【小説】アオイの目録帳奇譚~誠実なペテン師~
あらすじ
1 はじまりの本
はじまりは、1冊の本だった。
「ん、何だろ?」
学校からのいつもの帰り道。何の変りもないその道の真ん中に、1冊の本が落ちていた。そっとその場にしゃがみ込み、真上からそれを覗き込む。青い布地の表紙に、金糸の糸で次のように綴られていた。
『青表紙本目録帳』
「・・・あお、ひょうしほん、もく、ろくちょう・・・?」
聞いたことのない題名。
と言っても、こんな分厚い難しそうな本、手にしたことがないから分からないのは当たり前だけど。
「誰かの落とし物かなぁ?」
とりあえず拾おうと、手を伸ばしたその時、ゴウッ!と強い風が吹いた。生あたたかいその風は、バララララッ!と分厚いページをいたずらにめくった。本ごと飛ばされそうなその勢いに、慌てて両手を伸ばして本を抑える。
その瞬間、ふわり。
目の前に、チカチカする何かが飛び出した。
『待っていたよ』
「え?」
空耳だろうか。
風の音かもしれない。
顔を上げて声のした方を見ると、一羽の青い蝶がちょこんと鼻にいた。青空のような真っ青な羽をふわり、ひらりと揺らし、優雅に鼻の頭に止まっている。いつの間にか風は止んでいて、その蝶の羽の小さな動きだけが、その場の空気の流れを作っているみたいに思えて、じっと鼻先を見つめる。
あなたは、本の中から出て来たの?
それとも、風で飛ばされてきたの?
蝶が喋るはずなんてない。そう思っていても、頭に浮かんだ質問は喉元まで込み上げる。
「あ、あのっ!」
声に驚いたのか、蝶はふわりとあたしの鼻から飛び立った。そして、ふわり、ひらりとその青い羽を揺らして、飛んでいく。
そうだよね、蝶が喋るわけない。きっと聞き間違いか、風のいたずらだ。
それよりも、このままこの落とし物を道の真ん中に置いておくわけにはいかない。
今度こそ、それを拾ってしゃがんだ膝に乗せる。
「あれ、これ普通の本じゃない・・・」
その本の開いてあったページも、その次のページも、そのまた次のページも。
大きな文字でタイトルらしいものが書かれ、少しの文章が続いたかと思うと、またタイトルらしい文字が現れ、の繰り返し。よく見ると一番上に、ナンバリングもされている。
「もくろくちょう、って何のことだか分からないけど、何かの記録?とかなのかな」
文字も、印刷されたものじゃない。手書きで、不思議な形をしている。ゆるやかで丸いその文字は、どのページでも踊るように、歌うようにどこまでも伸びやかで自由なのに、その文字よりも大半を占める空白が、少し気になった。
「とりあえず、この近くに交番はないし・・・あ、名前とか書いてないかな」
ずり落ちそうになるその本を抱えなおす。表紙と背表紙にはそれらしいものは記されていない。本をひっくり返し、一番後ろのページを開く。
『アオイシズク』
「これは、作者、だよね?」
あの躍るような文字で奥付に記されているのだから、本の持ち主ではなさそう。見た所、本の持ち主の手がかりらしいもの書かれていなかった。
「ん~、どうしよう」
パタン、とその分厚い本を閉じる。
チカチカ、とまた目の前を何かが横切った。
「あれっ!さっきの!」
そう、さっきの突風の時の青い蝶はまだこの辺を飛んでいたようで、ふわりひらりと目の前を舞っていた。
蝶はその鮮やかな青を視界にちらつかせて、しきりに辺りを何度も行ったり来たり。
「ふふ、きれいだなぁ」
何ていう蝶なんだろう。
ふと、その蝶の飛び方が変なのに気が付いた。
あたしの目の前に来ては止まり、また道の先へと飛び、目の前に来る。
―――まるで、こっちだよって誘ってるみたい。
本を抱えて、すっくと立ちあがる。蝶は、じっと空中に停止して、やがてゆらりと飛び出した。それは、道を歩くように、真っすぐと、どこかを目指して。
気が付いた時にはもう、わたしの足はその青い羽の、美しい蝶を追っていた。
カーカーカーカー。
すぐ近くで何羽ものカラスの鳴き声がした。
次いで、バサバササッ!と木々を揺らし飛び立つ羽音。
蝶を追っていくだなんてバカみたいって思った?
ところがどっこい、ある場所にちゃ~んと辿り着いてしまった。
そう、とあるお屋敷の前に。
それは、長く、細い坂道の向こう。
うっそうとしげる森の木々に隠れるように、ひっそりと建つ、一軒の大きなお屋敷。
『黒烏屋敷』
知る人ぞ知る、心霊スポット。いや、うちの学校じゃ知らない人はいないってくらい有名。
幽霊とかオバケとか、あんまり得意じゃないあたしの耳にも入るくらい、ホットなお化け屋敷だ。クラスの男子がよく度胸試しだ~とか言って、入って行くのを何度も見かけた。
わたしは!絶対!何が!何でも!入りたくなかったけど!
―――このちょうちょさえ、こんなとこに飛んでこなかったら!
恨めしさに、目の前を悠々と羽ばたく蝶をジロリと睨む。
やっぱり、蝶を追いかけて行くなんてバカだったんだ。
だって、ここには誰も
「あおあらし」
凛とした、声だった。
その声は、木々のざわめきも、遠くで聞こえるカラスの声も、何もかもの音の中、凛と透き通った春風のように、真っすぐと耳に届いた。
声がした方を、おそるおそる見上げる。
ちょうど夕日が差し、まぶしさに思わず手をかざす。
バサリ、バサリ、と烏が羽ばたく音がした。その音は、烏にしてはあまりにもゆっくりで、指の隙間からそっと目を凝らす。
夕陽の淡い橙色の中、真っ白な鳥が、バサリと大きな翼を広げ、優雅に羽を落ち着けたところだった。
―――白い・・・カラス
白く尖ったくちばしがあたしの方に向く。その上にある大きなガラス玉のような目は、右が赤く、左が青かった。
「吹きたる五月 新緑の 忘れ形見の 本ぞめくれり」
遠くで聞こえる烏の鳴き声が、どこか別の世界のものなんじゃないかと思うくらいの、静寂が漂う。
ドキリとした。
昼と夜のはざまの、夕闇の中。
バルコニーに佇んでいたのは、白い着物を着た、白髪の男の人だった。
白いカラスを肩に乗せ、じっとこちらを見ている。
その静かな視線に、自ずと息を飲んだ。
いつからそこにいたんだろう。
いつから見られていたんだろう。
慣れて来た目を凝らして、あたしも負けじと、じっとバルコニーを見返す。
夕暮れの中、真っ白な不思議なカラスを肩に乗せた白髪の男の影は、怖いくらい絵になっていて。
・・・怖いくらい、浮世離れしていた。
「やあ、こんにちは。お嬢さん」
沈黙を破ったのは、向こうだった。
「・・・」
にこりとした笑顔に、胡散臭さを覚え、ギュッとスカートの裾を握る。
―――幽霊かもしれない・・・ここは、慎重にいかないと!
気を引き締めた矢先に、チーン!という気の抜けた音がした。
白髪の男の人は、音のした方を少し見遣った。そして、また
あたしを見て、にこやかに言った。
「ご一緒に、お茶でもどうですか」
「・・・」
「今日のおやつはイチゴのミルフィーユです。そこの扉からどうぞお入りください」
返事もしないうちにお茶をすることになっていて、慌てて
「わたし、帰ります!」
と声を張り上げた。けれどもう、その人はくるりと背を向けて中に入ってしまった。
手持ち無沙汰に拾った本を掲げ、うろうろとその場で二度三度行ったり来たりを繰り返していたら、ぐぅぅぅ…とお夕飯前のお腹が力なく鳴った。
「・・・おやつ食べてすぐ帰るから!うん!」
誰に言うでもなく、力強く宣言をしてから、扉の前まで進み行く。
実際、このお屋敷の中がどうなっているのか、単純に気にもなっていた。屋敷のレンガ造り壁はくるくるとどこまでも這っていく、緑のツタの遊び場になってはいたけれど、お屋敷自体に、おどろおどろしい雰囲気は少しも感じなかった。
「むしろ・・・かわいい?」
ポツン、と思わずこぼれた感想にダメ押しの背を押され、年季の入ったドアノブをギィ、と手前に引いた。
ボーン、ボーン、ボーン。
大きな振り子時計が、三時を告げる。
「すごい・・・大きなのっぽの古時計だ・・・!」
頭の中でお馴染みのメロディーが鳴り響く。
「紅茶、飲めますか?」
「の、飲めます!」
緊張に裏返った声を特に気にする素振りも見せず、白髪のその人は、鼻歌交じりにお茶の準備にかかっていた。
―――紅茶だって!ひゃ〜、おっとな〜!
もちろん、飲んだことなんて一度もない。友達が来た時は、うちはたいてい麦茶かポンジュースだ。
待っている間、じっくり洋館の中を見ておこうと天井を仰ぐ。
これまた大きなシャンデリアが。ここで舞踏会が開けてしまいそうだなんて思った。
大きな格子窓を縁取るようにゆったりとしたカーテンがかけられている。その窓から指す夕陽が、ほこり被った大きな暖炉を優しく照らす。暖炉の上の鏡の前で、ガラス製の天使の置物が、にこりとこちらに微笑んだ気がした。
「さあ、お茶が入りましたよ」
「ぅわっ!あ、はい!」
ふかふかなソファーに危うく沈み込みそうになって、慌てて浅く座り、背筋を伸ばす。
コトン、と小さな音を立てて目の前に置かれた銀のおぼん。その上には、外国の映画で見るような本物のティーセット一式がずらりと並んでいて、思わず息を飲んだ。
「どうぞ」
音もなく白いテーブルクロスの上に置かれたのは、新緑の葉で縁取られた丸いお皿の上にたたずむ四角い長方形のケーキ。
そのてっぺんに王冠のように堂々と乗せられた、ツヤツヤとした真っ赤なイチゴの、何て美味しそうなこと!
辺りに広がる、サクサクと香ばしそうな匂い、甘い生クリームの匂い、温かで嗅いだことのないお茶の不思議な香りに、思わずスウッと息を深く吸い込んだ。
「お口に合うといいのですが」
カチャカチャと小さな入れ物やフォークを並べて準備してくれているその手が止まるのを、心の中でそわそわと落ち着きなく待っていた。
「さ、召し上がれ」
カタン、と目の前にお皿と同じ葉っぱ模様の緑色のティーカップが置かれる。
タプン、とカップの中で明るい色の艶やかな飲み物が湯気を立てて揺れていた。
用意を終え、少し遠く離れた向こう側の席に腰を落ち着けたお兄さんは、ティーカップに口をつけながら、満足気な顔で呟いた。
「いい香りだ」
「いただきます」
小さく手を合わせて、そっとティーカップを両手で持ち上げる。
こくり、と一口。
―――に、にが、い⁈
舌がざわざわとするけれど、吐き出すわけにもいかないので、ごくん、と飲み込む。お兄さんは、何とも言えない苦い顔をしたあたしには気づかないようで、
「ミルフィーユの方も、イチゴソースも手作りしてみたので、よろしければかけて召し上がって下さい」
なんて、優雅に紅茶をすすりながら言った。
見ると、透明なガラスの小さなポットに、真っ赤なイチゴソースがたぷんと入っている。
「い、いただきます」
まずは、そのまま。サクッとフォークをミルフィーユに入れる。
「お、おいしい~!ケーキ屋さんで買うのみたい!」
にがにがとした舌の上に、甘い生クリームとカスタードクリームが優しいハーモニーを奏でた。
「それはよかったです」
イチゴソースも、甘酸っぱく、ケーキをしっかりと引き立てていた。
「―――それにしても、お嬢さんが迷わずに来てくれてよかったです」
お兄さんが言った。
「え?」
「ステインに褒美をあげないといけませんね」
「ステイン?」
「ああ、私の烏です」
呼ばれたのが分かったのか、どこからともなく先ほどの白いカラスがバサバサとその肩に乗った。
「ステインに本を拾った人物をここまで案内するように頼んだんです。彼、賢いから」
「え、わたしは、」
「カア~カア~ア~」
突然、甘えるように喉を鳴らし、お兄さんに頭をこすりつけるその白いカラスの目は、じっと観察でもするみたいに、わたしを見ていた。
青い蝶を追いかけて来たことは、言わない方がいいのかもしれない。
何となく、そう思った。
―――それに、蝶を追いかけて来たなんて、信じてもらえないかもしれないし・・・。
「どうした、ステイン。そんな子どもみたいに甘えて」
細長い指が、その首元を優しく撫でた。
白いカラスに、白い髪、白い着物。
白に囲まれたその人は、今まで見たこともないくらい風変わりだけれども、今まで会った誰よりも、整った顔をしていると、微かな夕陽が差し込むなか思った。
涼し気な切れ長の目が、カラスからスッとあたしを見た。
「ああ、すみません。そういえば、自己紹介がまだでしたね」
彼は、一呼吸置くと改まった口調でこう言った。
「私は、天宮穹。小説家です」
「わ、わたし、蒼井花菜です」
釣られるように自己紹介をする。
―――あまみや、そら、さん・・・
きれいな名前の響き。
「蒼井花菜さん、まずは本を拾って下さり、ありがとうございました」
深々と頭を下げられて、慌てる。
「い、いえ!そんな」
あ、まだ渡していなかったと思い出し、脇に置いた本を手に取り、渡そうと立ち上がる。
「あなたにお願いがあります」
「え?」
「本を探して欲しいのです」
じっとこちらを真剣に見つめるその顔に、たじろぐ。
「えっと・・・?」
「すみません、順を追ってお話します。どうぞお掛けください」
渡そうと手にした本をとりあえず抱え直し、椅子に座る。
「あなたが拾ってくれたその本は、『青表紙本目録帳』。青表紙本というシリーズの本の一覧を記したものです」
本の一覧・・・。
「そして、青表紙本というのは・・・情念本。まあ、簡単に言うと強い感情が込められた本たちなのですが、これがまたまあ、めんどくさい、いや複雑な性質を持っていて」
そこで、天宮さんは喉が渇いたのか紅茶を一口、口に含んで続けた。
「人を乗っ取るんです」
「ひ、人を⁉」
本が?
