《自伝》1979年、父と鉛筆
あらすじ
90歳まで生きてくれた父、91歳まで生きてくれた母。
二人ともに逝去した後の今の私、両親からは、愛しか感じられません。
親不孝だった私、これでもか! と自分でも呆れかえるほど、両親に心配をかけ続けてきました。
『アジール』か『欲求の履歴書』を読んでいただいた皆さんはご推察かもしれませんが、私(香車伝)は高校の3年間、新左翼セクトの高校生組織の一地区のリーダーとして、三里塚闘争と狭山闘争に命を懸けてきました。そして、大学入学後、20歳になった頃には活動をやめ、ポストパンクのロックバンドの〝沼〟に嵌り、社会人となってからは、ポストモダンの〝相対主義〟にまみれて生きて参りました。現在も、(選挙を含めた)政治に関わる行動には、一切、関わらないスタンスは堅く保持しております。
思春期・青年期の私の思想・価値観・行動について、家族へ詫びる気持ちは今でもあります。それでも一方では、これが私の〝固有の生〟であり、世間での評価がどうであれ、そう生きざるを得なかったと思っており、一切の批判・非難は受け付けておりません。
(あなたにどうのこうの言われる筋合いはない。私の過去が気に入らないのは、あなたの問題であり、私の問題ではない)
かといって、「昔は良かった」的な回顧の気持ちのみで、この小説を書いてはいません。(もういいや……)と、政治活動の世界へ入って離れていった自身の心理過程を、掘り下げられるだけ掘り下げました。
新左翼セクトとは、一般市民にとってカルト以外の何ものでもないでしょう。しかし、外から見ればカルトでも、内に身を置けば、いい奴もいれば、嫌な奴もいるという、一般世間の人間関係と全く変わりませんでした。しかも、社会人になってから転職を繰り返し、10社ほどの会社に身を置いてきた経験から言えることは、少なからぬ会社は、新左翼以上に、とんでもなく〝真っ黒〟のカルトだったということです。いじめや校内カーストなどの諸問題を抱えている学校も、そうかもしれません。
そんな私の体験・見聞を基にした小説など、世間にはほぼ存在していないと思います。ご興味ある方にお読みになって頂ければ幸甚です。
この作品のボリュームは、400字詰め原稿用紙換算150枚ほどです。お時間のある折、ゆるりと読んでください。
1.プロローグ(1979年)
♫一人になるのに理由がいるか
理由があるから生きるのか
自由を語るな不自由な顔で
君は若いと言うつもりかい
人間は不完全な存在である。
不完全な存在である人間が100%の正義を主張し、押し通そうとするならば、悲劇にも喜劇にもなることは当たり前だ。
こんなシンプルですっきりとしたことを、頭(理屈)だけではなく心の底で実感できるようになるまで、一体、何年かかっただろうか。
かといって、「正義など虚しい」とポストモダンを気取ったところで、虚しくなるだけだ。
1979年(昭和54年)4月のある朝、曇天の下、飯田橋と市ヶ谷の間にある富士見大学の入学式に参加するため、伊澤俊二は父親とともに、会場である東京・九段の日本武道館に向かって歩いていた。
父の勤務先は日本武道館から間近だったこともあり、入学式に付き添ってきたのだ。
田安門の外では、何かの業者が縦長の白いのし袋を新入生達に配っていた。
それを受け取った俊二が中を見ると鉛筆が入っていた。
二人が田安門をくぐった後、俊二は何かの拍子でアスファルトの上に鉛筆の入ったのし袋を落としてしまった。
父は足腰の具合が良くなかったのにもかかわらず、腰をかがめてそれを拾い俊二に手渡してくれた。
(別に拾ってくれなくたっていいのに……)と思いながら、俊二は父から手渡された鉛筆の入ったのし袋を無言で受け取った。
俊二は入学祝いに親戚からオーダーメイドのスーツを贈られていたが、入学式のこの日は着ておらず、厚手の白いヨットパーカーとブルージーンズ姿だった。
この年の3月、埼玉の県立高校を卒業した俊二は、4つの大学の計6学部を受験、東京六大学の1校である富士見大学社会学部社会学科にのみ合格し入学を決めた。
富士見大学では他に文学部哲学科も受験したが不合格だった。
しかし、父に入学金を払い込んで貰った後になっても、富士見大学に入学することに対して(これでいいのだろうか?)とモヤモヤとした気持ちがくすぶり続け、大学浪人をすることで受験勉強を継続し、来年、別の大学を受験しようと決めていた。
富士見大学が嫌いだったわけではない。
嫌いだったらそもそも受験などしない。
ただ、高校3年間の自身の生き方を鑑みるに、富士見大学への進学は、俊二にとってあまりに〝予定調和〟すぎる気がしたのだ。
俊二は高校の3年間、新左翼セクトC派の高校生活動家としての顔を持っていた。
入学直後は一人、労働者組織の中に混じって集会・デモに参加していたが、卒業する頃には埼玉県E地区の高校生組織を創り上げ、リーダーとして統率していた(秋山グループ。秋山とはC派での伊澤俊二のペンネーム)。
C派は俊二が活動に参加した1976年(昭和51年)当時、新左翼の中で最大党派だった。
そして、1960年代に同じ組織から分裂したZ派と熾烈な内ゲバを繰り返しており、毎年少なからぬ死者と負傷者がでていた。
一般的には「70年安保闘争」は1969年の東大闘争をピークとして、1972年の連合赤軍あさま山荘事件と山岳ベースでの凄惨なリンチ殺人事件発覚をきっかけに一気に退潮、終息したとされている。
それは事実ではあったが一方で、大衆的支持を失い勢力は縮小しつつも、新左翼各セクトは相変わらず活動を続けていたのも事実だ。
高度経済成長をもたらした「55年体制」はまだ終焉しておらず、労働運動もまだ健在で、1975年(昭和50年)には、動労・国労を中心とした公労協による「スト権スト」が決行され、国民生活に少なからぬ影響を与えていた。
実際、俊二が高校2年生だった1977年(昭和52年)、三里塚(成田空港反対)闘争における高校生の動員数は史上最高に達していた。
俊二の中学生時代の友人で、政治運動とは全く縁などなさそうだったパチンコ仲間でさえ、高校の教員による影響だろうか、俊二に三里塚闘争のことを熱心に語るなど、思いのよらないことさえあった。
三里塚闘争と、狭山事件を冤罪とし部落解放同盟を中心に展開されていた狭山闘争。
当時の新左翼にとってのメインテーマは、「三里塚と狭山」だった。
もっとも、Z派のみ「三里塚闘争は農民のエゴイズムによるもので革命的マルクス主義とは無縁」と一線を画し、部落解放を掲げた狭山闘争にも、石川一雄氏の冤罪説を否定し参加していなかった。
歴史の上では、〝若者叛乱イコール左翼の運動〟と考えられがちだが、1973年(昭和48年)には当時の国鉄労働者の順法闘争に対し、怒りの頂点に達した乗客による〝静かな暴動〟とでも呼ぶべき「上尾事件」が起きている。
〝血の気が多かった〟のはなにも左翼とか学生だけではなく、世の中全体にそんな〝空気感〟がくすぶり続けていたことを指摘する識者はほとんどいないだろう。
実際、首都圏ターミナル駅周辺の電柱には、新左翼のアジビラが貼られまくっていたし、各セクトによる街宣(街頭宣伝)も頻繁に行われていた。
人口ボリュームの多い世代が先導した〝トレンド〟としての〝若者叛乱〟の火は消えかかっていたものの、まだ完全に消えてはいなかったのだ。
そしてC派の全国最大の拠点校こそ、富士見大学であった。
2.高校生時代(1976~1979年)
〝若者叛乱〟の時代が終わったとされ、〝シラケ(世代)〟というコトバが広まっていたのにも関わらず、自分が左傾化した理由を、俊二は自覚しているつもりだった。
俊二が「自我」に目覚めたのは14歳(中学2年生)のとき。
ずっと後年になってからその言葉が一般化した〝中二病〟そのものだ。
まず、第一に肉体的コンプレックス。
とにかく体が細かった。
小学校低学年までは身長も低く、栄養失調ではなかったのに栄養失調と呼ばれていたことさえあった。
幼児期から続いてきた環境に守られていたそれまでとは打って変わって、自意識が筍のように顕在化し始めた。
中学校の体育の授業のときは、真夏でも半袖を着ることができず、長袖の体操着を着続けていた。中学校にプールがなかったことには大いに助けられたが。
そして異性の眼を意識し始めた。学校ではスポーツ万能の生徒が一番モテたわけで、運動神経が劣っていたことは俊二にとって致命的だった。
そうなると、小学校4年生のある日曜日の午後、当時住んでいた地方都市の社宅の庭での草野球に入れてもらえず、一人佇んでいた社宅の階段の踊り場で生まれて初めて湧いてきた〝どす黒い感情〟も記憶の底から蘇えり、それがあたかも自分の〝原点〟のように思えてきた。
中学3年生になると、生卵を二個飲んでから夜の庭で木刀の素振りをして腕を太くしようと試みたこともあった。
映画『ロッキー』で主役のシルベスター・スタローンが、特訓中に生卵を飲んだことが話題となった2年前のことである。
第二に精神的コンプレックス。
肉体的コンプレックスと同様、思春期になるまでほとんど顕在意識にはのぼってこなかった「自分は弱い人間なんじゃないか?」「これじゃまずいのではないか?」という気持ちが、ムクムクと湧き上がり、俊二の心を支配し始めた。
そして1972年2月の連合赤軍あさま山荘事件の報道をテレビのニュースで観たことは決定的だった。
ニュースでは、山荘が陥落して機動隊員に逮捕され連行される連赤のメンバーが映されていた。
メンバーのうち数人が、うつむくどころか顔を隠すこともなく威風堂々(ただの呆然自失状態だったかもしれないが俊二の眼にはそう映った)としていたことに強烈なインパクトを受けた。
「ダーティーヒーロー」でもヒーローには違いなかったし、ダーティーだからこそより一層、強さを感じたのかもしれない。
(これが強い人間というものか……)と生まれて初めての衝撃を受けたのだ。
これら肉体と精神のコンプレックスをどのように解消しようか?
あまり人がやらないことがいいんじゃないか?
20代後半になってから、マーケティングリサーチの仕事に携わった俊二は、米国の経営学者フィリップ・コトラーの競争戦略の「フレームワーク」をよく援用した。
その4分類のうちの「リーダー」「チャレンジャー」「フォロワー」ではなく、希少で独自性の強い「ニッチャー」戦略を採用したということになろう。
第三には、他人からの強制ではなく、自分で自分に突き付けた「自己否定」だ。
学校や家庭で特に問題を起こしたわけではないのにもかかわらず、なぜか自分は人を傷つけたりする罪深い人間ではないかという罪悪感に囚われるようになっていた。
中学2年生の秋、俊二が写生大会で大宮公園の紅葉を描いた水彩画が、自画自賛するほどいい出来栄えで、美術教員が校内の廊下に張り出してくれた。
それを機に絵に興味を持ち始め、ちょうど上野の国立西洋美術館で開催されていたドレスデン国立美術館所蔵「ヨーロッパ絵画名作展」を観に行き、油絵の具が塗りたくられたキリスト教の宗教画に魅せられた。
名作展が終わってからも、毎週土曜日の午後は、一人で国立西洋美術館の常設展を観に行くことが楽しみとなった。
宗教画に興味を持ち始めたものの、なぜか興味はキリスト教へ向かうことはなかった。
広く近代ヨーロッパの歴史全般に興味が向き、やがてフォーカスが絞られた先は、社会科の教科書でその存在を知ったジャン・ジャック・ルソー、ジョン・ロックなどの啓蒙思想だ。
俊二は中公文庫版の『社会契約論』を買ってきて読んだ。
啓蒙思想の行きついた先は社会主義だ。
社会主義と共産主義、マルクス・レーニン主義が、実はキリスト教の進化系の一つなのではという自分なりの仮説が頭に浮かんできたのはそれからまだ先、大学生になってからのことだったが。

とにかく、14歳の自分が辿ってきた〝思想遍歴もどき〟は、少なくとも俊二自身にとって自然なロジックだった。心身のコンプレックスから逃れるための模倣困難性の高い「ニッチャー戦略」、誰からも強制されていないのに自らに課した「自己否定」と「自己批判」。これら全てを包括する〝武器〟こそ、マルクス・レーニン主義だったわけだから、実に単純な思考回路だ。
高校受験の勉強に力を入れ始めた中学3年生の俊二は、日本共産党の月刊機関誌『前衛』を買い始めた。
高校に進学したら『赤旗』を購読するつもりだった。
志望高校は県立だったが、3学期のある日曜日、東京都内にあった滑り止め候補の私立高校の下見に出かけた。
当時は首都圏ターミナル駅前での新左翼(過激派)のアジ演説は珍しいことではなかった。
一通り回り終え、夕刻になって降りた渋谷駅前では、赤ヘルメットのB同盟の某セクトが街頭宣伝を行っていた。
ビラを受け取った俊二は学生活動家の男女と二言三言、言葉を交わした。
「そうか、君は中学生なんだ。今度の○○阻止闘争は肉弾戦だ。君も是非一緒に!」
(俺、まだ受験終わってないんだけど……)と俊二は呆れた。
まだ、新左翼(反代々木系)と日本共産党(代々木系)の区別もよくわかっていなかった、というわけではなく、共産党(代々木系)にシンパシーを感じつつも、共産党が批判していた「トロッキスト暴力集団」(新左翼=反代々木系)にも興味があったということだ。
高校入学直後、俊二はふとしたことから知り合った大熊という30代になったばかりの男性からオルグを受けた。
その大熊はC派「反戦青年委員会」の労働者だった。
まだ15歳だった俊二は、大熊に全幅の信頼を寄せていた。
だからもし大熊がZ派の活動家だったら迷うことなくZ派に参加していただろうし、共産党系のM青だったら中学生時代の想定通りM青に参加していただろう。
大熊とはほぼ週に1回、俊二の地元の最寄り駅から数駅はなれた街の喫茶店で会っていた。
内容はひたすら大熊による現状分析のレクチャー。
C派の機関紙(R紙)を購入し、その場で読み合わせることもあった。
俊二が初めて大衆闘争に参加したのは、1976年5月23日の狭山闘争で、会場は日比谷野外音楽堂。
俊二のいたC派のエリアは白いヘルメットを被った活動家たちで溢れていた。
この日はたまたま日曜日だったが、平日に都内で集会・デモがあるときは学校へは行かず、自転車で最寄り駅から数駅離れたターミナル駅まで行き、トイレで私服のジーンズとカッターシャツに着替え、コインロッカーに荷物を預けて都内の会場へ向かうという生活が始まった。
年間での大きな集会・デモは、6月15日の沖縄デー、8月と12月のC派大政治集会、10月21日の国際反戦デー。
その間に三里塚闘争や狭山闘争の集会・デモが入っていた。
俊二が初めて三里塚闘争で三里塚第一公園の集会に参加したのは、高校1年生と2年生の間の春休み、1977年(昭和52年)3月27日、曇天の日曜日だった。
会場の第一公園の周りにはお祭りのように多くの屋台が出ていた。
集会終了後のデモ行進のとき、いまだに理由はわからないし経緯も曖昧だったが、一人だけ隊列から離れ、低い丘が続く三里塚の深い森の中を何時間も一人彷徨って、やっとのことで帰った記憶があり、20年以上後になってから不思議な縁を感じることとなった。
