「そのハンカチ、きっと、大切なものだから……」

「えっ!お姉さ・・・おばさんもこのハンカチ持ってるんですか?」

  おばさん、と言ったら女の人はピシリと凍りついた。

「私、ホシノといいます。」
 
 ヒヤリとしたその声に、ピシリと背筋が伸びた。

「ホ、ホシノお姉さん……!」

「ホシノさんでいいですよ、お嬢さんは?」

にこやかな笑顔を崩さないのが、逆に怖い。

「ルシアです!」

「ルシアちゃん。可愛い名前。ルシアは、ラテン語で光、という意味がある、素敵な言葉。きっと、ご両親はそんな子に育って欲しいと願って付けたのね。」

  光……。
  そんなこと、初めて知った。

「そう、なのかなぁ?」

  わたしの名前を名付けたのは誰なんだろう?トトかリリーか、それとも―――

「そうよ。」

  にこりと柔らかく微笑まれて、そうかもしれないと思った。

「終点〜終点〜、黄泉の国~黄泉の国〜」

  カランカラン、という鐘の音とさっきの駅員さんの気だるげな声が聞こえてきて、汽車がボボーッという大きな音を立てながら、ゆっくりと止まった。

「―――退屈せずに済んだお礼に、ひとつだけ。決してこの世界のものを口にしてはダメよ。帰れなくなるからね。」

  にこりと微笑んで、ホシノさんは席を立った。スラリと細く白い体が、ゆらゆらと揺れながら、人混みに紛れて消えるまで、ぼうっと眺めていた。







5   石の魔法


「ここが、黄泉の国!」

  うん、全体的に真っ暗でよく分からない。道に沿って立てられた小さなロウソクのような灯りだけが頼りで、油断すると転びそうになるくらい、暗い。けれど、周囲はザワザワガヤガヤと、難なく進んでいる。

―――結構、多いな〜!
 
  魔女や魔法使いと見た目で分かる者から、見たことのない魔獣のような姿の者、妖精や小人のように小さな者、オバケのようにフワフワと宙に浮く白い物体などなど……多種多様な死者達が、ゾロゾロと歩いていた。

―――わたしもこの一員なんて、笑っちゃうよね〜!アハハ……

  自分の頭の上には天使の輪っかは無いし、足はきちんとあって、体も透けていない。けれど、周りの人もまたこれと言って、死者だと一発で分かる特徴は何も無い。同じだから、不安になる。

―――このまま、本当に死んじゃったらどうしよう……。

「はーい、ちゃんと1列に並んで下さいねー。生者申請の方はこちらですよー。お間違いなく並んで下さーい」

  その声にハッとして、辛うじて見える白い看板を目指して人混みをかき分ける。

  ドン!

  思い切り誰かとぶつかってしまった。自分より小さな子が尻餅を着いているのが見えて、慌てて手を伸ばす。

「ごめんなさい!怪我してない⁈」

  肩のあたりまである髪が揺れて、薄茶色の大きな瞳が、恐々とわたしを見上げた。

「立てる?」

 その子は、小さく一つ頷くとゆっくり立ち上がった。

「ボクこそ、前、見てなかったから。」

 ペコリ、と頭を下げてヨロヨロとわたしとは逆の方向へと進むその子の手を、思わず掴んだ。あまりの細さにぎょっとした。

「ねえ!どこ行くの?」

「……あっち」

 その子は、おどおどと奥を指差した。

 「船着き場」と書かれた看板に、再びぎょっとして、その子の細い手をぎゅっと掴んだ。

「ちょっ、知らないかもしれないけど!あの川を渡ったら、本当に死んじゃうんだよ⁉あっちの方に、生者申請の列があるから一緒に、」

「死にたいんだよ。」

 パシッと掴んだ手を払われた。その、何も映していないような陰りのある瞳に、何も言えなくなった。その子は、何か言いたそうにして、でも何も言わずに、行ってしまった。小さなその背中は、すぐに人ごみに紛れて消えた。



―――あ~~~、わたしっていっつもこう。

 人のためにと思いながら、結局は自分がいいと思っていることを押し付けてしまっているだけかもしれない。誰もが生きていたいと、死ぬのは嫌だと思っているはずだと、信じて疑わなかった。

―――死にたい人もいるのね……

  きゅっと胸が締め付けられる。

―――あの子、本当に川、渡っちゃうのかな?あの子は、本当の本当に死にたいと思っているのかな?

 今すぐ行って、引き留めたいけれど、何て言って引き留めればいいのか分からなかった。

「ん?あれ、ここどこ?」

 どこもかしこも暗くて、ぼんやりと歩いていたら急に誰もいない所に来てしまった。引き返さないと、と後ろを振り返った。

「え?」

 まるで、初めからそこには何も無かったかのように、真っ暗闇がただただ広がっているだけだった。

「え、ど、どうしよっ!だ、誰かいないの⁉」

 暗闇は、何も答えない。申し訳程度にあった地面の小さなロウソクは、一本も見当たらない。何も見えない。自分の姿さえも、見えない。黙っていたら、自分もこの暗闇に同化してしまうような気がした。

「ねえっ!誰か!」

『キーヒッヒッヒ!』

 遠くで響く聞き覚えのあるその声に、ぞっと鳥肌が立った。

―――また悪魔⁉

 外套を頭まで引っ張って、その場にしゃがみ込み、じっと動かずに様子を探る。バサバサという羽音が、遠くの方で聞こえ、次第に何も聞こえなくなった。黄泉の国にも、悪魔がいるとなると、注意して動かなければ井戸に落ちた時のように、手も足も出なくなってしまう。

「せめて、何か対抗出来る武器とかあったらいいんだけど。」

 両手を閉じたり開いたりしても、何も感じない。

「……水よ―――なんてね。」

 魔力が無いのだから、呪文を唱えても意味がない。

「あーあ。」

 バカだ、わたし。あの時、早くエルに助けを呼べば良かったんだ。自分で何とか出来るって心のどこかで思っていた。そんなはずないのに。魔力が無ければ、何の力も無いのに。

「あーあ……。」

 頬が濡れる。帰りたい、元の世界に。自分がいた、ありふれたあの日常に。知らなかった頃へと戻って、エルにもセイヤにも出会わなかったことにして、あの大好きな場所でわたしらしく生きていきたい。魔界なんて知らない。実の両親なんて知らなくていい。だって、わたしは。

―――わたしって、なに?

 魔力も無く、髪も目の色も違う。こんなわたしを、トトやリリー、エドワードやノノは受け入れてくれるだろうか?変わらず、笑いかけてくれるだろうか。

 あの日、ホウキから落ちた夜。奇跡的に木の上に落ちて、怪我はしなかった。けれど、お腹が痛いと嘘を吐いて、部屋に籠った。魔力が無くなっただなんて、言えなかった。自分も信じられなくて、信じたくなくて、そのままベッドに潜り込んだ。そこに、エルが来たのだ。知りたくなかった。本当の親なんて、どうでも良かった。だって、今幸せで満足していたから。いきなり、魔力が無くなって、魔界の姫だって言われて、悪魔に狙われて、教会に拒まれ、シスターには聖水をかけられて。わたし自身の中身は、何も変わっていないのに。

「わたしは、わたし。ただの、ルシアだよ?」

  ポタリ、と頬から零れ落ちた雫が冷たくわたしを冷やす。

「あれ、光ってる?」

 胸元だけが微かに温かく、ぼんやりと淡い光を発していた。不思議に思い服の中に手を入れて、光の正体に気が付いた。

「これ、光るんだ?」

 子供の頃からずっと着けていた、石の指輪のネックレス。大切にするのよ、といつだったかリリーが着けてくれた。それ以来、何となくずっと身に着けていた。

「こんな色だったっけ?」

 指輪はツヤツヤとした金色で、そこにはめられた丸い石はキラキラと色々な光を発していて、何色にも見えた。

「きれー……」

 ぼんやりと光るほの温かいその石をかざして、上を見る。

 泣いてたって、仕方ない。問題は、何も解決しない。

 よっと、声を出しながら立ち上がる。暗いままの空に、大きく伸びをした。

「よっし!このぼやぼやっとした光で何とか、前に進もうじゃない!」

 光る石の指輪を目の前に掲げ、慎重に一歩ずつ歩いてみる。

「ん~、懐中電灯くらいは無理でも、もう少し光って欲しいんだけどな~。」

 やっぱり、心もとなくて摘まんだ指輪を離す。シャラン、とチェーンが揺れた。

「そもそも、光る石ってことは何らかのパワーを秘めているってことじゃない?」

 その力をわたしが使えればいいわけで。

「光れ~、石~!」

 シーン、と静まり返ったままの暗闇にも、ぼんやり光る石にも何の変化も無かった。

「ダメか。じゃあ、魔法の呪文っぽく言えばいいのかな?」

 頭の中にある、そらで言える呪文は決して多くはない。でも、基本は抑えているからきっといける!パチリ、と目をつぶって手のひらに指輪を乗せる。

「我が名は、ルシア。暗闇を照らす、光となれ。」

  シーン……。
  そーっと片目で確認しても、何の変化も無い。

「はあ、ダメかぁ……」

『ルシアは、ラテン語で光、という意味がある、素敵な言葉。』

  ふと、ホシノさんの言葉を思い出した。

「―――ルシア」

   ぱあっ!と石は、先程よりも少し光を増した。

「やった!名前が鍵だったのね!!」

  そうと分かれば、あとはもう進むだけ!進めばきっと、道は見えてくる。わたしは、指輪をぎゅっと握り名前を唱えた。








6 悪魔の行列


「よかった〜!見えて来た〜〜!!」

  あれから、指輪の光を強めながら真っ直ぐと歩いたら、遠くにぼんやりとロウソクの道が見えて来た。その光に心底ホッとして、くたびれた足に喝を入れながら歩く。

―――あれ、こっちかな?あっちかな?

 白い看板が遠くにぼんやりとあるけれど、人だかりでよく見えない。周りはみんな、自分の行く道が分かっているのか、わき目もふらずに先を行く。ふと、視界に魔法使いのローブが揺れた。とっさにその黒いローブの裾に手を伸ばす。

「あの!」

「はい?」と怪訝な声で振り向いたのは、右目に黒いオセロのような片眼鏡を着けた男の人だった。意外と背が高いその人を仰ぎ見る形で、口を開く。

「あ、あの、生者申請の列って、どこか分かりますか?」

 男の人は、左目を細めてじっとわたしの目を見つめて「ああ、生者申請ですか。」とすぐに愛想のいい笑みを浮かべて頷いた。

「すぐそこの列ですよ。私も並ぶつもりですので、よろしかったらご一緒しましょう。」

「ありがとうございます!」

 その言葉にホッとした。男の人は、わたしと歩幅を合わせるように隣に並んでくれた。

「ここはいろいろな列があって、迷ってしまいますよね。」

「アハハ、本当に」

 先ほどの光一つない暗闇を思い出して、力なく笑う。

「ところで、貴女は何て言って申請なさるのですか?」

「え?」

 聞かれている意味が分からなくて、首を傾げる。

「おや、知らないのですか?申請は、イザナミ様の納得する理由が無ければ通らないのですよ。」

「し、知らなかった!」

 納得する理由か。生きたいことに、理由なんているのだろうか。

「ですがまぁ、君みたいに若い子は簡単に申請が通るって聞いたことがありますし、それっぽいことを言っておけば大丈夫でしょう。」

 その笑顔に、アハハと愛想笑いを浮かべる。

―――常にスマイルな人だな、この人。

「つかぬ事をお伺いしますが、なぜこちらに?」

「えっと、井戸に落ちてしまって。」

 脳裏に、あのキヒキヒ笑う尻尾悪魔を思い浮かべて顔をしかめた。

「いろいろお辛いことがあったのですね……ご愁傷様です。」

  しんみりと気の毒そうな視線を向けられて、慌てて弁明する。

「身投げじゃないです!悪魔ともみ合っているうちに、転んじゃって!」

「へぇ、悪魔と……?」

 ニコリと、口角を緩く上げたその顔にゾワリとした。

「あの?」

「ああ、失礼。仕事柄、つい悪魔の話題には敏感でして。」

 笑顔も、上品な口調も崩さずに彼は言った。

「仕事って、」 

「ああ、ここです。」

 その声で、生者申請の列に着いたことが分かった。

「あ、ありがとうございます。」

「いえいえ、困った時はお互い様ですから。」

 男の人は、ニコニコと笑顔を絶やさずに、ひらりと優雅に手を振って「それじゃあ」と踵を返した。

「あれ、申請しないんですか?」

「ええ。私は、貴女方とは違うので。ごきげんよう、お嬢さん。」

 その言葉の意味が分からず、ぼんやりとその背を見送る。

―――どういう意味だろう?

「おい、列進んだぞ。」

「あ、すみません」

 後ろからの不満気な声に振り向くと、薄暗がりの中、赤い瞳がちらりと光って見えた。とっさに、外套を引き上げて俯く。

「お、お先にドウゾッ?」

 声が裏返ってしまったけれど、気にしていられない。

「お前……」

 その低く冷たい声に、ビクリと肩がはね上がる。

「な、何か?」

 外套をぎゅっときつく握る。暗がりの中、長く尖った爪がギラリと光ったのが見えた。

「お前……顔をよく見せろ。」

 外套に毛むくじゃらな手が伸びて来た。獣のようなその手を近くに感じ、ぞっと震える心を奮い立たせて声を出す。

「か、顔に醜い傷があるので、見せたくないんです。それより―――お先にどうぞ?」

 サッと、外套を掴もうとした手をさりげなく避けて、先を譲る。

「でも、お前」

「おい、何モタモタしてんだよ!後ろが詰まってんだよっ!」

 渋る悪魔の後ろから、不満の声が上がった。

「す、すみませんっ!」

  わたしを見じっと見る目から逃れるように、サッと列から外れる。

「たくっ、窓口が閉まっちまうぜ。」

 ブツブツと文句を言いながら、ぞろぞろと悪魔たちが列へと並んでいく。その光景を外套の下からそっと確認する。体中の汗がどっと流れた。

―――あっぶな!あっぶな!あっぶな~!

 バクバクと跳ねる心臓を押さえつけ、そっと静かに後ずさる。後ろには、もう誰もいなかった。今のうちに、早くここから離れないと!