「青表紙本にもいろいろあって、その本に触れた人間と波長の合った者、または単純に気に入った人間の思考に入り込み、人格を乗っ取るというか、成り代わろうとするというか」
まあ、私も聞いた話なので何とも言えないのですが、と後付けして天宮さんは言った。
「力の強い本は、本だけで人にもなれると、まあリアル擬人化ですね。アハハ」
付け足しの様に微かに笑うその声は、力がなかった。
「とまあ、どこまで本当かは分からないのですが、『青表紙本』が人に影響を及ぼす本だ、ということは確からしいのです」
いきなり始まったよく分からない話に付いていけず、とりあえず目の前のミルフィーユをさくりと口に含む。
「そして、その本はこの屋敷の書斎にあったのですが、まあ手違いで手放してしまって。それを、あなたに探して欲しいのです」
「な、なんでわたし・・・?」
「・・・その目録帳の最初のページ、開いてみてください」
「・・・?」
言われた通りに、膝の上にその本を置いて開く。
「青表紙本の第一巻は、何というタイトルの本ですか?」
ぺらり、ぺらりとめくって、第一巻と記されたページを見つける。
「えっと、『誠実なペテン師』・・・?」
「・・・やっぱり、君か」
天宮さんは、小さく呟いた。
「え?」
君かって、どういう意味?
それを聞く前に、天宮さんはにこりと笑みを深めて笑った。
「それは、あなたにしか読めない本です」
「え、これ、確かに読みにくい字だけど」
読めないってことはないんじゃ・・・
「他の人間には、ただの落書きにしか見えないと思います。現に、私にもその本の背表紙に何が書いてあるのさえ分からないんです」
そんなバカな。
踊るような文字は、読みにくさはあるけれど、きちんと読める。
背表紙にだって、表紙にだって、金糸の糸でこれでもかときちんと縫い付けられている。
「この青表紙本の作者は、アオイシズク。あなたの親族か、それともただ単に本が名前に呼応したか・・・まあ真相は分かりませんが、あなたは唯一その目録帳が読める」
わたしにしか・・・読めない本。
「お願いします。本を一緒に探してください。蒼井さんのお時間が空いたときでいいので」
真剣な声に、目に、気が付いたら
「はい」
そう頷いてしまっていた。
2 なんで?
トン、トン、トン。
じゃがいも、ニンジン、タマネギ、豚こま。
包丁で切ったりするのは苦手だけれど、一つ一つの食材が合わさって美味しいものになるのはうれしいし、楽しい。
「ぐつ、ぐつ、ぐつ」
おたま片手に、鼻歌なんか歌ったりして。
アクをおたまですくいながら、何となく、今日の国語の時間を思い出した。
「連休も開け、もうすぐ母の日がやってきますね」
国語の先生が、白いチョークで黒板にカツカツと『母の日』と書いた。
「みなさんは普段、お母さんにありがとう、と感謝の気持ちを伝えていますか」
今日は、ありがとうの気持ちを込めてお母さんに手紙を書きましょう、と先生がにこやかに言った。
「え~、手紙かあ」
「どんなこと書けばいいんだろ?」
途端にざわつく教室のざわめきを聞きながら、ふむ、と前から回された便せんを見つめる。
―――おばあちゃんに書こうっと。
「お母さんに手紙なんて、恥ずかしくて書けないよねぇ~普段、口うるさいだけだし。かなちゃんは、何て書くー?」
前の席の子が、くるりとこちらを振り返って言った。
あたしが何か言う前に、隣の列の男子が言った。
「お前知らねえの?花菜んち、ばあちゃんと弟の三人家族だぜ」
言葉の外に、母ちゃんいねぇんだぞ、とほのめかしていて、何かを察したのか女の子の顔色が途端にサッと青くなる。
「そっ、そうだったの。ごめんね」
前の席の子は気まずそうに俯いて、またくるりと前を向いてしまった。
大丈夫だよ、全然。だから、気にしないで。
そう声を掛ける前に、もう他の子と喋り始めたその子から目を逸らし、隣を見る。
「ねえ、余計なこと言わなくていいから」
「なんだよ、人が親切に言ってやったのに」
「それ、親切じゃなくておせっかい。第一、一緒に暮らしてないだけで、手紙だって書こうと思えば書けるんだから。わざわざ、気まずくなるようなこと、言わないでよ」
そう、別に死んじゃったわけじゃない。
お父さんも、お母さんも、ちゃんと生きている。
ただ、一緒に暮らしていないだけで。
「ふうん?普段会ってないヤツに、ありがとうって言えるんだ?」
「・・・言えるよ?風斗こそ、普段一緒にいるお母さんにありがとう、なんて言えてないんじゃないの?」
「・・・だから手紙書くんだろ」
少し決まり悪そうに便せんに向かって、何やらガリガリと鉛筆を走らせるその横顔に、ため息を一つ吐く。
―――幼なじみって、ホント・・・
確かにあたしの家にはお母さんがいないけど、別に言わなければ分からない。
それなら、知られない方がいい。話だって適当に合わせればいいんだから。
―――そういえば、結局手紙、授業中に書けなかったなぁ・・・。
宿題として持って帰って来た、クリアファイルの中の便せんを思い出す。
―――めんどくさいな・・・。
どう書いても、誰に書いても。
何か言い訳のように説明しないといけない気がして、面倒くさい。
「―――ん!姉ちゃん!焦げてるって!ナベ‼」
「ん?」
その声に、ふと手元を見る。いや、手元を見るまでもなくモクモクと灰色の煙がなべ底から容赦なく上がっていた。
「いやあああ!」
カチッ!
コンロの火と慌てて消す。
「換気扇も付け忘れてるし・・・ホント、姉ちゃんは~」
隣で背伸びしながら換気扇を付けながら、盛大にため息をこぼすのは、二歳下の弟・葉太。小二ながら、なかなかどうして、しっかりしている。
いつの間にか、あたしの手からするりとおたまを取って、鍋をかき混ぜ始めた葉太に、ふと聞いてみたくなった。
「ねえ、よーた」
「なに?」
「よーたは、母の日の手紙・・・書くとしたら、誰に書く?」
一瞬、ちらりとあたしの顔を見て、葉太はふーん、といったように、小さく息を吐いた。
「もしかして、昨日帰りがおそかったの、そのことでなやんでたのか?」
昨日、慌てて帰ったころにはもう、空には一番星がキラキラ昇り、玄関にはカンカンになったおばあちゃんが待っていた。
「いや、昨日のは・・・」
「とにかく!あんま、ばあちゃん心配さすようなこと、すんなよな。おかげで昨日は、町内フルマラソン並みに走らされてたんだぞ」
「ごめん、気をつけるよ」
しんみりと返事をしたあたしを、おたま片手にチラリと見て、葉太は「カレールウ取って」と一言言った。
「ん」
シンクの端に出して置いた長方形の箱から、カレールウを半分取り出して、パキッと割る。
それを受け取って、鍋の中に割り入れて、溶かしていく。途端に、カレーのいい匂いがキッチンに漂う。
「・・・さっきの、話だけどさ、」
「ん?」
「・・・姉ちゃん」
言いにくそうに、口をもごもごとして、小さな声で葉太は呟いた。
「おれなら、姉ちゃんに書く」
その真っ赤な耳に、赤い頬に、何かあたたかなものが込み上げてくるのを感じた。
「よ、ようた~~~!」
ぎゅう!っとその首に両腕を回す。
「ちょっと!」
うっとうしい!と言わんばかりに、空いた手で空を切るように払われる。
「つれないなあ」
「あやっ、火!火!」
後ろからおばあちゃんの慌てた声がして、ふと鍋を見ると、ブクブク沸騰している!
シュンッ!と後ろから素早く伸びた手が、カチッ!とつまみを回した。
「あぃ~、しかたね。まんず、料理中によそ見したらあぶねっていつも言ってるべぇ~」
すぐ後ろに、昼寝から起きたおばあちゃんが、シャキッとした顔で立っていた。
「おばあちゃん」
「葉太、あどはばあちゃんやるから。かーな、暇なら回覧板お隣さ持ってってけれ」
「はーい」
お玉をクルクルッと回して、鍋をかき混ぜるその背中に間延びした返事をする。
「あ、お隣の渡辺さんちさ、玄関のにある漬物持ってってけれな~前に貰った東京のお土産のお礼です~って」
「は~い」
玄関に置いてあった紙袋と回覧板を持って、家を出た。
ピーンポーン
「はあい」
明るい返事の後、ガチャリと扉が勢いよく開いた。
「あらっ!蒼井さんとこの花菜ちゃん!まあっ!お漬物~⁈」
こちらが何か言う前に、渡辺さん家のおばさんは透視能力でもあるのか、メガネの奥の目をピーンと光らせて、紙袋の中身をチェック済み。
「あ、あの前もらったお菓子、おいしかったです。ありがとうございましたって、おばあちゃんが、」
言っていました、という前に「あら~いいのよぉ!」という声が被さる。
「それより、昨日帰り遅かったみたいじゃない。おばあちゃん、心配してこの辺りうろうろしてたわよ」
「・・・」
「あまり、心配かけちゃダメよ~何か困ったこととかあったら、おばちゃんにいつでも言っていいからね。あ、これあげる。葉太君と分けてな」
おばさんはどこから出したのか、二つの白いおまんじゅうをあたしの手に握らせた。
お礼を言って、渡辺さん家を出た。
―――あたし、ちゃんと笑えてたかな。
「だから、可哀想な子なのよ」
開けっ放しの窓から聞こえた、おばさんの声。
「あの子がまだ小さいころに、父親も母親も出て行っちゃって。本当に、最近の」
タッ、と駆け出した。
夕方の町は、どこの家もおいしそうな匂いの湯気を立たせていて。
いつもならその空気を思う存分吸い込んで、あそこの家は肉じゃが、あそこはカレー、なんて当てながら歩く夕方の道。
今は、そんな気分になれなかった。
―――なんでだろ
夕暮れに染まる空が、じわりと滲む。
ぬるい風が頬を撫でる。
―――なんで、あたしはかわいそうなんだろう?
気の毒そうな顔で、かわいそうだと言われること。
気まずそうに謝られること。
どうしたって「かわいそう」だと見られる。
もらったおまんじゅうの透明なフィルムをめくる。
白い薄皮にあんこがたっぷりの、よく知るあの味。
ぱくり、とおまんじゅうにかぶりつく。
「おいしい」
甘いあんこは、やさしくて。
かわいそうだと、気の毒がる人は、きっとみんな優しい人。
優しいから、同情する。
自分が持っている当たり前を持っていないから。
かわいそうって。
その言葉が、一番胸を刺すのに。
その言葉が、あたしをみじめにさせるのに。
夕焼けが、溶けた目玉焼きの黄身みたいに、どろりと地平線に沈む。それを待っていたかのように、うっすらと暗くなる空から逃げ出すように、地面を蹴った。
「姉ちゃん、おそかったじゃん」
「いや~、渡辺さん家のおばさん、話長くてさ」
スニーカーを脱ぎながら、葉太に言う。
「ふーん?」
「あ、そだ。おみやげ」
もらったもう一個のおまんじゅうを、葉太に渡す。
「あ、吹雪まんじゅうじゃん」
やりい!と喜んですぐにでも食べようとする葉太に、
「よーたー、ライスカレーのさじっこ並べてけれ~」
タイミングよくおばあちゃんのが、玄関にひょこっと顔を出した。
ちぇっ、と少し残念そうに葉太がスプーンを準備しに行く。
「かなおかえりー、手洗ってけ~ごはん出来てるよー」
「ただいま!」
にこりと笑って言った。
3 16時に消える?
