見出し画像

武田信虎と夢見山の月 《ショートショート》

 夢見山  瞼の裏に  浮かべつつ  高遠の夜の  朧月みる

晴信はるのぶ誕生の一報を受けたときわしは、今川勢の福嶋とのいくさの最中で夢見山にいた。島のように横たわる夢見山に昇る月を、もう一度、躑躅ヶ崎つつじがざきの館から眺めたかったわ……)

 天正2年(1574年)、信濃・伊那の高遠城。天文10年(1541年)に、跡取り息子の武田晴信(信玄)とその重臣たちによって駿河に追放され、今川氏の元で隠居生活に追い込まれてから33年。武田信虎のぶとらは、心中で詠んだこの歌を紙にはしたためなかった。

 前年早々、上洛進軍の途上にあった武田信玄は信州・駒場で逝去。
 跡を継いだ武田四郎勝頼は、3年間は信玄の死を伏し、軍事行動を控えよという信玄の遺言を守るどころか、この年、織田信長支配下の東美濃に大々的な攻撃をかけ、18もの城を攻略。甲斐への帰途、ここ高遠城へ立ち寄った。

 一方、京の都で静かに余生を過ごしていた信虎は81歳。信玄死去の後、もう活発な情報収集などすることなく余生を送っていたとはいえ、信虎は、京の状況、御所を巡る情報、そして織田信長の動向について熟知していた。
 最後は自ら築き上げた甲斐の府中で余生を過ごそうと旅立ったのだが、勝頼とその重臣たちによってここ高遠城に足止めされていた。

 信玄逝去の後、勝頼の子息である信勝のぶかつが元服し武田家の統領となるまでの間とはいえ、親族衆・譜代衆で、〝お屋形様おやがたさま〟としての勝頼を心の底から認める者はいなかった。
 勝頼も、信玄時代に〝武田四天王〟と呼ばれていた譜代衆の馬場信春、山縣昌景、内藤昌豊、高坂昌信らを身辺から遠ざけ、長坂釣閑斎ちょうかんさい、跡部勝資かつすけ、武田信豊(唯一の親族衆)の他、伊那衆、諏訪衆を側近として政務を司っていた。

 長坂や跡部など勝頼側近にとって、信虎の存在は脅威以外の何物でもなかった。信玄の弟の逍遥軒信廉しょうようけんのぶかど、穴山玄蕃守げんばのかみ信君のぶただをはじめとした親族衆、〝四天王〟をはじめとした譜代衆によって、勝頼より血統的な正当性の高い信虎が、武田家の当主として担ぎ上げられ、勝頼が排斥されることを怖れたのだ。

 そして勝頼側近は、信虎の甲斐への帰郷を、不適切極まりなしとして認めることなく、何かと理由をつけて、逍遥軒信廉しょうようけんのぶかどが城主を務める高遠城で足止めしていた。

 数日前、信虎は、高遠城の大広間で勝頼と側近、親族衆・譜代衆との対面を果たしたばかりだった。
 こけた頬の上の眼光の鋭さだけは昔日と変わらなかったものの、老境の信虎が発した言葉の一つ一つは、極めて穏やかだった。信虎を警戒していた勝頼と側近、信虎に(もしや?)という期待を抱いていたごく一部の親族衆・譜代衆ともに、拍子抜けしたことはいうまでもなかった。

 どこでどう間違えたのか、絵描きの家系どころか、甲斐源氏武田家の三男として生を享けた信廉のぶかど(幼名は孫六)に、自らの肖像画を描かせながら信虎は呟いた。
 歌などに託さず直接、信廉(のぶかど)に伝えたかったのだ。

「孫六、わしの菩提寺は夢見山麓の長泉寺にしてくれ。四郎(勝頼)も、わしの位牌を甲斐に戻すことぐらいは許すだろう。この絵も一緒にな」

「はぁ……」

 信廉のぶかどを下げさせた信虎が次に呼んだのは、親族衆筆頭の穴山玄蕃守げんばのかみ信君のぶただだ。ほかの親族衆と譜代衆、勝頼とその側近が高遠城から去った後も、信君は高遠城に残っていた。
 穴山氏と武田氏は古くから密接な親族関係にあり、穴山氏は対外的に武田姓を名乗っていた。信君の生母の南松院なんしょういんは信虎の娘で信玄の姉、信君の正室の見性院けんしょういんは信玄の娘だ。

