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きのころチャレンジ 『続きは読めない』

今朝、郵便受けに入っていた一通の手紙。
差出人の名前はない。
胸騒ぎに震える手で、封を開ける。
中に入っていたのは、途中まで書かれた私の遺書。
覚えはない。
だが、間違いなく私の筆跡だ。
日付は明日になっていた。


仕方がない。続きを書くことにした。
遺書の最後は「続きを書いてね」で終わっていたから。
これも私の筆跡だ。
まったく、気楽に言ってくれて。
どうやらこの日付は、この遺書の作成期限らしい。

私には記憶障害があって、その日会ったことを次の日には忘れてしまう。
だからきっと昨日の私は、今日の私に託したいことを手紙にしてポストに入れておいたのだろう。
ポストは毎朝確認するから必ず気付く。
だが、何故今、私の遺書が必要になるのかはさっぱり分からない。
それについては何も書かれていなかった。
ただ、続きを書いてポストに入れておけ、と。
昨日の私、ずいぶん不親切だな。
……いや、昨日の私も、何にも教えられていなかったのかも。

遺書と言ったって、私には相続するような遺産もないし遺族もいない。
だから、誰に宛てるでもなく、ただ自分の半生について書き綴った。
長い日記のようなものだ。
過去の出来事を思い出し、その時の感情を交えて書き記した。
幼稚園に初登園した日のわくわくや、小学生の時の初恋のドキドキや、中学生であったイジメの鬱々や、初めての彼氏が出来た高校時代のウキウキなど、とにかく思いつくままに書いた。
両親が事故で他界した時の、絶望的な想いまで。

自分なりに納得できる遺書を書き上げて、ポストに入れようとしたその時、ふと、自分の記憶が戻りつつあることに気付いた。
もともと、遠い過去の記憶は残ったままで、ここ最近の記憶だけが失われる記憶障害だったが、その始まりはやはり、両親の事故死だったように思う。
今回こうして遺書を書くことで、あの日までの記憶を辿り、自己防衛のために記憶から消そうとしていたあの日の想いと向き合うことで、引き出しの奥に隠されていた記憶が取り出せたのかもしれない。

もしかして、これが目的だった?
これが、数日前の私が考えた、記憶障害の治療法?
思い出してくる。
人は死ぬ時、走馬灯を見るという。
そこには、自分がすっかり忘れていた過去の出来事までが投影されるという。
失くしてはいないのだ。思い出はここにある。
そんなことを、職場の自席でお弁当を食べながら考えていたこと。
走馬灯を見るために死ぬわけにはいかないけど、遺書を書く行為で死を連想すれば、記憶が活性化されるのではないかと。

アホなことを考えたもんね。
私らしい。
でもさこれ、成功したのかも。
あの日の両親の事故のこと思い出しちゃったけど、今なら取り乱さずにパパとママを懐かしむことが出来そうだ。
今のこんな気持ちを、明日の私が覚えていますように。
そんな願いを込めて、書き上げた遺書をポストの中にそっと置いた。

こちらの企画に参加させていただきました。
よろしくお願いいたします。

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