昼休みの図書室は、基本的に図書委員が一人か二人カウンターにいるくらいで、他に人はほぼいない。
それもそのはず。この学校の図書室は、旧校舎の二階の渡り廊下の奥にある。
来にくいうえに、ホコリ被った本ばかり。
「なあ、知ってるか?16時のあのウワサ」
カウンターで、ギイッと椅子を鳴らして図書委員がクルクル回り始めた。
「・・・」
―――青い表紙なら、見つけやすいと思うんだけどなあ。目立つし。
本棚の端から人差し指で空を切るように、一冊一冊確認していく。
―――誠実なペテン師、せ、せ・・・あ~もう、何であいうえお順じゃないの~!
「―――なんでも、人が消えるらしいぜ」
「はい?」
思わず、カウンターを見る。
クルクル椅子を回すのをピタッと止めて、図書委員の風斗がこちらを見ていた。
「人が、消える?」
「ああ、16時に旧校舎の渡り廊下を歩く生徒が次々と」
「そっ!そんなのただのデタラメなウワサじゃない。それが本当なら今頃大騒ぎになっているはずだし」
風斗に背を向けて、本棚に向き直る。
「それがさあ、30分以内にはいなくなったヤツはみんな戻ってくんだよ。変な話だろ?」
ギイッ!とまた勢いよく椅子を回して、風斗は面白そうに笑った。
「そうね~」
相槌もそこそこに、青い背表紙を探す。
「なんだよ。お前、本なんか読まないだろ?昔から、絵の多いやつしか」
「探し物です~」
ムッとしたような顔をして、それからバカにするようにハッ!と鼻で笑われる。
本当にこいつは。
「探し物?なんだよ」
「青い本なんだけど、」
その時ちょうど、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「やばっ、次移動だ!」
「理科室だっけ?」
結局、青表紙本は見つけられなかった。
「あ、蒼井~弟どこにいるか知らないかー?」
放課後、葉太の担任の先生に廊下で声を掛けられた。
「見てないですけど・・・どうかしたんですか?」
「あいつ、今日日直のくせに、どこにもいないんだよ。まあ、荷物はあるから校内にはいると思うんだけど」
トントン、と学級名簿を肩に置いて、先生は腕時計を見て顔を顰めた。
「俺、今日これから職員会議だからもう行かないといけないんだよなあ~まあ、見つけたら日誌出しとけ~って言っといてくれ」
わかりました、と先生の背中に返事をして、おかしい、と思った。
―――葉太、今日はおばあちゃんと買い物行くから早く帰るって朝言ってた。それに、日誌サボるなんて、後々面倒になることしたりしない。
何かあった・・・?
不安になる気持ちを押し隠すように、葉太のクラスの教室、廊下、体育館、下駄箱、音楽室に美術室。学校のありとあらゆる教室の扉を開けた。
どこにも、葉太はいなかった。
ふと、昼休みの風斗の話を思い出した。
『―――なんでも、人が消えるらしいぜ』
小さな胸騒ぎに突き動かされるように、わたしの足は自分の教室に向かって駆け出していた。
「風斗!」
ガラッ!と大きな音を立てて開けた教室には、掃除を終えたクラスメートが何人か残っていて、一斉に注目を浴びた。その中に風斗を見つけた。
「んッ⁉なんだよ、どうしたんだよ、そんな息切らして」
「ひるっ、やすみの、話!人が、消えるとか、言ってたやつっ・・・!」
「ああ、あれ?ただのウワサだって」
「ちがくてっ!詳しく、教えて欲しいの!」
葉太が、何かに巻き込まれているかもしれない。
わたしの早とちりなら、それでいい。
でも、本当にどこかで困っていたら?苦しんでいたら?助けを求めていたら?
そんな想像ばかりして、落ち着かない。
「つっても、そのウワサって、タカシから聞いたんじゃなかったっけ?」
なあ?と風斗が隣にいる眼鏡の子に聞いた。
「え~、でも僕もそんな詳しいことは知らないよ。ただ、3組の奴が神隠しにあったって騒いでただけで」
「3組の奴ってだれ!」
「え、えっと、たしか、ケイタだったかな」
「3組のケイタね!」
3組のケイタを探しに、教室を飛び出した。
今日は、夜から雨が降るって天気予報で言っていた。
けれど、もうザーザーと降って来るなんて聞いてない。
ただでさえ、足が遅くて走るのは苦手なのに。
頬に張り付く前髪を耳にかけ、雨の中水たまりを蹴飛ばしながら走る。
靴下が、ぐしょぐしょで気持ち悪い。
けれど、葉太が今どこにいるのか分からないことの方が気持ち悪かった。
「っ!」
コンコンコン!
辿り着いた黒烏邸の立派なドアノックを思い切り鳴らす。
真鍮のライオンの険しい顔。
初めて来たときは怖いと思って敬遠がちに見た。
けれど、今はそんなことを気にしている余裕なんてなかった。
「天宮さん!蒼井です!蒼井花菜!」
「はい、はい、今開けますよ」
中から声がしてすぐに、扉が内側に開けられた。
「どうしたんです、そんなにずぶ濡れで」
「大変なの!葉太が、弟が!もしかしたら、神隠しにあったかもしれなくて!それが」
「まあ、ここじゃなんですから。中へどうぞ。ちょうど、お茶の時間だったんです」
天宮さんは、にこやかに言ってわたしを部屋に通した。
―――いや、今はお茶とか飲んでる場合じゃないっ!
天宮さんは、「よかったら、どうぞ」と大きなバスタオルをどこからか持って来てくれた。
ありがたくそれを使わせてもらって、頭をごしごし拭く。
「ちょうどあなたにお渡ししたいものがあったので、今日は書斎へどうぞ」
天宮さんの後に続くと、校長室のような観音開きの大きな扉が見えて来た。
「どうぞ」
両手でその茶の扉を開けて、天宮さんは中へ促した。
書斎は天井が高く、その高い天井までぎっしりと、壁一面本の背表紙が飾っていた。
「すごい・・・」
長い梯子がそこかしこに立て掛けられ、四角い小さな天窓が何個かあって、そこから紐が垂れ下がっている。部屋の隅のスペースには、座り心地の良さそうな濃い青の一人掛けソファーと小さなガラスのテーブル。その上には、湯気の立ったティーカップ。そして、ガラスで出来たチェスとチェス盤。白の駒が、まるでダイヤのようにきらりと光った。
思わず見とれるくらい、異世界な空間に息を飲んだ。
コポコポとカップに注がれる紅茶の音に、ふわりと漂う湯気に、ハッとする。
いつの間にか天宮さんがお茶の用意をして来てくれたみたいだった。
「さあ座って・・・って椅子が無かったね」
今持ってくるよ、とどこかへ行こうとする天宮さんに「大丈夫です!」と強く引き留める。
「この小さいので大丈夫ですから!」
「小さいのって、それオットマンなんだけれども。まあ、君がいいならいいけれど」
青いソファーの近くにあった小さなソファーにとりあえず腰掛ける。
早く話さないと!
「あ、そうだ。確か、昨日焼いたクッキーの残りがまだ」
「あ、ほんと、おかまいなくっ!」
ばしゃっ!
「わっ、え、ご、ごめんなさっ!」
勢いよく立った拍子に、手前に置かれたティーカップの中身をぶちまけてしまった。ガラスのテーブルに赤茶の液体が容赦なく広がっていく。
「大丈夫ですから、落ち着いて」
天宮さんの少し怒ったような声に、身が強張った。
「ほ、ほんとに、ごめんなさい、わたし、」
片付けなければと倒れたティーカップに触れ、その熱さに思わず
「熱っ!」
手を離してしまった。
パリーン
・・・やってしまった。
ふかふかの絨毯にじわりと広がる染みに、散らばる破片。
沈黙に、冷や汗が止まらない。
「ほ、ほんとに」
「あああああああああ!僕のロイヤルコペンハーゲンッッッッッ!」
「ご、ごめんなさい。べ、弁償します・・・!」
「ポーセリンが織りなす美しく繊細なフルレース、ハンドルに施された顔はバロック様式のお茶目な名残・・・カップに合わせた六角形のソーサー、美しく格式高いカップが・・・こっっっっ!ぱみじんにっっっっっ!」
天宮さんは、つらつらと口早に呪文のような言葉を並べ、ジッと床に散らばる破片を見つめた。
「ほ、本当にごめんなさい・・・」
「・・・形あるものは皆いつか壊れる」
フッ、と笑っていない目で笑って、スックとその場を立つ。
「手、冷やした方がいい」
台所へと促され、割れたカップを気にしながらも天宮さんの後に続く。書斎を出て、いくつか角を曲がり、キッチンへと辿り着く。
「ここで」
天宮さんが水道の蛇口をひねって、水を出してくれた。
軽く袖をまくって、流水に手をさらす。
「しばらくそうして冷やしておいで」
―――お、お、怒ってる・・・!
当たり前だ。
きっととても大切にしていた、高価なものなのだろう。
温和で優しそうな天宮さんの冷え冷えとした声に、心臓がバクバクと跳ねる。
―――どうしよう・・・弁償するって言ったけど、いくらするんだろう・・・ああ!こんなことになるなら、お年玉全部使うんじゃなかったっ!
計画性のない自分に腹を立てても、使い切ってしまったお年玉は戻って来ない。
「タオルはこれを。あと、僕がいいって言うまでそこにいて」
「あ、ありがとうございます!」
わざわざきれいな白いタオルをまた、どこからか出して来てくれた。
水道の水の冷たさで手の感覚がだいぶ無くなってきたけれど、頭も冷えて来た。
―――ここでバタバタ焦るより、落ち着いて今の状況を確認しないと。まだ、本の仕業って決まったわけじゃないんだし。
言いようのない不安は、まだ胸の内を占めている。
雨に濡れた靴下も、シャツも、乾かずに肌にまとわりつく。
ドクドクと脈打つ心臓の音を落ち着かせるように、ぎゅっとタオルを掴んだ。
「―――それは、おそらく青表紙本の仕業だね。しかも、勝負師の本だ」
「勝負師の本?」
オウム返しに訊ねれば、コクンと天宮さんは頷いた。
「今のその三組のケイタ君とやらの話を聞いた限りね」
ズズッと、天宮さんは紅茶を啜った。
『放課後、旧校舎の廊下を一人で歩いていると、見たことない男子生徒が突然話しかけてくる。『勝負しよう』って。そんで、みんな勝負するんだけど、みんな負けて帰される。そいつがいなくなっているのは、16時から16時半の下校の音楽が流れるまで。30分間の神隠しってウワサだよ』
「君が今探してる『誠実なペテン師』の主人公が、現実世界に表出しているって考えるのがセオリーだね」
「でも、その男子生徒の顔とか、何の勝負をしたかとかはよく分からないみたいで、学校内でたまたま見つからない生徒がいたのを面白がって誰かが作ったウワサ話だろうって、三組の」
「そのケイタ君の言う通り、そう考えるのは妥当だ。本の件がなかったら僕でもそう思う。ただのウワサだって。でも、ウワサにしてはあまりにも具体的だ。旧校舎の廊下、十六時から十六時半、男子生徒、勝負・・・。短期間で広まったウワサにしては、具体的かつ普通過ぎる。」
「普通・・・?」
「ウワサに尾ひれが付いている雰囲気が感じられない。小学校に広まる怪談話っぽくないんだよ、全体的にね。誰かが意図的に正しい情報を流しているとしか思えない」
「あ、天宮さんって探偵か何か何ですか?」
顎に手を当てて考える姿があまりにも様になっていて、つい聞いてしまった。
「探偵ではないよ。ミステリ作家ではあるけどね」
「ミステリ、作家!」
よく分からないけど、何だかすごい!
「けれど、僕も確実なことは分からない。何せ、青表紙本を読んだことがないからね。人に聞いた話しか知らないから、どこまで確かか分からない」
天宮さんはそう言って肩をすくめた。
「じゃあ、その悪さをする本を捕まえる方法とかって・・・」
「さっぱりだね」
「っ!」
この人、なんてはた迷惑なものを手放したの!
