光と影の狭間
第十一章
その次の扉
社会人として働き始めて数年が経った。
「樫木先輩、資料揃いました」
「ありがとうございます」
業務上の言葉は普通に飛び出す。
マネージャーに呼ばれた。
「来週から樫木チームに4名配属します。リードしてみてください」
「え……と……身に余るお声がけありがとうございます。ですが……」
「少し前に出て、纏めるということも仕事です」
突然の難題に足が震えた。
前に進むと決めたのに、
いざとなると止まってしまう。
断れるほど、未だ雄弁でもなかった。
仕事の力量も説得力もない私。やっと会話している私が人様の背中を押すことが出来るのだろうか。
最近私は一人暮らしを始めていた。
「久しぶり、ユズ。あらどうしたの、浮かない顔して」
母が私の目を見る。
「私には無理よね。お断りした方が良いよね」
「ユズは、ママが驚く程成長したわ。やってみる価値はあると思うけど」
……
「ユズがどうしたいかだけよ。ママはいつでも味方だから。失敗してもやり直せるし、最初からやらないと決めても笑ったりしないわ」
「それより、今日はママがご飯作りましょうか」
最近は私が母に料理を振る舞うのが恒例になっている。
今日はトマトと大葉、ササミの冷製パスタの準備をしていた。
「ううん、大丈夫。少し待っていてね」
私は、ヘルシーな皿をテーブルに運ぶ。
「腕を上げたわね、美味しかったわ」
「ふふ。それ本音?」
少し嬉しくなった。
さっきまでの重い気分が、母と話しているうちに遠くへ行った。
コーヒーを二つテーブルに置いて、座り直した。
「挑戦してみるわ。お試し気分で」
「それで良いのよ。誰もあなたに完璧なんて求めていないわ。きっと、重要なところは安心出来る人に任せてあるわ」
「そうね、私には失う物ないかも。失敗したら、また新たな事が出来るかな」
「ごめんね。普通の環境だったら悩まなかったかもね」
母の声は、心なしか陰っていた。
「ううん、きっとハナが与えてくれた試練なのよ。ママに聞いて貰えて落ち着いたわ」
母が小さく頷く。
翌朝、マネージャーの前にいた。
「微力ながら、挑戦させて頂きます。
皆様のお力をお借りして、鋭意努力致します」
「君ならきっと大丈夫」
その日から、少しだけ忙しく、メンバーとの会話も仕事に関してだけは弾んだ。
仕事は、思った程安易でもなく、かといって酷く精神に負担を掛けたわけでもなかった。
ただ、疲労が蓄積していく感じは否めなかった。
「ただいま。留守番ご苦労様」
ハナの遺影に手を合わせておりんを鳴らす。
実態が無くとも、私の心に寄り添ってくれるのはハナだった。
卓上の端末が震えて、メロディを奏でる。
「お仕事お疲れ様。これからお邪魔しても大丈夫?」
恵おばさんからだった。
私は、いつの頃からかおばさんの事を恵ママと呼ぶようになっていた。
この人がいなかったら、私は疾っくに壊れていた。
母が帰って来ない日の孤独を、さり気なく埋めてくれた人。
自分の家庭もあるのに、誰も褒めないのに。
誰にも見えない舞台で、懸命に私を支えてくれた人。
私の記憶を掴んで離れない言葉。
『ユズちゃんが可愛いから』
あの言葉の前には、感謝などと陳腐な言葉は並べられない。
恵ママから戴いたねこせんべいをハナにお供えして、冷蔵庫から冷えたタルトを取り出す。
「立派になって……」
恵ママは慌てて顔を背ける。
「それもこれも、ぜーんぶ恵美ママのお・か・げ・さま」
「ユズちゃんたら」
恵ママは、改めて切り出した。
「ユズちゃんにも、会っておいたほうが良いと思う人たちがいるの」
……?
「私も一緒に行くわ」
恵ママの微笑んだ頬は硬かった。