俊二が初めて内ゲバを身近に、というか自分ゴトとして感じたのは1977年(昭和52年)4月15日(金曜日)夜に起きた事件だった。
埼玉県浦和市(当時)にZ派の印刷工場があり、その工場から出てきたZ派のワゴン車が、C派と同じくZ派と内ゲバを繰り広げていたK派によって襲撃されたのだ。
どのセクトでも新左翼のワゴン車には、防護のため機動隊の警察車両のように窓の外側に金網が張られていた。
K派の2台の大型トラックがZ派のワゴン車を前後から挟み撃ちにして停めた。K派の構成員はZ派のワゴン車のドアを鉄パイプなどで叩き壊し、車内からドアを開けられないようにしたうえで、割った窓ガラスからガソリンを流し込んで火をつけた。
ワゴン車内に閉じ込められた四人のZ派活動家は全員焼死した。
事件翌日の土曜日、その日の曇天と同じように俊二の心は曇っていた。
まだ被害に遭ったのがZ派だったのを知らなかったからだ。
もし被害に遭ったのが、自分が知っているC派の反戦青年委員会の人達だったら? と想像すると何とも言えない嫌な気分になった。
幸い(?)事件の被害者はC派ではなく、対立セクトのZ派だったと知って安堵した。
実行犯のK派は元々、日本社会党系の青年組織だったが、この数年前、最高幹部をZ派に殺害されており、その復讐戦に燃えていたのはC派と同じだった。
週刊誌などのメディアはこの内ゲバ事件を「人間バーベキュー」という下世話な表現でセンセーショナルに報道していた。
数日後に俊二が見た新聞には、一人のZ派幹部の母親が警察署で、黒焦げに炭化した遺体となった息子の名を叫んで泣き崩れたと書かれていた。
もし自分が被害者だったらやはり母親は泣き崩れるのだろうか? と俊二は想像した。
70年代後半の内ゲバは、戦略と戦術の専門化が進んでいた。
C派、Z派、K派には内ゲバ専門の非公然地下組織があり、C派ではターゲットを殺害することを「完全殲滅」、重傷を負わせることを「重殲滅」と表現、1人のターゲットの殲滅のため1年以上、毎日、尾行と行動把握に努め、数百万円単位の費用を費やしていた。
実行時にはターゲットがいるアジトの電話線を切断する。
だから、たかが高校生の自分が内ゲバのターゲットになることは考えられなかった。
それでも、自分と縁のある人間がその被害者になったら嫌だよなぁ……とは感じていた。
党の方針で内ゲバを「革命戦争」と刷り込まれていた俊二ではあったが、「障害者解放」をスローガンに掲げていた党が、内ゲバ(対Z派戦争)で障害者を〝量産〟している事実に対し、心の奥底では(おかしいんじゃないか?)という違和感をぬぐえなかった。
少なくとも高校生の自分が内ゲバの被害に遭うことはないだろうとタカをくくっていても、各セクト間の諜報活動は熾烈だった。
都内の明治公園、代々木公園、日比谷野音などでC派参加の集会・デモが開かれれば、会場の周りをZ派の無線車が何台も走り回っていた。
公安による活動家の把握も徹底していたが、それ以上の執拗さだったかもしれない。
ある平日の夜、明治公園で開催された集会から帰る途中、大熊達から教えられた通り尾行を切りながら路地を歩いていたら、路地の角の街灯の下でZ派のレポと思われる若い男と鉢合わせしたことがあった。
俊二は尾行されていたわけである。
やはり教えられていた通り、その男はネクタイを締めた三つ揃いのスーツ姿だった。
そして一瞬睨みつけた俊二と眼を合わせることはなかった。
そんな環境だったので、活動にはお金がかかった。
集会・デモからの帰途はタクシーを使うのが規則だった。
後になってわかったことだが、集会・デモ以外でも活動家はタクシーを頻繁に使っていた。
俊二のような高校生も例外ではなく、タクシーの利用は、活動家の素性を的確に把握していた公安への対策よりも、対Z派の内ゲバ対策だった。
また、集会・デモでは、万が一逮捕されたときのため、身元がすぐに判明してしまう定期券を持ち歩くことは禁じられていた。
それでも高校生でお金のなかった俊二は、規則を破って定期券を持ち歩いており、後ろめたさを感じていた。
三里塚現地への往復では特に交通費がかかった。
アルバイトをしていなかった俊二は、小遣いだけでは活動費が足りるはずがなく、パチンコ屋に通い、ときには床に落ちている玉を拾いながらせこく小銭を稼いでいた。
高校2年生になった俊二は、大熊と顔を合わすことがなくなり、反戦青年委員会の幹部の中年男性、立花から直接、指導を受けるようになった。
もちろん立花はC派内のペンネームで、本名も略歴も知らなかった。
ただC派の有力労働組合のオルグで妻子がいることは知っていた。
昔は労働組合の活動家で退職後にC派の専従活動家になっていたのだろう。
そんな立花だったので、俊二が両親のことを話題に出すと、決まってこう言った。
「かわいいんだよ……」
反社会的組織の活動家とはいっても皆、一様ではなく、それぞれ個性を持った普通の人間であるという当たり前のことを俊二が実感するようになったのは、立花と知り合ってからだ。
俊二が高校2年生のとき、三里塚闘争が大衆闘争レベルで最も盛り上がり、高校生活動家の動員が最高潮に達した時期のことだった。
俊二の地元の某大学はトロツキー主義派のDインターの拠点で、学内に貼られていたビラには、新東京国際空港公団総裁(俊二の高校の卒業生)の自宅の電話番号が書かれ、「抗議電話をかけよう!」と無責任なアピールが記されていた。
総裁の自宅が埼玉県内だったからだ。そんな幼稚な抗議行動などしたら逆探知でパクられることは間違いない・……。
俊二はそんなDインターの姿勢にあきれたが、立花もこう釘を刺した。
「そんなこと絶対にやっちゃ駄目だよ!」
高校3年生になった俊二が、大学に進学するか就職して労働組合に入るかという進路で迷い、立花に相談したことがあった。
「あんたインテリだから、労働者には向いてないよ」
立花にそう言われた俊二は、ランボーの「裏切られた心臓」という詩を思い出した。
パリコミューンに参加した若きランボーが、コミューンの「大人たち」のあまりの下衆さに失望したことをうたった詩だ。
もちろん海千山千の専従活動家の立花には厳しい面もあった。
俊二が自分を尾行してきたZ派のレポと鉢合わせした夜、解散時に勝手な単独行動をした俊二は後日、立花に怒られた。
「心配してたんだよ!」と言った立花は、決して怒るために怒っていたのではないのだと俊二はわかっていた。
反戦青年委員会の労働者の隊列に混って集会・デモに参加していた俊二は、会場でC派の高校生組織HKKのスカイブルーの旗を見るたびに、いつか自分も加わりたいな、と思い始めていた。
高校2年生の夏、三里塚第一公園で開かれた反対同盟主催の集会で、そのきっかけとなる出来事が思わぬ形で訪れた。
暑い日曜日の公園で手持無沙汰だった俊二は、白ヘルのC派のエリアからそう遠くないところで、段ボール箱の中に「反帝」の白文字が書かれたK派の青いヘルメットが入っているのを見つけた。
俊二はこの年の春のZ派ワゴン車への放火テロル、そして狭山裁判控訴審担当東京高裁判事の乗った車の窓をバットでたたき割きるなど、いちいちやることが派手なK派に僅かながら興味を持っていた。
そして、深く考えもせず、自分の被っていた白ヘルを取り、青ヘルを一つ段ボール箱から取り出して被ってみた。
すると、まるでヒッピーかロックミュージシャンのように髪を伸ばし、C派の白ヘルを被った20代半ばぐらいの男が、すかさず俊二に絡んできた。
「おぅ! テメーよぉ、なんでここらをウロウロしてるんだ!」
俊二はすかさず答えた。
「あ! 俺はつい出来心で青ヘルを被ってみたかっただけで、実はC派の高校生なんですよ。埼玉の労働者の隊列で来てるんですけど」
すると長髪の男は、俊二の言うことを疑いもせず、途端に態度を180度逆転させ、相好を崩しながらこう叫んだ。
「おっ! そうなんだ! 俺はね、実はC派の高校生担当、高対(こうたい)なんだよ!」
その高対の男のペンネームは加納といった。
加納はとてもわかりやすい男だと俊二は思った。
あまり人を疑わず無邪気なところも自分と似ているかもしれないと直感した。
このことをきっかけに俊二は、高校2年生の秋になると、反戦青年委員会から高校生組織(HKK)の指導下となった。
俊二の居住エリア内で行われていたほぼ毎週の機関紙(R紙)読み合わせは、加納ともう一人の高対の末井が代わる代わる担当してくれることになった。
ミュージシャン風の加納とは対照的に、おそらく地方出身で方言を混ぜて話す末井は真面目そうな男だった。
新左翼の最大党派であったC派は、官僚的といえるほど規律は厳しかった。
集会・デモなどの大衆行動において、あらかじめ警察に逮捕されることを想定した「決戦」以外で逮捕されることは基本的に禁じられていた。
党には「救対」といって逮捕者が出た場合、警察署での接見や逮捕者の家族との交渉・ケアを行うセクションがあった。
つまり、逮捕者が出ると党にとって労力と金銭面で少なからぬコストが発生したわけである。
俊二が出会ってから数か月後、ある集会後のジグザグデモの最中、加納が機動隊員と小競り合いになり、公務執行妨害で逮捕されたことを末井から聞かされた。
予定外の逮捕だったので党からはきつく叱責されたという。
その話を聞いたとき、わかりやすい性格、すぐカッとなりやすいお天気屋の性格も自分と似ているのではないかと、俊二はまたしても加納にシンパシーを感じた。
が、残念なことに逮捕事件以来、加納は高対から外されたようで、俊二担当の高対は、真面目そうな末井のみとなってしまった。
俊二は、高校入試を控えた1月の進路決定面談までその存在を知らなかった高校の受験を中学の担任から勧められ受験し合格、入学していた。
俊二の住んでいた大宮市(当時)から距離的にはそう遠くはなかったものの、県北東部の田舎にあってその存在を知らなかった高校への心理的距離は絶望的に遠かった。
県南の高校に進んで思いきり生きていくつもりだった俊二のはかない希望は、願書提出のため、群馬県の終着駅に向かい、まだ木製の床が油臭かった電車(「アブラ電車」と俊二は呼んでいた)に乗り、地平線が見えるような田畑の中を走っている最中、見事に打ち砕かれた。
(騙された! 担任に・・・・・・)と俊二が気づいたときは遅かったのだ。かといって県立高校をわざと不合格となり、学費が高く校則も厳しそうな東京都内の私立高校に行くわけにもいくまい。結局、この高校に入学したが、大宮市内からの入学者は俊二を含め2名だけだった。
この当時、高校生の俊二は到底気づいていなかったが、自分が子供の頃から極端な〝進歩史観〟に染まっていたことを、それから何十年も経過した50代になってから気がついた。
70年代後半は高度経済成長が終焉していたとはいえ、まだ今日よりも明日、今年よりは来年のほうが豊かになるという空気が色濃く残る、まさに〝モダン〟の時代だった。
政治と経済の「55年体制」も「70年安保」の学生叛乱と労働運動も〝モダン〟の時代ならではの社会現象・トレンドだ。
それが〝ポストモダン〟の時代になっても〝進歩史観〟からなかなか脱することができなかったのではないかという仮説が、後年になってから俊二の頭に浮かんできた。
世の中の表層的な形態はがらりと変わっても、それはあくまでも表層のこと。
そう考えると、60年、70年安保闘争時に大きな影響力のあったカリスマ思想家が、〝ポストモダン〟が開花した80年代、広告文化が華開くなか「コム・デ・ギャルソン」を着てマスコミに登場し、サブカルチャーとの距離を縮めていった現象も腑に落ちた。
そして、時代の先端的なトレンドだった学生運動から離れた多くの人達が、官公庁や大企業で活躍したことも、〝モダン〟の時代ならではの〝進歩史観〟が原動力だったと考えると、俊二はスッキリした(マーケティング視点でいえば、経済発展の最大の要因は、世界に類をみなかった規模の「人口ボーナス期」なのだが……)。
小学生のとき、父親の転勤で地方都市に住んでいた俊二は、年末年始には両親の実家のある埼玉県に向かって父の運転する車に乗っていた。
そして道沿いの古い家屋を見るたびに、国は強制的に古い家屋を取り壊して新しい住宅を建設すべきだ、と真剣に(!)夢想していた。
当時は全国で大気汚染や水質汚濁の公害が大きな社会問題となっていたが、世の人々の生活が豊かで便利になるほうが優先するのだと小学校3年生の俊二は確信していた。
やはり後年になってから思い当たったことだが、俊二がこれほどませた子供だったのは、中学1年生の時に逝去した母方の祖父の影響もあったのかもしれない。
幼児期から少年期、特に何かを言われた記憶はないが、明治生まれで渋沢栄一を尊敬し、製紙関連の会社を東京都内で興し、地元では町会議長を務め、農村振興の功績により勲六等を叙勲した祖父の背中から、何かしら影響を受けたような気がしないでもない。
祖父からの影響がどの程度あったのかは検証しようもないが、子供ながら無意識のうちに感じていた時代の〝空気感〟を自分の中で過剰なほど醸成していたことには違いなかった。
俊二にとってその〝進歩史観〟の行きつく先が、「資本主義の最高段階としての帝国主義」を革命によって覆すマルクス・レーニン主義だったわけだ。
生まれ育った時代背景と個人の資質・体験の違い、それらの結果としての思想の決定的な違いが俊二と祖父との間にあったとはいえ、二人にとっての〝進歩史観〟という本質はそう変わるものではなかったのではないか? という仮説だ。
40代になってから、マーケティングの仕事の中で、成熟社会ならではの「地域ブランディング」のウンチクを垂れるようになった俊二だったが、それは2000年代になってからのことだ。
俊二の通っていた高校の生徒が数多く住んでいた行田市の伝統産業である足袋。
2010年代になってからこの伝統産業をテーマとした民放の地上波テレビ番組が人気を博したが、行きたくなかった高校に進学したばかりの俊二にとって、こういう産業は〝古い時代の遺物〟であり、〝進歩に対する反動〟〝打倒の対象〟以外の何物でもなかったのだ。
行田市といえば「さきたま古墳群」も貴重な文化資産だ。
高校入学直後、体育の授業前に着替えるため、俊二は放送部に入部した同級生に誘われ放送室を使うようになった。
その成り行きで何の興味もなかった放送部に入部した俊二は、1年生の5月、日曜日にもかかわらず「さきたま古墳群」取材のため、秩父線の行田駅で先輩たちと待ち合わせをした。
すでに俊二を誘った友人は退部しており、新入部員は俊二ともう一人の女生徒の二人だけだった。
高校入学直後から鬱とまではいかないまでも気分が〝低位安定状態〟だった俊二は、(なんで日曜日に、よりによってこんな田舎まで来なきゃいけないんだ!)と馬鹿馬鹿しくなり、駅から出発しようとした直前、「俺、帰ります」と上級生たちに言って帰ってしまったこともあった。
高校1年生の俊二は校内では万事、この調子だった。
みてくれも〝ツッパリ〟スタイルだったため(身長が177センチで当時としては高かったこともあり通学時、他校のツッパリに頻繁に絡まれたための自己防衛)、クラスの同級生どころか他のクラスの生徒たちも俊二に対してはドン引き状態で、上級生からいちゃもんをつけられていた。