「ただ」
コトン、と天宮さんが一本の黒いペンをガラスのテーブルの上に置いた。
「これは?」
「青表紙本が置かれていた本棚に一緒に置いてあった万年筆。おそらく、アオイシズクが執筆の際に使用したもの。今、目録帳は?」
「あ、家に」
「・・・まあ、目録帳のページのインクと比べれば一目瞭然だろうけど」
キュポン、と軽い音を立てて万年筆の蓋を回し開けた。
シンプルな黒を基にして、金色の縁取りがよく映えた、いかにも万年筆!という感じの万年筆だった。
「一般人の理解を超えている青表紙本の性質がどういったもので、どのように対処すべきか、僕には分からない。けれど、作家として気になる点を挙げるとするのならば」
そこで、天宮さんは万年筆のペン先をツイ、と上に向けた。
「全ての作品が未完だという点」
「ミカン!ミカン!ミカン!」
突如部屋に響き渡る声に、ビクッと両肩を上げる。
「ステイン。帰ってたのか」
いつの間にそこにいたのか。
白いカラスの鳴き声が、少し開いていた天窓から聞こえる。
「ミカン!ミカン!」
繰り返しそう続けるステインは、バサバサと羽を大きく振りかざした。
その姿が、まるで何かを警告しているみたいで胸の中が嫌にざわついた。
「ステイン、いつもの君の出入り口からおいで」
天宮さんがステインにそう言うと、ステインは回れ右をしたかと思うとバサバサとどこかへ飛んで行った。
「・・・すごい。賢いカラスですね」
「そうだろう?ステインほど賢いカラスは、そうそういないよ」
ふふん、と鼻高々に天宮さんは言った。
「それで、話を戻すけど。未完の作品と共に置いてあった万年筆。暴走する本。これは、作者からの無言のメッセージなんじゃないかって考えた」
「メッセージ・・・?」
「作品を・・・完結させてくれっていうね」
「・・・」
「だから、とりあえず君にこれを預けとくよ」
際出された万年筆に、思わず仰け反る。
「え、な、何で・・・」
「何でって、現段階で青表紙本が読めるのは君だけだ。作品が読めなければ、書き込むこともきっと出来ないだろう」
手渡された万年筆を受け取る。
万年筆なんて、高い筆記用具を持つのは生まれて初めてだ。
「そういえば、もう十五時半を回ったよ。そろそろ、戻った方がいいんじゃないか?」
天宮さんが、ズズッとティーカップから紅茶を啜った。
慌てて背後の大きな振り子時計を見る。
「本当だっ!えっと、一旦家に帰って目録帳を取って来て、それから学校に戻って・・・あのっ!」
「なんだい?」
「天宮さんは・・・一緒に来てくれないんですか?」
「はあ?何で、僕が小学校に行かないといけないの」
わたしの提案に間髪入れずに否定の声をあげる彼にめげずに、こちらも声をあげる。
「何でって、この迷惑な本の持ち主は、あなたですよね?」
「持ち主というか、引っ越して来たら書斎に初めから置いてあったんだよ。実質、僕も被害者だ」
屁理屈だっ!
「一人じゃ心細いんですっ!だって、か、神隠しとか、勝負師とかよく分かんないし!万年筆とか使ったことないし!」
「なんだ、そんなこと。万年筆は、ここをこうして回しながらキャップを開けて」
「そうじゃなくてっ!大人として、子供がそんな怖そうなとこに立ち向かうっていうのに!一緒に来てくれないの⁉」
しかも、ほぼあなたのせいなのに!
「ふむ。確かに君の言う事も一理あるね」
納得したのか、天宮さんはスックとその場から立ち上がった。
「じゃ!じゃあ!」
来てくれるんですね!
「ステインを付けよう」
「なんでそうなるのっ!」
「ステインは優秀な烏だ。きっと、君の良き助手になってくれる」
「それに、僕が小学校に何て言って入ればいいのさ。本が~って説明したって分かってもらえやしないし、不審者として捕まるのがオチさ」
「そ、それは、そうかもしれないけど・・・」
それより、ティーカップを割ってから、天宮さん何か雰囲気変わった?
それとも、元々こういう人だったのだろうか。
「それに僕、子供苦手だし」
絶対そっちが本音でしょ!
「さあさあ、もうお行き。大丈夫、僕もここでちゃんと君たちのこと、見守っているからさ」
しっかりおやり。
その言葉を背に、ステイン共々黒烏邸を後にした。
4 閉じ込められた⁉
黒烏邸を出て、一度目録帳を取りに家に寄ったけれど、葉太は帰っていなかった。
「やっぱり、見つけるしかないとおもうんだよね」
本を。
誰もいない図書室に声が響く。
旧校舎の廊下や教室、全部見ても、人の気配はしなかった。
「本一冊なんて、どうにかなるでしょ!ね、ステイン」
ステインは、黒烏邸を出てから一定の距離を保ってわたしの傍を飛んでいた。さすがに学校に入る時は何か工夫をしなければと考えていたけれど、放課後で人がまばらなせいか、普通に昇降口から入ることが出来た。
それでも、不服そうな様子は初めから変わらない。
「でも、昼休みに一通りは見たんだよね。見落としたか、見てない部分があるか、本棚の後ろに落ちているか・・・それはないか」
青表紙本が天宮さんの手を離れたのは最近のことっぽいし。
「むしろ、図書室とかにはまだ置かれてないって線もある、よねえ・・・?」
カチャン!
ふと、金属の高い音がした。
音のした方を見ると、扉の前にゆらりと揺れる人影が。
「え、何?もしかして、鍵かけられた⁈」
慌てて駆け寄り、ガタガタと引き戸を開けようとするも、鍵は外から確かにかけられているようで、開かない。
「ねえちょっと!中にまだ」
「―――探してごらぁん。もっと、じっくり。もっと、ゆっくり」
聞いたことのない声だった。
男の子の、少し高いような、低いような、不思議な声。
「・・・青表紙本がいるのは確かな感じね」
冷静に。落ち着いて。
そう思えば思うほど。
「こ、怖すぎない⁉なに?今の!青表紙本って怪奇現象か何かなの⁉怖すぎるんですけどっ!」
いたずらをする本、くらいに思っていたけど、結構ヤバい感じの本なんじゃない?
「・・・でも、自分から『探して』って言うくらいだから、捕まりたいって気持ちもあるのかな?」
さっきの言葉。
探してと言い残して図書室に閉じ込めた。
青表紙本、『誠実なペテン師』の本はこの図書室にあるってこと、よね。
「・・・まだ探してない棚は・・・あ!」
辞書の棚は、まだきちんと見ていない。
図書室の真ん中あたりにある背の低い棚。並べられたいろいろな辞書。
うっすらと被ったホコリから、長い間触れられて来なかったのだろうことが窺える。
「そもそも、どのくらいの厚さなんだろ」
見つける本の形態がいまいち想像できず、とりあえず本棚の端から端まで確認していく。
「ん~・・・ないなぁ」
バサッバサッ!
ステインが棚の上で羽を大きく羽ばたかせた。
棚に積もったホコリが空気中に舞い、ゴホゴホと咳こむ。
「うわっ、こんな埃っぽいとこで羽ばたかないでよ!」
ジロリと睨むと、ジロリと睨み返される。
赤い右目と青い左目の眼力に、うっ、とたじろく。
「あ、図鑑!」
逸らした視線の先に、大判の図鑑コーナーがあった。
ここも、まだちゃんと見ていない。
「あるかな~?」
辞書の棚の向かいにあるのが、図鑑コーナー。
気を取り直して、よいしょ、と棚の中を覗き込む。
「恐竜、動物、植物、電車・・・ないなあ~」
そもそも、同じシリーズの図鑑が並ぶ中、青い本があったらかなり目立つはず。
「カーカーカーカーカー」
「え、ちょ、急に?」
鳴き出したステインは、再び白い羽をその場でばたつかせる。
ステインは基本的に大人しいカラスだと思う。
それがカラスらしくないといえばないし、むしろ白いカラスの威厳のようにも思える。
「・・・」
ステインがバタバタとホコリを舞い散らかす棚を、見る。
「さっき見た、辞書の棚だよねえ?」
バサッバサッバサッ!
「わ、分かったから!ちゃんと見るから!」
しゃがみながら覗き込んでいるせいで、ダイレクトに棚の上のホコリを被る。
「ん?」
一冊、向きの違う辞書があった。
辞書そのものの背をこちらに向けて並べられているのに、一冊だけ箱の背がこちら側に向いている。
スッ、と指を差し込んで取り出す。
「えっ?」
軽い。
箱の中で、トスン、と本の音がする。
「・・・あった!」
辞書の箱の中に隠れるように、青い表紙の本がコロリと出て来た。
目録帳と同じ、青い布張りの表紙に金糸の文字。
『誠実なペテン師』
「よかったぁ・・・」
ふいに、視線を感じた。
顔を上げると、ステインがじっとわたしを、いや正確に言うと、その本を見つめていた。
「ステイン?どうかし」
ステインの異様な雰囲気に、そっと手を伸ばした拍子に、膝の上に置いた青表紙本が滑り落ち、白いページがパラパラと捲れる。
「?風もないのに、どうして・・・」
本を閉じようと、そのページに触れた瞬間。
カッ!
まばゆいばかりの青白い光が、本から溢れ出した。
「な、なにッ⁉」
「カーカーカーカーカー」
警報のようにステインは、光から逃れるように飛び立った。
「あ!」
ステイン、わたしがそう呼び止める前にもう、青白い光はわたしを包み込んでいた。
5 誠実なペテン師
声が、頭に響く。
ぐわん、ぐわん。
鍋底を叩いた時のような音の波紋に、顔を顰めながらもパチリ!と目を開けた。
「ここ・・・どこ?」
白い、青い光の玉がゆらりゆらりと、火の玉のように右に左に飛び交う。
そして、先ほどから頭に響く音のような声。声のような音。
「もしかして、本の世界・・・?」
アリスインワンダーランド的な?
白が広がる空間。
火の玉が揺れる度に、色の付いた映像がチカチカとちらつく。
じっ、と目の前の光を見つめると、頭に響いていた声が、はっきりと言葉を発した。
はじめに、キツネはずるい生き物だと言いだしたのは誰だろう。
「ずるいキツネ」
「騙される」
「悪いヤツ」
キツネは、悪い生き物なのか。
キツネのゾランには、それが本当のことなのか分からなかった。
昔、今よりも小さなころに、母親にそれを聞いたら、少し、困ったような顔で笑った。
その顔に、ああ、これは母親を困らせる質問なんだと子供ながらに思った。
そして、もう二度と聞かなかった。
キツネは、悪い生き物なのか?
悪いとしたら、それは誰が決めるのか。
いつ、決まるのか。
ゾランには、それが分からなかった。
また、分かりたいとも思わなかった。
それは、何の変哲もない普通の日のことだった。
キツネのゾランがいつものように、人に化け、人を騙し、金を数えていた時のこと。
「一、二、三、四、五、六・・・ヘヘッ!今日はいつもの倍だ」
今夜は豪勢にビフテキ、いやカツレツ、チキンもいいなぁ、なんて考えながら札束片手に、森の中を歩いていた。それはもう、スキップしだすような勢いでルンルンと。
空は、清々しいほど鮮やかな青色で、小さな雲も真っ白に、昼下がりの春の空をモクモクと彩っていた。森の木々は、ざわざわと風に揺れ、青々とした葉はその度にひらひら、クルクル。
森全体が、春の空気に浮き足立っているような、そんな春の陽気の昼下がり。
これまた浮足立ったキツネの元に、一陣の春風がビュウッ!と強く吹いた。
「ああっ!」
風は戯れるように、空中でひらり、ふわりと、ゾランの紙幣を揺らす。
「くっそ!おい、待て!待てったら!」
くるくる、ひらひら。
ゾランの爪を掠めて、紙幣は右に左に、上に下に。
ゾランをあざ笑うかのように、空を舞った。
ふわふわ、ひらひら。
紙幣はちょっとひとやすみと、大きな木の枝につい、と引っ掛かった。
ゾランはぺろりと長い舌で口先を舐めた。
「俺のっ・・・ビフテキッ!」
キツネの脚力を舐めるなと言わんばかりに、ゾランはピョン!とその場で二メートル近く跳んだ。
「っ!」
あと少しのところで、紙幣はビュウッと風とのダンスを再開してしまった。
それも、青空を押し上げるように、空高く、天高く昇っていってしまう何枚かの紙幣を見上げ、
「・・・コロッケに変更?」
と、献立の予定変更を考えたとき。
風は、遊び疲れたのか、ぴたりと吹くのを止めた。
「!」
ひらひらひら・・・
紙幣が花びらのように、少し遠くの方に落ちていく。ゾランは目を凝らして落ちゆく紙幣を眺め、ハッとした。
―――あっちは!
森の憩いの場、湖がある。
ただし、今のゾランにとっては憩いでも何でもなかった。
ダダダダダダッ!
背を丸め、全速力で地を駆ける。砂埃が舞い、草が舞い、風が起こる。
少し開けた所に出て、まるい湖が太陽の光に反射してキラキラと光る。
その上を、ひらひらと紙幣が・・・
「っ!」
取った!
伸ばした手は、しっかりと宙に浮く全ての紙幣を一枚残らず掴んだ。
これで大丈夫と、深く息を吐いたその時。
「あら、かわいいキツネさん」
鈴の音のような高く、細い声がすぐ耳元でした。
ビクリと驚いた拍子に、湖の淵ギリギリに立っていたゾランは、グラり。
ばしゃん!
