ぶらり歴史散歩にでかけよう 大阪市天王寺区・萬福寺などー新選組“大坂事件簿”の現場を歩く
京都を舞台に、尊皇攘夷を叫ぶ長州藩士や脱藩者らを取り締まっていた新選組だが、大坂(大阪)でもさまざまな事件に関わっていました。
それらをたどると、初代筆頭局長、芹沢鴨粛清へ至る萌芽ともいえる事件や、制服「隊羽織」につながるエピソードがみえてきてきました。そんないくつかの現場を歩いてみます。
初出 「彩」(きたしん総合研究所刊)2022年3月号
文中の電話番号、肩書など情報は取材当時のままです。
豪商から資金を調達する
多くの寺が並ぶ大阪市天王寺区下寺町。その一つ、源聖寺坂のすぐ南にある萬福寺(同町1=タイトル写真)は新選組の大坂屯所となっていた。
当時の姿を残す山門の前に「新選組 大坂旅宿跡」の石碑と説明板がある。瓦屋根を備えた門や長く伸びる塀が武家屋敷のような風情だ。

新選組は、文久3(1863)年、将軍徳川家茂が上洛する際の警護のため集められた浪士集団が源流で、家茂が長州征伐のため大坂城入りした時など、しばしば大坂を訪れた。
壬生浪士組を名乗り、京都守護職の松平容保のお墨付きはあったが、資金は乏しく、大坂の富商に資金提供を求めた。
同年4月、芹沢鴨や近藤勇らが今橋の両替商、平野屋五兵衛を訪ね、金子借用を申し入れる。店側は奉行所に訴えるが、取り合ってもらえず、結局、百両を差し出した。
さらに7月には豪商、鴻池から同様の押借りで二百両を受け取った。これらの金で「ダンダラ羽織」と呼ばれる隊服や隊旗、刀や槍などの武器を調達した。
開平小学校(中央区今橋1)前に両替商の平野屋と天王寺屋跡を示す石碑「天五に平五 十兵衛横町」がある。

力士20~30人と乱闘
新選組の存在を大坂の人々に印象付けたのは、この年6月の力士乱闘事件かもしれない。

大川に船を浮かべて酒を飲んだ芹沢ら8人が蜆川にかかる蜆橋付近で力士の集団と鉢合わせした。狭い道で双方譲らず、芹沢が鉄扇で力士を打ち据え、押し通った。
このあと、芹沢らが新地内の住吉楼で宴会を開いていると、20~30人の力士が角棒などを手に押しかけた。芹沢や沖田総司ら8人が立ち向かい、乱闘の末、力士側の十数人が切られ、死者も出た。隊士の方は軽い負傷のみだったと伝わる。
奉行所は力士側を「会津藩お預かりの武士に無礼だ」と諫め、結局、力士側が酒樽と金子50両を添えて詫びを入れ、和解した。
新選組随一の剣客ながら粗暴だった芹沢はこの後、大坂や京都の遊郭で暴れたり、生糸商の大和屋を焼き討ちするなどしたため近藤らが粛清を決意。9月酔って寝込んだところを沖田や土方歳三らが襲い、斬殺した。
御堂筋沿いの滋賀銀行大阪支店の壁に蜆川跡の石板が、芹沢らが大川へ船を出した舟宿京屋忠兵衛跡の銘版が京阪天満橋駅南側の商店の一角にかかっている。

勤王の志士らを殺害
壬生浪士組は文久3年8月、公武合体派が長州勢力や急進攘夷派の公家、三条実美らを追放した「8月18日の政変」で公武合体派側の警護にあたり、評価されて新選組という隊名を拝命。さらに池田屋事件、禁門の変などで名を挙げた。

大坂でも元治2(1865)年1月、土佐勤王党が大坂焼き討ちを計画しているとの情報を大坂屯所隊長の谷万太郎がつかみ、松屋町近くのアジトのぜんざい屋石蔵屋を襲って大利鼎吉を討ち取り、他は逃したものの計画を防いだといわれる(中央区瓦町1に「大利鼎吉遭難之地」碑)。
また、谷は5月に学塾、玉生堂を開いていた藤田藍田を、討幕の志士らと交流していたことを咎めて捕縛し、萬福寺に幽閉。拷問の末、藍田は16日後、遺体で家族へ戻された(西区南堀江の高台橋公園に玉生堂跡の石碑)。
これらの事件は、新選組のサブストーリーもしくは裏面史的位置づけかもしれないが、時代のうねりに身を置こうとする隊士らの気負い、いきがりは十分伝わってくる。
壬生浪士組結成から戊辰戦争までわずか4年10カ月。当時近藤は29歳、土方28歳。あの坂本龍馬が27歳。歴史そのものが生き急いだ時代だった。
メモ

新選組の旅宿は、萬福寺のほか、同寺の東側にある大宝寺(同市天王寺区生玉寺町7)や、八軒屋浜すぐの舟宿京屋忠兵衛などいくつかあった。なにわ筋の土佐堀川にかかる常安橋近くには会所も。石碑が多い大坂の新選組関連史跡のなかで萬福寺の山門と庫裏は江戸期のまま残り貴重。牢として使われた納屋は戦後まで残っていたが、今はない。