入学時には男子生徒のほとんどが坊主頭の田舎の進学校だったし、俊二はそれも仕方がないだろうと考えていた。
やっと高校生活にそれなりの楽しさを見出したのは2年生になってからで、それはたまたま俊二とは相性の良かったクラスの同級生たちに救われた形だった。
それでも俊二は、C派の活動家として自分の高校内でオルグをすることは一年生の時に断念していた。
この高校にはオルグできるような人材はいないという嗅覚は発達していた。
ならば自分の通う高校では波風は立てない方がいいと考えるようになった。実際には3年生になってから生徒指導の教員との間で波風を立てざるを得ないこともあったが、C派の活動家としての顔を出すことはなかった。
放送部は、部員が二人しかいなかった俊二たちの学年以外、つまり上級生と下級生は、皆、生真面目かつ優秀で、NHKの放送コンクールで受賞するなど実績を重ねていた。
〝幽霊部長〟だった俊二は、放送部の活動に全く興味はなく、部室に顔を出すのは、自宅にオーディオコンポがなかったため、買ってきたLPレコードをカセットテープに落とすときのみ。
あとは後輩たちが受賞したNHKのコンクールの授賞式に浦和市(当時)の埼玉会館に行くぐらいだった。
学校に行って授業を受ける苦痛から逃れられるので、このときばかりは後輩たちについて行った。
高校2年生の後半から3年生の前半までの半年間、俊二は生徒会長から誘われ生徒会の執行部員となった。
ここでは誰からも後ろ指を指されない程度には仕事をこなしたつもりだ。
生徒会では各部活動の部長との間で、毎年の予算をいくら配分するのかを決める予算折衝を行っていた。放送部で俊二の一学年下の後任の部長からはこう懇願された。
「伊澤先輩はこういうときにしか役に立たないんですから……」
「いや、そういわれてもよぉ、俺って清廉潔白だかんね、悪く思わんでちょーよ!」
俊二は適当にそう答えるしかなかった。
予算折衝で俊二は、古典文芸部との交渉にも当たった。
古典文芸の部長は学年での成績が一位か二位の優等生だった。同じクラスになったことはなかったが、何故か登校時に姿を見かけることが少なくなかった。
俊二はほとんどの教科書を自宅に持ち帰ることなく、教室の机の中に入れたままで、通学時には、濃紺の地に「マディソン・スクエアガーデン」の白いロゴの入った通称「マジソンバッグ」をプレス器にかけたかのように薄くし、ズボンのポケットに入れた手首に取手をぶら下げ通学していた。
古典文芸部の部長は、俊二の「マジソンバッグ」とは対照的に、教科書・ノート・辞書を詰め込んでいたのだろう、黒光りした牛革の通学鞄をこれ以上、膨らまないぐらい膨らませて持ち歩いていた。俊二は膨らみ切った彼の鞄を見るたびに内心、「カマボコ鞄」と馬鹿にしていた。
その「カマボコ鞄」部長と、「マジソンバッグ」俊二は、全く口をきいたことがなかったどころか、眼を合わせた記憶さえない〝異なる世界の人間〟だった。「マジソンバッグ」俊二と向かい合って座っていた「カマボコ鞄」部長は、古典文芸部の部費を一円でも多く獲得しようと、俊二がそれまで見たことも想像したこともない満面の作り笑いで書道部の内情を必死に訴えてきた。
(あーそっか、権力を持つってーのは、こういうことなんだろうなぁ……。人間性とかそんなもん関係なくって、大事なのは立場だけ……)
恐ろしい凶器にもなる機動隊のジュラルミンの楯よりも、「カマボコ鞄」部長の作られた満面の笑顔から、権力というものの本質を教えられた気がした「マジソンバッグ」俊二だった。
県立高校の一生徒、C派活動家としての顔とともに、地元では主にパチンコ屋に通う生活も送っていた。
都内の私立高校入学後、早々に一学期で中退した中学時代の友人が、新聞配達のアルバイトを始めていた。
夏休み中の盆踊りの夜、その友人が働いていた新聞集配所でカップ酒を飲んだ俊二、は生まれて初めて急性アル中(らしきこと)を体験した。真夜中に眼が覚め、体がブルブルと痙攣したときの脱力感が心地よかった。表に出て立小便をしたら痙攣はピタリと収まった。
その友人達と遊んでいるうちに俊二は、パチンコを覚えすぐにハマった。
当時のパチンコ屋は、まだ手打ち式と電動式が半分ぐらいの割合で、手元資金が少なかった俊二には、ゆっくり打てる手打ち式のほうが有難かった。
パチンコ屋通いが頻繁だったのは2年生のときで、俊二の地元駅前のパチンコ屋では、学生服のまま入っても店員にとがめられることはなかった。
補導員がいるリスクはあったが運良く補導されることはなかった。
中間テスト、期末テストの期間は学校が半日で終わるので、この時とばかりに学校帰りに寄った。
用事のなかった日曜日は朝から夕方までパチンコ屋で過ごし、当時のヒット曲もほぼ店内の有線放送を聴いて覚えていた。
どうしようもなく負けそうなときには、店員の眼をかすめたつもりで床に落ちている玉を拾ったものだが、当然、店員も気づいており、高校生の俊二に同情して、「この台出るよ」とそっと教えてくれたこともあった。
おかげで学校の成績は全学年ほぼ400名のうち、397番にまで下がってしまい、さすがに受験勉強を始めた3年生になってからはパタリと足が遠のいた。活動資金源の一つが途切れたことは痛かったが。
俊二と最も仲の良かったパチンコ友達は、地元に近い高校に通っていて、皆から「ブタマン」と呼ばれていた。
体型はブタマンらしく太り気味だったが肥満体ではなく、ガタイが良くて喧嘩が強そうだった。
「ミスタースリム」というメンソール煙草を俊二に勧めて吸わせておきながら、「インポになるんだよ、ヘッヘッヘェ」と笑う変な奴だった。
高校卒業間際のある日の朝、通学時の駅で俊二は一年ぶりにブタマンと遭遇した。
「俊ちゃん、卒業したらどうすんだ?」
橋上駅の上で俊二とともに、上野から青森まで続く線路を眺めていたブタマンは俊二に尋ねた。
「俺ね、大学に行くよ」
「フフッ、冗談だろ……」とブタマンは鼻で笑った。俊二が進学校に通っていたことなどブタマンは知らなかったので当然といえば当然だ。
「で、ブタマンはどうすんだ?」
「俺か? 俺はな、おまわりになるんだよ。捕まえてやるよ」
(バイクにでも乗っていて、白バイ警官からスカウトでもされたか? 煙草でも貰いながら)と俊二は思った。
ブタマンの顔を見たのはその日が最後だったが、俊二はブタマンの本名どころか苗字さえ知ることはなかった。
ブタマンも俊二の伊澤という苗字は知らなかっただろうし、どうでもいいことだったのだろう。
とにかく、普通の高校生活、地元の遊び友達との交流、C派活動家という三つの顔を意識的に使い分けていた俊二の高校生活は、心身のストレス(進学問題で悩んだときにはジンマシンが発症)はあったものの、メリハリがあってそれなりに充実していた、のかもしれない。
時期は前後するが、高校二年生の秋からC派の高校生組織HKKのメンバーとしての活動を始めた俊二は、色々な伝手を頼り、他校の生徒たちをオルグし組織化に着手した。少数精鋭の埼玉県E地区、秋山(伊澤)グループリーダーとしてのスタートだった。
それでもまだこの時期は大衆運動(集会・デモ)以外では、単独で行動することも多かった。
ある秋晴れの日曜日、俊二は東京都郊外の某私立高校の文化祭に外人部隊の一人として動員された。
特に何をせよという指示はなかったが、俊二はリベラルな校風で知られていたその高校に向かった。
校庭では、HKKの東京都内のリーダーが先頭に立ち、アジ演説をしながら教員たちと団交を行っていた。
制服のない高校だったので外人部隊も紛れ込みやすかった。
俊二は吊るし上げに遭っていた初老の校長を思いきり罵倒した。
校長は大人らしく俊二の罵声など無視していれば良かったものを、誠実で真面目な性格だったのだろう、必死の形相で俊二に向かって何かを訴えてきた。
〝正義の立場〟にいる(と信じている)自分が、自分よりも目上の権威ある大人を吊るし上げて弾劾する。
俊二は生まれて初めて感じた強烈な快感に酔いしれた。
たかが17歳でこんな強烈な快感を味わうことなく、もっと日常的な、たとえば性愛的な快感を先に味わっていたのなら、その後の人生は大きく変わっていたんじゃないか? この日のこと思い出すたびに俊二はそう考えていた。
その時期に知り合ったHKKの先輩たちは、高校卒業後、大学や職場に進出していくこととなった。
埼玉県E地区(秋山グループ)のメイン活動はHKKの活動に準じて、三里塚闘争、狭山闘争の大衆運動(集会・デモ)への参加だった。
他には公立図書館の会議室などを借りて学習会をほぼ定期的に開催した。
学習会には高対の末井が加わることもあったが、レポーターは全て俊二が担当した。
ある日曜日には西武新宿線沿線の某町の公民館で、狭山事件無罪の新事実の書籍を出版したばかりのルポライターによる報告会が開かれ、俊二は一人で参加した。

参加者は10名にも満たなかったが充実した報告内容だった。
2人のルポライターのうち、俊二の眼の前で「セブンスター」を吸っていた眼鏡をかけた男性が、数日後、都内のビルの階段から落ちて死亡したことを新聞記事で読んだときには、さすがの俊二も驚いた。
狭山事件では被害者の身内を含め、自殺をはじめとして数多くの変死者を出していたので、まさか! とは思ったが、俊二は決して変死ではないと信じたかった。
酒に酔って運悪く階段で足を踏み外しただけだったのだと。
やはり、ある日曜日、1日かけて狭山事件の現地調査に行った時のこと、応対してくれた石川一雄氏の御母堂の嬉しそうな笑顔は、俊二の記憶から消えることはなかった。
県内でもW地区の高校には、まだ70年安保闘争時代の〝余波〟が色濃く残っており、HKKの拠点高校には、Dインターなど他セクトのメンバーも少なからずいたようで活動も活発、メンバーの数も多かった。
彼らの話を聞くたびに俊二は正直、羨ましかったが、自分たちは自分たちと割り切って、粛々と活動を続けた。
俊二たちが高校3年生になる前の春休みの1978年(昭和53年)3月26日(日曜日)、三里塚芝山連合空港反対同盟主催の集会(三里塚第一公園)には秋山(伊澤)グループからは数名が参加した。
もちろん党による「決戦」の指示などなかったが、開港予定の3月30日の直前だったこともあり、現地では何が起きるかわからない。
(逮捕されることを覚悟しなけりゃ)という切迫感を、参加メンバーは皆、肌で感じていた。
その〝何か〟は起きた。第一公園での集会開催中、新東京国際空港の管制塔にDインター、B同盟の各派(皆、赤ヘルメットのセクト)が突入、占拠したとの速報がアナウンスされ、会場は興奮と熱狂に包まれた。
C派から見れば日和見主義のDインターではあったが、この際、そんなことは言ってられなかったし、空港の「包囲・突入・占拠」というスローガンを有言実行してしまった「赤ヘル連合」への称賛を惜しむことはなかった(管制塔突入メンバーのうち、一人のDインターの某国立大学学生が、火炎瓶の火が着衣に着火して焼死した)。
かつてある集会でのHKKメンバーに向けたアジ演説で、Dインターのことをこき下ろした俊二も同じだった。
後年、反対同盟も巻き込んだ支援セクト間での内ゲバが活発化していくことになったらしいが、この日は〝最高の統一感〟に包まれていた最後の日だったのかもしれない。
そんなことがあって集会は盛り上がり、デモ行進の終着地に着いた時には日は暮れていた。
管制塔への突入・占拠・破壊を成功させた赤ヘル連合のテンションは最高潮に達しており、灯油の臭いをプンプンさせながら、プラスチックのビールケースに火炎瓶を満載し、「どけ!どけぇー!」と叫びながらデモ隊列とは逆の方向に走り去っていった。
俊二たちは、南三里塚の森の中にあったC派の闘争会館(プレハブ2階建て)に泊まった。
ここには2年生の冬に泊まって以来、2度目の宿泊だったが、さすがにこのときは警察のヘリコプターが、滅茶苦茶明るいサーチライトを森に照射しながら、超低空飛行で一晩中飛び回っていたので俊二はほとんど眠れなかった。
翌日は解散行動だ。
午後になってから俊二たちはホロトラックの荷台に乗せられた。
走り出したトラックは尾行を切るためグルグルと色んなところを走り回っていたようだった。
小一時間は走っていただろうか、皆が降ろされた解散地点は八街駅の近くだった。俊二は「やちまた」という地名を初めて知った。
夕方になってようやく家に帰りついた俊二は、玄関ではなく庭に回った。
庭に面した水道の前に座って漬物か何かを洗っていた母が振り返り、俊二と眼が合った途端、俊二の緊張が解けた。
(ああ、今度も無事に帰れた……)
三年生になってからも秋山(伊澤)グループは、粛々と活動を続けていた。
じんましんが出たほど悩んだ進路について立花に相談し、就職にダメ出しされた俊二は、迷うことなく進学のための受験勉強(活動家内では「ブル勉」と呼ばれていた)も始めた。
もっとも大学進学を前提に高校に入学したわけで、就職という選択肢は、パチンコ屋通いに明け暮れて成績が著しく低下したことからの逃げでしかなかったのだ。
3月26日の管制塔占拠のため、予定より2か月遅れて新東京国際空港は開港したが、反対同盟主催の集会参加者に対する機動隊員の対応は異様に殺気だっていた。
日常的な活動において俊二は、もっぱら秋山(伊澤)グループメンバーの通う高校の生徒に扮し潜入、指導することに徹していた。
文化祭の企画・運営・プロデュースのような役回りだったが、在校生のメンバーたちが優秀だったので、俊二自身が骨折ることはなく楽だった。
そしてHKKの県内・都内のメンバーとの打ち合わせには、飯田橋と市ヶ谷の間にあるC派の全国最大拠点校、富士見大学の学生会館も使われた。
学生会館は各自治会やサークルの連合体を中心に学生、実質的にはC派によって自主管理されており、HKKも使っていたわけだ。
HKKでも固定的で決まったメンバーだけではなく、ペンネームを覚える間もなく会わなくなった人達もいた。
俊二にとってほんの一瞬のことながら印象的だったのは、ある部落出身の長い髪の女子高生との出会いだった。
彼女は自らの学校名を明かすことはなく謎が多かった。
理論だけの部落解放論ではなく、日常的な諸問題などを話し合ったりしたが、彼女からは「あなたはわかってない」とダメ出しを受けるばかりだったことしか覚えていない。
そして卒業後の進路を決める冬が来た。
俊二は4つの大学の計6学部を受験することに決めた。
うち富士見大学は文学部哲学科と社会学部社会学科。
他にはZ派の全国最大拠点、西北大学の2学部も受けた。
敵対党派のZ派の拠点に「潜入」することに刺激を求めたのが理由だった。
幸い(?)西北大学の2学部は不合格、唯一合格した富士見大学社会学部社会学科への入学を決めた。
テレビの音楽番組では西城秀樹が『ヤングマン』を歌い、街のゲームセンターや喫茶店では「スペースインベーダー」の大ブーム。
俊二も例外なくマシンの上に100円玉を積み上げていた。
3.富士見大学入学(1979年)