体勢を崩して、湖の中へと落っこちてしまった。
その周りに、ぷかぷかと浮かぶ紙幣。
「ああ・・・」
みるみる色を変える紙幣に、ゾランは落胆の声を落とした。
「ねえ」
声のした方を、ゾランはしぶしぶと見上げる。
そこには、一人の人間の女の子がいた。
「それ、そんなに大切なの?」
それ、とは紙幣のことだろうか、と気づくのに少し時間がかかった。
そして。
どう答えるべきか迷った。
―――子供といえど、相手は人間。しかも、今はキツネの姿だ。
下手に何か言うより、無視をするのが得策だとゾランは判断し、ザブザブと湖から上がる。
ばしゃん。
ゾランが水から上がったのと同時に、隣で水しぶきが上がった。
横を見ると、人間の少女が湖面に頼りなく浮く紙幣を丁寧に、一枚、一枚拾っていた。
ぽかん、と思わずその光景を眺める。
ゾランの爪では、水に濡れた紙を破かずに掬うなんてことは出来ない。
―――まあ、人間に化ければどうってことないけどさ
それでも、ゾランは自分の手とは明らかに違う、その小さな、華奢な手から目が逸らせなかった。
「はい」
どうぞ、とにこりと微笑んで、少女は水に浸かったまま、両手で紙幣を差し出した。
「私には、この紙切れがそんなに素敵には見えないけれど。あなたには大切なのよね」
「・・・」
ゾランは黙って、手渡された紙幣を受け取った。
ぐしょりと濡れたその束は、穴こそ開いていなかったけれど十分に水分を吸って、今にもちぎれてしまいそうだった。
「ねえ」
ざばっ、と勢いよく湖から上がってその子は言った。
「あなた、幸せ?」
腰くらいまである長い黒髪。水滴の散ったその黒髪は、陽の光にきらきらと光り輝いた。ゾランはその輝きに、思わず目をみはった。
彼女は、ぎゅっとドレスの裾を絞りながら続けて言った。
「ね、聞いてる?」
深いブルーの瞳が、じっとゾランを見る。
丸く大きな目、形のいい眉に、唇、白い頬。
その人形のように整った顔立ちに、きっと、黙っていたら人形と間違われてもおかしくないと、ゾランは思った。
―――頭につけてる青いリボン、レースがふんだんに使われたドレス、クツ・・・どれも全部、一級品。加えて、この世間知らずそうなぼんやり。金持ちの娘ってところか?
それなら。
「ゾラン、と申します。素敵なお嬢さん」
ツイ、と流れるようにその手を取ってキスを落とす。
「まあ、紳士なキツネさん」
彼女の手の指に輝く真珠の指輪の輝きに、これは思ったよりも上物だ、とゾランは内心しめしめと笑った。
「はじめまして、私はソフィアよ」
騙し取ってやろう。
このぼんやりした金持ちの子供から、絞り取れるものは全部。全部。
「まあ、こんなものが欲しいの?いいわ、あげる」
ソフィアは、ゾランに指輪やリボンや、果てやドレスまで、何の躊躇もなく渡した。(いきなりドレスを脱ごうとしたのは、ゾランが慌てて止めた)
金の力を信じるゾランは、高価なものをぞんざいに扱うソフィアが理解出来なかった。
「君はなぜ、そう簡単に物を手放す?惜しくないのか?」
ソフィアは、キョトンとした顔の後、あっけらかんと言った。
「あら、キツネさん。知らないの?」
何を、と問う前にソフィアは笑って言った。
「私の目は、どんな宝石よりも美しいわ。装飾ならこれだけで間に合っていてよ」
ソフィアの言う通り、確かに彼女の瞳は本当に美しかった。
まるで、冬の寒い朝の空気を凍らせたように澄んでいるのに、春のあたたかな空の優しく、淡い香りを纏っていた。
「ね、この目も欲しい?キツネさん」
「・・・欲しいと言ったら、くれるの?」
「ふふっ!あげなーい」
風にあおられた黒く長い髪をそのままに、ソフィアは笑った。
その笑顔に、ゾランは正直ホッとした。
自分で自分の目を抉り出すかもしれないと思っていたのだ。
そんな危うさが、彼女の自由奔放さを支えていたし、その予測の出来ない言動に、ゾランはいつも驚かされた。
今日は森に来るのか、明日は森に来るのか。
ソフィアのことばかりを考えてしまう自分に、ゾランはもう気づいていた。
ソフィアに対して、言いようのない感情を抱えていることに、ゾランはもう、気づいていた。
花が綺麗だと笑う顔、雲の形が面白いと空を見上げる横顔、はだしで草を踏みしめ駆ける背、どこまでも、深い青い瞳。
鳥のようにどこまでも飛んで行ってしまいそうな、何にも縛られない自由な意思。
ゾランは、これまで生きてきて初めて、何かを、誰かを美しいと思った。
そして、愛おしいと思った。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋になり、冬になり、季節は巡って、また、夏になろうとしていた、暑い初夏の日のこと。
ソフィアが言った。
「ねえ、キツネさん」
「なに?ソフィア」
「私、結婚することになったの」
「け、っこん?」
「うん」
ゾランには意味が分からなかった。
もちろん、結婚の意味は知っている。けれど、自分と同じように彼女も自分のことを少なからず想っていてくれているのではと、ゾランは少しばかり期待していた。
「私、明日この町を離れるの。だから、もうこの森には来れないわ」
ソフィアは、青い瞳に切なげな色を乗せながらも、薄く微笑んだ。
「私に、こんな素敵なお友達が出来るなんて思いもしなかった。ありがとう、キツネさん」
「き、君は・・・幸せなの?」
何を言うべきか、何を聞くべきか。
喉につっかえたようなゾランの声は、揺れていた。
「ええ、幸せよ」
ソフィアの声は柔らかく、じんわりとゾランの心に沈んだ。
「そ、っか・・・。君が幸せなら、俺もうれしい」
それは、ゾランの本心だった。
けれど、上げ慣れた口角は上がらず、変にわざとらしい下手くそな笑い顔だった。
「・・・覚えていてね。私のこと」
ソフィアは、その顔を見て少し笑った。
その長い黒髪が、風にたなびく。それに合わせて、木々の葉や草が静かに揺れてざわめいた。
「ーーーどうか、私のこと、忘れないでね」
ソフィアの声は明るく、高く澄んでいるのに、その顔は泣いているように、ゾランには見えた。
「ソフィア」
「ふふ、やぁね。マリッジブルーってやつかしら。そんな深刻な顔しないで」
ゾランは、ソフィアが悲しかったり、泣いていたりするのを、今まで一度も見たことがなかった。そして、今も泣いているようには決して見えないのに、なぜか、彼女が大粒の涙をこぼしているように思えた。
「私、準備があるからそろそろ行かなきゃ。さようなら、キツネさん」
ソフィアは、すっくと立ちあがり、駆け出した。
「ソフィア!」
ゾランの声に、ソフィアはぴたりと足を止めた。
「俺・・・」
何を言えばいいのか、何を言えば彼女はこのままここに足を止めてくれるのか。
ゾランは、両親に賢いと褒められた頭で必死に考えるけれど、何一つ浮かばない。
ただ、行かないで。
それだけを強く思った。
ソフィアは、風になびく長い黒髪を片手で抑えて、大きな声で言った。
「―――私ね!あなたのそのアカシヤのハチミツみたいにきれいな毛並みが、とても好きよ。大好きよ」
叫ぶように、好きだと笑って言うと彼女は大きく手を振って、森を出て行った。
ゾランは、手を振り返すことしか出来なかった。
ゾランは、キツネで。
ソフィアは、人間だ。
知っていることだ。
分かっていたことだ。
それでも、ゾランはほんの少し願っていた。
ソフィアが、自分を選んでくれるかもしれない。
ずっと一緒にいてくれるかもしれない、と。
ゾランの頭の中で、別れ際のソフィアの言葉が深く響く。
「・・・俺も、君が好きだよ」
ソフィア。
ゾランは、駆け出した。
もう二度と会えなくなっても、変わらず君が好きだと、彼女に伝えるために。
ソフィアは、この町で一番大きな屋敷に住む、貴族のお嬢様だった。
美しいものには目がない伯爵と伯爵夫人が、あれやこれやとこの世の美しいものを屋敷にかき集めた、絢爛豪華な生活を送っていた。
ゾランは、森を出る前に人間に化けておいた。人間に化けたゾランは、蜂蜜色に輝く金髪に、黒曜石のように真っ黒で、どこか冷たい目をした青年だった。
ソフィアの前でこの姿を見せるのは初めてだ。
―――ソフィアは、俺だってすぐ気づいてくれるだろうか。
ゾランの胸は、まるでお祭り騒ぎのようにドキドキドコドコ。鳴り止まない心音を落ち着かせるために、一つ大きく深呼吸をした。
その時、屋敷の大きな扉が内側からゆっくりと開いた。
出て来たのは、この屋敷の主人であるダージン伯爵夫妻だった。
伯爵は、真っ青なタキシード姿で、夫人はロイヤルブルーのイブニングドレス姿。
「今宵の夜会はいつもとは少し趣旨が異なるんだ。だから、お前も楽しめると思うよ」
「あら、どんな余興がおありなのかしら。楽しみだわ」
どくん
ゾランの足は、地べたに貼りつけられたみたいに、微塵も動かなかった。
「・・・か、あさん。」
どくん、どくん
ゾランの目は、ある一点を見つめて離れなかった。
夫人の首元。
そこには、黄褐色の毛皮の襟巻が夫人のふくよかな首元にぐるりと巻かれていた。
ゾランの母親は、ゾランがまだ小さかったころ、餌を探しに森を駆けていたところを、貴族に駆られた。
ゾランは、いつまでたっても帰って来ない母親を不思議に思い、父に聞いた。
父キツネは、誰かの命の糧になったのだとゾランに言った。これは、悲しいことではない、全ての生き物に平等に訪れる別れなのだと、父キツネはゾランに言った。
ゾランは、自身の血が沸騰するように熱く、煮えたぎるような思いが血液を流れて、全身に伝わっていくのを感じていた。
ぽたり
きつく握りしめた拳から、赤い血が零れ落ちる。
涙は、出なかった。
静かに目を閉じた一匹のキツネの顔は、間違いなくゾランの母親だった。
あの日、もう二度と帰って来なかった日の朝、ゾランが笑って見送った母親の姿のまま、ニンゲンの首に巻かれていた。
ふさふさで大きな尻尾も、しなやかな手足もそのまま。
そのままの姿で、ゾランの母親はニンゲンの首に巻かれていた。
目を閉じたその顔に、ゾランの心を占めたのは悲しみよりも、怒りだった。
熱く、煮えるような、深い、深い、怒りだった。
―――おちつけ
ゾランは、目を閉じた。
そして、もう一度深呼吸をした。
次に目を開けた時、ゾランの目は静かに凪いでいた。
この町で一番古く、格式高い賭博場―――クロックフォード・カジノクラブ。
人通りの少ない裏通りに面した、白亜の建物。入口に並ぶ、高級車。
高い天井、光るシャンデリア、開けた会場に並べられた豪奢な卓と椅子。
煌びやかな衣装に身を包んだ貴族の夜の社交場。
今宵は、仮面を纏った特別なもの。
「ご一緒しても?」
ゾランは、仮面越しに黒い瞳をぎらりと覗かせ、会場の最奥に座る男の元に、真っすぐと向かった。
「まあ、あのダージン伯爵に勝負を挑むなんて、どちらの勇気ある御方かしら」
クスクスと口元を扇で隠した夫人の笑い声が、会場に静かに響く。
「このクロックフォードで、あの御方に勝負を持ちかける方、今までお見掛けしたことないわ」
「賭け事じゃあ、他に負けを知らない人だ。気の毒な青年だよ」
ダージン伯爵は、目の前に立つ青年をじっと見つめた。
「・・・貴殿は、実に美しい目をしている。まるで、星のない夜空を切り取ったように美しい」
「・・・では、この目を賭けましょうか」
ゾランは、トン、と仮面越しに目元を指した。
「なに?」
「私には、今この身以外賭けられるものなど何一つないのです」
ゾランの声に、迷いは何一つなかった。
「貴方様がこの賭けを受けて下さるのなら、この目の一つや二つ、惜しくはありません」
「・・・貴殿は、何をご所望かね」
「奥方様の首元のものを」
真っすぐと伯爵を見ながら、ゾランは一言そう言った。
「まあ!これは何年も前に主人が贈ってくれた大切な毛皮ですのよ」
賭けるだなんてとんでもない、と言った風体で、夫人は顔を顰めた。
「貴殿のご所望の通り、妻の毛皮を賭けよう」
「まあ、貴方!