「悪かったな。」

 低い声と共に、先ほどの悪魔の足が地面に見えて、ヒュッと息を飲む。

「顔色、悪かったからよ。ちょっと気になって声掛けちまった。」

  その低い声は、本当に申し訳なさそうな声だったものだから拍子抜けしてしまった。小さく「いえ」とだけ呟いた。

「おせっかいついでに言っとくが、悪魔はこの悪魔裁判の列に並んで判決カードを貰ってからじゃないと、他の申請は出来ないぞ。」

「ええっ⁉じゃあやっぱり、ここって生者申請の列じゃないんですか⁉」

 もしかしたら違うのかも、とは思っていたけれど。

「生者申請の列は、あそこの1番奥の長い列だ。」

 長い爪の指さす方をチラリと確認する。確かに、他の所よりも人が密集している。

「あの、ありがとうございます!」

 ペコリとお辞儀をして、その場を離れようとした時。

「おや、ダメじゃないですか。」

 その声に振り向くと同時に、肩に白い手袋に包まれた手が置かれた。

  いつから立っていたのだろう。背後に先ほどの男が音もなく、立っていた。

「きちんと並ばなければ。」

 ぎゅっと肩を掴む手に力が込められた。

「―――もしかして、わざとここに並ばせたんですか?」

 男を静かに睨む。肩を掴む手から、僅かな苛立ちが伝わってくる。

「……」

 男は、何を考えているのか分からない片方の目でわたしを見た。黒いローブに覆われた体をパタリと折りたたむように、男は屈んで低い声で囁いた。

「―――だってお嬢さん。貴女、悪魔でしょう?」

 その声に驚いて顔を上げようとした時、バサリと外套が音を立てて外された。黒く長い髪が、ストンと胸元で揺れた。

「その目は、実に妖しく、人を引き付け、惑わせる。人の子のものとは到底思えませんよ。」

 異質だと言わんばかりの目は、にこやかに細められているのに、嫌悪感がひしひしと伝わってくる。

「わたしは、違う!悪魔なんかじゃない!」

 そう大きな声で言ってから、思い出した。周りに悪魔がいることを。ハッと顔を上げれば、列を成していた悪魔はわたしの方をじっと見ていた。正確に言うと、わたしのこの赤紫色の瞳をじっと、食い入るように見ていた。

「何だ、あの目?」

「もしかして、最近噂になってるあの、王の娘とかいうやつか?」

「確かに、王と同じ色だ。」

「あんな娘が、後継者と騒がれているのか?随分、貧弱そうな体だが。」

「まさか!冗談じゃない。あのような禁忌の子が、魔界の玉座に座るだなんて。」

 ざわざわと、ざわめきが広がり、何事かと悪魔や人が辺りに集まる。

―――キンキの子?

 その言葉から、言いようのない敵意を感じた。

「ほう、ではお嬢さんは何者なんでしょうか?」

 カチャリと、片眼鏡が近くで音を立てて揺れたかと思うと、白い手袋が俯くわたしの顎を上に向かせた。白のような、灰色のような、色のない目が、暗がりの中ひどく冷めて見えた。

「あなたこそ誰よ?」

 パシッと、顎を掴む手を払う。

「おや、自己紹介がまだでしたか。」

 払われたことを気にする素振りもなく、何事もなかったかのように、男はにこやかな顔に戻った。

「私、ダルノスと申します。ダルノス・ネバダ。」

「わたしは、ルシアよ。悪魔なら紅い目のはず。わたしの目は、紅くないわ。」

 「ほう?」とダルノスは、興味深そうにわたしの目をじっと見て笑みを絶やさずに言った。

「だから悪魔ではない、と。フフフ、可笑しなことを仰る。瞳の色など、いくらでも変えてしまえると言うのに。」

 わたしを悪魔だと信じて疑っていないのか、丁寧な口調とは裏腹にその目はじっとわたしを見ていた。

「ああ、そうだ。今くり抜いて確かめてみますか。貴女のその目が、ホンモノか。ニセモノか。」

 どこから取り出したのか、暗闇で鈍く短剣が光った。鞘は、外されていた。本気かと聞く前に、その冷めた目にゾクリと悪寒がした。

―――本気だ、この人⋯⋯

「やめておけ。ここで騒ぎを起こして、何になる。」

 スッと、目の前に毛むくじゃらな腕がわたしを庇うように伸ばされた。仲裁するように間に入ったのは、さっきわたしを心配して声を掛けてくれた、獣姿の悪魔だった。

「おや、誰です。あなた。」

 さほど興味も無さそうに、ダルノスは聞いた。

「俺が誰かなんざどうでもいい。俺たち死者がここで争って何になる。剣を下せ。」

 端的にそう言って、ダルノスの持つ剣を顎で指した。

「はあ、私としては、このような悪の芽は早々に潰すに限るのですが。」

「悪魔を悪と決めつけるのは、無知な者だ。」

 クックックと喉の奥で笑う獣の悪魔に、ダルノスは剣を向けたまま「ほう?」と興味深そうに首を傾げて笑った。

「では、ぜひお教え頂きたい。悪魔が悪でないと証明出来るものを。」

「お前らに100パーセントの善人がいない限り、俺ら悪魔にも百パーセントの悪い奴なんてそうそういねーよ。」

 その言葉に、ピューッと指笛を鳴らす音や、パチパチと拍手をする音が辺りに響いた。

「ハアー、それは議論のすり替えというものです。これだから悪魔は手に負えない。狡猾であくどい。この世の害悪だ。」

 ハッ!と吐き捨てるように笑ってそう言い捨てたダルノスに、一斉にブーイングが起こった。

「何だと、てめえ!」

「もっぺん言ってみろ、若造。」

「お前の首を噛み切ってやるっ!」

「よせっ!ここで争っても意味が無いだろう⁉俺たちはもう、死んでいるんだから。」

 ダルノスと向き合う獣の悪魔が、今どんな表情でこの言葉を言ったのかわたしには分からない。けれど。

「ありがとう。」

 震えるその腕に、そっと手を伸ばした。ゴワゴワとした固い毛並みに、少しビクリとしたけれど、顔には出さずに触れたまま続けた。

「わたし、あなたのおかげで悪魔を嫌いにならずに済みそう。」

 身を挺して庇ってくれた。悪魔の中でよく思われていないだろうわたしを庇うのは、とても勇気のいることだったと思う。

「だから、もう大丈夫だよ。」

 わたしを庇うために伸ばされたその腕を、そっと下ろす。目の前に対峙するダルノスを見ながら、一歩前に足を踏み出した。

「何が大丈夫だ!危ないから下がってろ。」

 グイッと腕を引っ張られ、大きな背の後ろに立たされる。

「ちょ、危ないのはあなたも同じでしょう⁈」

「違う。」

 頑なに大きな背中で隠すようにわたしを抑え込む力に、グイグイと押される。

「おやおや、悪魔同士の庇い合いごっこですか。どちらが先に裏切るか、見ものですねぇ?」

 ブンッ!と大きく腕が振り上げられた。

 鈍色に光る刃物が、わたしめがけて振り下ろされる。そう思ったら、体は凍り付いたようにその場から動けなかった。


































7 再会、からの・・・・


 カランカラン。

 何かが空気を切り裂く音がしたかと思うと、剣が落ちる乾いた音が辺りに響いた。

 そうっと片目を開けると、剣のすぐ側には1本の矢が落ちていた。

「……今の、誰が?」

 顔を上げた瞬間、ヒュンッ!と今度は確実に、矢がダルノスの頬を掠めた。赤い筋が、その頬に走る。

「―――おや、随分な不作法者がいるみたいですねえ。」 

 ダルノスは、全く笑っていない目の奥に光を湛えて、矢が飛んできた方向へと顔を向けた。

「っ!セイヤッ⁉」

 そう、少し離れた所で弓を構えていたのは、セイヤだった。黒いツンツン頭に、細い体、間違いない、セイヤだ。

「動くな。動いたら、次は頭を射る。」

「ほお?」

 白い手袋をはめた手で、ダルノスは頬を乱暴に拭った。白い手袋が、みるみる赤い染みを作る。

「面白いじゃないですか。その手、歪めてやりますよ。」

 スルリと白手袋を外して、ダルノスはスッと頭上に手を掲げた。

「セイヤッ!逃げてっ!」

 嫌な予感がして、とっさにそう叫んでいた。

 パチン!

 その手が、音を鳴らした刹那。ボコボコと、セイヤの足元が盛り上がった。かと思うと、ボコォンッ!と地面を割って黒い岩の手が、セイヤの足首をガシリと掴んだ。

「うわッ⁉」

 バランスを崩して倒れるセイヤの体に、何本もの黒い岩のような手が巻き付くように伸びる。

「ッ⁉いってぇ!」

「セイヤッ‼」

 見ていられなくて、思わず駆け出した。

「おっと。」

 パシリと手を掴まれ顔を上げる。ニタリと意地の悪い笑みを浮かべた唇が目に入った。ハッと後ろを見ると、獣の悪魔の足元からも同じように黒い岩の手が伸び、掴まれている所だった。

「っ!離して!」

 掴まれた左手に力を込めるが、びくともしない。ギリリッときつく力を加えられ、痛みに顔を歪めた。

「フフフ、初めから大人しくしていれば、皆貴女のために傷つくことも無かったのに⋯⋯罪深い方だ。」

 ギラリ、とその手に短剣が握られているのが見えた。じたばたと全身に力を込めても、強い力で左手を拘束されていて逃げられない。鈍色の刃が、再び振り下ろされる。ああ、もうダメ。

「―――罪深いのはお前だ。」

 その低い声と共に、青白い龍が、宙を舞った。

  ゴオゥッ!

  龍だと思ったのは、細く棚びく青い炎。その炎が大きな口を開けて、ダルノスの首にぐるりと巻きついた。掴まれていた手が、ひやりと冷たい大きな手に包まれたのと同時に、「ウグッ!」と小さくダルノスの呻き声が響いた。

「お傍を離れて申し訳ありません、ルシア様。」

  サラり、と暗がりの中でエルの銀糸の髪が目の前で舞った。

「―――エル?」

 目の前の大きな背中に、言いようのない安心感を覚えてその場にへたりこむ。掴まれていたわたしの左手を包み込むように握ったのは、エルの大きな龍の手だった。銀色の鱗がビシリと並び、爪先は鋭く伸びていた。

「すぐ終わらせます。」

  その言葉と共に触れた手が、スルリと離された。ミシミシミシという音を立てながら、エルの右手がグワリと巨大化した。

「我が主への不貞、地獄の底まで後悔するが良い。」

  空気を切り裂く力強い音が響いた。

「エルッ!」

  待って、そう言おうとした時、ゴウッ!と強い風がその場をすり抜けた。

『やれやれ、ほんに困ったものじゃ。』

  その声と同時に、むわりと濃い霧が辺りに広がっていく。

「な、何っ?!」

「ルシア様!」

  慌てるわたしの手を、ひやりとしたさっきのあの手が掴む。

「っ?!やめろっ!私に構うなっ!やめろっ!やめろぉぉぉおっ!」

  すぐ近くでダルノスの苦しむ声が聞こえるけれど、濃い霧のせいで何も見えない。

―――今、一体何が起こっているの……?
 
  どこからか現れた霧は、どこへともなく静かに消え去った。

「……いない。」

  ダルノスだけが、その場からすっぽり消えていた。セイヤや獣の悪魔を抑えつけていた岩の手も、初めから居なかったように、地面に穴一つ空いていない。

「どういうこと?さっきの霧は……」

『愛いのう』

  柔らかく、艶のある声が聞こえた。瞬時に先程の声だと分かった。

『実に愛い女子じゃ。』

  声の主が、ニヤリと笑った気配がした。

『けれど、ここまで騒ぎを起こした責任は取ってもらわねばのう……さぁ、おいで』

  どこから現れたのか、手の形の白い霧がわたし達においでおいでと空中で手招きをした。かと思うと、その手がブワリと大きく膨らみ、とぷん、とわたし達を飲み込んだ。

  飲み込む間際にエルは繋いだ手を自身の方に引き寄せて、長い腕で包み込むようにわたしを抱き締めた。

  頭に触れる冷たい鱗の感触に、セイヤは無事だろうかと遠のく意識の中ぼんやりと思った。



  ふわり、と鼻を掠めるお香の匂いに目が覚めた。天井が恐ろしいくらい高く、今横になっている床は、黒曜石のような輝きを放つツヤツヤの黒い石で出来ていた。

「おや、お目覚めかえ。」

「ん……あなたは……?」

  その声にクラりとする頭を抑えて、ゆっくりと上体を起こす。薄暗い床には、黒と白の糸のようなものが広がっていた。その糸の先を目で追って、息を飲んだ。長く長く伸びたそれは御簾の向こう側へと続いていた。

―――これ、糸じゃなくて髪だ……。

  何メートルあるのだろうと息を飲むほど、白と黒の髪が床を埋め尽くしていた。すぐ隣にエルが、少し離れたところにセイヤが見えて、ホッとした。2人とも、まだ気を失っているみたいだけど。スッ、と背筋を伸ばし、御簾の方に向き合う。御簾の左右で、小さなぼんぼりの灯りが揺らめいた。

「妾は、イザナミ。この黄泉を統べる神であり、この国の王。」

  その声は、決して大きくはないのに、凛とした、どこまでも通る声だった。

「イザナミ、様」

  御簾越しのシルエットは、ぼんやりとしていてよく分からない。けれど、御簾から流れ出る豊かな髪の毛や声から、ただならぬオーラを感じて、ゴクリと息を飲んだ。

「ホホ、そう構えずとも良い。今回の件、言うなればそなたらは被害者のようなもの。黄泉の神として詫びをせねば。」

  パチン、と扇を閉じるような音がした。すると、ガラガラガラと音を立ててたくさんのワゴンが運び込まれる。あるワゴンには、色とりどりのみずみずしい果物、また、あるワゴンには山盛りのパンやドーナツ、またあるワゴンには湯気の立ったスープやライスのようなものがこれでもかというくらい、ぎっしりと詰められていた。

「んん……?」

 立ち込める匂いに鼻をひくつかせて、セイヤがムクリと起き上がった。ワゴンに気を取られていたけれど、いつの間にかエルも起き上がっていて、そっとわたしを庇うように腕を伸ばし、御簾の向こうへと目を向けていた。

「ここは、一体……」

「ここは十六夜城。黄泉の王の城じゃ。」

  イザヨイジョウ、とエルは口の中で小さく繰り返した。聞いたことの無い城の名前だった。

「さあ、客人をもてなす宴じゃ。好きにお食べ。」

「なぁ、これどこの世界の果物だ?」
 
  イザナミ様の声に、早速セイヤが黄色い果物を片手に首を傾げた。確かに、見たことの無い果物ばかりだ。真っ赤なバナナのようなものや、黄色いりんごのようなもの、オレンジ色のブドウのような実がたわわに揺れるもの・・・どれをとっても、見たことも聞いたことも無い。

「それは、魔界の果物プッアルだ。」

  エルが横目でセイヤの手にする果物を見て言った。

「プッアル?へえ、魔界には随分変な果物があるんだな。」

「変だと?」

  セイヤの何気ない感想に、エルが片眉を上げて冷ややかな目をセイヤに向けた。

「ちょっと、神様の前で喧嘩しないでよ。」

  小声でコソッと注意する。すると、神様?と2人して御簾の向こうを見上げた。

「どんなに艶やかで美しい果実でも、齧るまで美味かどうかは分からぬものよのぅ?」

  イザナミ様は、御簾の向こうでホホホッと笑い声を上げた。その含みのあるような笑い声に、少しの違和感が頭の中で絡まった。

―――何だろう、何かを忘れているような……

  セイヤはお腹が減っていたのか、早速ゴシゴシと袖でプッアルを軽く拭いて、口を開けた。

『決してこの世界のものを口にしてはダメよ。』

「っ!」

  バチンッ!!