富士見大学社会学部社会学科1年E組の学生のうち、男子の多くは地方からの上京者だった。そのうち浪人組のほとんどは都内で予備校生活を1年送っており、自然とクラス内でのリーダーシップを握るようになった。
山形県の公立高校出身の大城は面倒見が良くクラスの皆からの信望を集めるまで時間はかからなかった。
最も優しかったのは岡山県出身の田坂。岸部シローのような雰囲気を醸し出しており、俊二はすぐに慕うようになった。
異色だったのは福岡県にある炭鉱町の高校出身の久我。パンチパーマで眼つきが驚異的に鋭かった。九州男児らしく年齢の上下関係に厳しく、俊二が「久我」と呼び捨てにするたびに凄んだ。
「久我だと~ぉ、こらぁ~、久我さんと呼ばんかぁ!」
現役組は口数が少なく頭の良さそうな茨城県出身の相木。茨城弁純度は0%。
相木とは対照的に口数が多かったのが、房総半島の漁師町の公立高校出身の江口。小柄で縮れ毛のヘアスタイルで、漫才師のように口数が多かった。
角刈りでガタイの良かった高井は長野県出身。体育会陸上部に入部して普段は学生服姿だった。
最も明るく快活だったのは福島県の温泉町出身の安川。気持ちの良さが歩いているような男だった。
俊二を含め男子ではこの8人が中心メンバーとなった。
いつも一緒に遊び歩く中心メンバーではなかったが、都内の全国的に有名なお祭りで神輿を担いでいるという角刈りの横山の自己紹介には皆が驚いた。体育会のサークルに入ったわけではなかったが、いつも詰襟の学生服姿で無口ながら最も礼儀正しかった。
女子はさすがに都内や近郊出身者が多かったが、それでも庶民的で気取ったところのない人達ばかりだった。個性的だったのが神奈川県出身の志木。大手化粧品メーカーのテレビCMにでも出てきそうな健康的かつワイルドな風貌で、俊二は九州男児の久我とお似合いなんじゃないか? と内心面白がって、いつか茶化してやるつもりだった。
庶民的な女子の中でも、川崎市にある付属の富士見女子高出身の二人だけ都会的であか抜けていた。
自己紹介のとき俊二は、もちろん高校時代の活動歴など話すわけなどなく、「皆さん! パチンコをやりましょー!」とアピールした。
初めてのクラスコンパは神楽坂の居酒屋で開かれ、大いに盛り上がった。まだ18歳ながら、俊二にとってこんなに楽しい酒の席は生まれて初めてだった。
その一方で、俊二はすぐに社会学部自治会(社自)のメンバーとなった。C派全国最大拠点の富士見大学の各自治会は、社会学部以外、全てC派がヘゲモニーを握っていた。
もちろん俊二は高校時代、三里塚闘争会館内でC派の富士見大学各自治会委員長の面々とは顔を合わせていた。
ある学部の委員長からは、俊二がタオルを貸すと約束していたのを忘れてしまい、結局、貸してくれなかったと根に持たれていた。
別の学部の委員長とは政治の話をした覚えはなく、ABBAの話で盛り上がった記憶しかなかった。
社会学部自治会(社自)のみC派がヘゲモニーを握っておらず、表向きは「ノンセクト」ということになっていた。
委員長をはじめとしたメンバーは、各々どこかのセクトには属していたようだったが、もちろんセクト名を表に出すことはなかった。
それでも俊二は誰と誰がどのセクトの人間かという推測をC派の人間から聞かされていた。「公然の秘密」となっていたわけだ。もちろん、俊二の高校時代のC派活動家としての経歴も秘密、ということになっていた。
委員長の熊田には、委員長らしい風格はあったものの、やけにオッサンっぽかった。
社自でリーダーシップを発揮していたのは副委員長の野口だった。野口は社自の他に文連(文化団体連合会)でも活動をしており、コンサートのPAを担当するなど活発で行動的な人だった。社自内部では発言量が最も多く影響力も大きかった。
新学期が始まって早々、1年E組の一般教養「英語」の授業が始まった途端、2人の社自のメンバーが教室に入ってきて、「クラス討論」に切り替える旨、宣言した。
自分が担当する授業が潰されるのにもかかわらず、黒縁眼鏡をかけた若い女性教員は早々、自分もオブザーバーとして参加すると宣言、当たり前のようにクラス討論が始まった。
中には不服に思った学生もいただろうが、それも富士見大学らしさのようだった。
クラス討論ではまず、1年E組の自治委員(高校の学級委員のような役職)を選出することとなった。自治委員と言っても皆、まだ入学したばかりで誰を推薦したらよいのかわからない。そこで立候補となったわけだが、立候補し自治委員に選出されたのは、茨城一の公立進学校出身の相木だった。優等生肌の相木は一見、無口で性格は穏やかそうだったが、実は意思の強い男のようだった。自治委員となった相木は当然、俊二とともに自治会室に出入りするようになった。
授業は基本的に富士見大学本校で行われ、いくつかの一般教養の授業のみ、本校とはお濠を隔てて市ヶ谷に近い「六〇年館」という校舎で行われていた。
ある日、俊二は久我と二人で神楽坂から「六〇年館」へ向かって歩いていた。お濠に面した傾斜の一帯は、都心のエアポケットのように静寂に包まれた高級住宅地だった。
鬱蒼とした木々に囲まれたとある家の表札には、4月に任命されたばかりの最高裁判所長官の姓名が彫られていた。
九州の炭鉱町出身で、上昇志向が飛びぬけて高く情報収集に怠りのなかった久我は、その長官の名前を知っていた。俊二は(さっすがー!)と感心した。
体育の授業は、東横線の武蔵小杉と元住吉の間にある川崎校舎で行われた。
そこには付属の富士見二高と富士見女子高も併設されていた。
野球部はこの川崎校舎のグラウンドで練習をしており、前年、夏の甲子園で優勝した関西の高校のバッテリー二人が富士見大学に入学していた。彼らの練習姿を観ていた女子たちは盛り上がっていた。
ここで毎週金曜日、朝から午後3時頃まで体育の授業を受け、ほとんどの学生は本校での授業を受けることはなかった。
俊二は入学前、体力に劣るコンプレックスを解消するため、夜中に数キロのランニングをしていたので、短距離走でも中距離走でも不摂生な浪人生活を送ってきた友人達に負けることがなくホッとした。
教室では「基礎体育」の授業を受けた。担当は強面の男性教員だった。体育の授業は座学も実技も社会学科全クラス合同だった。房総半島から出てきた江口は、たまたま隣り合ったやはり房総半島の高校出身の他のクラスの学生と話が合ったようで、授業中なのにべらべらと郷里の話に熱中していた。すかさず男性教員が怒りだした。
「何だお前は! 富士見二高か!」
教室は爆笑に包まれた。
川崎校舎から徒歩数分のアパートには、長野県出身で体育会陸上部に入部した高井が住んでいた。陸上部も1年生が体育の授業を川崎校舎で受けている曜日には練習がなかったようだ。
当然のことながら、俊二たちは体育の授業が終わった午後3時頃から、高井の住むアパートに上がり込み酒宴を始めた。
俊二の他、浪人組の大城、田坂、久我の三人は必ず加わっていた。
陸上部入部直後、皇居周辺を走らされた高井は、皇居を指差した先輩から「あそこに天皇陛下がお住まいだ」と言われたと面白そうに語っていた。
俊二は、地方出身の友人達が話す郷土の自慢話などを聞くのが好きだった。酒が入っていようがいまいが、高田馬場に住んでいる山形県出身の大城が、小田急沿線の東京23区外に住んでいる岡山県出身の田坂を馬鹿にしているのも面白かった。
埼玉で生まれ育った俊二は、その小田急沿線の駅名を知らなかった。たった1年でも都内で予備校生活を送ってきた人達のほうが、自分よりもずっと東京の地理に詳しいことを俊二は実感した。
「総社は吉備線いうてな……」と田坂が言うと、その先を待たずに俊二が茶化し始めた。
「吉備線ってことは『八つ墓村』の舞台? 祟りじゃぁ~、祟りじゃぁ~、ヒエ~、ヒエ~」
「アホか……、総社はな、そんなとこよりずっと瀬戸内海寄りの岡山市に近くてな、桃太郎伝説の鬼ノ島があるんじゃ、憶えときや」と田坂は穏やかに諭した。
東京六大学野球の初観戦は対西北大学戦だった。
やはり浪人組の大城、田坂、久我の3人をはじめとして、1年間の浪人生活を東京都内で送っていた山形県出身の大城が皆を率いた形だった。
大城の浪人時代の豊富な観戦経験から、俊二たちは富士見大学の応援席から離れた外野寄りに席を定めた。
「最初から最後まで応援に専念させられるとな、じっくりと試合を観られないんだよ」
俊二は東京六大学野球観戦のコツを皆に解説する大城に、無遠慮にもこう尋ねた。
「大城はさ、浪人の時から高田馬場に住んでるんだよね。予備校も西北予備校だったし、人生計画として当然、西北大学に進む予定だったんでしょ?」
「ん? まぁな……」と大城は口を濁した。
(触れてはならないタブーに触れてしまった!)と俊二は反省した。
それでも、もし相手が懐の深い兄貴肌の大城ではなく、直情型九州男児の久我だったら、パンチパーマにパンチを喰らっていたに違いない、と想像すると思わず笑いがこみ上げそうになった。
俊二たちは、試合開始前の西北大学の守備練習を眺めていた。
この年の東京六大学のヒーローは、何といっても関西出身の西北大学4年生、4番サードの岡本選手だ。西北大学のコーチが打ったフライが三本間に高々と上がった。岡本と捕手は「オーライ」の声を上げていたのだろうか? 2人は走りながら三本間の真ん中で互いの頭をぶつけ転倒した。
球場内の全ての眼が倒れた岡本に注がれた。
捕手のほうではない。脳震盪をおこしたに違いない岡本は、グラウンドの上に仰向けに横たわったままピクリともしなかった。
すると、突然、富士見大学の応援団から怒涛のような万歳三唱の叫びが巻き起こった。
「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」
(まだ試合開始前なのに……)と俊二は呆気にとられた。
そしてあろうことか、ブラスバンドが富士見大学校歌のイントロを演奏し始め、肩を組んだ学生たちが校歌を歌い始めた。
♫ふーじーみ おおわが母校 ふじみ おおわが母校
富士見大学の校歌がとどろきわたる中、担架に横たわった岡本は神宮球場のグランドから姿を消していった。
そんな試合前の予期せぬ熱狂にもかかわらず、結局、富士見は西北に負けた。俊二の東京六大学野球観戦はこのように一生、忘れることのないインパクトとともに幕を開けた。
それから六大学野球の試合のある土曜日は、1年E組の主要メンバー(男子だけ……)の皆で神宮球場に向かい、試合終了後は外苑近辺の居酒屋、それから高田馬場にある大城のアパートで2次会、そのまま泊まって日曜日の朝に解散するという生活が始まった。
社会学部自治会の活動は活発だった。
まず、大きなイベントはソフトボール大会だった。ある土曜日に行われたソフトボール大会の準備には、自治委員の相木、俊二の他、大城や田坂たちも加わっており、成功裏に終わった。俊二にとってこんなに楽しいイベントは、物心がついてから初めてのことだった。
1年E組からの参加メンバーの中にも自治会に対する反感を持っていた学生もいた。その学生が何かの不手際を見つけ「自治会は何やっとるんじゃ!」と捨て台詞を吐けば、岡山県出身で普段は温厚な田坂が、「何だあいつは! 自治会がどれだけ頑張って準備してきたかわかってんのか!」と珍しく怒りを顕わにしたことが俊二には頼もしかった。
夏前には金沢八景の施設を借り切って自治会の合宿が行われた。
「ノンセクト」の自治会のためかどうかわからなかったが、政治的なテーマや学内の「多摩移転問題」について議論される、ということはなく、皆、夜の酒席では酔いまくった。
まだ海に入って遊ぶ季節ではなく、昼間になると俊二は、政治への興味は皆無だったはずなのになぜか合宿についてきてくれた房総半島出身の江口と卓球ばかりしていた。江口と俊二は卓球では互角だったが、副委員長の野口は二人よりも上手かった。
そして合宿から飯田橋に戻ると、授業に出たり自治会室で作業をしたりと忙しく過ごした。
学内の立て看板(タテカン)の文字を書いたこともあった。「多摩移転阻止」など「アジ字」という独特な書体を自分で工夫して書く作業は面白かった。
キャンパス内では動き回ることが多かったので、俊二は朝昼晩の3食の他、午後3時に学食でカレーライスを食べるのが楽しみになった。それでも身長177cm、体重53kgの体形は変わることがなかった。
では、C派としての活動はどうだったのか? ということだが、HKKのうち首都圏の大学に進学したメンバーは「予備組織」のような集まりに組み込まれた。
入学した各大学で表立った活動を開始する前に、ほぼ週1回、機関紙(R紙)の読み合わせを中心とした学習会を行っており、当然、俊二も加わった。会場は都内近郊の公民館や図書館の会議室だった。
俊二が組み込まれた予備組織のキャップは、70年安保闘争時に学生だった団塊世代の男性で、ペンネームは片岡といった。
大学を卒業ないし除籍後、支援者からのカンパで活動していた専従活動家だ。過去に逮捕され懲役で服役した経験のある、筋金入りの活動家と俊二は聞かされていた。
新入生のメンバーは、まず都立高校出身の丸岡。
俊二とは高校生時代、集会・デモ・合宿でよく顔を合わせていた。
たまに顔を合わせていたのは、茨城県出身の城田、そして俊二にとって初対面の女性の香田。
キャップの片岡を入れた合計5名の苗字はもちろん皆、ペンネームだ。
正直なところ俊二は、いつも同じ論調のC派の機関紙(R紙)を読んだところで面白くも何ともなかったし、そのR紙をメンバーが交代で読むのを聞くのが退屈で仕方なかった。
その退屈感はこの頃になってから顕在化してきたのだが、高校生時代からずっと感じていた。埼玉県内のある書店には、C派の機関紙(R紙)の他にZ派の機関紙(L紙)も売られており、高校生の頃の俊二は、何度かZ派のL紙を買っていた。
紙面の内容はどうあれ、Z派独特の文体からは、人の情緒の狭間を狙ってスルリと入り込んでくるかのような〝文学臭〟がほのかに感じられた。もちろんC派はZ派のそういう情緒的文化を、ナチスの文化として批判していた。
この時期の最大の闘争課題は、6月28日から29日に予定されていたアジア初の「第五回先進国首脳会議」に反対する「東京サミット(東S)粉砕」だった。都立高校出身の丸岡がキャップの片岡にこう訊ねた。
「この学習会、なぜ、こういう田舎(23区外の私鉄沿線)でやるんですか? もっと便利な都心のほうが僕には有難いんですけど……」
「6月末の東S粉砕に合わせて我々もね、毎週、郊外から段々都心に近付いていくんだよ、フッフッフ」
銀縁眼鏡の縁をキラキラさせながら、片岡はそう答えてから笑った。
俊二は(どうせ思いつきでテキトーなこと言っているのに違いない……)と思った。
東S粉砕闘争の一環として予備組織の5人は、東京都郊外のある大学に向かった。6月のある平日の早朝、5人は京王線の終着駅に近い駅で待ち合わせをした。
授業が始まる前の早朝、教室の机の上にビラを置くという作戦で、キャップはもちろん片岡だ。
前の晩、俊二は一般教養「ドイツ語」の予習で徹夜となってしまい一睡もしていなかった。
その郊外にあった大学の自治会では、日本共産党系のM青がヘゲモニーを握っていた。