「この賭けに二言はなかろうね、漆黒の君」
「ええ、もちろん」
ゾランは、にこりと微笑んだ。
「二言などないですよ、ダージン伯爵」
この賭けは、すぐに片が付いた。
ゾランが、ものの数秒で伯爵を負かしたのだ。
負けなしだった伯爵の初めての黒星に会場は騒然とし、夫人はお気に入りの毛皮を手放すこととなった。
ゾランは、父親の墓の隣に穴を掘って、母キツネを丁寧に埋めた。
父の墓を前にして、ゾランは死に際の父の言葉を思い出していた。
「―――正しく生きろ、だなんて・・・勝手だよ」
父さん。
どうすれば、正しく生きることになるのか。
父さんは、何で最期にあんなことを自分に言ったのか。
それがキツネには不可能に近いくらい難しいことだって、一番知っているくせに。
忘れていた。
飢えも、乾きも。
孤独も、絶望も。
自分が、幸福とは一番遠い場所にいたことも。
明日、生きていくため。
自分が、生きていくために。
俺は、生きてやる。
たとえ、それが正しい生き方じゃなくとも。
生きてやる。
ゾランは、決意した。
自分は、人間に襟巻にされるような人生は決して送らない。
俺が、人間を利用してやる。そう、固く誓った。
次の日から、ゾランはダージン伯爵と毎晩のように賭けをするようになった。
伯爵がゾランの黒い双眸を大層気に入り、何としても手に入れたいと躍起になる一方、ゾランは、一つ、二つと伯爵のコレクションを奪い取っていった。
何日も、何日も賭け続けても、伯爵は一度もゾランには勝てなかった。
ある日、伯爵は賭けられる目ぼしいものがなくなってしまった。屋敷にあった豪奢な調度品は、全てゾランの物となった。
「これが最後の勝負だ」
伯爵は言った。
「私が、この世で最も美しいと思っている青い宝石を賭ける」
そして、この最後の賭けにもゾランは難なく勝った。
伯爵は落胆しつつも、どこか愉快そうな口ぶりで「刺激的な時をありがとう」と言って、ゾランの手を握った。
「いえ、こちらこそ」
ゾランもにこやかにその手を握り返した。
屋敷の地下へと石造りの階段を下りて行くと、一つの扉があった。
その扉を、伯爵はゆっくりと開けた。
ギギギィ、軋む木の音と共に、部屋の明かりが地下の暗がりに広がる。
その眩しさに、ゾランは思わず目を細めた。
「どうぞ。これが、私が最も美しいと思う青い宝石」
ゾランは、目を疑った。
「まあ、どなた?」
そこには、ソフィアがいた。
「ハッ!」
自分の意識が徐々に戻り、頭の中に響いていた声が、小さく遠くなる。
はっきりと辺りを見回して、そこが学校の図書室だということ。
そして、そこに一人寝転がっていたことに気が付いた。
本は何喰わぬ顔で、床の上で閉じていた。
ひどい、悪夢を見た気分。
「カア」
その声に振り向くと、飛んで行ったはずのステインがちょうどわたしが寝転がっていた頭の上あたりの床に、ちょこんと立っていた。
「ステイン。あなた、逃げ出したんじゃなかったの」
「カカアカア」
抗議するような鳴き声に、ハイハイと生返事を返して、額が痛いことに気が付いた。
「ん・・・?何よ!これ!血が出てるっ!」
ちょうど眉間辺りに触れると、乾いた血が指についた。
「ねえ、ステイン?あなた、女の子の顔に・・・」
「ストップ。つつけと指示したのは僕だよ」
「あ、天宮さん⁉」
するはずのない声がどこからともなく聞こえて来て、きょろきょろと辺りを見回す。
・・・誰もいない。
ていうか、わたし、閉じ込められてなかったっけ?
ていうか、葉太どうなった?
グワンと鈍く痛む頭と額を押さえて、とりあえず立ち上がる。
「頭痛のせいで幻聴でも聞こえたかな」
「幻聴ではない!ステイン!」
またもや聞こえた声。
ステインは、その白い羽をもぞもぞと動かして、コロン、と何かを落とした。
「カア」
「何?拾えって?」
その落ちたものをつまみ上げる。
「・・・何これ、イヤホン?」
「小型通信機、僕お手製の天宮印さ」
コロンと丸いイヤホンのようなものから、天宮さんの得意げな声が聞こえる。
「あ、天宮さん・・・」
「何だ、もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ。この僕が!この短時間で開発したのだから!」
イキイキと楽しそうなその声音に、「そうですか」としか言いようがない。
「ん・・・?ていうか、今わたしの顔、見えてないのに何で・・・」
「いい所に気づいたね!ステインの首元をごらん」
「・・・カメラ?」
そう、白いカラスの首元には目立たないように小さく、白いカメラが首輪のように付けられていた。
「小型カメラだ。これで、ここにいても君たちの様子がよく分かるよ」
ズズッと紅茶を啜る音が聞こえて、頑として外には出ない気力の強さを感じた。
「もしかして、わたしが倒れている間にステインが・・・」
「ステインが窓かどこからか学校を飛び出し、僕の元にSOSを出したというわけ」
でも、額を血が出るまでつつく必要はなかったんじゃ・・・。
「君をつつかせたのは、このまま本に意識ごと乗っ取られたら大変だと思ったし、いつまでも起きないから心配だったんだ」
さすさす、と額をさする。
「人のこと寝坊助みたいに・・・ていうか、今何時ですか⁉」
「十六時三十五分だよ」
図書室の扉に駆け寄る。
ガラリ
扉は、難なく開いた。
6 賭けチェス
16時。
旧校舎の渡り廊下。
「準備はいいかい?」
「いつでも」
左耳に装着した小型通信機から、天宮さんの声が聞こえる。
通信機を隠すように、耳元の髪をよく撫でつけた。
「よろしい。では、作戦を開始しよう」
不敵な口調で天宮さんは言った。
それに答えるように、ステインが右肩でカアと小さく鳴いた。
結論、葉太は無事だった。
けろりとした顔で、家でせんべい片手に漫画を読んでいた。
「んー、何か知らないヤツとゲームした記憶はあるんだけど・・・よく思い出せねえ。何だったんだ?人違いとか言ってたっけ」
後頭部を搔きながら首を傾げるその背に、安心が込み上げた。
「ああ!姉ちゃん、それ俺のえびせん‼」
とまあ、平和なものだった。
だからわたしは、思った。
悪いヤツじゃないんじゃないかって。
昨日触れた物語は、とても悲しくて、切なくて、胸が張り裂けそうに痛かった。
そう、『誠実なペテン師』の主人公・ゾランは悪いヤツじゃない。
でも。
いい奴でもない。
だって、彼はーーー
「勝負しようか」
勝負師で、ペテン師だから。
昨日、扉越しに聞いた声の持ち主が、見慣れない男子生徒が、旧校舎の渡り廊下に立って、笑っていた。
「や、昨日ぶり。可愛らしいお嬢さん」
ゾランは、くるりと手を回して、小学生男子らしからぬ優雅なお辞儀を一つした。
色素の薄い茶褐色の髪とこんがりと焼けた肌。
細い釣り目気味の目は、真っ黒だった。
どこにでもいそうな風貌の小学生。けれど、見たことのない男の子。
「・・・あなたが、ゾラン?」
「そうだよ、そんなに緊張しないでよ。取って食ったりしないからさ」
ゾランは物語で見たよりも、明るく陽気な様子だった。
それが何だかかえって不気味に見えて、胸元に抱えた二冊の本をきつく抱きしめる。
「・・・ちゃ~んと、見つけてくれたんだね、俺のこと」
にっこりと笑うゾランは、笑っているのに少しも感情が見えてこない。
ここにいるのに、いるのは虚像のような、そんな手ごたえのなさを感じた。
「―――さあ、勝負しようか」
ゾランは、両手を広げて舞台役者のように高らかに言った。
ゴクリと唾を飲み込み、口を開く。
「・・・勝負する」
その言葉に、ゾランは満足そうにゆるりと口角を上げた。
「そうこなくっちゃ」
ぱちん
彼が一つ、指を鳴らした。
それを合図に、次に瞬きをしたら、そこはもう旧校舎の渡り廊下じゃなかった。
「・・・教室?」
机と椅子がたくさ山積みにされた、空き教室だった。
「ここは、俺が生み出した空間。どこにでもあるけど、どこにもない場所」
いつの間にか、目の前にゾランが座っていて、わたしも向かえ合わせの形で座っていた。
「さ、勝負をはじめよう。ここは、四半刻しか持たないんだ」
しはんこく?
「三十分のことだ」
耳元で天宮さんが言った。
なるほど。
正直、怖かった。
物語を知っても、いや知ったからか余計に、キツネのゾランがよく分からなかった。
よく分からない相手と対峙するのは、怖い。
けれど、左耳の声と右肩の爪の確かな感触(少し痛いけど)に、ホッとしている自分がいた。
一人じゃない。
そう、思えたから。
「君は何が好き?ポーカー?チェス?ルーレット?人生ゲーム?」
ゾランが言う度、ポンポンと空中にと卵黄が舞い、ルーレットが現れ、チェス盤が降ってきた。
「え、えっと」
正直、得意なゲームなんてない。
ふと、昨日天宮さんの書斎で見た、ガラスのチェスを思い出した。
「チェ、チェスで!」
「チェス、ね」
ゾランが人差指をくるりと宙に回すと、静かにチェス盤と駒が空中から現れて、ゾランの膝の上に着地した。
場所を用意するため、ゾランが壁際の机を取りに行った。
「おい!何でチェスなんだっ!」
小さな囁き声ではあったけれど、怒鳴りたいのを必死で抑えるような声音に、
「だって、天宮さんチェス得意でしょう?」
と、こちらは小さな声で返事をする。
「得意⁉そんなこと君に一言でも言ったか⁈」
「い、言ってないけど、チェス盤、置いてあったじゃない、書斎に」
「あ、れ、は!ただのインテリア!美しいから置いてるだけで、チェスなんて一度もやったことない!」
う、そ、で、しょ!
「ど、どうしよう、わたしだって」
チェスなんてやったことない・・・。
「どうしたの?さっきからコソコソと」
机を並べ終えたゾランが、準備は万端と言うように机の上にチェス盤と駒をセットしてこちらを見ていた。
「え、えぇっと」
「今からでも遅くない!ポーカーに変えてもらえ!」
「ゲームの変更は出来ないなあ、だってもう時間も少ないことだしさ」
「そ、そこを何とか!・・・って、あれ」
今、ゾランは。
「知ってる?キツネの耳は、人間よりもいいんだよ」
トン、と自身の頭を指すゾラン。
頭の上には尖った大きなキツネの耳が、ぴょこんと生えていた。
「さあ、勝負をしようよ。君が勝ったら、君のいうことを何でも聞いてあげる。その代わり、俺が勝ったら、俺の願いを一つ叶えてよ」
ゾランは、コツン、コツンとチェスの上の駒を並べていく。
「君の耳から聞こえるナイトも参加していいことにしてあげる。カラスは嫌いだから、お断りだけどね」
ステインは不服そうに喉を鳴らしただけで、大人しく肩に留まっていた。
「さ、駒も並べ終えた。ゲームを開始しよう」
口を挟む隙も与えず、ゾランは黒光りする目をこちらに向けた。
「先行は、君に譲ろう」
わたしの方に白い駒がずらりと並べられている。
「・・・どうも、ありがとう」
「とんでもない。レディーに優しくするのは、紳士として当然の務めだからね」
にこりにこりと、食えない笑みを浮かべて言う、この目の前のキツネに、どうしたら勝てるのか。
不安と後悔が胸を襲う。
左耳から、パチパチとパソコンのキーボードを叩くタイピングの音が響く。
「今から僕が言う事をよく聞くんだ。横の列は左から、a、b、c、d、e、f、g、h。縦の列が下から1,2,3,4,5,6,7,8。下から二列目、一番多い駒。それが、ポーン」
天宮さんの声は、落ち着いていた。
凛とした、良く通る声。
初めて会った時と同じように、優雅さを湛えたその声は導くように言った。
「ポーンをeの4へ」
カツン
「そう、いい子だ」
ステインに言うみたいな言い方は気に障るけれど、とりあえず息を吐く。
「ふぅん?」
コツン
さほど考えずに、ゾランは駒を進めた。
わたしが今進めたポーンの目の前に。
まるで迎え撃つような盤面に、緊張が走る。
「君は、あの物語をどこまで読んだの?」
「ナイト、fの3」
ゾランの問いと、天宮さんの指示が重なる。
・・・ナイト、って。
「これだよ」
コツン、とゾランが白い馬の駒を指した。
「あ、ありがとう」
ええっと・・・。
「fの3!」
天宮さんの少しじれったそうな声を口の中で繰り返しながら、駒を動かす。
「で?」
ゾランは、コツン、と何のためらいもなく向かいの位置に黒のナイトを動かした。
「あ、えっと・・・あなたが、地下室でソフィアを見つけるところまで」
「なんだ、もうそこまで読んだんだったら、教えてあげるよ」
結末を、とゾラン笑って言った。
「あの子は、ソフィアは病気で、生まれつき早く老いる病だった。俺のことも、何もかも忘れて、彼女は死ぬ。そこで物語は終わり。ハハッ、ひどい話だろ?」
何て答えるべきか迷っている間に、
「ナイト、cの3」
天宮さんの声がして、自然と目で盤を追う。
カツン
「幸福って何だろうね」
コツン
ゾランは、ひとり言みたいに問う。
「どうすれば、幸福は訪れるんだろう」
その声に、少しの笑みも混ざらない真剣な眼差しに。
「・・・あなたは、幸福になれなかったの?」
思わず、そう聞いていた。
「幸福・・・幸福が何かも分からないのに、なれたかどうかなんて」
わからないよ。
悲しみを閉じ込めたような声に、ツキンと胸が痛んだ。
「―――ただ・・・彼女そのものが、『幸せ』を詰め込んだ何かに見えた」
黒く、深い双眸は、盤面を通過して、どこか遠い、遠い何かを見ているようだった。
だから、とゾランは続けた。
「ただ、幸せになって欲しかった。いつだって、太陽の下で笑っていて欲しかった。どうか、幸せでいて。それだけを、ただそれだけをひたすらに願っていた。神様なんか信用しないけれど、祈っていたんだ、彼女の幸福を」
彼女の幸福だけを。
独白めいたゾランの言葉は、静かな教室にひっそりと響いた。
涙の雫が零れ落ちるように、彼の言葉は悲しいくらいに泣いていた。
「・・・ビショップ、bの5」
小型通信機から響く天宮さんの声が、教室の静寂を無情に破った。
「あ・・・今は、勝負中だったね」
ごめん、ごめんとゾランはハッと目が覚めた様な顔でわたしを見た。
「続けよう。せっかく、君の耳の向こうのナイトが素敵なフォー・ナイツ・ゲームの舞台を作ってくれたことだしね」
フォー・ナイツ・ゲーム?