  コロコロコロ……

  黄色い果実が、黒い床を転がった。セイヤの頬ごと思い切り叩いた手は、ジンジンと赤く痛んだ。その確かな痛みに、ぼんやりと霞がかかったような頭がはっきりとしてくる。

「……いってぇなぁっ!?何すんだよっ?!いきなりっ!」

「ダメ。……帰れなくなっちゃう。」

  思い出した。
  ホシノさんの別れ際のあの言葉。

「―――ほぉ?妾の出す物は、食えぬと。そう申しておるのかえ?」

  イザナミ様の、低い低い声がひやりとその場の空気を支配する。

「―――イザナミ様、わたしは……帰りたいんです。」

  声が震えた。震えるなと、爪が食い込むくらいに手をキツく握る。

「この世界のものを口にすると帰れなくなるのなら……、わたしはあなたの出す物を口にすることは出来ません。」

  沈黙の後、ハア、と息を吐く音が御簾の向こうでした。

「見目麗しく、賢い女子は好きじゃ。しかし、妾の思い通りにならぬ女子は―――好かんのう。」

  ホホ、と短く笑う声に、冷たい汗が背に流れる。

「それでも、帰りたいんです!」

「そうまでして帰りたい世界のようにも見えぬがのう」

  御簾越しで見えないはずなのに、色のない瞳でじっと見つめられた気がした。

「帰りたい、です。わたしは……」

  本当に……。
 言えば言うほど、どこか嘘っぽく聞こえて、語尾は頼りなさげに喉元に留まった。

「どんなに願われようと、そなたらに力を貸す気にはならぬ。」

「っ!」

  わたしが何かを言い返す前に、御簾の向こうの影が微かに揺れた。

「なぜなら、そなたらは死んでおらぬからの。」

  退屈そうに寝そべる影は、気に食わないとでも言うように言い捨てた。

「妾は、死人の神。生者に関与することは出来ぬ。よって、帰り方も知らぬ。」

  つっけんどんとした、不機嫌そうな物言いに、何を言えばいいのか分からなかった。

「失礼ながら、イザナミ様。では、我々が個人的にここを出ることは可能でしょうか?」

  固まったわたしに代わって、エルが流れるように聞いた。

「好きにするが良い。」

  その言葉に、エルは頭を下げてわたしを見た。

「では、帰りましょうか。ルシア様。」

「えっ!帰れるの!?」

  お任せください、とエルは自信たっぷりと微笑みを浮かべた。その笑顔にホッとして、じゃあ早いとここの部屋を出ようとセイヤの方へと視線を投げかけて、ドキリとした。

  憎しみの籠った瞳で、御簾を黙って睨んでいた。

「―――なぁ、神様。ひとつ聞きたいことがある。」

  イザナミ様は、何も答えなかった。

「俺の弟がここに来たはずだ。どこにいるか、アンタなら分かるんだろ?神様だから。」

  神様、そう憎々しげに吐き捨てるように言ったセイヤに、ホホホとイザナミ様の笑い声が響いた。

「いきなり何じゃ。来ていたとしても、そなたには教えぬ。」

「なんでだよっ!」

「必要無いからじゃ。そなたが今更知ったところで、何になる?何も出来ぬ童が騒いだところで、死は覆らぬ。」

「―――今、なんつった?」

  スタ、スタ、スタ、とセイヤの足音が静かに響く。

「セイヤ、まっ」

  わたしがセイヤに駆け寄るよりも、セイヤが御簾に向かって駆け出す方が少し早かった。

  御簾が、バサリと揺れた。そこには、赤や青や緑、色とりどりの衣を重ねるように着込んだ、人形のような女の人がいた。

「―――躾のなっていない野鼠よのう」

  黒い右目、白い左目が薄く細められた。

「うわっ?!」

  床を覆い尽くしていた髪の毛が、セイヤの胴体にぐるぐると巻きついて、セイヤを宙ずりにした。

「セイヤ!」

  駆け寄ろうとした時、パシリと腕を掴まれた。

「離してっ!セイヤが!」

「なりません。ルシア様、神に逆らえばどんな罰も甘んじて受けなければなりません。」

  わたしの腕を掴みながら、エルは冷ややかな視線でセイヤを眺めた。

「ホホッ、そこの龍はよう分かっておるのう。」

 ギリギリと遠目でも、髪の毛がセイヤの体にくい込んだのが分かった。

「ぅっ……」

消え入りそうな呻き声を上げるセイヤを、紅を指した唇がゆるりと弧を描いた。

「童、人の生き死にに口出すことは、たとえ身内だとて出来ぬこと。死ぬ者は死、生きる者は生きる。運命や縁は変えられぬ。」

「ふざ、けんな……っ!」

  じたばたともがく足に、更に白と黒の髪の束が巻き付いた。

「ふざけてなどおらぬ。人には決められた星の巡り合わせがあるもの。それを変えることなど、許されない。」

「そん、なのっ、知るか、よっ……かはっ!」

黒髪がセイヤの首元にくるりと巻かれた。

「知れ、童。この理不尽さが、人の世だ。」

  冷たく、色も温度も全くないその声は、体の中に直接入り込むような声だった。

  腕を掴むエルの手の力が弱まった。その隙を見逃さず、思い切りその手を払う。

「ルシア様!」

 髪の毛で滑って転ばないように気をつけながら、宙ずりになっているセイヤの近くまで駆け寄った。

「イザナミ様!セイヤが失礼なことをしたのは、謝ります。ごめんなさい!でも、セイヤをどうか解放して!あなたは、死者の神様。必要以上に、生きている者に関わるのはよくないんじゃないですか!?」

  2つの切れ長の目が、わたしを見た。左の白い目は、見えていないのか、真っ白で何も映していなかった。

「今ここで、たかが野鼠1匹死のうとも……誰も何も言うまいのう?」

「そんなこと、わたしが許さない!」

セイヤを吊るす髪の毛をギリ、と掴む。

「そなたは、何ゆえ妾にそう申す?」

  ぱつんと切り揃えられた前髪が、揺れた。前髪も、真ん中で黒と白とに分かれていた。

「そんなの、セイヤが大切な友達だからに決まってる!」

  ハンカチの入ったポケットを、左手でぎゅっと押さえる。あの時のシスターの言葉を、セイヤがどう受け止めたのかは分からない。けれど、助けてくれた。それだけで、もう充分だった。

「ホホッ……随分、可愛らしいこと。」

  シュルり、と黒髪がタコの足のように伸びて来て、頬に触れた。

「この世界の神(ルール)は妾じゃ。許す、許さないを決めるのは、この妾。……あぁ、それとも友のために、そなたが罰を受けるかえ?そうしたら、この童を許してやらぬこともないのう。」

  小さな口元を袖で覆い、ホホホと笑うその姿に、言いようのない不安や恐怖よりも、怒りがどこからともなく湧き上がる。

「確かに、セイヤはあなたに失礼なことをした。けど、大切な人を生き返らせたい、もう1度会いたいと願うのは、そんなにいけないこと?」

  もしも、トトやリリー、エドワードやノノが死んでしまったら。けれどもしも、会える可能性があるのなら。会いたいと望むことは、いけないこと?わたしにはそうは思えない。

「その願いは、叶わぬものとして忘れ去るのが最も美しく、引いては死人の真の望みじゃ。」

「そんなの神様のご都合主義よ!死んだ人がどう思っていたのかなんて、分からないじゃない!!」

「……では、死人が復活を望むかどうか、も分からないのう?」

  意地悪げに歪んだ瞳と唇に、言葉を詰まらせる。

「―――俺が、そうありたいと望むから……ただそれだけだ。」

  セイヤが、首元の髪の毛を緩ませてはっきりと一言そう言った。

「弟君が、死にたいと願っていてもかえ?」

「……俺は、アイツに生きて欲しい。」

「―――人とは、誠に勝手な生き物よのう……」

  ホウ、と憂い気にため息を吐いたかと思うと、シュルりと髪の毛が緩み、セイヤをふわりと床に下ろした。わたしに触れていた髪も、いつの間にか頬を離れていた。

「……勝手で、何が悪い!」

  セイヤはそう叫び捨てて、床を覆う髪の毛に滑りながらも、一切振り向かず、部屋を飛び出した。

「っ!待って!セイヤ!」

  その後を追おうとした時、「もし……」とイザナミ様の声が響いた。

「この黄泉を荒らしたら、あの片眼鏡男のように妾の籠に閉まってしまおうかのう。」

  独り言のようにそう呟いたかと思うと、「あぁ、そうだ。」と思い出したように声を上げた。

「川の底には行かぬことじゃ。」

  命が惜しくばのう、と笑いながら音もなく奥へと消える背中を少し見上げて、わたしはすぐにセイヤの後を追いかけた。






















8  三途の川


「ねぇ!待って!待ってってば!セイヤっ!」

  ずんずんと先を歩くセイヤを、人混みをかき分けながら見失わないようにと駆け足で追いかける。

「ですから、このような者に関わるのは」

 わたしの後ろでエルがスイスイと人混みを交わして、ため息交じりに着いてくる。

「助けに来てくれたんだよね?ありがとう!わたし、助けてくれて本当にうれしかった!だって、もう、口も聞いてもらえないと思ってたから、だから!」

  その声が届いているのかいないのか、セイヤは脇目も振らずにスタスタと先を行く。

「ちょっと!待ってって、うわっ!」

  裾が長い外套にツン、と躓きバランスを崩す。

―――やばっ!

  ぽすん

  衝撃は来なかった。そっと、目を開けるとセイヤの腕の中だった。セイヤは両腕でわたしを支えてくれていた。

「……気をつけろよ」

  ただ一言そう言って、セイヤはくるりと前を向いて歩き出す。

「ルシア様、お怪我は?!」

  後ろから支えるように、両肩にエルの手が乗った。

「大丈夫。……ねえ、話をしようよ。セイヤ」

  声高に、届くようにそう言う。

「わたし、言ったよね?1人より2人、2人より3人って。わたし、セイヤの力になりたい。一緒に探そうよ!!」

  ピタリ、とセイヤが足を止めた。前を向いていて、顔は見えない。

「……分かったよ」

  観念したようなその声に、セイヤの気が変わる前に、手を伸ばしてその手を掴んだ。



「弟の名前は、トウヤ。背は低くて、服は……死んだときと同じなら、制服だな。」

  セイヤは、矢の先端の尖った方で地面にガリガリと見たことのない文字を書いた。

「これ、人間の文字?」

  セイヤの隣にひょいとしゃがみ、地面を覗き込む。エルが灯した火にゆらりと照らされたその文字は、にょろにょろとした複雑な形で、とても難しい文字に見えた。

「あ、文字は違うのか。言葉が通じるから、てっきり文字も通じるのかと思った。」

  セイヤは、そう言ってザリザリとその下に2つ新しい文字を書いた。今度のは、さっきのに比べるとシンプルな形で丸っこいのと、角ばったものだった。

「俺の世界、って言っても俺の国は、3つの文字があるんだ。1番はじめのが、漢字。で、次がひらがな、カタカナ。」

「3つもあるなんて、大変ね。特にこれなんてすっごく難しそう・・・」

  じっとかんじ、という文字を見るがとても書けそうにない。

「まあ、確かに俺も国語より英語が得意だけどさ。漢字はひとつひとつ意味があって、意外と面白かったりする。」

 セイヤはそう言って、今度は文字の隣に人の顔らしいのを描いていく。

「セイヤの名前も、かんじっていうのがあるの?」

「俺の漢字はこう。星の矢で、セイヤ。」

 ザリザリと、少し離れた所に「星矢」と書いた。

「あ、トウヤより形は簡単ね。」

 これなら書けそう。

「あ~、トウヤはしんにょうがあるからな~。」

 しんにょう、が何かは分からなかったけど、セイヤは難しいからなと笑ってくれた。

「ね、星の矢ってどういう意味なの?」

 その言葉に、セイヤは少し俯きがちに答えた。

「―――流れ星のように明るく輝き、矢のように夜空を駆けろって意味。」

「へえ、素敵な名前。名付けたのはお母さん?」

「どうでもいいだろっ!そんなこと君に関係ないっ‼」

 ボキィッ!