正門前の守衛室で呼び止められることもなく、俊二たちはその大学の教室に入るとすぐに、机の上にC派の「東京サミット粉砕!」のビラを置き始めた。一教室で置き終えると次の教室に移動した。
いくつかの教室でビラを置き終えて振り返ると、俊二たちから最も遠い教室の端で、短髪で銀縁眼鏡をかけ黒いシャツを着たスリムな男が、仁王立ちで腕を組みながら俊二たちを睨みつけていた。
M青のメンバーに間違いなかった。
大学の守衛よりも早く、それとも守衛から連絡が入ったのだろうか、早朝にもかかわらず侵入者に対する反応は見事に速かった。
片岡はじめとした俊二たち5人は、もちろんその男との距離を詰めることはしなかった。
敵地での余計なトラブルは厳禁だ。俊二たちがその教室から去ると、M青の男はたった一人で一枚ずつ机の上のビラを回収し始めた。
このM青の男の出現により、ビラ配布作戦はこれにて終了、一行は京王線に乗り都心に戻っていった。徹夜明けの俊二も、富士見大学の学食で午後3時のカレーライスを平らげるという充実した1日を過ごした。
「来週、みんなで焼肉を食べに行こう。東S決戦前の勢いづけだ!」
片岡が予備組織の学習会で皆に言うと、真っ先に丸岡が「ワーイ!」と歓声を上げた。
次の週、片岡が約束した通り、都内の焼肉屋で生ビールで乾杯した5人は早速、焼肉を食べ始めた。
幼児期から好き嫌いが多く、肉を食べずに魚ばかり食べていた俊二だったが、初めて食べた焼肉のあまりの美味しさに感激した。
片岡は俊二にこう問いかけた。
「秋山はさ、折角、富士見に入ったのに来年、別の大学を受験するんだって?」
秋山とは伊澤俊二が高校時代から使っていたペンネームだ。
「あ、もう党の誰かから聞いてましたか。富士見の社会学部に合格してから入学するまでの間にそう決めたんですよ」
「何で?」
「ううん、何って言ったらいいのかなぁ。高校に入ってからすぐにC派に入って3年活動して富士見に入ったんですけど、それがですね、C派のエリートコースというか〝決められたレール〟の上を歩かされてるみたいで何となく気持ち悪いんですよ。出来すぎのような気もするし・・・・・・」
「変わった奴だな……」と片岡は苦笑した。
「秋山は受験でZ派の西北も受けたっていうし、たんに天邪鬼なだけじゃないの?」
丸岡が話に入ってきた。
「ウハハハハ! アマノジャクって、ジュディ・オングの『魅せられて』かい?」
秋山こと俊二は、『魅せられて』のイントロを口ずさむと、いきなりサビに飛び両手を広げ、似てもいないジュディ・オングの物真似を始めた。
「それはクジャクだよ……」と丸岡は醒めた口調でつぶやいた。
皆が一瞬、ドン引きしたなか、茨城弁純度100%の城田がこう言った。
「贅沢じゃねん?」
「それで秋山君は来年、どこの大学を受けるの?」
メンバーで唯一の女性、香田も加わった。
「ううん、まだわかんない……」と答え、俊二は続けた。
「自治会もそうだけど、クラスの友達のノリとか性格がね、俺にピッタリというか、それはそれでと~っても良いことなんだけどね、何かこう、もっと違う世界、というか知らない環境に飛び込んでみたい、とかさ、そういう気持ち、みんなわからないかな?」
「城田君の言うように贅沢なだけじゃない?」
香田もこう答えるしかなかったようだ。
片岡は、そこで話題を打ち切った。
「まぁ、秋山は自分の知らない世界に飛び込んでみたいって言ってるけどさ、そういう生き方って結構、苦労するかもしれんぞ。それより今日は飲んで食べよう!」
「ウハハハハ! 苦労っておっしゃいますけどね、懲役くらった片岡さんの御苦労には到底、及びませんぜ、ハッハッハッハ!」
実際、その後の俊二は、片岡の言った通り〝自分とミスマッチな環境〟に飛び込んだこと、〝ポストモダンを気取る〟ようになったことをきっかけに、何十年にもわたって七転び八起きの人生を味わうことになったのだが、そんな未来が待っていることとは露知らず、焼肉初体験の俊二は予備組織の皆と楽しいひと時を過ごした。
C派の全国最大拠点の富士見大学でも、お濠を隔てて市ヶ谷に近い「六〇年館」のみ、日本共産党系のM青の支配下にあった(他には大学生協もM青らしかった)。
普段はあのC派もM青と表立った小競り合いを起こしたことは、俊二の知る限りなかった。
この日はたまたま「六〇年館」でM青が集会を開催していた。
校舎の正面玄関にはM青の立看が防御壁のように並べられていた。
夕方近くになって社会学自治会は、委員長はじめメンバー総動員で「六〇年館」に向かい、副委員長の野口がハンドマイクでM青を糾弾し始めた。
タテカンの内側に籠っていたM青のメンバーたちは、動くどころか誰も声を上げなかった。
膠着状態が続く中、俊二はイライラした。
(このまま、何もなく終わりそうだ……)
すると今度は、メラメラと闘志が湧いてきた。
俊二は考える暇もなく、何かに憑かれたように一人、M青のタテカンめがけて全速力で走り出した。
(一番槍ぃぃぃぃぃ~)
心の中でそう叫んだ俊二はタテカンに飛び蹴りを喰らわした。
「挑発に乗るな!」を党是としているM青だ。当然、タテカン内部のM青たちはマネキンか蝋人形のように微動だにしない。頑強なタテカンも体重の軽い俊二の飛び蹴りなどではビクともしなかった。
(クソっ! つまんねーな……)
そう思いながら社自陣営に戻ってきた俊二の胸を、仁王立ちで待っていた副委員長の野口が無言で思いきり突き飛ばした。
(野口の野郎! やっぱあの日和見セクトのメンバーらしいし、しょうもねーか……)
(でも、まぁ気持ちは良かったかな?)
もちろん俊二は、自分が悪かったことは百も承知だった。
「ノンセクト烏合の衆」の社会学部自治会ではなく、官僚的なC派の指揮下でこんな「ハネ上がり」行為をしたら、胸を小突かれる程度では済まなかっただろう。
それに、もしタテカンが破損でもしていたら・・・・・・。
俊二は、「六〇年館」を囲んでいた新宿警察署の私服刑事に、M青の手によって引き渡され、器物破損の現行犯で逮捕されていたかもしれないと思うと背筋が寒くなった。
俊二のM青に対するイメージは、「小学校で先生に告げ口ばかりする優等生」だ。
その先生にあたるのがM青にとっては警察権力なのだ。
思想とか信条のレベルではなく、そういうM青の体質を俊二は生理的に嫌悪していた。
俊二は高校2年生の時、三里塚第一公園で偶然出会い、HKKに参加するきっかけを作ってくれた高対の加納のことを思い出した。
大衆行動のデモで機動隊と小競り合いになり逮捕され、党によって高対から外された加納だ。
(やっぱ、俺は加納さんに似ているのかな……。加納さん、今頃、どこでどうしているんだろう?)
俊二と同じく長髪で、ヒッピーかロックミュージシャンのような風貌の加納の顔を、俊二は久しぶりに思い出した。
この一件から数日間、〝野口憎し〟の俊二は、このまま富士見大学社会学部に残ろうか? という気持ちに傾きかけたものの、やはり入学前から決めていた通り、富士見の1年間は大学浪人、翌年、他校を受験し合格したら富士見を退学するという青写真を現実化しようと心に決めた。
富士見の1年間、とはいっても受験勉強を再開しなければならず、夏休み明けの後期からは富士見のキャンパスまで通うつもりはなかった。
最も気がかりだったことは、1年E組の友人達との関係だ。
こんなにいい人達と別れなければならないことを考えると心が重くなった。
生まれて初めて一緒にいて楽しいと思える友人達との別れは辛いし、自分が皆を裏切るような後ろめたさも感じていた。
次に俊二の深層心理の底から徐々に湧き上がってきた気持ちこそ決定的だった。どこかの大学に合格し富士見を退学するにしても、受験に失敗して富士見に残るにしても、C派の活動家としての自分に感じた「限界」だ。
(もう、活動家としての自分は、ここまででいいんじゃないか……)
とうとう、この気持ちが俊二の深層心理の底から湧き上がり〝言語化〟され始めた。
70年安保闘争の頃とかは高校生組織も規模が大きかったとはいえ、普通、学生運動っていうのは大学生になってから始めるものだろう。
それが俺の場合は反対に高校の3年間を活動家として生きてきて、大学に入ってから、楽しい生活とか、かけがえのない友情に恵まれたわけだ。
それに中学2年生の頃の自分の〝原点〟を鑑みるに、心身のコンプレックスをなんとかしたい、自身をエンパワーメントしたいという極めて不純な動機からスタートしたわけだ。
これじゃ、貧困からの脱出という動機はまだしも、やはり自身の身体的コンプレックスという動機もきっかけの一つとして革命家となり、ロシア革命での権力奪取後、暗い思い出しかなかった故郷グルジアを真っ先に弾圧したスターリンと同じじゃないか!
「ルサンチマン」というものが、人が生きる上で強力なエネルギー源になることを俊二はすでに実感していた。
高校2年生の秋、東京近郊の私立高校文化祭での「校長吊るし上げ事件」。
あのとき自分の脳内ではドーパミンが大放出されていたに違いなく、恍惚感さえ感じていた。
高校生活動家とはいっても、退屈な日常を突き破る刺激を求めていた自分もいたわけで、自分の高校生活動家としての行動も、暴走族の走りと本質的には変わらないんじゃないだろうか? 先日の「六〇年館」での「一番槍不発事件」のときの自分の心理を分析すれば明らかなことだ。
自分の気持ちの〝言語化〟が進むと、次のプロセスとして〝言語化〟された自分の気持ちを理論的に〝正当化〟し始めた俊二だった。
そもそも社会主義・共産主義の理論は本質的に「性善説」に基づいている。
性善説ほど怖いものはない。
人間は根本的に善の存在であると規定すれば、少しでも社会主義者にとっての「善」から外れた行動をとった人間は、イコール「人間ではない」ということになる。
だから、カンボジアでポル・ポト政権が知識階級を手始めに大虐殺を始めたことは、性善説を根本原理とする社会主義においては、極めて真っ当で当然のこととなる(原理主義)。
ポル・ポトは元々、カンボジアの富裕な家庭の出身でパリの大学でマルクス・レーニン主義を学んだ理論派だったという。
マルクス・レーニン主義の理論でも、革命後の社会主義段階から共産主義段階に移行するには、いくつかの世代の入れ替わりが必要と説かれている。
ポル・ポト派は至極、合理的に理論を実践しただけなのだ。
C派はじめ日本の新左翼が、「反スターリン主義」のスローガンを掲げていても、一人一人の活動家の人間性とは関係なく、組織の体質はスターリン主義的なんじゃないのか? と感じたことは少なくなかった。
俊二は、名前も顔も忘れたがC派のある職業革命家から、「反帝国主義・反スターリン主義」とはいっても、どちらかといえば自分たちは、帝国主義国よりもスターリン主義国のほうに多少、シンパシーがあるという「本音」を聞かされたことも思い出した。
「反帝・反スタ」なんてのは所詮、そんなもんなんだろう。
自治会副委員長の野口が所属していると聞かされていたセクトも、スローガンにこそ掲げていなかったが「反スタ」の立場には違いなかった。
その野口はポル・ポト政権のカンボジアに侵攻したベトナムを擁護していた。一国社会主義のベトナムだってスターリン主義国家に違いないんじゃやないか?
日本では左翼以外にもカリスマ的な人気のあるチェ・ゲバラ。
永久革命家のゲバラだってキューバ革命後には「強制収容所」を作っていたんだよ。
そもそも革命なんてものはロクなもんじゃないのかもしれんぞ。
結果的に支配層が入れ替わるだけなのかもしれない。
キューバもそうだけど、革命が成功したソ連、中国とかの社会主義国ってみんな農業中心の後進国だった。
そもそもマルクス・レーニン主義の理論通り、先進国で革命なんて起きるのか? いや、そもそも必要なのか?
「侵略戦争を革命に転化する」といっても、本当に米軍は朝鮮半島に出兵するのか? 「有事立法」を根拠に自衛隊も追随するのか? たしかについ4年前までベトナム戦争が続いてたけど、どうしてもリアリティが感じられないんだよなぁ……。
米国だって長く続きすぎて泥沼化したベトナム戦争から受けたダメージは計り知れないと思うし。
革命っていうのは警察と軍隊を味方につける、というか警察と軍隊(日本だと自衛隊)の内部からも同時に蜂起するようにでもならなきゃうまくいくはずがない。『戦艦ポチョムキンの反乱』だよ。
右翼の側からクーデターを試みた三島由紀夫の方法論は間違ってはいなかった。が、時代というものを完全に読み違え、自衛隊員から総スカンをくらい大空振りの大茶番劇のなかで悲劇的な死という結末。
自決した三島には悪いけど、これってとんでもない喜劇じゃないか?
今の新左翼も「革命軍」とかいう非公然組織がセクト間の内ゲバや政府関連施設へのゲリラ戦とやらを繰り広げているけど、警察と自衛隊の総力に対しては比較になるまい。
かつて妙義山麓のベースで、戦争中の「鬼畜米英」の竹槍訓練よろしく、素人が武装訓練(ごっこ)とか始めた連合赤軍と五十歩百歩のレベルなんじゃないか?
「三里塚軍事空港反対」とか言ってるけど、有事になれば三里塚(成田)どころか日本中の空港は軍事転用されるさ。
空港ばかりではなく高速道路とかもね。「軍事空港反対」なんて説得力がないんだよ……。
一般大衆には伝わるまい。
それに中学3年生の冬、渋谷駅前で俊二を集会に誘った赤ヘルメットのB同盟の某セクト。
手渡されたビラの見出しには「三木戦争準備内閣打倒!」と書かれていた。
当時の三木首相は自民党の超ハト派で、戦前は特高警察から執拗な嫌がらせを受け、戦争直後には自らの戦争責任を痛感していたという。
75年の公労協による「スト権スト」のときは、「条件付きスト権付与」の立場だった。
その三木武夫率いる内閣を、自民党政権というだけで機械的に「戦争準備内閣」というレッテルを貼り批判する想像力の乏しさ、救いがたいステレオタイプな思考回路にはウンザリするばかりだ。どのセクトもこんなもんだろう。
今まで抑えつけてきた違和感が、マグマのように噴出し出することに任せていた俊二だったが、〝理論による正当化〟の根底にあったプリミティブ(原初的)な心性は、高校生時代からずっと心の底に隠し続けてきたとても単純なことだった。
「だいたい、党から禁止されていた定期券を密かに持ちながら集会・デモに参加していた自分が、いっぱしの革命家なんかになれるはずがないのだ……」
すると、もう一つの仮説が俊二の頭に浮かんできた。
高校3年生の春、進路に悩んだ時のことだ。そのときの表層的な悩みは悪化した成績のことで、進学か就職かという選択肢で立花に相談し、進学への背中を押してもらった。
でも深層心理での悩みは、進学であれ就職であれ、高校卒業後、自分とC派との関係がより深くなっていくこと、「引き返すこと」が困難な環境に飛び込んでいくことへの不安だったのかもしれないということだ。
「あんたインテリだから、労働者には向いてないよ」という立花の一言は、俊二が労働者どころか活動家としても向いてないということだったのではないか?
自分の目論見通り、富士見大学をやめることができたとしても、いきなりドロップアウトしてしまうと、C派との不毛な摩擦を生むリスクを避けることができない。
ではどうすればいいのだろうか?