 身延山に近い富士川沿いの下山しもやまを本拠とする穴山氏は、金山を経営しており、下山には鉄砲用の火薬庫まで擁していた。
 信君は武将としての才覚のみならず、文人としての教養も高かった。
 さらに、長年に渡る駿河の今川氏との交渉によって鍛えられた対外交渉力は、武田家家臣団の中で群を抜いていた。

玄蕃守げんばのかみ、四郎が武田家で今の地位を保つためには、いくさで勝ち続けるしかあるまい。そして、戦上手(いくさじょうず)ゆえに増長し、右府うふ(織田信長)に滅ぼされることは必定じゃ。わかっておるな」

「フフフッ、何を申されるのかと思えば、とんだ戯言ざれごとを……」

 その返事と裏腹の信君の笑みは、信虎の本意を聞く前から理解していることの証だった。

「四郎が右府うふに討たれるとき、武田家を存続させるのは玄蕃守げんばのかみ、そなたの他にはおらぬ。嫡男の義信を死に追いやった、晴信唯一の不手際を補うにはそれしかあるまい」

 そこまでの信虎の本音を聞かされた信君は、一言も言葉を発することはなかった。そして信虎は、こう念を押した。

「甲斐に右府に攻め込まれた後、玄蕃守が守らねばならぬ武田家の姿を想像したことはあるか? ないとは言わせぬぞ……」

 信君は本音を隠しながら、いかにも驚いたようにこう呟いた。

「そ、れは……、また、とんな難題を……」

 信虎は、切れ味の鋭い刀のごとく、こう言い放った。

「玄蕃守が唯一無二の武田家の継承者となるならば。親族衆は一人たりとも生かしてはならん。たとえぬしが嫌でも、右府が許すことなどあるまい。儂の血を受け継いだ孫六(信廉)も例外ではないぞ、よいな!」

 翌年、信玄さえ落とせなかった徳川方の遠江(とおとうみ)・高天神城を落とした勝頼だったが、天正3年(1575年)、信虎の読み通り、長篠・設楽原の戦で徳川と援軍の織田に大敗。命からがら甲斐に逃げ帰ったものの、7年後の天正10年(1582年)、織田・徳川・北条の甲州攻めによって、勝頼と北条夫人、武田家の統領となるはずだった信勝は、田野の地で自刃。

 駿河から侵攻した徳川勢の水先案内人を務めたのは信君だった。
 信長に所領を安堵された信君だったが、3か月後、本能寺の変による堺から下山への帰途、京田辺で落ち武者狩りの手にかかり落命。

 徳川家康は、信君の正妻の見性院を手厚く保護し、穴山武田家の存続を図ったが、信君の嫡男・勝千代は病のため病没、家康が側室に産ませた万千代(信吉)を当主として武田家は再興されたものの、信吉も関ケ原の戦の3年後に病没。穴山武田氏は消滅した。

 話は天正10年(1582年)、織田・徳川・北条の甲州攻めの折にさかのぼる。信虎の三男で、の信虎の肖像画を描いた信廉(孫六)は、織田方の先鋒、滝川一益の軍勢が古府中(甲府)を占領した際、山中に隠れていたものの、穴山信君の配下が流布した出頭を勧めた触れにまんまと欺かれ、捕縛されてから間もなく、あっという間に首を斬り落とされてしまった。

 信廉を欺いた触れの内容とは?

 右府様(織田信長)は、信廉の絵師としての類まれなる才能を聞き及んでおり、安土城の屏風絵を完成させるためにも、是非、信廉を召し抱えたいと望んでいると……。

 子供騙しのような見え透いた嘘を見抜けず、のこのこと出頭したのも信廉の本質は、やはり武人ではなく文人だったのだろう。

 そんな些事などどうでもよい〝次元〟に魂の居場所を見つけたであろう信虎は、300年経った今でも、古府中のどこかで、甲府盆地の東の空、夢見山に昇る月を眺めているのかもしれない……。                                          
                (了)

*冒頭の短歌は、筆者の創作です。

いいなと思ったら応援しよう!