 1本の矢は、セイヤの手の中で勢いよく折れて、カランと地面に落ちた。

 その剣幕に、思わずステンと地面に尻餅を着いた。

「何と、情緒不安定なニンゲンだ。」

 エルが黙ってわたしを起き上がらせて、嘲笑するようにセイヤを見下した。ケンカになる前にエルを咎めようとした時、「ごめん。」とセイヤが呟いた。

「母親にいい思い出が無くて、君に八つ当たりした。」

 セイヤは地面に落ちた矢を拾って言った。

「……わたしこそ、ごめん。」

 気まずくて、お互い黙ってしまった。エルが、セイヤの手にした矢をひょいと取り上げた。そして、ブツブツと何か呟いたかと思ったら、パアッと矢が淡く光りを放った。かと思ったら、エルの手の中で2つに折れた矢は1本の元の矢に戻っていた。

「すっげぇ……」

 セイヤがポカンと口を開けて、その矢を見ていた。わたしも、目を丸くしてエルを見た。

「あ、あなた魔法使えないんじゃなかったの⁈」

「確かに、ドラゴンに魔力はありませんとは申しましたが、魔法が使えないとは一言も申し上げておりませんよ?」

 エルは涼し気なシルバーグレイの瞳を細めて、不敵に笑った。

「ドラゴン、引いては魔獣が魔法に使う力は、魔力ではなく本能や気と呼びます。」

 エルは、手にした矢尻を地面に着けてザリザリと何かを書いた。そこには、文字、というよりも何かの記号のようなものが並んでいた。

「これ、ドラゴンの文字?」

「ええ。ドラゴンにもきちんと文字があります。ちなみに、これは本能、こっちが気です。」

「あ!もしかして、魔法を使う時に唱えている呪文は、ドラゴンの言葉なの?」

 ブツブツと呟く言葉は、聞き慣れない発音のものだった。

「はい。呪文は、自分の本当の言葉でなければ、上手くいかないんです。」

「へぇ〜!すごいなぁ」

「いえ、この位当然です。ドラゴンは、他の魔獣とは一線を画す、知のある誉れ高い魔獣ですから。」

  そう言って、エルは満足したのか矢をセイヤの手に返した。

「武器は大切にしろ。」

 そして腰を屈めて、セイヤの耳に何かを耳打ちした。セイヤは、真面目な顔でコクリと頷いた。

「何?どうしたの?」

 気になって聞いてから、きっと教えてくれないなと思った。

「いえ、お気になさらず。」

 案の定ニコリと微笑まれて、そっとセイヤの顔を見るとセイヤも大丈夫だという様な顔で頷いたから、それ以上は何となく問い詰められなかった。

「じゃ、続けるぞ。」

 そう言って、弟のトウヤのことをまた説明し始めた。



「まぁ、だいたいこんな感じだ。」

 セイヤの説明をまとめると、弟の名前はトウヤ。13歳。背はわたしよりも頭ひとつ分くらい小さく、小柄。服は、制服のためセイヤのような白シャツに黒いズボン。(たぶん)顔は、目が大きく華奢。薄い茶色の髪に目。色白。頭の中の情報と、地面の似顔絵。

―――もしかして……

「ねえ、トウヤって結構声高い?」

「あ、ああ。高い方だと、思う。」

  セイヤは一瞬質問の意図が分からなかったのか、考えてからそう言った。

「一人称は、『ボク』?おどおどしてて少し気弱な感じ?」

「おい、何で君がそんなこと……」

 そこまで言ってから、セイヤがハッと口を噤んだ。

「わたし、たぶんトウヤに会ってる。」

「本当かよ⁉」

 セイヤがガっと勢いよくわたしの両肩を掴んだ。

「服とか顔まではうろ覚えだけど、目が大きくて薄い茶色だったのは覚えてる。」 

「何でもいい!他に、何か言ったり話したりしたのか⁈」

 その言葉に、あの陰りのある目を思い出して胸が痛んだ。

「……死にたいって。」

「え?」

「死にたいって言って、船着き場の方に行ったの。」

「船着き場……?」

 セイヤの震える声に、目を逸らして呟くように言った。

「三途の川を渡るための、場所だと思う。」

 その言葉に、セイヤはわたしから手を離してダッと駆け出した。

「セイヤ!」

「ニンゲンは、これだから困る。」

 エルはそうため息を吐いて、セイヤの足元にひょいと足を伸ばした。

 ズサッ!とエルの長い足につまずいて、勢いのままに転んだセイヤはエルをキッと睨み見上げた。

「っ!」

「無鉄砲に飛び出すしか芸がないのか?」

「何とでも言えよ。俺にとって、弟を助けることより重要な事なんてない。」

「自分の足元すら疎かなニンゲンが、他者を助けられるものか。」

 クッと嘲るような笑いに、セイヤは立ち上がりエルの首元をグイッと掴んだ。

「てっめえ、言わせておけばっ!」

「ちょっとストップ‼」

 拳を振り上げるその腕を掴む。大きな声辺りを行き交う人が、何だ何だとこちらを見ていた。注目を浴びて、また騒ぎを起こしたら今度こそイザナミ様の怒りを買うだろう。

「セイヤ、船着き場がどこにあるかも分からないのに、すぐそうやって走っていかないで。不安で焦る気持ちは分かるけど、もっと冷静にいこう?エルもそうやってすぐ煽らないで、仲良くやろう?」

 わたしの言葉に、2人は目を逸らしながらも渋々と言った形で黙った。セイヤは振り上げた腕を力なく下した。

「とりあえず、今から3人で船着き場、行ってみよ?」



「えッ⁉一日運休⁉」

「ンーダ。」

 わたしの驚きの声に一切動じずに、船着き場のスタッフらしきガイコツはカタカタと歯を鳴らした。

「ナンデモはたらきカタカイカク?ダトー。シシャがオオグて、ザンギョつづき。オラ、ヨルもネられねハ。ンダカラ、イザナミサマ、マドグチのじかんタンシュクしダり、コシテ、ヤスミのブショツグッテくれテるンハ。」

「へ〜案外いい神様なのね。」

「何であれで分かるんだ。」

  感心するわたしの隣でセイヤがげんなりとわたしを見た。

「えー、分かるよ?」

「まず、何で骨なんだよ……声帯はどこだよ……」

  怖いのか、セイヤはわたしの少し後ろでブツブツと愚痴った。

「ヨモツのおっちゃーん、交替だー」

「普通のおっさんじゃねーか。何でこの人だけガイコツなんだよ……」

  セイヤの言葉通り、声を掛けてきたのは少しガタイのいい、普通のおじさんだった。

「ナンデッて、そりゃオメー、オラしかカワのナカにハイレねからよ。」

  ギョロリ、と窪んだ両目の奥はがらんどうのはずなのに、眼光が鋭く光った気がした。

「それって、どういう」

「オラダばアドオ〜ワリー」

  そう言って、くるりと背を向け新しく来たおじさんと交替して、どこかへ行ってしまった。

「行っちゃった」

「あのおっさんに聞こう。」

  セイヤが「あの」と、こちらに歩いてくるおじさんに声を掛けた。

「運行は鐘がなった時だ、急かされても渡らせんぞ。」

「鐘?」

  首を傾げるわたし達に、おじさんはそんなことも知らないのかとため息を吐いた。

「知らんのか?日が登らないここでは、十六夜城の鐘が16回鳴ったら、明日だ。」

「鐘はいつ鳴るの?」

「鳴ったら分かる。」

―――そんなテキトーな……

「あの、さっきのガイコツの人しか川の中には入れないって、どういうことなんですか?」

「この川は、真の死者しか渡れんということだ。」

真の、死者……?

「我々は死者であり、イザナミ様に忠誠を誓う者。川を渡って向こう岸に行くことは許されない。けれど、ヨモツのおっちゃんは違う。おっちゃんは、この黄泉と川向こうのあの世のただひとりの渡し守。」

  渡し守……よく分からないけれど、そんなにすごい人だったのかと、おじさんの口振りから察する。

「この川は、そんなに恐ろしいものなのか?」

  セイヤが少し離れた所にぼんやりと見える川の輪郭を目で追った。

「まあ一概にそうとは言えないが、生者とか死者未満、自殺者には恐ろしい川かもな。」

「……そういう奴らが川に入ったら、どうなる?渡れるのか?」

  心なしか、セイヤの声は震えていた。

「死者未満は、どこかで引き返すこともあるし、そのまま渡って死者となることもある。生者は……聞いたことないな。ジサツシャは、冥土を彷徨うって有名だ。」

「……ジサツシャ?メイド?」

  首を傾げると、おじさんはため息を吐きながらも説明してくれた。

「自殺者ってのは、自分で自分の命を絶った奴。冥土は、暗闇だ。川の底に溺れ、暗闇を彷徨い苦しみ続ける。」

―――川の底……イザナミ様が言ってたのはこのことだったのか。

「いつまで?」

  セイヤはもう川の方を見ずに、掠れ声で吐き出すように言った。

「こればっかりは川と本人次第だから、ハッキリとは分からんが、深い苦しみや後悔を受けとめた時に、暗闇は終わる。」

「……暗闇が終わったら、どうなる?」

「消える。」

  おじさんの言葉に、ドクン、と胸が苦しくなった。

「―――何だよっそれっ‼」
 
  セイヤの怒鳴り声がしたかと思うと、彼は目の前のおじさんの胸ぐらを掴み上げていた。

「闇の中って……アイツは、トウヤは、そんな風に消えていい奴じゃない!!!暗闇を彷徨い苦しむなんてこと、あっちゃいけないんだ……!!!」

 セイヤの震える手を、おじさんはそっと外した。

「それが、自分を殺したことへの罰だ。」

  セイヤは静かにその場に崩れ落ちた。

「っ……トウヤッ!トウヤッ……トウヤ……」

  涙に濡れたその声に、丸く震えるその背中に、何て声を掛けたらいいのか分からなかった。話してくれたおじさんは、気の毒そうな顔をして一言こう付け足すように言った。

「―――事情は知らないが、川に近づくのはやめた方がいい。……命に見合う対価を払う覚悟があるなら、止めはしないがな。」

  沈みゆく者を助けるには自らも沈まなければならないのだから、そう言っておじさんは気の毒そうな視線でセイヤを一瞥してから、離れていった。

「クソッ!クソッ‼!クソォッ……!」

 ガリッ、ゴリッ、ガリッ!と固い音がした。音のした方を見ると、セイヤが地面に爪を立てていた。

「セイヤ!」

 慌ててその腕を掴むと、バシッと払われる。力の入った肩は、弧を描く背は、静かに震えていた。

「アイツのせいだ、あの女のせいで……いや、俺がもっとちゃんと気にかけていたら……あの日も⋯⋯ックソッ!俺のせいだ、トウヤ……!」

 ガリッ、ザリィッ!

「セイヤっ!」

 その手をハンカチで包み込む。じわり、とハンカチ越しに赤い血が滲んだ。

「あなたのせいじゃない!」

 その言葉に、ピタリとセイヤが動きを止めた。

「―――君に、何が分かる?」

 セイヤは低く、そう聞いた。

「っ……!」

  その何も映していないような真っ暗な瞳が、わたしを鋭く睨んだ。

「く、詳しいことは分からないけど……でも、セイヤがそうやって自分を責めたって、きっと何も変わらない!」

  口をついて出た言葉はあまりにも薄っぺらくて、でも、何か言わなければと思った。

「セイヤがそうやって苦しむことを、トウヤはきっと望んでなんかない!大丈夫だよ!!きっと救う方法が、」

  続く言葉は、鈍く光りを湛えた暗い双眼に飲み込まれて消えた。

「君に、何が分かる?」

  ひやり、と冷水を浴びせられた。そのくらい、冷ややかで温度のない声だった。海の底のように光を通さない深海色の黒い瞳が、静かにわたしを見つめた。

「分かんない、分かんないけど……セイヤが、優しい人だっていうのは分かるから……だから、セイヤが苦しんでいるなら、力になりたいって、何とかしたいって思う!!」

  ぎゅっとハンカチ越しの手を強く握る。少しでも、気持ちが届けばいい。そう思って。

「―――俺は、優しくなんかない。」

「セイヤは優しいよ!優しい、弟思いのお兄ちゃんだよ!」

  はらり、と血の滲んだハンカチが地面に落ちた。落ちたハンカチを見て、思い切り手を払われたんだと分かった。

「……優しい兄ちゃんはな、みすみす弟を自殺させたりなんかしないんだよ。」

  薄い、触れたら今にもペキン、と割れてしまいそうな、薄氷のような声だった。

  ジサツ。その言葉に、ドクンと心臓が脈打った。

―――自分で自分の命を……

「ここに来たのだって、トウヤを生き返らせることが出来るかもしれない、そう思ったから来たんだ。」
 
  君を助けるためじゃない。そう続ける淡々とした声を聞きながら、今更払われた手が、ジンと痛んだ。

「でも、助けてくれたじゃない!わたしを、信じてくれたじゃない。」

  悪魔だと言うシスターの言葉を聞いても、セイヤは当たり前みたいな顔をして、助けに来てくれた。変わらず接してくれた。そのことに、どれだけホッとしただろう。どれだけ、嬉しかっただろう。

「俺は、誰も信じない。君のことも、ただ利用してるだけだ。」

「何でそんなひどいこと言うの!?わたしは、セイヤのこと友達だと思ってる。会ったばっかりだけど、大切な友達だって思ってるよ?!」

  イザナミ様の前で言った時は、半ば咄嗟に口をついて出た言葉だった。けれど、それは紛れもない本当の気持ちだった。

「なら、君の命を俺にくれよ。」

「え?」

「大切な友達だって、言ってくれるなら―――弟を、生き返らせてくれよ……?」

  悲しいくらいの青褐色に染まる瞳が、薄く笑った。

「出来ないだろ?だったら、無責任なこと言うなよ。」

  優しい声だった。優しくて、悲しい声だった。

「……何で、君がそんな顔するんだよ。」

  セイヤは、ふっと軽く笑った。

  何も、言えなかった。

「君は、元の世界に帰ればいい。元から、君には関係ないことなんだから。」

  セイヤは、そう言ってわたしに背を向けて歩き出した。人の波に埋もれていくその背を、今度は追えなかった。











9   エルの炎


  足は縫い付けられたように、その場から動かなかった。

「―――よろしいんですか?ルシア様」

  後ろから聞こえたエルのその声に、ハッとした。

「あ〜……うん……」

  自分が、恥ずかしい。ただ、セイヤが自分を傷つけて、苦しんでいるのを見ていられなくて、見ていたくなくて、無責任な言葉で傷つけた。

「―――帰られますか?」

「え?」

  エルのその一言に、ザワザワとお腹の辺りがひどくざわついた。

「ルシア様がその様にお心を痛め、お辛いのなら、元の世界に帰りましょう。顔色も、あまり良くないようですし。」

  ふっ、と影が落ちた。エルが腰を屈めて、わたしの顔を心配そうに覗き込んでいた。

「それに、いつまでもこのような所にいてはお体に障ります。会ったばかりのニンゲンのことをお気にかける、ルシア様の慈しみ深いお気持ち、私には理解できません。」

  エルは、浅いため息を吐いて首を横に振った。

「慈しみ、とか、そんな大層なものじゃないよ。」

  ただ、見たくなかっただけ。自分のせいだと言って、爪から血を流すのを、見たくなかった。

「はあ〜〜〜……わたしって、ホント……無神経だぁ」

  ズルズル、とその場に崩れ落ちる。

「ルシア様?!どこかお加減でも!?」

  エルが慌てて、隣にしゃがんだ。失礼します、と言っておでこや首をぺたぺたと冷たい大きな手が触れた。

「ふふっ、くすぐったい」

「脈も正常ですね、熱もないですし……この空間にいて、何か気持ちが悪くなった、とかはありませんか?」

「ん〜、特にないよ?あ、お腹は減ったり、疲れたりは普通にするけど。」

  ちょうどその時、ぐぅ、と主張するようにお腹が鳴った。少し恥ずかしい。

「では、食事に致しましょうか。」

「えっ、でもこの世界のモノを口にしたら……」

  元の世界に帰れなくなっちゃう、そう思って不安気にエルを見上げた。

「お任せ下さい。ルシア様の望みは、この私が何でも叶えて差し上げますよ。」

  エルは不敵な笑みを形のいい唇に乗せて、自信ありげに微笑んだ。



「わあっ!すごぉ」

  ポンポンポポン!