俊二が考え抜いた結論は、まずどの大学に進むにしてもC派の息のかかった大学を選ぶこと。
富士見や西北のようなC派とZ派の全国最大拠点校は、80年代を目前にしたこの時代、例外的な存在だろう。
だからC派の「拠点」とはいっても、富士見ほど活動が活発なことはないはずだ。
そして来年、入学した大学では、いきなりC派との関係性を断絶させるのではなく、段階的にC派から離れていこうという結論だ。
もちろん、受験に失敗して富士見に残るという可能性もある。そのときはそのときで善後策を考えればよい。
実際には、ここまで明確に自らの進路シナリオをプランニングしていたわけではなかったが、俊二自身が気づかぬまま深層心理の中で練られていたこの姑息なロジックは、時間の経過とともに俊二自身が気づいていったことだった。
(ああ、あのとき俺はこう考えていたんだ……)と。
6月のある晴れた金曜日。この日は夕方、都内某公会堂でC派の政治集会が開催されることになっていた。
それほど大規模な集会ではなく、俊二は予備組織のメンバーとは同一行動をとらず一人で参加することになっていた。
朝から武蔵小杉と元住吉の間にある川崎校舎で体育の授業を受けた後、いつものように1年E組の友人達と高井のアパートで酒盛りを始めた。
C派の集会があるので1時間から2時間だけ飲んで食べた俊二は一人、高井のアパートを後にして会場に向かった。
俊二は泥酔しており、歩くのがやっとの状態だった。
開始時間に遅れて俊二が会場に入ると、C派最高幹部の基調講演が始まっていた。
「対Z派戦争は、マスコミのいうような〝コップの中の嵐〟などでは断じてな~い!」
「よーし!」
「意義な~し!」
会場からはいつもの決まりきったレスポンス……。
(なーにが、意義な~しだよ、〝コップの中の嵐〟じゃねぇか……)と俊二は呆れた。
もうこの頃の俊二にとって、C派などより1年E組の友人達のほうがはるかに大切だった。
泥酔状態のまま座席から離れ、階段状の通路に座り込み頭を抱え始めた俊二を見て心配したのだろう、見知らぬ若い男性活動家が俊二の肩に手を置き、声をかけてくれた。
「大丈夫ですか?」
俊二は男性の手を払いのけながら怒鳴った。
「うるせぇー!」
優しそうな男性は驚きの表情を浮かべていた。
入学から4ヶ月目の1979年(昭和54年)7月になった。
俊二は、まだ入学直後だった四月のある日の一般教養「文学」の授業を思い出していた。
教員は物静かな中年男性だった。
その日の授業では芥川龍之介の『或阿呆の一生』三十三 英雄が取り上げられていた。
「背の低い露西亜人が一人、執拗に山道を登り続けていた」
背の低い露西亜人とはレーニンのことだ。
誰よりもも十戒を守った君は
誰よりも十戒を破った君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
誰よりも理想に燃えあがった君は
誰よりも現実を知っていた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂いのする電気機関車だ。
芥川の主な作品は読んできたつもりの俊二だったが、『或阿呆の一生』は読んではいなかった。
高校生の頃、繰り返し読んできた『国家と革命』『帝国主義論』の著者で、C派が〝崇拝〟しているレーニンよりも、芥川が見事にその本質を摘出した〝こっちのレーニン〟のほうが、俊二にとって比べようがないくらい魅力的だった。
来年、受験するのは文学部、それもマルクス主義の哲学科などではなく、日本文学科にしようと俊二は決めた。
6月末の「東京サミット」は無事(?)、閉幕していた。
片岡をキャップとする予備組織のメンバー5人は、7月に入ってしばらく経った平日の夜、都内某ターミナル駅に近い百貨店屋上のビアガーデンにいた。
このときはまず、音楽の話で盛り上がった。
「やっぱ、あれっすかねぇ? 片岡さんぐらいの大先輩になると、スチールギターの田端義夫あたりですかね? バタヤン! ハッハッハッハッ!」
俊二が茶化すのを聞き流しながら、片岡は俊二に尋ねた。
「秋山(俊二のペンネーム)は、誰が好きなんだ?」
「そうですねぇ、吉田拓郎ですかね」
「まだ歌ってんの?」
吉田拓郎と同世代の活動家の片岡にとって吉田拓郎は、神田共立講堂などで「帰れ」コールを浴びながら歌っていたあたりで〝終わっていた〟のだろう。
このとき民放のドラマ主題歌になっていた『流星』など、片岡の耳に入っても頭にまでは入らなかったに違いないと俊二は思った。
吉田拓郎に『知識』と言う70年代の曲があるが、すでに組織から離れる決意を固め始めていた自分の気持ちにドンピシャだと勝手に解釈していた。
「♫不自由な顔で自由を語る」人達、そして自分自身との決別だ。
唯一の女性メンバーの香田が俊二に尋ねた。
「だから、秋山君のヘアスタイルは吉田拓郎なのね」
俊二は高校3年生の3学期に入る直前、初めて長髪にパーマをかけた。
生徒指導の教員への挑発のためでもあった。
当時、「カーリーヘア」と呼ばれていたヘアスタイルだ。
「いや、桑名正博だよ」
口から出まかせを言った俊二は続けた。
「今、この場でペンネームを変えることにする。これからはセクシャルバイオレットと呼んでくれ」
「長えんじゃねん?」
茨城弁純度100%の城田が突っ込んできた。
「じゃ、ナンバーワンでいい」
俊二が切り返すと、丸岡が醒めた口調で呟いた。
「ホストクラブかよ?」
それから話題は恋愛に移っていった。
俊二は恋愛の話、いや恋愛自体が苦手だった。
弱点といってもよかった。事実、18歳のこのときまで交際経験はなかった。
中学生の頃から淡い片想いは何度かあった。逆に告白されたことも何度かあり、つい先日も大宮の喫茶店で見知らぬ年上の女子大生から声をかけられたばかりだ。
しかし、こんなことがあるたびに内心、(ミスマッチですね……)と逃げるばかりだった。
そして、自分のほうから女性に告白して交際を求めるという自身の姿を想像することができなかった。
実際、その後も街や観光地で知らない女性をナンパしたことなど一度もなかった。
高校生のとき、自分には才能があるんじゃないかと密かに自負していたオルグの能力と恋愛は似て非なるものだったのだ。
皆が各々の経験談で話盛り上がる中、今度は聞き手に徹しするしかなかった俊二だった。
すると、ビアガーデンの照明を受け、縁がキラリと輝く銀縁眼鏡をかけた片岡は、何を思ったのか俊二にこう振ってきた。
「秋山、お前さ、駆け落ちとかするんじゃないか? フッフッフッフ」
俊二は内心、ギクリとした。
「駆け落ち」が「脱落」に結びつき、一瞬、(見透かされたか?)と思ったからだ。
数えきれないほどの活動家と接してきた片岡のことだ。油断はできまい。
さらに俊二の深層心理にズシリと響いたのは、物心がついてから今日までの間、ずっと感じてきた、とても気持ちの悪い違和感だ。
その違和感とは「他人から見た自分」と「実際の自分」とのギャップだった。
俊二がそのギャップに明確に気づかされたのは高校1年生の時、ある級友から「スケコマシ」呼ばわりされたことだった。
俊二の外見からそう判断されたに違いなかった。一番迷惑だったのは、俊二にとって好意どころか興味さえない女性がいて、俊二がその女性と話をしていただけで、彼氏とか好意を寄せている男性から敵対心を丸出しにされたことだった。
これ以上、迷惑なことはなかった。そして、そういう迷惑なことは俊二が20代、30代、40代になっても続くこととなった。
もっとも富士見大学をやめた後の俊二は、〝ポストモダン的価値観の沼〟にハマっていき、自らの「主体性」を棚上げし、「他人から見た自分」を「自分」(役割)として生きてみようと試みて、それを恋愛でも実践し始めた。開き直ったのだ。
そして、数えきれない女性達との間で、傷つけ傷つけられるという〝地獄のスパイラル〟に自ら飛び込んでいった。
〝自分に向いていないこと〟を無理に押し通してきたことの誤りは、50代になった俊二が「自分の本質」に気づいた後になってから、ようやく教訓化されることになった。
こんな〝未来予想図〟など、この時点では到底、想像されるはずがなく〝まだ幸せ〟だった俊二は、しどろもどろながら片岡にこう返した。
「いやぁ、オッサン、いや、片岡大先輩がいい相手を紹介してくれるんなら、駆け落ちでもなんでもやっちゃいますって! でも、俺好みの相手じゃないとダメですからね、ウッハッハッハッ!」
「で、秋山の好みってのは?」
恋愛経験値ほぼゼロの俊二でも、こういう話題にはついていけた。
俊二にとって最後となった4人との酒席はこの後も盛り上がった。
俊二は上機嫌だった。
7月も後半になり、前期試験が終わる頃、すでに社会学科1年E組から忽然と姿を消してしまった俊二は、富士見の本館前にいた。
そしてキャンパスに来なくなった俊二に、何かの異変を感じていたのであろう級友たち数名と偶然、遭遇した。
級友たちに気まずさを感じていた俊二は、帰途を急いでいたこともあり、立ち止まることもなく笑顔で皆に手を振った。
山形県出身で面倒見の良い大城は(何があったか知らねーが、しょうもねー奴だな)とでも思っているような苦笑いを浮かべていた。
岡山県出身でおおらかで優しい田坂の表情は、心なしか心配そうだった。
パンチパーマで眼つきが異様に鋭い九州男児の久我は、俊二を指差しなぜか大笑いしていた。
ほかにも女子が二人か三人、一緒にいるのを見て俊二はなぜか安心した。
飯田橋駅西口に向かっていた俊二が、信号が青に変わった駅前の交差点を渡ろうとしたところ、福島県の温泉町出身の安川とすれ違った。
安川は俊二とは逆にこれからキャンパスに行くようだった。
俊二は「よう!」と挨拶をした。
二人がすれ違ってすぐに安川は振り返り、「あっ、伊澤!」と声をかけた。俊二も振り向くと、気持ちの良さが歩いているような安川は、大きくて愛嬌のある眼を輝かせながら言った。
「後期もよろしく!」
まるで何もなかったかのような安川の声と言葉を、俊二は忘れることがなかった。
4.それから(1980年以降)
1979年(昭和54年)の9月から地元の図書館に通いつめ受験勉強を再開した俊二は、翌1980年(昭和55年)4月、富士見と同じ東京六大学の一校、西池袋にある芙蓉大学文学部日本文学科に入学した。
ミッション系大学である芙蓉の学生のタイプは富士見とは全く違っていた。富士見で俊二のいた1年E組では多数派だった地方出身者は、女子はもちろん男子でもごく少数派で、男子は当時、「シティボーイ」と呼ばれていたような学生ばかりだった。
概ね性格のいい学生が多かったが、根本的に俊二のノリとは違っていた。それはそれで〝いるだけで目立つ〟という当初の目論み通りであったが、結局、ほとんど裏目になる結果が待っていた。いまだかつてなかったレベルでの〝こじらせ街道〟まっしぐらといったところだ。
自分の主体性をとりあえず棚上げして、「他人から見た自分」を自分として生きてみよう。
高校3年生の3学期から長髪にパーマをかけていた俊二はその直後から、受験勉強のため地元の公立図書館に行くたびに、そこで出会った中学校時代の同級生から決まって同じことを問われ続けてきた。
「伊澤君、ブリティッシュロックとかやってるんでしょ?」
「伊澤、どんなバンドやってんの?」
俊二は同じことを何度も聞かれることが鬱陶しかった。ブリティッシュでもアメリカンでもロックを聴くことは好きだったし、文化祭で友人達のやっているバンド演奏を観るのも嫌いではなかった。が、自分自身がそんな軟派なことをやろうという気は毛頭なかった。
しかし、そんな「他人から見た自分」のイメージは俊二の意識にオリのように溜まっていた。芙蓉大学に入学して間もなく、そのことを思い出した俊二の決断は早かった。
(こうなれば、楽器でもやってみようかな?)