「チェスのオープニング。つまり、定跡の一つ」
「そう、序盤のセオリーに従った、自然な駒運び。理にかなった、とても堅実な手だよ」
首を傾げるわたしに、天宮さんとゾランが説明してくれた。
でも、とゾランは続けた。
「フォー・ナイツ・ゲームは、極端にシンプルな局面に陥りやすいために、クローズな展開かつ、引き分けになりやすい序盤だよ」
何を考えているんだろうね、とゾランは面白そうに目を眇めた。
「・・・私は、チェックメイトのことしか頭にないよ」
左耳から聞こえる天宮さんの声は、機械越しだからか、どこか無機質に響いた。
「私のことより、君の方こそ、何を考えているんだい?キツネくん」
煽るような物言いに、ひやりとする。
「君は、勝負の開始前にこう言ったね『君が勝ったら、君のいうことを何でも聞いてあげる。その代わり、俺が勝ったら、俺の願いを一つ叶えて』って」
「すごいな、一字一句正確じゃないか。さては君、天才だろう」
「よく言われるよ」
バチバチと火花が飛んでいるように見えるのは、わたしの気のせい?
「君は、この子に何を叶えさせる気だい?」
天宮さんの言葉に、目の前のキツネは少し迷う素振りを見せながらも、口を開けた。
「・・・物語を変えてもらう。そのために、俺は君をずっと、ずっと待っていた」
探していた、そう続けるゾランの目には、真剣な光が走る。
「新しい本の主である君に、結末を書き換えて欲しい」
本の主?
何の話だと顔を顰めれば、ゾランは笑った。
「君は、何にも知らないんだね。この青い本が読めるという時点で、君はもう新しい青表紙本の主に選ばれたんだよ」
「ど、どういうこと?」
話がよく読めない。
第一、わたしはこの目録帳を拾っただけ。
本の持ち主は、天宮さんだ。
「どういうことも何も、その目録帳のはじめのページに書いてあるじゃないか。見てごらんよ」
「・・・」
言われた通りに、膝の上のに置いた本の内の一冊―――目録帳を開く。
「凡例一 この書を読みし者、汝、唯一青表紙本の主となり、この書を有する。二 汝、白き頁を手繰る者であり、綴りし者なり」
声が、響く。
ゾランの声でも、天宮さんの声でもない。
―――これは
初めにこの目録帳に触れた時に聞こえた、声。
「おい、おい!大丈夫か?」
天宮さんの焦ったような声がすぐ耳元でして、ハッとする。
「あ、は、はい」
大丈夫です、そう答えたけれど、頭の中では先ほどの声が深く、低く響いていた。
「とまあ、そういうわけ。この物語を変えることが出来るのは、君しかいないんだ」
ゾランは言った。
「だから、君にこの物語を書き換えて欲しい」
その言葉には、切実な望みと、希望が滲んでいた。
「わ、わたし・・・」
文章を書くのはあまり得意ではない。
それでも、今この目の前にいるキツネの願いを突っぱねることも出来なかった。
「却下だ」
「え?」
「は?」
天宮さんの声に、わたしとゾランの疑問符が重なる。
「却下だと言ったんだよ。そもそも、君は黙ってチェスを指していればよかったのに、よく分からないことをグダグダと・・・」
苛立ちを少しも隠さないその声に、今まで黙って置物然としていたステインが「カアカア!」と面白そうに鳴いた。
「第一!作者の意図を無視した作品への加筆、改作など言語道断!作品は、書かれた姿をそのままに、後世に伝えるべきだよ」
そんなことも分からないのか、と言いたげな声音はそのまま続けた。
「よって、君の願いは叶わない。大人しく本にお戻り」
「嫌だ」
「戻れって」
「嫌だ」
二人の問答は、端的で頑なで、どちらも一歩も引かなかった。
意外と似たもの同士かも、なんてこんな時に思うくらいに、それは、リズミカルだった。
「ハア。大体、作品を書き換えろ、だなんて、作者への冒涜もいいとこだ。君が幸福になるためにその物語は、存在しているんじゃないんだよ」
天宮さんの言葉は、もっともらしい響きを含んで、響く。
小さなスピーカーからの声は、教室の空気を静かに縛った。
「俺の幸福なんて、どうだっていい。俺は、ソフィアさえ幸せになってくれたら、それで、それでいいんだ」
呟くように、吐き出すように、言い聞かせるように、ゾランは低く言った。
「なあ、変えてくれよ・・・ハッピーエンドに。彼女の幸福が、続く話に・・・めでたしめでたしって物語を終わらせてくれよ」
ギリギリ、と彼の爪が机に跡を残す。
「なあ、お願いだよ。作者への冒涜だろうが、何だろうが、彼女は!ソフィアは!こんな終わり方をしていい人間じゃないんだ!なあ、読んだアンタなら分かるだろう?」
分からない、なんて言えなかった。
わたしには、ゾランの深い悲しみと後悔の色が濃く、ソフィアがどういう気持ちでいたのか、どうしたかったのか、分からなかった。
「悲しく、切ないバッドエンドの物語は、時に幸福な物語よりも、強いメッセージを残す、今の君みたいにね」
「お前はきっと知らないだろうね・・・永遠に終わらない闇を辿る苦しみが、一生覚めない、悪夢を見続ける孤独が、どんなに、どんなに苦しいか」
今にも掠れてしまいそうな、吐息のような声だった。
「バッドエンドなんて、作者が勝手に決めたことだ。その理不尽に逆らって、何が悪い!」
唸り声のように、低く重く響く叫びだった。
「わたし、書き換えるよ」
気が付いたら、ぽつん、と言葉が口を突いて出た。
「おい!」
天宮さんの制止するような声を無視して、続ける。
「だって、ゾランの言う事、分かるもの」
悲しい、辛い、逃げてしまいたい。
気が、狂いそうだ。
そんな声が、彼の叫びから聞こえた。
こんなに苦しんでいるのに、無視するなんてこと、出来ない。
「君は、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「天宮さんこそ、何故そんなにこだわるの?物語を完結させてくれって、作者の無言のメッセージだって、言ってたじゃない」
「ああ、言ったよ。僕は、物語を『完結』させてくれってね。元からある作者の思いの結晶に、不用意に手を加えるべきじゃない。君は、その本に『おわり』の文字さえ刻めばいいんだ。それで、物語は完結という形になるのだから」
「そんなのおかしいっ!」
思ったよりも、大きな声が教室に響く。
スピーカーの向こうで、天宮さんのうわっ!と驚いた声が聞こえたけれど、気にせず言う。
「だって、そんな形だけの『おわり』に何の意味があるの?作者がその三文字を書かなかったのは、書けなかったのは、物語を終わらせたくなかったから、終わらせられなかったからじゃないの?なのに、わたしがここでその文字を書くことに何の意味があるの?それこそ、作者の意志を無視した、作者への冒涜じゃない!」
ゾランは、その黒い瞳でじっとわたしを見ていた。
天宮さんは、スピーカーの向こうで低く唸った。
「だったら!この場をどうするんだ!キツネの言う通り、物語を変える方が、作者への冒涜だ!冒涜度合い的には、僕の考えの方が小さく済むし、正しい!」
ふん!と息荒く一気にそうまくし立てて、天宮さんは少し息を切らした。
冒涜度合いって、何・・・。
呆れと、どう返答すべきか少し黙る。
「正しさが・・・何の意味を持たない世界でのたうち回ればいい。お前みたいに、正しさを傘に正義を振りかざす人間が、一番嫌いだよ」
「好かれなくて結構。僕も君みたいに、自分の幸福を他人に被せる奴は、大嫌いだよ」
「何だって?」
ゾランの唸り声が聞こえていないのか、天宮さんは「だってそうだろう?」と続けた。
「君は、さっきからその彼女の幸せばかり願っているけど、自分の幸福が分からないから、彼女の肩にその願いをかけてるだけ。そんなのは、ただの幸福への信仰や祈りだ。彼女が幸福なエンドを迎えたからって、君の孤独は埋まらない」
七 黒いなみだ
「ちがう!ちがう!そんなのは、全然!全然違う!」
ゾランは、喚くように言った。
「そうよ!誰かの幸福を願うことで、癒える心だって、救われる気持ちだってあると思う!」
「誰かの幸福に救いを求めているのは、彼が彼自身の人生を歩めていない証拠さ」
ゾランは、もう聞いていたくないと言うように頭を掻きむしるように強く耳を押さえつけた。
黄褐色の耳の毛が、ハラハラと落ちていく。。
「っく、うっ・・・お、お前に!何も知らないお前に!そんなことっ・・・」
「確かに私は何も知らない。君の孤独も、絶望も、彼女への想いも。けれどね、誰かのためにする行為は一見美しいように見えて、悪徳だよ。君は、都合のいい理想を彼女に押し付けているに過ぎないのだから」
初めて会った時から、天宮さんの声が、心地良いと思った。
でも、今は。
「都合がよくてっ!なにがいけないの・・・っ!」
聞きたくない。
そう思った。
「誰だって、自分の都合の良いことばかり無責任に・・・自分の価値観が、正しいって信じて、少しも疑ってない顔で、言う。お前は間違ってるんだって。でも、その正しさって、誰のためにあるの・・・?」
声が震える。
視界が滲む。
それでも、今言わなければと、強く思った。
「人が間違いだって何かを咎めるのも、正しいって称えるのも・・・全部、全部、私利私欲からでしょう⁉」
「・・・何で、泣くんだよ」
ゾランが驚いた顔でわたしを見るから、そっと頬に触れると、指先が濡れた。
「あれ・・・?何でだろ」
泣くつもりなんて、少しもなかったのに。
涙が、溢れて止まらなかった。
胸が痛んで、仕方なかった。
「何で、君が泣くんだ・・・」
ゾランの声は、揺れていた。
「わからないよ・・・」
でも、だって。
ゾランだって、ゾラン自身の幸せを掴んだっていい。
幸せになっていいのに。
彼は、ゾランは、当たり前みたいにソフィアの幸福だけを願っている。
「あなたみたいな優しいキツネが、報われる世界になって欲しい。わたし、必ずハッピーエンドを書くよ」
キツネのゾランと、人間の少女ソフィアの。
幸せを。
「人間とキツネの恋の成就は、ありえない。そう決まってるんだから」
天宮さんの言葉に、モヤモヤとした煙が心の中に広がる。
「なんで?なんで、そんなことが決まってるの?そんなの、誰が決めたのよ」
幸福も、不幸も、誰にも決めることは出来ない。
決めることが出来るのは、その人自身だ。
「・・・その通りだったのかもしれない」
「え?」
ゾランは、宙を見ながらぼんやりと言った。
「俺は、幸福を彼女に押し付けて、本当のあの子を見ていなかったのかもしれない」
「そんなこと」
「あるんだよ、そんなこと。だって・・・おかしいと、少し思ったんだ」
かぶりを振るゾランは、先ほどとは打って変わって凪いだ湖のように落ち着いた目をしていた。
「彼女が別れを告げて俺の前からいなくなる前、ソフィアの記憶が曖昧になっているのに、気づいていた。昨日の出来事を忘れていたり、前に見たことのある花を初めて見る素振りをしたり・・・気づいていた。彼女が、少しずつ変わっていったことに。気づいていたんだ」
でも、とゾランは続けた。
「でも、それでも、俺はそんな彼女に何も、何も・・・してやれなかったどころか、彼女の父親を騙し続けた。挙句、俺がその家から絞り取ったせいで、ソフィアは、地下の薄暗い部屋で、一人死ぬことになった・・・許せなかった、自分の弱さが。醜い、自分の生き様に・・・反吐が出そうだった」
苦し気に両手で首元を押さえるゾランの目は、真っ暗で何も映していなかった。
「彼女に幸せになって欲しい、だなんて俺の勝手な自己満足だよ。自分が守れなかった、自分が地に堕とした彼女を幸福な世界に押し込んで、なかったことにしたかった」
勝手で、都合のいい正義を振りかざしているのは、俺の方だ。
そう言って、ゾランは口元に笑みを湛えた。
「それでも・・・君が泣いてくれて、うれしかった」
ツゥ、とその頬に黒い筋が流れた。
「それっ・・・」
黒い筋は、ゾランの目から次から次へと流れ落ちる。
ゾランは、驚きもせずにそっと自身の頬に触れた。
「―――泣くのは、初めてだ」
ふっ、とゾランの輪郭が大きく揺らいだ。
かと思うと、次の瞬間には目の前に、一匹のキツネが座っていた。
「ゾ、ゾラン?」
キツネの黒い瞳から、黒い涙は止まらない。
次から次へと、黒い染みをゾランの茶褐色の毛並みに落とす。
「ありがとう」
まるで、別れの挨拶のような言葉に手を伸ばす。
「待ってよ、待って、わたし、まだ」
その頬の涙を拭おうと手を伸ばす。
ゾランの輪郭は、ゆらりと揺らめいて、今にも消えて無くなってしまいそうだった。
わたしが立ち上がってその頬に触れたのと、その拍子に膝の上に置いた本が落ちて開いたのと、ほぼ同時だった。
カカッーーー!