  軽い音を立てて、エルの手からは黄色いリンゴのようなもの―――先程話していた魔界の果物、プッアルが何個も出て来た。

「お口に合うと良いのですが……」

  人通りの多いところから隅の方に外れて、エルが灯してくれた炎を囲んで座る。ゆらりと揺れる青い炎に、プッアルの黄色い艶やかさがきらりと光った。よだれがじゅるっと溢れそうなのを我慢して、袖でゴシッと軽く擦る。

  シャリッ!

「んっ!甘酸っぱくておいしい!!」

  おそるおそる齧ったその果実は、想像していたリンゴのように蜜のある甘さではなく、桃のようなほんのりとした優しい甘さだった。

「お気に召して頂けて良かったです。」

  エルは、ホッとしたような顔で笑った。

「ありがとう!すっごく美味しいっ!!」

  プッアルは、今まで食べたどの果物よりも甘く、ジューシーだった。

「魔界にはこんな美味しい果物があるのねぇ」

  シャリッ、と齧ったら果汁が手を伝った。ペロッとそれを舐める。

―――こんなジュースがあったら、美味しいだろうなあ〜!あ、タルトにしてもいいかも!

「お気に召したのなら、いつでもお出ししますよ。もちろん、プッアル以外にも、魔界には美味な食物がたくさんありますので。」

  魔界。未知の世界は、ただ怖い暗闇の世界とは限らないのかもしれない。

「ねえ、エルは食べないの?」

「はい、ルシア様が全てお召し上がり下さい。」

  プッアルには手を付けずに、エルはにこりと優しく微笑んだ。

「―――ねえ、わたしにそんな畏まらなくていいよ?」

  シャリッ、とプッアルを齧る。

「いえ、そういう訳にはいきません。」

  きっぱりと首を振るエルに、ん〜……と少し困ってしまう。

「疲れない?」

「はい、大丈夫です。」

「……なら、いいけど。でも、疲れたらそんな堅苦しいの、すぐやめていいんだからね?」

  エルは片手を胸に添えて、深々とお辞儀をした。

「お心遣い、痛み入ります。では、私も一つだけ。お願いしたいことがございます。」

  よろしいですか?とエルが、真剣な眼差しでわたしを見上げた。

「わ、わたしにできることなら!」

  何をお願いされるのだろう、と少しの不安と緊張が体を駆け抜けた。

「危ないと、少しでも思ったら、すぐに私をお呼びください。名を呼んでくだされば、ルシア様がどこにいようとも、すぐに駆けつけますから。」

  真剣なシルバーグレイの瞳は、不安そうに揺れていた。

「分かった。すぐ、エルを呼ぶよ。約束する。」

  その目に、本当に心配をしてくれたんだと分かった。スッ、と右手の小指を立ててエルの前に掲げる。

「これは?」

「指切り!人は、約束する時にこうやって小指を絡めるの!」

  ほら、とエルの小指に自分の小指を絡めた。

「嘘ついたら、針千本のーますっ!指切ったっ!」

「人は、ときに恐ろしいことを考えますね。」

  針千本……と、顔を青くして言うエルが可笑しくて、フフッと笑ってしまった。そんなわたしを、エルはじっと見た。

「ルシア様、少し寝て下さい。鐘が鳴りましたら、起こしますので。」

  エルのその言葉に驚いて、目を丸くする。

「助けたいのでしょう?あのニンゲンを。」

「そう、だけど。でも、」

  わたしに、彼を助けられるだろうか。また、傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、ぎゅっと胸が縮む。

「助けたいのでしょう?」

  エルのその言葉に、黙って頷く。

「でも、何て言ったらいいのか、分からない。」

  助けたい気持ちは、変わらない。でも、何を言ってもセイヤには響かない気がした。止められない気がした。止める権利が、わたしにあるのかも分からない。

「それは、私もよく分かりませんが……ルシア様が助けたいと心の底から思うのであれば、そうなさればいい。その手を取るか取らないかは、もう相手次第です。」

  エルのその淡々とした話しぶりが、意外でまじまじとその顔を見つめた。

「……エルは、すぐにわたしを魔界に連れて行くのかと思った。」

  セイヤのことなんて置いて。すると、エルは静かに立ち上がって、その場に恭しく頭を垂れた。

「私は貴女のドラゴンです。貴女の敵となるものを切り裂き、燃えさり、貴女の前に道を作ります。貴女の手となり、足となり、翼となり、貴女の望みを叶えます。貴女が何を望もうと、どんな選択をしようと、わたしはそれに従うだけです。」

  地面に広がる豊かな銀髪に、初めて会ったあの夜を思い出す。ついさっきのことなのに、もうだいぶ前のことのように感じた。

「どうして、わたしにそこまでしてくれるの?」

「我らが王、ルシフェル様が私にそう命じたからです。」

「王様の命令は、絶対?」

「はい。」

  静かに頷くその後頭部に納得する反面、なんだ、と少し寂しくなった。

「エルがそこまで忠誠を誓うほど、王様はすごい人なの?」

「それはもう。……私を見つけてくださった、偉大な王です。」

  王様を思い出しているのか、エルは誇らしそうな笑みを零した。

「へぇ?」

―――どういう人なんだろう、わたしの本当の父親って……。

「ふあ〜」

考えていたら、欠伸が出た。

「お休みください。」

「ん〜、じゃあそうしよっかな」

  重たい瞼を擦って、コロン、と横になる。外套に包まるように、身を縮めて、目を閉じた。瞼の裏は真っ暗で、何の夢も見ずに眠った。




















10   それぞれの正義


「―――さま、ルシア様!」

  ゆさゆさと揺さぶられて、重い瞼をゆっくりと上げた。遠くの方で、ゴォーン、ゴォーン、と鐘の音がした。その重く響く音に、一気に目が覚めて現実に引き戻される。

「この音……!」

「ええ。船着き場の方へ行ってみましょう。」

  エルと顔を見合わせて頷いて、船着き場へと急いだ。



「うわ!すごい行列……見つけられるかな」

  船着き場の前には、長い長い列が出来ていた。いろいろな人や、悪魔、魔獣が列を成している。そっ、と外套を頭に引き上げて、目深に被った。

「あのニンゲンはおそらく、列には並ばずに私たちと同様、外から探しているでしょうし。匂いは覚えましたので、大丈夫かと。」

  匂い?と首を傾げるわたしに、エルは何も言わずに微笑みを浮かべた。そして、ペロリ、とゆっくり唇を舐めた。

「―――あちらですね。」

  エルが今、何をしたのかよく分からなかったけれど、とりあえずドラゴンの嗅覚がすごいということだけは、分かった。そんなエルをすごいと思うと同時に、魔法が使えない自分の役立たず感に、複雑な気持ちになる。

「ルシア様?急ぎましょう。」

「あ、うん。今行く。」

  エルの背を追って、エルの指し示した方へと駆け足で進む。

  列の前の方に、黒いツンツンヘアーが目に入った。

「セイヤっ!」

  声を掛け、手を伸ばす。はしっ、と手に触れたシャツの感触にホッとする。

「……まだいたのか。」

  そう呆れたような声と共に、セイヤは呆れたように振り返った。

「セイヤと一緒に帰るって決めたの。」

「そんなこと、勝手に決められても困るんだけど?」

  セイヤは、ふっと皮肉めいた笑みを口元に浮かべた。

「何?それとも、命くれる気にでもなったの?」

「あげないよ。」

「じゃあ、俺に関わるなよ。どっか行けよ。」

  シッシッ、と犬猫でも追い払うみたいにしてセイヤは顔を逸らした。

「行かないから!セイヤがわたしと帰ってくれるって、言ってくれるまで!どこにも行かないんだから!!」

  掴んだシャツをぎゅっとキツく握る。

「おい、シワになるだろ。離せ。」

  セイヤが顔をしかめて、シャツを掴むわたしの手を掴んだ。その手の爪先が、赤黒い色に染まっているのが目に入った。

「そうやって自分から痛がって、誰かが幸せになると思ってるの?」

「は?」

「セイヤのやり方は、誰も幸せになんかならないよ。」

「お前に何が分かる?何も知らないくせに、薄っぺらな道徳くさい正義感かざして、いい子ちゃん気取り?―――無責任な自己満足に酔いたかったら、他を当たれよ?お人よし。」

  冷たい声が、耳を刺す。

  何も、すぐ目の前にいるわたしさえも映さないその真っ黒な目を、見返す。

「分かるわけないじゃない。セイヤが何も言わないんだから。」

「お前に話すことなんか何もないんだよ!どっか行けよ、もう!」

「行かないって言ったじゃない!セイヤが一緒に帰ってくれるまで、この手、離さないから。」

  ぎゅうっと、半ばつねるようにシャツを掴む。

「何でだよ?何でそこまでするんだよ?たかが、会ったばかりの他人なんかに。」

  セイヤは理解出来ないと言うように顔を歪めた。

「―――わたしは、一度信じた人の手を離したくないだけ。会ったばかりかどうかなんて、関係ない。セイヤは、泣いているわたしにハンカチを差し出してくれた、危ないところを助けてくれた。それだけで、信じるには十分じゃない。」

「……」

  セイヤは少し目を見張って、すぐにふいと顔を逸らした。

「―――バッカじゃねぇの?」

「なっ、失礼ね!」

「―――俺は、この手でアイツを生き返らせる。そのためなら、たとえ死んだってかまわないんだ。」

  血の滲んだ爪を固く握り、セイヤはわたしの手を振りほどくように強く地を蹴り、駆け出した。

「あー!ちょっと!」

「ルシア様はここでお待ちを!」

  わたしの叫びと、エルの冷静な声はほぼ同時だった。え?と振り向いた時にはもう、エルはそこにいなく。ビュンッと風を切って走るセイヤを追いかけていた。


11   小舟の上で


「いや、二人ともはっや〜」

  どんどん豆粒くらいの小ささになって、すぐに人混みに掻き消えてしまった。二人が戻ってくるまで、端によって大人しく待っていようと踵を返したその時。ふと、視界に入った薄茶のおかっぱ頭に、思わず。

「―――トウヤ?」

  そう、呼び掛けていた。ビクリ、と肩が大きく跳ねて、おそるおそるといった様子で薄茶の髪が、サラりと揺れた。

「……君、だれ?」

  男の子にしては高く、澄んだ透明な声が、怯えるようにわたしを見た。大きな薄茶の瞳は、こわごわとわたしを映した。

「わたし、あなたのことを探していたの。セイヤが、あなたのお兄ちゃんが」

「お兄ちゃんがここに来てるの?!」

  セイヤ、と名前を出した途端の食いつきように、トウヤはこの子で間違いないなと、確信した。

「おーい、列進んだぞ〜?」

  トウヤが何かを言おうとした時、被せるようにしてトウヤの後ろに並ぶおじさんが、前に詰めるように促した。

「あ……ゴメンナサイ……」

  トウヤは、パシッとわたしの手首を細い指で掴むとグイッと列に入れた。

「おいおい、割り込みかあ?俺ぁよう、この川を渡るのにもう3日も待ってんだぜ〜?」

「ゴメンなさい……姉と会えたのが嬉しくて、つい。」

  さらりと嘘をつくトウヤに、思わず「えっ」と声が出た。

「おめぇら姉弟だったのか……姉弟揃って、その若さで……クウッ!二人仲良く渡りやがれぃってんだ!」
 
  怒っているのか、泣いているのか、クゥッ!と目頭を押さえながら天を仰ぐそのおじさんを、変わった人だなぁとしげしげ見つめていると、掴まれた手首をグイ、と強く引っ張られた。

「ねぇ。お兄ちゃん、死んだの?」

  緊張感のある光を湛えたその薄茶の瞳は、先程までのイメージと一転、力強く、静かな荒々しささえあった。

「死んでないよ。セイヤはトウヤを生き返らせるために、ここに来たの。」

  その一言で、わたしの手首を掴む手は、はらりと散りゆく花弁のように、呆気なく離れた。

「なに、それ。」

  俯いていて表情はよく見えない。けれど、だらりと垂れ下がった両手が、微かに震えた。

「ハハッ……アハハッ!バッカみたい。」

「バカって、あなたね、」

「だってバカだよ、誰が生き返らせて欲しいなんて、頼んだの?」

  下からわたしを見上げる目は、セイヤのあの何も映さない真っ暗な瞳のように、幽々とした仄暗い闇が滲んでいた。

「……」

  その目を通して、イザナミ様の言葉が脳裏で哀れむように脳裏に響く。

―――人とは、誠に勝手な生き物よのう……

「はい、川渡りは一人ずつですよー。」

  いつの間にか列はどんどん進み、わたし達が列の先頭になっていた。

「あ、いや!あの、わたしは……」

「おっちゃん!こいつら〜姉弟なんだとよぅ!2人一緒に渡らせてやってくれよぅ〜!」
 
  後ろのおじさんが、くうっ!と涙を飲みながらそんなことを大声で叫ぶように主張した。

「え〜、仕方ないですねぇ……はい、こちらへどうぞ〜はい、お気をつけて〜」

  あれよあれよという間に、笹舟のような頼りな〜い小舟の上に乗せられて川の上をゆらりゆらりと揺れていた。

「ええっ?!いや、ちょっ!わたし、まだ死んでないんですけどっ?!」

  その場に勢いよく立ち上がったら、グラり、と舟がトウヤの方に傾いた。

「ちょっ、危なっ!急に立ち上がらないでよ。」

グイッと手を引かれ、座らされた。

「だ、だって、わたし、まだ!」

「死にたくない?」

  トウヤがわたしの言葉を引き継いで、せせら笑った。

「ボクだって、死にたくて死んだわけじゃないよ?生きたくなくて、死んだんだ。生きることが、辛く苦痛で怖かったから。」

  その声は、落ち着いていた。

「お兄ちゃんに聞いたんでしょ?ボクが自殺だって。」

  また無神経なことを言ってしまったら、傷つけてしまったら、そう思ったらもう、ただ控えめに頷くことしかできなかった。

「そんな気にしなくていいよ。ボク、ホッとしているんだから。ちゃんと死ねてさ。」

  ニコリ、と目を細めて笑う顔に、ますます何て言えばいいのか分からなくなる。

「……セイヤが、弟が死んだのは自分のせいだって言ってた。だから、自分が死んでもトウヤを生き返らせるんだって」

「へぇー、余計なお世話だなぁ。」

「っ!」

  そんな言い方ないんじゃない?という言葉は、トウヤの静かに燃える炎のような、怒りの燻る色に強く染まった双眸に、飲み込まされた。

「ボクが何で自殺したかも、聞いた?」

  黙って首を横に振ると、トウヤはクスクスと愉快そうに笑った。

「じゃあ、暇つぶしに教えてあげる。」

  にっこりと笑うその顔に、セイヤとはあまり似ていないなと思った。

「ボクの両親はね、離婚していて、お兄ちゃんはお父さんに、ボクはお母さんに引き取られたんだ。お母さんは、優しくて料理上手で、よく笑う人だったけれど、離婚してからのお母さんは、まるで人が変わったみたいに、何もしなかった。本当になーんにも、しなかった。だから、ボクが全部やったんだ。ご飯を作ること、掃除、洗濯……家庭科で習ったから、出来ないことはなかったけど、毎日はやっぱり大変だね。世の中のお母さん達は本当にすごいと思うんだ、ボク。」