普通は、異性にモテるために楽器・バンドを始めるものだ。俊二の場合もモテたいと思ったのも事実ながら、その動機はメインではなかった。
そう思いつくと後は早かった。ドラムかサックスかギターが俊二の脳内の「考慮集合」に残り、結局、一番手軽なギターを選んだ。地元の楽器屋で1万5千円のヤマハのフォークギターを買った俊二だったが、どうしても音が出ない……。
俊二は中学生時代の同級生でアルバイト仲間でもあった友人に相談した。このとき既に高中正義の「ブルーラグーン」を完コピしていた友人だ。ギターの音が出ないことを打ち明けた俊二に友人は言った。
「それはね、俊ちゃん、弦をしっかり押さえてないからだよ。そういうのをね、ミュートしてるって言うんだよ」
「そんなことしたら指が痛いじゃん」
「…………」
先が思いやられた。
入学後、何ともいえない居心地の悪さと、楽器にしても何にしても、自分の試みていることがいちいち自分の適性に合っていないんじゃないかという思いに苛立っていた俊二は、6月のある平日の午前中、西池袋のキャンパスで一般教養の授業を受けていた。
午後はフォーライフレコードから無料招待ということで送られてきた名前も知らないロックミュージシャンのコンサートを、芝の郵便貯金ホールに一人で観に行く予定だった。
授業中、ふと一人旅に出ることを思いついた俊二は、夜のアルバイトを数日休むことを電話で地元のバイト先に伝えた。自宅にも電話をした。
行先と日数は決めておらず、帰りたくなったら帰るつもりだった。
初めて観たミュージシャンのコンサートを体験しても、この日の曇天のような気分は晴れなかった。
夜になってから原宿駅と表参道交差点の間にあった地下1階のパブに入った俊二は、ジャーマンソーセージをつまみながら、キープしていた「カティサーク」のボトルを一人で飲んでいだ。
午前零時近くの新宿発の中央本線夜行急行「アルプス」で、まずは糸魚川まで行くことに決めた。平日なので自由席で大丈夫だろう。
表参道沿いのパブを出た俊二は、中途半端に時間があったので新宿とは逆方向の渋谷駅まで歩いた。夜行列車に乗ることだし、とりあえずパンでも買おうと、井の頭線改札に近い渋谷駅前でパンを販売してる出店の前に立ち止まった。
菓子パンを数個、販売員に渡して袋詰めしてもらい支払いを済ませた俊二は、販売員の顔を見て驚いた。富士見大学の1年E組の級友で岡山県出身、あの優しい田坂だったのだ。俊二の顔を見た田坂のほうも驚いていた。
「いざわぁー!」
と叫んだ田坂は、電車の発車時間が迫り急いでその場を去ろうとした俊二の手にもう一つ、菓子パンを持たせてくれた。急いでいて話をする時間がなかったことを俊二は悔いた。
早朝、糸魚川で降りてから直江津に向かった俊二は、直江津駅から数時間歩き続けた後、海岸沿いのビジネスホテルに飛び込みで泊まった。
翌朝、なかなか起きてこなかった俊二に心配したホテルのおかみさんは、朝食のときにこう言った。
「自殺でもされたんじゃないかと思って心配してたんですよ……」
観光シーズンでもない平日にフラっと飛び込んできた若い男。おかみさんが心配した気持ちもわからないでもないが、(俺、そんな雰囲気を醸し出してんかいな?)と複雑な心境になった俊二だった。
快晴の直江津の海岸で夕方まで、何時間もボーッとしながら日本海を眺めていた俊二はその夜、信越線経由の夜行急行列車に乗って翌日の早朝、自宅に帰った。朝食を食べながらテレビのニュースで大平正芳首相の逝去を知った。それから間もなく、授業を受けるため芙蓉大学に向かった。
芙蓉大学に入学してからも、俊二はたまに富士見大学のキャンパスに足を運ぶことになった。学生団体が自主管理する富士見の学生会館(ガッカン)では、アンダーグラウンドのパンク・ニューウェーブ系ロックバンドのギグが頻繁に開催されていたからだ。
さらに富士見の秋の大学祭の野外ステージは、当時のロックシーンの殿堂でもあった。ここで俊二は、サンディー&ザ・サンセッツ、パンタ&ハルを始めて観た。白いレスポールを低い位置で持ったギタリストの田中一郎が、ジャンプしながらピート・タウンゼントばりのギターを弾きまくるARBを初めて観たのもこの野外ステージだった。
芙蓉大学3年生の俊二は、秋の富士見大学祭で開催された学生会館ホールのオールナイトギグを観に行った。
学祭実行委員はC派はじめ多くのセクトの学生で構成されていた。忙しく動き回っていた実行委員の一人に、俊二が高校生時代から知っていたC派のHKKの先輩がいて、俊二は何事もなかったかのように挨拶をした。
その先輩は高校で活動を開始する前、ロックバンドを組んでいたと聞いたことがある。そして、デップで固めた髪を逆立たせ、マリファナ柄の白Tシャツの上に黒革のライダースジャケット、ブラックスリムのジーンズに黒い「コンバースオールスター」のスニーカー姿の俊二を見て、感慨深そうに(?)こう言った。
「お前もとうとう、そういう恰好をするようになったか……」
別のC派活動家で、やはり俊二が高校生時代から顔見知りだった男性の先輩は、細い目で遠くから俊二の顔を睨んでいた。俊二はその男性の眼つきから(いつか殺す……)というメッセージを受け取った気がした。
芙蓉大学に入ってからの4年間、富士見のキャンパスに度々足を踏み入れていた俊二は、気まずさを感じていた1年E組の級友たちに自分から会おうとはしなかった。
それでも偶然とはいえ、岡山県出身の田坂と山形県出身の大城と本館前でばったりと顔を合わせ、僅かばかりの時間、話をしたことがあった。
田坂には夜の渋谷駅前で菓子パンを1個、おまけしてもらったことの礼を言った。
「2年生の前期始めに、何かの授業で伊澤の名前が呼ばれていたぞ」
そう話す田坂は寂しそうだったが、相変わらず優しかった。
大城は、俊二が消えた後の富士見大学の学生運動内で起きた異変を教えてくれた。詳しいことはわからなかったが、C派内で何かの問題が発生したようだった。
大城は活動家ではなかったが、社会学部自治会のメンバーとは親しかった。
「C派内でそんなことが起きてな、それまで自治会とか文連のサークルにいながらC派ということを隠していた連中の素性が一気に明らかになったんだよ。あいつもそだったのか、こういつもそうだったのかと芋づる式にね……」
大城は続けた。
「伊澤も社自の中じゃ、皆からC派に違いないと言われてたからなぁ」
さすがに、俊二が富士見から消えていて良かった、とまでは断言しなかったが、結果的に俊二が〝難を逃れた〟ことに安心してくれたように俊二は感じた。
それから大城は、社会学部自治会副委員長で「一番槍不発事件」のとき俊二の胸を突き飛ばした野口のことにも触れた。
「野口さんはC派とトラブルになってなぁ、自治会からも文連からも追放されたんだよ。学校には来てるけどC派の検問がある学館には入れない。この前、寂しそうな顔で遠くから学館を眺めてたよ……」
俊二の進路シナリオ通り、芙蓉大学のC派の活動家は人数が少なかった上に、キャンパスに来ることはほとんどなかった。
おかげで2年生になった頃には、C派から完全に「足を洗えた」状態だった。
楽器の上達速度は遅かったものの、都内ライブハウスでのライブ、京阪神のライブツアーなどバンド活動をメインに、芙蓉での大学生活を送ってきた。
そして就職が決まって卒業式の日が来るのを待っていた俊二に、立花から電話がかかってきた。3月のある曇った日曜日の午後、父の車を借りた俊二は、郊外のファミレスで立花と再開した。
立花とは高校卒業後に顔を会わせたことはなく、ほぼ5年ぶりの再会だった。
「あんた、富士見やめててよかったよ」
こう切り出した立花が話した富士見大学でのC派内の一件は、何年か前、富士見のキャンパス内で大城から聞かされていた内容以上でも以下でもなかった。俊二も詳しいことには興味がなかった。
「もしあのまま富士見にいたら、あんた潰れてただろうね」
〝潰れる〟という言葉を聞いた俊二は、直江津の海岸ですぐに深くなる日本海に向かって歩き出していく自分の姿を想像して苦笑した。
俊二は芙蓉に入学してからのアンダーグランドロックバンドの活動についても話した。そんな音楽のことなど、立花は詳しく知るわけがないと思っていた俊二だったが、立花はこう訊いてきた。
「そういうロックのミュージシャンには、左翼崩れが多いのかい?」
たしかに、俊二より年長の団塊世代のミュージシャンには多かった。
(この人には昔から、何もかも見透かされてる気がするんだよなぁ……)
会話が終わった二人が席を立つ直前、立花は俊二にこう訊いた。
「後悔してないかい?」
今は完全にC派から「足を洗った」とはいえ、俊二は高校時代、自ら活動家になったことを後悔しているのかしていないのか、正直わからなかった。
「後悔は、していません」
とりあえずそう答えた俊二だったが、まだ俊二自身わからなかった「答え」は、とっさに立花が見抜いたに違い。
この日のことを思い出すたび俊二はそう思った。
すでに暗くなった店の外では激しい雨が降っていた。俊二は車である駅まで立花を送ると申し出た。まだ初心者マークがとれていない俊二の運転が心配だったはずだが、雨が激しいこともあったのだろう、立花は送ってもらうことを承諾した。
周りはすっかり暗くなった上に、フロントガラスのワイパーが激しい雨粒をはじきながら進む車の助手席で、胆を冷やした立花がしきりにこう言い続けていた。
「ゆっくりね! ゆっくり!」
俊二は心の中でこう思っていた。
(歴戦の職業革命家も、悪天候の中、初心者の運転を怖がっているのが何か可笑しい。でもこういう慎重さがあるから、生き抜いてこられたんだろうなぁ。もちろん事故にでもなれば警察も来るし面倒ということもあるんだろうけど……)
無事、目的地の駅に着くと、車から降りた立花は駅舎の中に入っていった。この日を最後に、俊二が立花と会うことはなかった。
2000年(平成12年)の1月早々、38歳になっていた俊二は、東京都中野区へ引っ越した。区役所に住所変更の手続きを済ませてから数日後のある朝のことだった。俊二の家のチャイムが何度も鳴らされた。
「伊澤さん! 伊澤さん!」
玄関前の男は、チャイムを鳴らしながら俊二の苗字を呼び続けていた。出勤前の忙しい時間だったが、何か重大事でも起こったのかと不吉な予感がした俊二は、玄関のドアを開けた。
玄関に立っていたのは老警察官だった。老警察官は用件も言わずただこう繰り返すばかりだった。
「伊澤さん! そうですか! 伊澤さん、こちらに引っ越してこられたんですね!」
もちろん俊二はこの老警察官のことは知らない。「伊澤さん!」と繰り返すだけのその老警察官には気味の悪さを感じるばかりだった。しかも、面識はないはずなのに、どことなく俊二に懐かしさを感じているような様子が不思議だった。
「どんなご用件でしょうか? これから出勤するんで忙しいんですよ」
老警察官には用件などなかったのだろう、大きな眼で俊二の顔を懐かしそうに眺めるばかりだった。俊二はこの男は精神的に壊れているんじゃないかと怖れた。
「ご用がないならお引き取りください。警察を呼びますよ、あっ、あなたも警察か……」
俊二がこう言うと、老警察官は立ち去った。
引っ越してきた住民の家に警察官が、用件もなしに訪ねてくるなんてことがあるのだろうか? しかも引越しの挨拶の言葉の一つもなしに。俊二は中野警察署に問い合わせてみようかと思ったが、仕事は忙しかったし、面倒臭いことに巻き込まれるのも嫌なので連絡はしなかった。
その数日後、今度は休日の昼間、その老警官は俊二を訪ねてきた。
「伊澤さん! 伊澤さん!」と意味不明に連呼するばかりで、俊二を懐かしがるような素振りは前回とまったく変わらなかった。
やはり2、3分で俊二の前から姿を消したのも前回と同じだ。
(まったく、気味が悪いったりゃありゃしねぇ……)
ところが、さらに数日経ってから、俊二の記憶の底からあの老警察官の顔が浮かび上がってきた。あの大きな眼が最も印象的だったのだ。
このときから20数年前、俊二が高校1年生の秋のことだった。
平日の夜、明治公園で開催された狭山闘争。集会が終わりいつものようにデモ行進が始まった。まだ反戦青年委員会の労働者の隊列にいた俊二は、デモ隊のスクラムの一番外側にいた。歩道寄りの車道を歩きながら楯でデモ隊を規制する機動隊員と直接、ぶつかる外側だ。
部落解放同盟の宣伝カーからは、『差別裁判うち砕こう』の音楽が大音量かつエンドレスで響き渡っていた。
機動隊の指揮車からは、「C派の諸君、警察官に暴力をふるうのをやめなさい」と気色の悪い肉声がやはりエンドレスでアナウンスされていた。
歩道ではC派ではなく部落解放同盟員だろう、小柄な中年女性がただ一人、無関心な都内の通行人一人一人にハンドマイクで何かを訴えながらビラを手渡していた。俊二はこの中年女性の姿こそ、『差別裁判うち砕こう』の歌そのものを体現しているなと感心した。
デモ隊がジグザグデモに移ると、指揮系統を乱された機動隊が、態勢を立て直そうと右往左往し、あわてふためいているのが俊二には面白かった。
やがて歩道側の機動隊員とデモ隊が俊二の体をつかみ引っ張り合う形となった。幸いデモ隊の力のほうが強く、俊二の体はデモ隊の中に引き戻された。もし、機動隊員の力のほうが強かったら、間違いなく俊二は現行犯逮捕されていただろう。暴力をふるうどころか、ただデモをしていただけなのに……。東京都公安条例違反、道路交通法違反、公務執行妨害など、罪状はいくらでもでっち上げることができるのが国家権力だ。
デモを続けていた俊二は、機動隊の中隊長の中年男性との間で口論となった。俊二は何を言ったのか全く覚えていなかったが、あらん限りの憎悪を込めて、その中隊長を罵倒したことだけは覚えていた。俊二に負けることなく、何かを言い返してきた中隊長のぎょろりとした眼。
そこまで激高していた瞬間でも俊二は内心、(この男にも家庭があって奥さんとか、俺のような子供がいるんだろうか? 男の子かな? 女の子かな?)と考えていた。
20数年前は機動隊のヘルメットを被っていたとはいえ、その中隊長の顔こそ、あの怪しい老警察官の顔だったのだ。
活動をやめて社会に出てから、専従活動家から頼まれカンパを続ける人もいた。もちろん、C派との関係を完全に切った俊二はそういうことをするはずがなかった。
だが、公安は違う。何十年に渡って元活動家をマークすることは普通のことだ。大物でもないし実質的には高校の3年間しか活動していなかった俊二も、目に見えないところでマークされていたのかもしれないと思うと、色々なことが腑に落ちる思いだった。
(公安がこれじゃ、カルトな新興宗教団体による殺人や拉致監禁事件、無差別テロも未然に防止なんかできるはずあるまいし、それどころか事件が起きてからのほうが「仕事が増えて公安の存在価値が高まる」と喜んでいたに違いない。それに、70年代から続いていただろう隣国政府による拉致事件だって防げなかったのも当たり前か……。俺はたとえ法律に反することを実行してでも、秘密裏に破壊活動を防止する諜報組織が日本にも必要だと思うんだけど、公安と警察じゃぁ話にゃならん……)
警視庁所属の機動隊と公安は別組織だ。それがどこでどうつながっていたのか、俊二にわかるわけなどなかったし興味もなかったが、これもこの世の縁というものかもしれない。この老警官は定年間近なんじゃないかと俊二は想像した。そして本当に定年を迎えたのだろうか、3度目の訪問はなかった。
それから2ヶ月ほど経った3月下旬の週末の深夜、職場で精神的にも身体的にもテンパりまくっていた俊二は、常連となっていた都内の行きつけの居酒屋からキックボードに乗って自宅に帰る途中、泥酔して記憶が飛んだまま路上で転倒、病院に救急搬送され、2週間弱、入院した。外傷性クモ膜下出血との診断だったが、幸い手術の必要もなく点滴を受けることで治癒、さらに幸運なことに後遺症は一切ないとの診断だった。
それでも救急搬送された直後はベッドに横たわり、意識が朦朧とする中、いろいろな夢を見た。高校1年生から2年生になる前の春休み、初めて三里塚第一公園の集会に参加したときのこと。
不思議なことにデモの隊列から一人はぐれ、低山が続く森の中で何も考えず何時間か彷徨い歩いたときのことだ。夢の中では白い犬と一緒だった。俊二の家では犬も猫も飼っていたことはなかった。
退院してから間もなく、実家に帰ったときに父から、昔、父の実家にいた犬の話を聞いた。俊二が幼児の頃、母に連れられて父の実家を訪れるたび、大きな声で吠えながら、首輪と結びついた鎖が届くギリギリのところ、俊二の眼の前数センチのところまで全速力で駆け寄ってきては吠えまくっていた白い犬だ。もし鎖がなかったら食べられていただろうと幼児の頃の俊二が怖がっていた白い犬だ。父からその犬は、かつて御料牧場があった三里塚から来たこと聞かされた。
5.そして令和
C派を抜けて以来、俊二は政治との関わりを一切、シャットアウトしてきた。
芙蓉大学に入ってからは、ポストモダンなど現代思想の書籍を読み始めた影響で、自らの政治志向としては保守に傾き、20代、30代、40代の頃は、「支持政党は自民党です」と公言してきた。が、いずれにせよ、街角で署名に応じることも、SNSで衝動的に署名しそうになることも、たった1円でも諸団体に寄付をすることも、かろうじて自分に禁じてきた。