昨日の青白い光が、わたしと、ゾランと、そして肩に留まったままのステインを、包み込むように広がって、その眩しい光に身をゆだねるように目を閉じた。
8 読まれなかった手紙
ごめんなさい、本当のことを言えなかった私をどうか許して。
鈴の音のような声が、頭の奥で響く。
―――誰の声だろう?
意識の底で、女の子が膝を抱えて泣いている気がした。
声の主を見ようとしたその時、額に走る痛みにパチリッ、と勢いよく目を開けた。
「ったぁ~・・・ステイン!」
覚えのある痛みに、覚えのあるカラスの名を叫ぶ。
「カア」
何て悪びれもしないふてぶてしい様子なの!
「そいつは、君がいつまでも起きないから心配してたんだよ」
白いカラスの隣に、キツネが立っていた。
「ゾ、ゾラン・・・?」
思わず手を伸ばす。
「何だよ?くすぐったい」
その確かな感触に、ホッと息を吐く。
「だいたい、俺は物語の中の住人。紙とインクで出来た、まがい物。生きてなんかいないんだから、君がそこまで心を砕く必要はないよ」
その言葉に、思わず触れた毛並みを強く引き寄せる。
「っわ!何だよ、急にっ」
小学四年生のわたしの胸にすっぽり収まってしまう、一匹の小さなキツネの子。
「言っとくけど、俺は君よりもずっとずっと、年上なんだからな!」
ていうか、ここはどこだよ!
照れくさいのか、ゾランは腕の中で悪態ばかりつく。
「はあ~~~もふもふ。あったか~」
彼は生きている。
まがい物なんかじゃない。
太陽を浴びたぬくもりと、一定のリズムを刻む鼓動の音を、確かめるように抱きしめて、そっと離した。
「・・・さっき、女の子の声がした。たぶん、あれは」
その瞬間、白い世界に黒いインクが零れるようにぽつん、ぽつん、と降ってきた。
それは、雨のように染みを作って、そのうち小さく細い、声になった。
親愛なるキツネのあなたへ
ごきげんよう、キツネさん。
あなた、文字は読める?
今日は、あなたに伝えたいことがあってペンをとったの。
けれど、あまり楽しい話ではないから、最後まで読まなくてもいいわ。
あなたが、今幸せなら、どうかこの手紙は破り捨てて。
でも、もし。
もしも、私があなたの心の傷になっていたら、あなたの心に今でも私がいるのなら、どうか聞いて欲しい。
私は、生まれた時から短命を告げられ、時間を早送りさせられるように、時計の針が壊れたように、早く老いる病気なの。遺伝なのか、父も母も早くに亡くし、施設にいたところを今のダージン伯爵夫妻に引き取られた。この青い瞳を見初められて。
伯爵夫妻は、美しいドレスや宝石で私を着飾って、まるで人形のように扱った。
最低限のお世話は、使用人に任せて、観賞したい時だけ呼ぶか、見に来るの。
私の部屋は、大きなお屋敷の地下にあって、陽の光はあまり入らないの。だから、今も昼間だけれど、蝋燭の明かりでこれを書いているわ。
私のこと、あまり話したくなかった。
だって、あなたはいつだって眩しそうに私を見るんだもの。
私は、お金持ちの貴族のお嬢様なんかじゃないの。
本当の私は、青い瞳をお金で買われた、ただのちっぽけな孤児。
でも、私、幸福だったわ。
あなたと出会ってからは。
太陽も、空も、草も、花も。ぜんぶ。
みんな、あなたと出会ってから見る景色は、今までの何倍も輝いて見えた。
記憶が混濁して、名前を間違えてしまうかもしれない。
わすれてしまうかもしれない。
それがとても怖くて、一度もあなたの名前を呼べなかった。
ごめんなさい、ゾラン。
本当のことを言えなくて。結婚するなんて嘘を吐いて。
それでも、どうしてもあなたには言えなかったの。
私一人老いていく姿を見られるのが、どうしても嫌だったの。
大好きよ、ゾラン。
私は、いつまでもあなたを愛しているわ。
だから、どうかあなたも幸せになって。
幸福を諦めないで。
いつまでも、あなたの幸せを祈っているわ。
ソフィア
その声は、ソフィアの手紙だった。
誰にも読まれなかった、ソフィアの手紙。
白と黒のまだらになった世界で、またあの青白い火の玉がどこからか音もなくやって来た。
光は、丸い円を描くように宙を飛び交って、映像を織りなしていく。
ふいに、声が響いた。
「はじめまして、あなたの髪、アカシヤのハチミツみたいにきれいね」
白髪の女が、ベッドの上でそう微笑んだ。
それから毎日、来る日も来る日もゾランはソフィアに会いに行った。
その度に、「まあ、どなた?」と繰り返すソフィア。
それに、「はじめまして」と微笑み、答えるゾラン。
キツネのゾランは、間違いなく誠実なペテン師だった。
ソフィアの言葉に、おぼろげになる記憶に、いつも笑って答えてみせた。
それでも、ソフィアの時計の針は止まらない。
とうとうある日、彼女は静かで、長い眠りについた。
そして、ゾランは
語りは、そこで途切れた。
そして、白黒の世界に沈んだ意識がふわり、と浮かぶのを感じた。
次に目が覚めた時、視界に入ったのは教室を染める、橙色の夕陽の光だった。
「んん・・・戻って来たのね」
夕陽の眩しさに目を細めて呟く。
「・・・おかえり。随分お早いお戻りだったじゃないか」
ブスッとした声が左耳でして、つい小型通信機を押さえた。
「あ、天宮さん!もしかして、ずっと」
「ずっと待っていたよ、もちろん。子どもたちだけで、本の世界に消えた、だなんて、僕が誘拐罪で捕まるかもしれないじゃないか、まったく」
不機嫌な天宮さんに何て言えばいいのか、言い淀んでいると、
「おあいにく、俺は子供じゃない。キツネ的には大人だ」
ふいに、隣から聞こえて来た声に驚いて顔を上げる。
夕陽を背に立つ、ゾランがいた。
「何だ、その顔」
ゾランはぽかりと口を開けて驚く私を見て、フッと笑った。
その笑顔が何か、吹っ切れたようで、でも、やっぱりどこか憂いを帯びていて。
「ゾラン、」
「さあ、勝負の決着がまだだったね」
ギィ、と木の椅子を引いてゾランは盤面に向かった。
「決着って・・・」
カラン
ゾランは、自らのキングを指で弾いた。
「君の勝ちだよ」
その時ちょうど、下校を促す音楽が渡り廊下に響いた。
「ドボルザークか」と、天宮さんが呟いた。
わたしとゾランは、夕陽のオレンジ色に染まる空を窓越しに見上げた。
夕立か、雨がザーザー降っているのに、空は深い橙色の光に包まれて、晴れ渡っていた。
九 めでたしティータイム
「だから~、キングの安全を確保するためにここは、こっちの駒をここに」
「ああ!なるほどー!さすが、ペテン師!」
「ちょっと?そうだけど、それ誉め言葉じゃねーよ?」
天窓から降り注ぐ陽の光で、ガラスの駒がきらきらと盤上に輝く。
どこからか、甘いいい香りが・・・
「な、ん、で!まだいるんだ!」
銀のお盆を抱えた天宮さんが、ステインと共に書斎に入って来た。
「だって、結局?俺が負けちゃったし、勝負師として自分が賭けたことには責任持たないと」
「だからって!蒼井!何でこいつに言う願いが『チェスを教えて欲しい』になるんだ!もっと他にあるだろう⁉」
カタン、と怒っていても丁寧にティーセットをテーブルに置く天宮さんに、苦笑いする。
「そうカリカリすんなって。ここに置かせてもらう代わりに、こうして家事とか細かいこと、手伝ってんだろ?」
ゾランはお盆からティーポットを手にし、軽く揺すった。
「揺するな!緑茶じゃないんだから!」
天宮さんが、ばっ!とその手からティーポットを奪い取る。
「そもそも、そういう問題じゃない!僕はステイン以外の動物と寝食を共にする気はないし、君に家事も望まない。僕が君に望むのはただ一つ、君が本の世界に戻ることだけさ」
天宮さんは、わたしとゾランの前にはグラスに注がれたレモネードを。
自分用にカップとソーサーを用意して、ティーポットから紅茶を注いだ。
「うん、いい香りだ」
ふわん、と香る紅茶の匂いに息を深く吸う。
「俺も紅茶でよかったのに」
「お子様は黙ってレモネードをお飲み」
天宮さん自家製のレモネードは、冷たくて甘くて飲みやすい。
すっきりとしたおいしさにゴクゴク飲んでしまう。
「ぷはっ!おいし~い!」^
「ふっ、当然。今日は、美味しい佐藤錦が手に入ったので、さくらんぼのパフェを作ってみました」
「わあ!おいしそう~!」
ツヤツヤと瑞々しいサクランボがてっぺんに乗った、きれいなパフェだった。
「さ、召し上がれ」
長い銀色のスプーンですくう。
ひんやりとしたサクランボのアイスと生クリームが口の中で、甘いハーモニーを奏でた。
「おいしい~!」
「ふふん、そうだろうね!何せ、こだわり抜いた素材!丁寧かつ確実な手腕!これはもう、パティシエに転向しても上手くいきそうだっ!」
キラン!と輝かしい笑顔を浮かべる天宮さん。
「アイス、食べないと溶けちゃうよ?」
「それはいけない。美味しいものは美味しいうちに食べるべきだ」
ぱくぱくと無言でスプーンを口に運ぶゾランも、もうすっかり天宮さんの作るお菓子の虜だった。
「そうだ、天宮さん。お願いがあるんだけど」
「お願い?」
首を傾げる天宮さんに、コクンと頷く。
「あのね、素敵な便せんがあったら、分けてもらえないかなって」
「便せん・・・あったかな」
頭を捻る天宮さんに慌てて付け足す。
「あ!あったらでいいの!あったらで!・・・本当は、自分で買いたいんだけど、今月のお小遣い、もう使っちゃって」
来月のお小遣いを待っていたら、間に合わない。
「あ、そういえば何年か前に鳩居堂で買ったレターセットが、あの辺りに・・・」
天宮さんは、書斎の奥の方へとレターセットを探しに行ってくれた。
「誰かに手紙でも書くのか?」
ゾランは口元に生クリームを付けて、ペロリと唇を舐めて聞いた。
それに笑って答えた。
「うん!お母さんとおばあちゃんに!」
散歩に行っているステインが、近くの森でカーカーと気持ちよさそうに鳴く声が、窓から聞こえた。
おわり