  ね、君もそう思うだろ?という目で見られて、曖昧に頷いた。

「わたし、本当のママって、知らないの。」

「なんで?」

「流れ星から落ちてきたんだって、わたし。そこを優しいパン屋さんに拾われたの。」

  リリーは、流れ星から落ちてきた星の子なのよ、なんて言っていたけれど本当だろうか。

「流れ星に、優しいパン屋さん……まるで、物語みたいだね。」

  バカにされるか、からかわれると思った……のに、目の前の男の子はふわりと優しく微笑んだ。

「信じるの?」

「嘘なの?」

  ビー玉のように丸い瞳が、びっくりするくらい透明で思わず目を逸らした。

「嘘かどうかは分からないけど、ただ、リリーがそう言ってて……」

「じゃあ、君はリリーを信じてないの?」

「でもっ!人が空から降ってくるなんて、そんなことっ!」

  あるわけないじゃない。リリーの優しい嘘だ。きっと、わたしはどこかで捨てられていて、それを可哀想に思った2人が拾ってくれたんだと、そう思っていた。

「真実は別として、君にとっての、本当のママって、何?血の繋がり?」

  笑みの消えたその顔が、ぴりり、と空気に電流を走らせた気がした。

「愛してくれれば、大切にしてくれれば、そんなもの必要ないよ。君のリリーは、君のことを、大切に愛してはくれなかったの?」

  リリーは―――

『ルシアの髪は、キレイなバターブロンドだねぇ。』

『ばたあぶろんど?』

『ふふ、お日様に溶けたバターみたいな色よ。かわいいね。あなたは、私の宝もの。』

  そう言って、優しく頭を撫でてキスしてくれたのはいつだったろう。その温かい手が、くすぐったい言葉が、嬉しくて、嬉しくて。髪の色なんて何色だってよかったけれど、金髪に生まれて良かったと心の底から思った。

「リリーは、あいしてくれた。宝ものだって……言ってくれた。」

「じゃあ、本当のママだよ。君のリリーは、君のママだ。」

  その言葉が、ストン、と胸に落ちた。

  きっとリリーは、わたしがどんな髪だって褒めてくれる。可愛いと頭を撫でてくれる。そう思った。

  そんなわたしをトウヤは、少し眩しそうに見てから、ポツリと言った。

「ボクのお母さんはね、ボクの本当のお母さんだけど、ボクよりもお父さんを愛していたんだ。」

  伏し目がちに水面を見る。その目元には、憂いを帯びたまつ毛の影が落ちて、ほんのりと頬を陰らせた。

「ボク、お父さんにそっくりなんだ。」

  嬉しそうに、悲しそうに、トウヤは笑って顔をあげた。

「お母さんは、日に日にお父さんにそっくりになっていくボクを見ていたくなかったんだと思う。ボクのことなんて、まるで見えないみたいに……ボクの声なんて、まるで聞こえないみたいに。ボクはそうやって、だんだんと透明になった。」

  手のひらを握ったり、開いたりして、トウヤは言った。

「家で透明なボクは、学校では浮いていた。友だちも出来なかった。どこにも居場所がなかった。……だから、13歳の誕生日の夜に、アパートの窓から飛び降りた。」

  その時のことを思い出しているのか、トウヤの目はどこか遠くを虚ろに見つめていた。

  わたしが今ここで、何を言っても嘘くさい気がした。励ましも同情も、何の意味も成さないのだと分かった。だから、その遠くを見つめる白い横顔を黙って眺めた。輪郭が、ぼんやりと空気と同化して、今にも消えてしまいそうだと思った。

「―――ねぇ、君は走馬灯って見た?」

  ひょい、とこちらを振り返って笑う顔に意表を突かれた。薄茶の瞳は、クルクルと楽し気に表情を変える。

「見た、と言えば見た、のかな……?」

  井戸に落ちたときに見たのは、走馬灯だったのかどうか怪しい。

「いいなぁ。ボクも見たかったな。最期くらい、大切な人の顔を見て死にたいもん。」

  悲しげに目を伏せる顔に、誰かと似ているなと思ったけれど、誰なのかは思い出せなかった。

「どんな走馬灯が見たかったの?」

「むかーしの記憶。お母さんと、お父さんと、お兄ちゃんと、ボクが一緒にいたあの頃の記憶。あの時が、一番たのしかったなぁ……」

  トウヤはここに、確かに目の前に居るのに、先程からゆらゆらとどこか遠くを見つめる目が、少しだけ怖かった。まるで、そのままどこかに吸い込まれて消えてしまいそうな危うさが、胸を切なく締め付けた。

「ねえ、じゃあセイヤに会うだけ会ってみない?」

「え?」

  目を丸くして首を傾げるトウヤに、言葉を選んで慎重に提案する。

「セイヤ、トウヤが死んですごく、すごく悲しんでる。セイヤにとって、トウヤは大切な弟だったから。だから、セイヤに会ってあげて欲しいの。」

「ヤダ」
 
  間髪入れずに、ズバッとそう言い捨てるトウヤは、ムスッとした顔でわたしを睨んだ。

「ボク、もう死んでいるんだよ?しかも自殺。今さら、どんな顔して会って、何を話せばいいの?会う必要も話す必要も無いんだよ。」

  あっさりとそう言い切るトウヤに、なるほどと思う反面、セイヤの、震える背が、何も映さない真っ暗な瞳が、頭から離れなかった。

「お兄ちゃん」

 掠れた小さな呟きに、トウヤが見つめる先を振り返る。振り返って気が付いた。この小舟は、ゆらゆらと揺れるばかりで、全然前に進んでいないことに。だって舟着き場が、まだ目と鼻の先に見える。相変わらず行列の絶えないそこに、こちらをジッと見つめる視線があった。

―――セイヤだった。

 グラり。小舟が大きく傾いた。トウヤが立ち上がったのだ。

「お兄、ちゃん……」

  トウヤは幻でも見たみたいな顔で、ぼんやりと呟いた。

「危ないっ!」

 ふらり、とその体が揺れた。投げ出された体を掴もうと手を伸ばすも、何も掴めず、小舟はとぷんと、転覆した。

「トウヤっ!ルシアッ‼」

 水の中に落ちる直前、セイヤの声が聞こえたけれど、ざぶん、と水の音に飲み込まれてすぐに何の音も聞こえくなった。









12   川の底で


  コポポッ……

―――息が、できない⋯⋯
 
  酸素を求めて開く口は、いくつかの水泡を出すだけだった。手足をバタバタと動かしても、たゆたう水の流れに押しつぶされるように、下へ下へと沈みゆく。

  霞む頭のなか、ゆっくりと目を開けた。視界いっぱいに、透明な水が押し寄せて、咄嗟に上を見上げる。見上げれば見上げるほど、水面がゆらゆらと揺れて、水明かりがきらきらと、息を飲むほど、美しく瞬いた。落ちていく感覚にダメだと思いながらも、両手を広げ、身を委ねるように水面を見上げる。ガラスより、ビードロより、何より透明なその水は、わたしを優しく包み込む。

―――キレイ。こんなにキレイなもの、見たことない。
  パシャン。
  穏やかに煌めく水面に、一つの水紋が広がった。かと思うと、どこからかバシャバシャと水を搔く音がした。けれど、その音も次第に聞こえなくなった。気のせいかと思っていたら、音も経てずに人が降ってきた。白シャツが水力でふわりと膨らんで、クラゲみたいだとクスッと笑った。けれど、その人がわたしの目の前にゆっくりと落ちてきた時になって、サッと血の気が引いた。

―――セイヤ・・・?セイヤっ!!

  その手を掴んで、頬を叩く。水圧が邪魔して、強く叩けない。

『セイヤっ!!!』

  コポポッ、と口から酸素が逃げていくように泡となって飛び出した。そこで、どうやら声が出せるらしいことに気がついた。

『起きてっ!ねえっ!!セイヤっ!!!』

  目を閉じたまま水中に身を委ねるセイヤに、言いようのない恐怖が胸を支配した。

―――このまま、死んでしまったら⋯⋯

  頭に浮かんだ文字を振り払うように、セイヤの頬を何度も叩く。

『お兄ちゃん』

  ふと、すぐ近くで声が聞こえた。パシャパシャと小さな水音を立てて、トウヤがスイ、とセイヤに近寄った。その瞬間、閉じた瞳が僅かに動いて、黒い瞳が薄く覗いた。

『⋯⋯とう、や・・・⋯』

  セイヤは、呻くように、祈るように、弟の名前を口にして、すぐに目を閉じた。コポリと泡末が、逃げるように上へと昇る。それと反対に、セイヤの体は全てを水に任せて、ダラりと力なく水中にたゆたう。

『⋯⋯なんで』

  トウヤは、そんなセイヤをじっと見つめた。そして、おもむろにその白い首に、両手を伸ばし、自分の細い指を這わせた。

『なんで?ボクのことなんか、放っておけばいい⋯⋯忘れればよかったんだ⋯・・・』

 トウヤはその細い指にグッと、力を込めた。

『ちょっと?!何して、』

  突然のことに、トウヤの細い腕を強く掴んだ。ひやりと冷たいその腕に触れた瞬間、その体から、ぶわりっ!とあぶくが飛び出した。飛び交うあぶくは、わたし目掛けて大きく膨らんだかと思うと、飲み込むように大きな口を開けた。

『っ?!』

  とっさに、目を閉じた。閉じた瞬間、すぐにまぶたの裏が白んだ。



  死にたくない

  でも

  生きていけない

  だって⋯⋯

  生きていていいのかな?

  だれも、ボクを必要としないのに⋯⋯

  だれか、ボクを⋯⋯


  みつけて


―――トウヤの声だ。

  流れ込んできた声は、小さな迷子のようにポツン、ポツン、と途切れ途切れで、なのに、どこか明瞭な響きを持って、わたしの心にのしかかる。

 ガチャンッ、パリーン

 何かが割れた。白い、マグカップだ。中身はオレンジジュースだったのか、カーペットがオレンジ色の海で染みてゆく。

『これ、お父さんが出張のおみやげで買ってきてくれたやつなのに⋯⋯どうしよう。』

  割れたマグカップの前で、トウヤは今にも泣きそうな顔をしておろおろと一人、慌てていた。

―――これ、トウヤの記憶⋯⋯?

『いたっ』

  割れた白い破片で手を切ったトウヤの指から、ポタポタと赤い血が、白い破片の上に落ちる。

『ティ、ティッシュ、ティッシュ。だいじょうぶ、保健の授業で確か、止血はギュッと……』

 シュッ、シュッ、シュッ、と白く柔らかそうな紙でトウヤは指を押さえた。じわり、と血が滲む。

『……』

  じわり、と浮かんだ涙をゴシゴシっと乱暴に拭いて、トウヤは立ち上がった。

『とりあえず、冷めちゃうからご飯食べよっと。』

  テーブルの上には、旗の立ったオムライスが食べかけだった。

『うん、おいしい、おいしい。』

  モグモグと、スプーンを口に運ぶトウヤは、まるで言い聞かせるみたいにして、そう繰り返した。旗には、赤いニコちゃんマークがにっこりと笑って、トウヤを見た。

『ごちそうさまでした』

  割れた破片を踏まないように、気をつけながら食器を流しに下げる。

『そうじきで吸っちゃうか』

  ゴォオオオオ、と大きな音を立てる機械を破片の上に滑らせたら、破片が瞬く間にその機械の中へと吸い込まれていった。

『よしっ、おわり!』

  トウヤは、次は四角いカバンを、ズルズルと引きずるようにして持ってきた。カチャリと中を開けて、ノートやら何やらを引っ張り出す。その中の一つ、一番上にあった小さなノートをパララと憂鬱そうに開いた。

  そこに、何て書いているのかわたしには読めないだろうと思いながらも、見ると何と読めた。

―――きっと、これはトウヤの記憶。だから、わたしの目にもトウヤと同じように見えるのかな?

 そこには、赤ペンでこう書かれていた。

『最近、忘れ物が多いです。給食の白衣、体育着は、忘れずに持って帰って、お家で洗濯をするようにして下さい。白衣は、給食当番になった人が必ず着るものです。以前のような、シワクシャの状態の白衣を受け取ったら、透夜さんはどう思いますか?嫌な気持ちになりますよね。洗いましょう。また、体育着も同様です。汗や汚れの染みたものは、洗わなければ臭います。あなたがよくても、一緒に授業を受ける人が嫌な思いをするかもしれません。思いやりの気持ちを持ちましょうね。また、一人二枚の雑巾提出、クラスで出していないのは透夜さんだけです。透夜さんは、夏休みの作文の宿題もまだ出していません。提出物は、締切を守って出す癖を付けましょう。』

  長々とページを跨いで見開きで書かれたそれは、文字こそ丁寧で流れるようなものだったけれど、読んでいて何だかムカムカしてくる文章だった。

『白衣、ちゃんと洗濯できたと思ったのにな。』

   ポツン、と誰に言うでもなくトウヤは呟いた。

『体育着だって、洗ったのに。臭かったのかな……ボク』

 クンクン、と襟ぐりを掴んで鼻を寄せた。

『雑巾だって、』

  ちらり、と視線を向けた先には白地のタオルが部屋の隅に畳んで置かれていた。ナントカ工務店、と黒文字で記されたそのタオルは、よく見ると血のような赤い染みが、点々としていた。

『あとちょっとでできるし。大丈夫。大丈夫だよ。』

  強がりのようなその言葉は、誰もいない部屋の中に頼りなく零れた。

『夏休みの……宿題は、』

  テーブルの隅に置かれた原稿用紙の束の一番上。そこには、「わたしの家族」と題名だけが書かれていた。

『―――家族と過ごした夏休み、なんて……書けっこないじゃん。』

 もうろくに、顔も合わせてないんだから。

  それは、小さな、消え入るような声だった。トウヤは、小さな手帳をパラパラとめくって、最後のページに挟まれていた一枚の小さな「写真」を取り出した。そこには、にこにこと笑うお父さんとお母さん、元気いっぱいピースサインをするセイヤとトウヤが、映っていた。

―――そういえば、さっきから全然他の人出てこないし、気配もしないんだけど……?