「左翼と右翼」という〝二項対立〟概念などもう古いのだ、と俊二が気づいたのは80年代に入って間もない頃のことだった。
しかし、インターネットというインフラが普及した2020年代になっても、「左右」という古い〝二項対立〟概念は相変わらず健在で、俊二が嫌悪してほとんどアクセスすることのなかった匿名掲示板では、〝ネガティブなエネルギー〟にまみれた、論点の〝ろの字〟もない不毛の極みともいえる「左右対立」が繰り広げられているようだった。
ポストモダンという曖昧な「思想」が流行って以降、新しい「思想」が生まれることのないまま、90年代後半には、漫画というサブカルチャーの世界をきっかけのひとつとして、匿名掲示板というバーチャル空間の中に棲息する右翼のような(?)セグメントも出現した。
「厳密さ」より「わかりやすさ」に流されてしまうのは人間の本質のようだ。良し悪しの問題ではない。俊二が携わっているマーケティングリサーチの仕事もそうだが、ビジネスの世界でもわかりやすさは重視されており、〝二項対立〟による説明も極めて有効だ。
だがそれは、その時々の意思決定においてのみ(!)必要で、あくまでも限定的な概念にすぎないことを忘れてはならないと、俊二は常々、自戒していた。
50代になったあたりから「支持政党なしの無党派層」になっていった俊二は、「白か黒か?」を迫る政治の世界への違和感をますます強めた。
世の中は基本的に「グレー」でありかつ「グラデーション」に彩られているのだ。俊二のこのようなスタンスは、左からは「お前は右だ!」、右からは「お前は左だ!」と非難され、頼んでもいないのに攻撃をしてくる迷惑極まりない〝厄介者〟を作りやすく、一層、「白か黒か?」を迫るしか能のない「政治に関心のある人達」「支持政党の政策なら全て賛成する思考停止の人達」との距離を取りたくなった(もっとも、敵ができることよりも、勝手に「味方」と勘違いされるほうが迷惑だったが……)。
ある政治家が選挙で当選したとする。当選は「1」、落選は「0」というデジタルの世界だ。もし仮に投票結果を定量的に分析した結果、「51%対49%」の僅差でかろうじて当選していたとする。
しかし当選した本人はたとえ「1%」という僅差であっても当選(「1」)という結果に変わりはなく、有権者から「100%」の信任を得たと勘違いしてしまう。
そして次回選挙で落選でもしようものなら、落選理由が当選時から内包していた問題であったことを理解できない。
政治家とは「51%」の信任で当選したとしても、残りの「49%」の不支持者を含めた「100%」の人達のことを考えるというのが俊二の描く「理想の政治家像」だが、それは贅沢な願望でしかないだろう。
そしてそれは政治家の責任だけではなく、自分たち国民の責任であるし、〝人間の限界〟なのかもしれない。
数年前、遊説中にヤジを飛ばしてきた不支持者を「こんな人たち」と表現した首相(当時)もいたが、少なくとも田中角栄だったらそんな言葉を吐くことはなかっただろうと俊二は思った(もちろん、まるで10代の頃の自分のような「ヤジを飛ばす人」を擁護する気も毛頭なかった)。
なら自分がやれば? と言われたところで、良くも悪くも「権力」を本質とする〝修羅道〟そのものの政治の世界は、世の中に不可欠であることは理解しつつも、俊二という人間の「本質」にとって最も縁遠い世界であることを50代後半になってやっと気づかされた。
しかしそれでも、80年代から俊二の身に付いた「相対主義」の価値観そのままに「正義」というものに疑問をもち続け、政治に関わる人達をシニカルに冷笑するだけなのはいかがなものか? と考え始めた。
コロナ禍によって顕在化した経済・社会・人間の諸問題による影響も小さくはなかった。自身の生活にとって切実だったこともある。
もちろん、一切の政治活動には関わらない、唯一の行動は選挙での投票のみ、という姿勢を変えるつもりはない。
俊二が辿り着いた結論は、限定された友人間でのSNSで、左右問わず、与野党問わず、真面目に政治への取り組みを報告したり、立場を表明したり、意見を書き込んでいる友人達のことを〝心の中で許容する〟という極めて初歩的なことだった。
俊二は〝1人1人の自分の庭〟であるSNSのタイムラインに土足で上がり込んで反論や自分の意見を書き込むことを何年も前からやめている。
前世紀末のパソコン通信の頃の習慣が抜けない中高年の友人達からの、「議論が好きですよ!」といった書き込みが嫌で仕方なかったからである。
マウンティング合戦にでもなれば、痛すぎて目も当てられない。
そんな俊二だったので、たとえ「心の中」ではあっても、〝多様な他者の存在〟を建前ではなく本音で受け入れるということは、自身にとって切実な課題なのだ。意見表明などの行動よりも先にまず意識を変えることが必要だ。
このような政治を狭い意味での「狭義の政治」と呼ぶならば、広い意味での政治、つまり「広義の政治」の世界にまみれてきたのが20代以降の俊二だった。
派閥争いといった社内政治はいうまでもなく、部門間でのセクショナリズムから仲良しグループ間での諍いさえ政治といえるだろう。
50代後半、完全フリーランスになるまでの間、俊二は所属してきたいくつもの企業という組織内で、極めて政治的に振舞ってきた俊二は自身を〝こじらせ〟続けてきたのだ。
そういう「政治的振る舞い」においては、他人への説得の必要性や、自らが主導権を握るため、「100%の正義」を掲げてきたことも少なくなかった。
企業社会に入ってから20年も経てば、反社会的セクトでも社会的には何の問題もないとされている一般企業でも、「人間の集まり」、つまり組織としての「本質」は変わることがないことを嫌というほど〝悟らされて〟きた。
それどころか、セクトよりもはるかにカルトな企業が少なくないことも実感してきた。
令和になってからも、就職内定者限定のSNS内で、50代の企業の担当者によるパワハラによって学生が自殺したことが報じられていた。日本を代表するメーカーの系列企業での事件だ。
セクト、そしておそらく新興宗教もそうだろうが、〝通過儀礼〟としての「自己否定」を強いることによって「アイデンティティ・クライシス」を引き起こし「洗脳」する手法は、程度の差こそあれ一般企業でも変わりはなかった。
大卒新入社員に「もうお客様気分は終わりだ!」と、自衛隊体験入隊をはじめとする前時代的な新人研修を行っていた日本を代表する有名企業も少なくはなかった。
社会で存在する目的は全く異なるとはいえ、人間が形成する組織の「構造」はセクトも企業も変わりがないということだ。
さらに俊二が気づいたのは、そういう企業内での〝昭和の負の遺産〟のごとき洗脳手法は、戦前・戦中派の年配者よりも、70年安保闘争時に活動家だった人達のほうが無意識的によく使っていたことだった。
イデオロギー闘争(イデ闘)で相手を「論破」しなければ気が済まない、負ければ自分自身が否定されたと勘違いをする。
現代では〝痛すぎる〟人達だが、それはかつての俊二そのものでもあったのだ。
俊二は40年以上もの間、一度も思い出すことのなかったある言葉を思い出した。
あの立花から言われた一言だ。高校3年生の時、すでに俊二は立花らの労働者組織の指導下から離れていたものの、何かのきっかけで、自分が創り始めた高校生組織運営上の悩みを立花に打ち明けたときのことだった。
普段は言葉を選びながら淡々と語っていた立花が、このときだけは珍しく強い口調で俊二に言った。
「政治家になっちゃだめだ! あんたは組織者(オルガナイザー)なんだ!」
人の「スキーマ(認知・認識の枠組み)」はとても狭いものだ。
人は「真実」よりも、自分の見たいものしか見たくはないし、自分の信じたいものしか信じたくはない(認知バイアス)。
世の中で「新しいこと」が受け入れられるのに時間がかかるのにはこういう理由があるからだ。となると、なかなか理解してもらえないことを他者に理解してもらうためには、他者に自身の「スキーマ」を変えてもらわなければならない、
つまり、他者に〝変わってもらう〟必要があるということだ。他者に〝変わってもらえる〟だけの人間性・態度・姿勢を兼ね備えた人間など、この世にどれだけ存在するのだろうか? すると、「何でこんなことをわかってくれないのだ!」と苛立った人は、最も手っ取り早い解決策をとることになる。それが「怒り」だ。コスパの悪い「思考」を諦め、「感情」と「行動」を直結させるのだ。
2010年代に、何十年もの間に溜った〝膿〟を出すかのように、世間で表面化した「ブラック企業」「パワハラ」「モラハラ」等々。
俊二は地下水脈のように「昭和の時代」から連綿と続いてきたこのような傾向を、ただ批判できる立場ではなかった。自分自身が「加害者」であったことも事実だったのだ。
もちろん、俊二は反省を繰り返してきた。何度も同じ過ちと失敗を繰り返してやっと血肉化できた教訓もあった。だが、どんなに自分の罪を反省はしても、〝自分の存在〟まで否定することだけはしてはいけない。「自己否定」はとても危険なことだということを、50代後半になってから実感するようになった。
マスコミから匿名掲示板、SNSに至るまで、〝自分の正義〟を疑うことを知らない人達から発せされる誹謗・中傷は、そのほとんどが〝罪〟よりも〝人〟に向けられていることを考えれば、自殺者が出るのは当然といえば当然だ。
人は「自分とは何か?」という輪郭を際立たせようとするとき、他人との違いをクローズアップすることがある。すると必要もないのに人と対立し、自分とは相いれない意見を持っている人の存在を許せなくなる。中学2年生の頃、無意識のうちに「差異化」を追求しはじめた俊二は、SNSが生活の中に浸透した2010年代まで〝差異化の沼〟から自由になることはなかった。
活動家をやめた後、〝ポストモダンの洗礼〟を受けた俊二は、この〝差異化のスパイラル〟にますます嵌っていった。
自らのアイデンティティを「他者との違い」にしか見出すことができなかったのだ。もちろん「差異化」自体は健全な心性・態度だろう。だが、他者に対する「親和性」とのバランスが崩れた途端、態度・行動をこじらせることになる。
なぜ〝差異化のスパイラル〟から抜け出せないのか? それは「主体性」を棚上げしてきたからだ。少なくともそういう心性・態度は俊二には当てはまった。「主体性」の棚上げも俊二にとっては〝ポストモダン的価値観〟だった。俊二にとってまだ左翼的な文脈の中にあった「主体性」とは、重苦しくて面倒な心性・態度だった。しかも、かつての自分の「主体性」とは、高校入学直後に大熊から与えられた〝おしきせの主体性〟だった。
60歳になった俊二がようやく気づいたことがある。
それは「主体性」とはそんなに重くてうっとうしいものではなく、主体的に生きるとは、思っていたより難しい生き方ではないということだ。
世の中には大きくは二つのことしかない。
第一に自分がコントロールできるもの、第二に自分がコントロールできない(アンコントローラブル)ものだ。
そして世の中はアンコントローラブルなことだらけだ。その代表格は「自然」、そして「人の心」だろう。
おそらく金銭以外での人の悩みとは、恋愛や家族関係、職場関係など、アンコントローラブルの代表格である「人の心」にまつわることが多いように俊二には思えた。
そう考えると、コントロール可能な範囲、「主体性」を発揮できる範囲なんてそう広くはないだろう。だから力むことなどないのだ。「他人」を変えようなんてアンコントローラブル極まりないことは考えずに、自分自身がどうありたいのか? という「自律性」を持つことだ。「自律性」は「主体性」とほぼ同義語だ。「自律性」を持って生きていれば、自ずと取り巻いてくれている人達をなど自分の環境は変わっていく。それはそれに任せればよい。
50代後半になってから、マーケティングリサーチの仕事や勉強会、プライベートの交友関係を通じて、臨床心理士たち、占い師たちと出会った俊二は、自分が受けたいくつものアドバイスを頭の中で整理した。
そして自分の「本質」というものがやっと鮮明になってきたように思う。
まず初めに、俊二が思春期からずっと自分の「本質」だと信じて疑うことのなかった、「自分は根が暗い」という認識が誤っていたことに気づいた。
誰にでもあるし、思春期の俊二の中で顕在化した「暗さ」とは「根」、つまり「本質」ではなかったのだ。
俊二が芙蓉大学に入学した80年代、世間では「根が暗い」ということが市民権を獲得し始めていた。そして「根が明るい」ことは能天気で、「根が暗い」ほうが知的でクールとさえ思われていた。「やっと自分の時代が来た!」とほくそ笑んでいた俊二だった。
しかし、まだ20代の頃の俊二は、正真正銘、根の暗かったあるミュージシャンから、「君のその笑い方は根暗の笑い方ではない」と指摘されたことがあった。今思えばそのミュージシャンの言葉は正鵠を得ていたのだろう。
「根が暗い」ことが市民権を獲得したことは、「本音」というものが称賛された時代でもあった。まだ人が自分の意見を表明することに抑圧的な環境にあった昭和の時代には、それでもよかったのかもしれない。
しかし、インターネットが普及し、匿名掲示板やSNSが生活の中に浸透した現在、人間の「本音」というものが、実はとても幼稚な性質を帯びており、その幼稚で原初的な「本音」のうちの〝ネガティブな側面〟がネット社会の中でモンスター化し、自殺者さえ生み出している。
そしてバーチャル空間の中で〝微粒子化した加害者たち〟は、刑事罰を受けるどころか、自分が加害者であることに気づきもしない。
1979年(昭和54年)4月からの4ヶ月間とは、1年E組の友人達と出会った俊二が〝差異化のスパイラル〟から割と自由であり、自分の「本質」に反する「根の暗さ」というアイデンティティに脅かされることのなかった〝唯一の時期〟だったのだ。
たしかに高校卒業と大学入学という青春のほんの一瞬は、きわめて特殊な時期だったことに違いない。
しかし、俊二はノスタルジーに浸って過去を回想しているだけではない。
期間限定だったとはいえ、いや期間限定だったからこそ唯一、〝こじらせる〟ことから比較的自由に生きることができた4か月間。
それは過去に縛られず未来にもたじろがず、ただ「今を生きる」ために大切なヒントが隠されているのかもしれないと思うのだ。〝ポストモダンの重苦しい鎧〟をまとう前夜の自分だ。
もちろん、当時に回帰したいとは思わないし、それは不可能だ。ポストモダン期に形成された俊二のパーソナリティもそうそう変わるものではない。後天的に身に付いたと思われる、シニカルさもアイロニカルなところも消えることはないだろう。40年間、一度も足を通していなかったブルージーンズをまた履くことはないことと同じだ。それでも、還暦を迎えてもなお生きていかねばならない俊二にとって「今を生きる」という姿勢は切実なのだ。
次に気づかされた俊二自身の「本質」。それは、自ら好んでいたと疑うことのなかった「争い」が実は苦手だったということだ。
〝強い自分〟になりたいと切望し、〝自分にないもの〟を求め続けたことが〝自分らしさの追求〟だったという〝自分らしさの悲喜劇〟だ。
何年前のことかよく覚えていないが、実家の両親を車に乗せて親戚の家に行ったことがあった。
そこで珍しく感情を顕わにした父が、叔母に文句を言い始めた。まだ俊二が生まれる前の昔の話を持ち出したのだ。そんな光景を見たのは初めてのことだった。俊二は考えるより先にその場から立ち去り、一人で車まで逃げ帰った。そういう父の姿を見た俊二は「争い」というものが何よりも苦手な自分自身を「発見」させられた思いだった。
もちろん、そのときの父は意識していなかったとは思うが、結果として俊二の「本質」を俊二自身に気づかせてくれたのが父だったのだ。
実家に帰るたび、俊二にはほとんどうるさいことは言わなかった父だったが、父の言動の一つ一つを思い出すたび、おそらく父は、俊二自身が気づいていなかったし、気づいたとしても認めようとはしなかったであろう俊二の「本質」をよくわかっていたのではないか。
父がこの世を去って7年が過ぎようとしている今、俊二はその感を強めている。
誰よりも争いを好んだ君は
誰よりも争いが苦手な君だ。
1979年(昭和54年)4月の曇天の朝。
富士見大学入学式会場の日本武道館に入る直前、俊二が業者から受け取って間もなくアスファルトの上に落としてしまい、足腰の具合の良くなかった父が、わざわざ屈んで拾ってくれた販促用の白いのし袋。
その中に入っていた濃緑色の鉛筆を手に取った俊二は、彫られた白い文字を眺めている。
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(了)
【参考文献】
『河童・或阿呆の一生』芥川龍之介著(新潮文庫)、174~175ページ
【引用歌詞】
「知識」(作詞・作家:吉田拓郎、)日本音楽著作権協会 作品コード 050-3274-1
【時代背景】『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』
だから結局この闘争(引用者注:三里塚闘争)がピークだったのは一九七五年から一九七八年くらいまでの間になるわけです。(佐藤優)
*俊二の三里塚闘争参加は、1976~1978年までの間
【表紙だけ参考】