  眺めた写真を丁寧にまた挟んで、小さなノートを閉じてカバンの底に入れる。カサリ、と底の方で紙の音がした。

『……?』

  首を傾げながら、奥の方に手を入れる。クシャクシャになった紙が出て来た。それが何なのか心当たりがあったのか、トウヤは渋々といったように、その紙のクシャクシャを伸ばして広げた。

「授業参観日と学級懇談会のお知らせ」

  くしゃり、と手にした紙を握ってトウヤはため息を吐いた。



『お母さん、来週の水曜日なんだけどさ、学校に来れたする?先生が、二学期のPTA役員決めがあるから出て欲しいって……言っててさ。』

  扉の前で、トウヤは声を掛けた。控えめで、精一杯優しそうな、それでいてどこか申し訳なさそうな声色だった。

『……誰?』

『透夜だよ、お母さん。』
 
  酔っているのか、お母さんはぼんやりとした口調だった。

『トウヤ……って、だれ?』

  その言葉は、ヒビだらけの心を必死に固めて生きていたトウヤの心を容易くかち割るには、十分だった。

  気づけば強く地を蹴って、走り出していた。玄関に脱ぎっぱなしだった、サイズの一回り小さなスニーカーを突っかけて。

  走って、走って、走る。息を切らして人目も気にせず、走る。トウヤは、透明で長方形のドアを、バン!と荒々しく開けた。中には、人一人入れるスペースがあり、薄緑色の・・・確か、でんわ、とか言う、遠くの人と話せる道具がちょこんと、置かれていた。端っこには、蜘蛛の巣が張られている。ポケットから、小さなメモを取り出す。そこには、数字の羅列が。

  ガチャン、と薄緑のものを手にする。どこに持っていたのか、手の中から茶色い硬貨をとりだしチャリン、と音を立てて入れる。手にした、バネの着いた細長いバナナのようなものを耳に当てながら、カチャン、カチャン、カチャン……と軽い音を立てて、メモも見ずに、数字のボタンを押していく。

  プルルルルルル……

  不安を煽る様な音が響く。トウヤの心臓が、バクンバクンとすぐ耳元で大きく鳴った。

  ガチャッ

『はい、もしもし?透夜か?』

  セイヤの声だった。

『もっ、もしもし!お兄ちゃん!うん、ボクだよ、透夜だよっ……ハハッ』

  トウヤが、その時になってはじめてちゃんと笑った気がした。

『ごめんな、俺今まだ練習中なんだ。大会近くてさ。……電話、急ぎか?』

『あ、そうなんだ。ううん、全然。ただ、元気かなって思って電話しただけなんだ。だから、気にしないで、練習がんばってよ!』

   努めて明るく言うトウヤに、セイヤはもう一度『ごめんな』と言って、プツリと電話は切れた。チャリン、チャリン……とトウヤの握りこぶしから、コインがこぼれ落ちて、くるくると転がった。

 キィ⋯⋯と音を立ててガラス張りの透明な扉を開く。落ちたコインもそのままに、トウヤは満天の星空の下、輝くばかりに綺麗な月夜の下、夜の空を見上げた。トウヤの記憶だからか、どこまでも深く、絶対的な空間の支配者として君臨する夜の闇に、どうしようもなく焦がれた。その闇にくるまって無くなりたいとさえ、思った。



『・・・』

  ベランダに立っている。冷たい夜風が、素足を撫でた。

『明日は、笑ってくれる。もし、明日がダメなら明後日、明明後日⋯⋯いつか、笑って⋯⋯また透夜って、名前を呼んでくれる⋯⋯そう、思ってたのになぁ……』

  もう、明日を迎えるのは無理だよ、お母さん。

  トウヤの白い頬を、透明な涙が一筋零れ落ちた。

  月明りに照らされたその横顔にフッと影が落ち、その影がゆらりと揺らいだ。

 これは、だめだ。

『だめっ‼』

 考えるまえに体が動いていた。

『⋯⋯え?』

 ぶらん、と宙ぶらりんの体が、空中に留まる。

  トウヤが、まるで不思議なものでも見るみたいにわたしを見あげた。

『だめ、だよっ⋯⋯!死んだりなんかしたら、ぜったい⋯⋯ダメ、なんだからっ‼』

  くうっ、と歯を噛みしめ、絶対に離すものかと、その細い腕に爪を立てる。

『⋯⋯なんで⋯⋯死んだら、ダメなの?』

『そんなの⋯⋯そんなのっ、悲しいからに決まってるでしょうっ⋯⋯⁉』

 トウヤの顔に、ぱたたと雫が降った。

 ただっ、と歯を食いしばりながら、足を踏ん張りながら、声を張り上げる。

 この子に、届きますように、と念じながら。

『トウヤが、死んだら⋯⋯セイヤは、あなたのお兄ちゃんはっ!悲しくて生きていけないのっ⋯⋯あなたが死んだら、こんなにも⋯⋯胸が張り裂けるように、痛むの⋯⋯だからっ!』

 ズルッ、と重さに耐えられなくなった体が、空中へと飛んだ。

『生きてよっ!』

 涙が、重力に逆らって夜空へと溶けていく。

  掴んだ腕を離さないように、片方の腕にも手を伸ばす。

『なっ!何で君まで⁉』

 そこでようやく、茶色い瞳を丸くして、驚いた声を上げるトウヤに、言いようのない感情が込み上げた。掴んだ腕をグイ、と思い切り引き寄せて、その額に、ごつん、と自分のおでこをぶつけた。

『ばかっ!』

 涙は止まることを知らず、次々と舞っては、月の明かりに光り輝く。

『あなたは生きなきゃだめ!生きて、幸せにならなきゃ、だめなんだからっ⋯⋯絶対に‼』

 コンクリートの地面がぐんぐんと近づく。

『そうじゃないと、許さないっ!』 

 掴んだ細いその腕に、これでもかとギリッと力を籠める。

『⋯⋯そっか』

 トウヤは、丸くした目を夜空に浮かぶ三日月の様に、優しく細めた。

 コンクリートは、もう、すぐそこだった。



 ザブンッ

 訪れるだろう衝撃に、きつく閉じた目をそっと開けた。

 そこは、柔らかく、穏やかにたゆたう水の中。三途の川の底だった。

  いつの間に、こんな底まで落ちてきたのか。はじめに見たキラキラとした綺麗な水面は面影もなく、ただただ、暗い闇が静かに横たわっていた。水明かりと引き換えに、 息はもう、少しも苦しくなかった。

  視界の端で、セイヤの白シャツがふわりと水中で膨らんだ。スイ、と手足を動かして駆けよれば、白い首に少し赤い痕はあったけれど、しっかりと息をしていることに、安堵した。  

―――トウヤはどこだろう?

 そう思った時だった。どこからか、すすり泣くような声がした。

『⋯⋯ボク、もう少しだけ生きてみればよかった。』

  ゴポポ、と水泡が目の前を泳ぐ。それは少し離れたところの岩陰から、ブクブクと、ここにいるよ、と主張した。スイッと水を掻いて、その岩場をそっと覗いた。

『⋯⋯そうしたら、君みたいな人に見つけてもらえたかもしれない⋯⋯生きていていいよって、言ってもらえたかもしれない。⋯⋯死ななくて、済んだかもしれない。』

 暗鬱とした暗闇の中、トウヤの茶色い目だけが、艶やかに光った。

『⋯⋯生きていいよ、なんてそんなこと、誰かに言われなくたって、トウヤは、生まれた時から、命を持った、その瞬間から⋯⋯生きていていいに決まってる。』

 体育座りをしたその小さな体を、優しく、優しく、壊さないように、そっと抱きしめた。

『⋯⋯ボク、夢があったんだ。』

 トウヤは、まるで内緒話のような声音で打ち明けた。

『仕立て屋さんになりたかったんだ。針と糸を使って、かっこいい服をたくさん作って、刺繍もしたり、ぬいぐるみだって作れちゃうような……何でも作れる、仕立屋さんになりたかったんだ。』

 その言葉に、脳裏に血の染みが付いた作りかけの雑巾が過る。

『フフッ、確かに、ボクはとても、ぶきっちょなんだ。ブスブスッて、何度も手を刺しちゃうし、糸だって真っすぐ縫えない。でも、』

 トウヤはそこで言葉を切って、わたしを真っすぐと見つめた。その薄茶の瞳は、今生まれた子どもみたいな、透明な光で満ちていた。

『生きていたら、なれたかもしれない。不器用だけど、今はまだ、まともにたまどめも出来やしないけど⋯⋯頑張って、何度も、何度も、きれいに出来るまで、たくさん練習したら、なれたかもしれないよね?⋯⋯生きていたら、さあ!何だってなれた!何だって出来た、のに⋯⋯何で、ボクは⋯⋯』

 死んじゃったんだろう。

 その掠れた、深い悲しみを帯びた声に、胸がきつく締められた。

 ぽたり。ぽたり。ぽたり。

 次々と落ち行く、とめどない涙の音。

 川の中だ。水の中で涙なんて、見えないに決まってる。しかも、この暗い中で。でも、確かに泣いているのだという強い確信があった。確信があったからこそ、わたわたと焦る。

―――泣かないで、なんて言えないし⋯⋯でも、黙ってても⋯⋯

 そのとき、ふとポケットにあるものを思い出した。

―――ないよりマシかな?

『⋯⋯あの、あんまりきれいじゃないんだけど。』

  良かったら。

  ポケットからスルリ、と出したのは深い緑色のハンカチ。セイヤが、泣いているわたしに差し出してくれたハンカチだ。

『―――そのハンカチ⋯⋯』

  暗闇に浮かぶ茶色い目が、星の光のようにチカチカと瞬いた。

『昔、お兄ちゃんにあげたやつだ⋯⋯』

  トウヤは、ほら、これ。と弾む声音でハンカチの片隅を指した。そこには、S.Hと言うイニシャルが、紺碧色の糸で、ひょろひょろと力なく飛ぶ鳥の軌跡のように、綴られていた。

  トウヤはそのハンカチをじっと見て、それから目を閉じたままのセイヤの方を見た。

『⋯⋯』

  黙って水を掻き、セイヤの傍に行くその背を、そっと追いかけた。

  トウヤは、しばらくセイヤを眺めた後、その血の滲んだ爪先に、黙って深緑のハンカチをキュッと結んだ。

『―――ねぇ、お兄ちゃんを頼むよ⋯⋯そういえば君、何て名前だっけ。』

  コクン、と一つ頷いて涙声にならないように、口を開いた。

『ルシアよ。ルシア・ポルポロン。』

  ポウッ……ポウッ……

  胸元が、淡く光った。正確には、胸元に下げた指輪の石が光った。

『っ!』

  その淡い光に、気がついた。いや、思い出した。

  この石が、光ることに。

―――もしかしたら、エルが気づいてくれるかもしれない!

『そうよっ!わたしは―――わたしは、ルシア!!』

  カカーッ!と辺りに、眩いばかりの黄金色の光が四方八方に飛び散った。

『うっ……』

   あまりの眩しさに、セイヤが瞼を僅かに震わせて微かに目を開けた。太陽のように温かな熱を放つその光が、辺りの暗闇を照らす。トウヤの輪郭が仄かに、揺れた。

『ボクだって、お兄ちゃんが……大好きだから。』

  バシャン!

  大きな音を立てて、水が割れた。ゴポゴポとたくさんの水泡を生んだそれは、白銀の光が降るように、ザアッとその身の鱗で水を切って、降りて来た。それは、棚引く1本の紐のように、くねりと揺れたり、曲がったりしながら、一心にこちらへと向かってくる。美しい銀色のたてがみが水に靡き、鋭い爪と牙が水中で、鈍く光った。

  それは、1体の美しい銀色の龍だった。

―――エル?

  そう思った時には、グワリ、と大きな口が開いて、わたしをくわえた。とっさに、セイヤに手を伸ばす。

『エル!セイヤもっ!』

  たすけて。

  セイヤを指さし、身振り手振りで必死に伝える。わたしの頭と同じくらいの大きさの瞳がわたしを見て、そしてセイヤを見下ろした。エルは足をヒョイと浮かし、横たうセイヤを爪に引っ掛けるようにして乗せると、グン、と力を入れて、スルスルと滑るように上へ上へと上っていく。

  下を見ると、トウヤのすぐ隣に髪の長い女の人が立っているのに気がついた。女性は小さく会釈をしたかと思うと、そのまま闇に溶けるように淡く揺らめきながら、トウヤと2人、底の方へと連れ立った。

  すぐに、川面の揺らめく光が目に入った。その眩しさに思わず、目を細める。

   ザバァァァッ……!

  水しぶきが勢いよく上がった。仄かな明るさが視界に入り、心底ホッとした。

  もう長いこと、水の底にいた気分だった。けれど、水の中にいたのに、髪や服は一滴の雫も零さず、乾いていた。ただ、骨に染み入るような冷たさだけが残り、あそこが冷たく寒かったことに離れてから気がついた。落っことされないように、エルの鼻にひしとしがみつく。エルにくわえられているお腹部分は、ほんの少し温かくて、その温もりに本当に、本当に、安堵した。

  ざわざわとざわめく声が、耳に入る。

「おいっ!ドラゴンだ!!魔界の魔獣がなぜ……」

「あれが人の子を背に乗せるとはっ!」

「この川を荒らしに来たのではないか……?」

「三途の川を荒らすとは何と奇怪なっ!」

「捕まえてしまえっ!!」

  エルは岸辺を一瞥すると、パシャンッと水面を蹴った。バサァッ!と大きな銀翼が水面に影を落とす。広げた翼を、力強く、バサり、バサりとはためかせたかと思うと、川の中同様、グングングングン、上へと登る。

  エルの瞳と同じくらい、迷いのない真っ直ぐな飛び方が、綺麗だなと思った。下を見ると、もう岸辺の人達は豆粒くらいの大きさになった。

「エル、ありがとう」

   手を伸ばし、鼻先を撫でた。銀色の鱗は、固くひやりと冷たかった。

  エルは黙っていた。

―――もしかして、ドラゴンの姿だと話せないのかな?あ、わたしをくわえているからか。

  ピタリ、と羽を休めエルは空間に留まった。

  そして、繊細なガラス細工でも扱うみたいに、出来るだけ口を動かさずに、ゆっくりと首を傾けて、広げた手のひらの上でそっと口を開いた。ちょこん、とドラゴンの手の上に乗ったわたしは、その時になって初めてエルの本来の姿を真正面から見つめた。ドラゴンは何を考えているのか、ただ黙ったままわたしを見た。その銀色の瞳は、透き通るように綺麗で、自分の顔が鏡のようにキレイに映った。

「―――なぜ、呼ばなかったのです。」

  地を這うように低く、内蔵が轟くような、重い響きを持った、厳かな声だった。

  目の前のドラゴンは、エルは、紛れもなく怒っていた。

「ごめんなさい。」

  その目に映るわたしは、怒られた子どもみたいに、きまり悪そうな顔をしていて、とても小さくちっぽけに見えた。

「私は、そんなに頼りになりませんか。」

  エルが言葉を発する度に、吐く息で前髪がふわりと浮く。

「そんなことない。ただ、助けてくれるあなたの力を、当たり前みたいに使いたくないの。自分で出来ることは、自分で解決したいのよ。」

「―――難儀な御方だ。」

  エルは、小さくため息を吐いた。

「……針千本、飲ます?」

  おそるおそるそう聞くと、エルは先程よりも大きく、深いため息を「ハアァァ……」と、これみよがしに吐いた。

「バカなこと言ってないで、早く帰りますよ。」

  ひょい、と頭の上、角と角の間の所にわたしを置いた。銀色のたてがみが、柔らかく頬を撫でた。

「あれ、セイヤは?」

「ここだ。」

  そのムスッとした声に、後ろを振り返ると背中にしがみつくようにして、セイヤが乗っかっていた。

「セイヤっ!」

  駆け寄ろうとしたら、エルがクネクネと体を左右に揺らした。

「ルシア様、危ないので角をしっかりと掴んでいて下さい。」

「でも、セイヤは、うわっ!」

  グン、と銀翼が大きく風を切った。振り落とされないように、象牙色の立派な角にしがみつく。エルは暗闇を切り裂くように、空の上へ上へと上っていく。

  チラリ、と首だけ後ろを向けて、セイヤの無事を確認する。セイヤは、離れていく川面をじっと見つめていた。

  最後のトウヤの言葉、セイヤには聞こえていただろうか。ここからだと、川はただの暗闇と同化していて、川の底なんて真っ暗で、何も見えなかった。

「……まずいですね。」

  そのとき、エルがボソリと呟いた。

「な、何が?」

 エルの言葉に、一抹の不安が過ぎる。

「空の穴が閉ざされています。」

  エルは上へ上へと上りながらも、険しい顔で上空に広がる暗い空を睨んだ。

「空の穴……?」

「はい、こちらに来るときに通った、外の世界に繋がる穴が上空にあるはずなのですが……イザナミ様が封じてしまわれたのかと。」

「そんなっ!」

 ここまで来て、いったいどうしたら……。

「外界と繋がる穴が一瞬でも見えれば……」

  エルは銀色の双眸鋭く、上空に悠々と横たわる暗闇を仰いだ。

「俺が何とかする。」

  すぐ耳元で声がした。見ると、セイヤはいつの間にかわたしのすぐ隣で、エル同様暗い空を睨んでいた。

「何とかって、どうやって……」

「射る」

  弓に矢を番えて、セイヤは言った。そういえば、ずっと背中に背負っていた。

「射るったって、こんな何も見えない真っ暗闇で、何を射ればいいのかも分からないのに、」

  無茶だよ。

  その一言は、セイヤの瞳に飲み込まされた。

  真っ暗闇の空よりも、純度の高く澄んだ黒い双眼は、煌々と鈍い光を宿しながら、空を見据えていた。目を逸らさずにじっと空を見上げるその横顔に、ただ一言こう聞いた。

「―――出来るの?」

「ああ。」

  セイヤは短くそう答えた。

「エル」

「分かりました。このまま上昇する。―――外すなよ、ニンゲン」

  セイヤは無言でゆっくりと上体を起こし、姿勢を正した。慌てて、その腰を掴みながら支える。

  矢を番えた弓を右手でぐっと引いて、弦をピンと張らせる。鏃を支える左手の人差し指が、緊張感たっぷりに空を指差す。ギリり、と弓を大きくしならせ、眼光鋭く空を見定めた。

  ヒュンッ!

  あ、と思った時にはもう、矢はセイヤの右手を離れていた。一本の矢が、真っ直ぐに風を切り、空を切り、とすり、と暗闇に刺さった。

  ピキリ、と音を立てて空に少しヒビが入り、わずかに光が漏れた。ドラゴンの甲高く、天を突き破るような咆哮と共に、鋭い爪がそのヒビを躊躇なく切り裂いた。
 
  暗闇を照らす陽光に包み込まれ、ようやく朝が来たのかと眩しさに目を閉じた。





























13   夜明け


 チュン、チュン、チチチッ……

 鳥のさえずりに、重いまぶたを持ち上げる。

 あの苔むした丸い井戸が、視界の端に入る。

「―――帰って、これたんだぁ」

   ふかふかの土の匂い、小さくそよぐ草の匂い、それらを鼻いっぱいに吸い込んだ。

「はぁぁぁあ〜〜、帰ってこれたんだぁ!」

  ごろんと地面に寝転んだまま、淡く色を変える空を仰ぐ。空は、薄墨色を水で溶かしていくように、青白く、穏やかに朝の色に染まっていく。

  なんて素敵な明け方。冷たい中に紛れるように、ほんの少しの温かい太陽の光を含む空気に、深呼吸する。

「ルシア様、お怪我はありませんか?」

  サラり、と銀髪が目の前で揺れた。

「エル」

  エルが差し伸べてくれた手を取って、起き上がる。その手は、もう人と変わらなかった。

「大丈夫。セイヤは?」

「ニンゲンなら、まだ寝ております。」

「起きてるよ。」

  セイヤも、井戸のすぐ近くで頭を振りながら、上体を起こしていた。

「セイヤ、大丈夫?」

  わたしの呼び掛けに、セイヤは頭を抑えて言った。

「……まるで、長い夢を見ていたみたいだ。」

  その手に巻かれた深緑のハンカチに、セイヤは大きく目を見開いた。

「これ、君が巻いてくれたの?」

黙って首を横に振る。

「トウヤだよ。」

  わたしの声に、セイヤは微動だにせず手に巻かれたハンカチを、じっと見つめた。その結び目は、不格好で、今にもするりと取れそうだった。

「―――トウヤを思い出せば出すほど、胸は痛み、涙がこぼれるんだ。」

  音もなくセイヤの頬を涙が伝った。

「その度にホッとする。俺は、アイツの死を忘れていない。この苦しみは、胸の痛みは、トウヤがいた証。」

  ぎゅうっと強く胸を押さえて、トウヤは肺を潰したような、苦しげな声で呻くように吐き出した。

「トウヤが死んでも、世界は何も変わらず、何も無かったように朝を迎え、夜になる。人1人飛び降りたって、人は、可哀想に、なんて一言で、トウヤの死を終わらせる。」

  許せなかった、と吐き出すセイヤの声は、今にも切れてしまいそうなこよりのように、掠れた声だった。

「トウヤが死んでも、回る世界が……あの日、ちゃんと話を聞いてやれなかった自分が……トウヤを傷つけた母親が、教師が、周りの全ての人間がっ!憎かった。ぜんぶ、ぜんぶ憎かった。」

  憎い、と言って泣くトウヤの瞳から溢れる涙は、朝の光に反射して、きらりと光った。

「アイツが、笑ってあそこに居たとしても、俺は……アイツの死を受け入れることなんて、できやしない。やっぱり、どうしても、生きていて欲しいと願うんだっ!」

  切実な響きを持って空気を震わせる、その声に、その涙に、思わず。

「いいんじゃないの。」

  そう、言っていた。

「死を受け入れるのは、とても辛いことだと思う。それが、大切な、大好きな人なら、なおさら……」

 だから、と続ける自分の声が震えている。

 もしかしたら、わたしはこれから正しくないことを言うかもしれない。でも今。セイヤの涙を見て、それが間違っているとは、どうしても思えなかった。

「セイヤは、トウヤの死を受け入れなくていい。生き返らせようとしたっていい。」

  その言葉に、セイヤは濡れた瞳を丸くした。艶やかな黒いそれは、まるでビー玉のような光を湛えて、わたしを真っすぐと見た。

「ただ、生きて。」

 自殺は、絶対しちゃだめだ。

  何があっても、自ら死ぬことを選んだらいけない。

  トウヤは、精一杯、必死に生きようとした。生きようとしたからこそ、生きていくことが何よりも、死よりも、辛かったから。だから、飛び降りたんだ。それが、その瞬間の唯一で、最後の救いになったとしても、それは、その刹那の救いにしかならない。

  だって、そうでしょう?

  いつ日の目を見れるかも分からない暗闇の底を、彷徨い続けるなんて。大切な誰かを、家族を悲しませるなんて。そんなこと、救いでも何でもない。ただ、全てに悲しみを与える、ダイナマイトの一撃だ。

 それに一度火を付けたら。

  爆発してしまったら、もう二度と、爆発する前には、どうしたって戻ることは出来ない。どんなに後悔しても、どんなに涙を流しても。失われたものが、帰ることはない。

「たとえ、どんな理由があっても、トウヤを生き返らせるためだとしても、自分の命を犠牲にしようだなんて……もう、二度と考えないで。」

 死者の復活は、禁じられている。

  トウヤは、生き返ることを望まない。

  けれど、それが生きる意味になるのなら。

  たとえ、どんなに禁じられたことだろうと。

 それでセイヤが、生きようと、生きなければと、思ってくれるのなら。

  わたしが、いくらでもいいよって言ってあげるから。

  だから。

「辛くて、しんどくて、死にたくなっても、生きて、生きてよ」

  それは、暗闇を彷徨うトウヤよりも、辛く、苦しいことかもしれない。トウヤの死を、喪失を抱えながら生きていくことは、死ぬことよりも、辛く、淋しい時間かもしれない。でも。

「セイヤが死んだら、悲しいよ。……寂しいよ。」

 足元の草が、朝露に濡れた。

「……何だよ、それ。」

 セイヤが頭を抱えて、低く呟いた。

「なんだよ……それっ……」

 大きな声を上げて、セイヤは泣いた。初めて泣く子供のように、泣くじゃくった。その隣に、そ知らぬふりをして座った。その手を握り、わたしも泣いた。

 いつか、この悲しみが癒える日は、来るのだろうか。

 その日は、来なくてもいい。痛みは、癒えなくてもいい。

 人が、死ねば、悲しいんだ。たとえ、それが、いつかは訪れる、避けられない別れだとしても。

 悲しくていい。泣いたっていい。

 時間が痛みを癒しても、忘却の魔法をかけられても。

「わたしは、忘れない。トウヤのこと。」

 絶対、忘れない。 

 誰に言うでもなく、固い決意の言葉を零す。聞こえたのか、セイヤが繋いだ手をきつく握って来た。



「それでは、どうされますか。」

 ルシア様、とエルがわたしに聞いた。

「わたしね、諦めたくないの。」

 しょぼしょぼとする赤い目を細めて、精一杯ニッと、歯を見せて笑った。

「自分の夢も、居たい場所も。」

  魔力がないから。髪と目の色が違うから。

  でも、わたしはわたしだ。わたしであることに、何も変わらない。

「わたし、魔法使いになりたい。」

 魔力がない。ホウキで簡単に空も飛べない。

 でも、それがどうした。

 飛べなければ、走ればいい。他の方法を探せばいい。

 魔力だけが、全てではない。

 魔力のないことが、魔法使いになりにくい理由にはなっても、完全になれないことを示す原因にはなり得ない。頭に浮かんだのは、トウヤの言葉だった。わたしは、この先も、ずっと彼の言葉を、宝物みたいに抱きしめて進んでいく。生きていく。

「魔力がないなら、それを補うくらいの知識を身に着けたい。いろいろなことを知りたい。そうして、強くて、賢い魔女になりたいの。」

 背の高いエルを見上げる。

 エルは、銀色の瞳を縁取る長いまつげを伏せて、恭しくわたしの前に膝を着いた。

「貴女が望むのならば。貴女が進みたい道ならば。私は、ルシア様と共に。」

 銀色の豊かな髪が、地面にふわりと広がる。

「ですが、ルシア様がこちらにいる以上、悪魔どもはまた、貴女を狙いにやってきます。」

「でも、エルが守ってくれるんでしょう?」

  なら、きっと大丈夫。笑ってエルを見ると、エルは少し複雑そうな顔をした。

「もちろん命を懸けてお守りします。が、もう少し大人しくして下さると助かります。」

  その言葉に、フフッと笑った。

「結局、君は何者なの?」

 セイヤが、跪くエルとわたしを見比べた。

 その時、朝日が昇った。東の空で光り輝くそれは、キラキラと全てのものを照らした。森の木々の葉は若草色に輝き、空は、洗い立てのようにまっさらと、清々しいほど澄んでいた。

 朝の木漏れ日を受けて、わたしの髪がきらきらと輝いた。

「君、髪が……!目も!」

 隣でセイヤが驚いた顔でわたしを見た。

 見ると、肩でさらりと金髪が揺れるのが見えた。パチパチと瞬きをする。きっと、今わたしの瞳の色も金色になっているのだろう。

「わたしは、ルシア。ポルポロンベーカリーの一人娘よ。」

 にっこりと笑って、手を差し出す。

「行くところがないのなら、一緒に来ない?」

「ホント―――君ってお人よしだね。」

 セイヤはそう言って、小さく笑った。



   たとえ、明日太陽が昇らなくても構わない。

 だって、どんな姿でもわたしはわたしだから。

  わたしは、わたしと生きていく。

  だって、わたしは―――

「お~い、ルシア~!」

「はーい!」

―――わたしは、ルシアだから。





☆おわり☆










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