【小説】プライベート・エモーション 最終話
エンジン音を低く鳴らした車は、それ以上何も言わず、マンションの地下駐車場に佇んでいる。行き先のわからない頭は、終わってしまったものの残骸の中を彷徨い、時間だけが消えていく。答えのないまま、しばらく動かなかった足がアクセルを踏むと、車体はいくつかのカーブを曲がりながら緩やかなスロープを上り、まだ片づけきれない余韻を地下に残したまま、地上へ抜け出そうとしている。生温かい空気に晒された瞬間、フロントガラスに雫が一気に落ちてきた。
『雨』
彼女のことでいっぱいになっていた思考に現実が入り込むと、雨に濡れた彼女が、渦巻いた内側を満たしていく。
主導権を握った手と足が、行き先を知っているかのように車を有明インターへ向かわせると、吸い上げられていく車窓の向こうに、雨の膜をまとった都心がゆっくりと姿を現した。
お台場に近づくと、薄霧の向こうで光がぼんやりと広がり、カーブを抜けた先にレインボーブリッジの白い主塔が浮かび上がる。雨を含んだ路面に折り重なる光まで、終わりへと姿を変えていく今日という夜の名残を連れたまま、現実ではない世界へこちらを静かに引き寄せていく。橋の向こうには、あの日見た鉛色の湖が口を開けて待っているようで、いっそ車ごと底なしの水へ沈めば、その底で彼女を見つけられるのではないかとさえ思った。しかし、幻想のトンネルの向こうには、雨に曇る東京の街が滲んでいた。
楽園に辿り着けないのなら、遠い東の地の果てへ向かい、そこが白夜の続く、不毛に荒れた世界であっても、彼女がいるのなら落ちてしまいたい。
壊れたいと願う心を置き去りにした身体は、夜を滑りながら、時の流れに沿ってまだ見えない明日へ向かっているかのようだった。視界にあった湾岸の灯は、雨に揺れる東京タワーの赤橙色へと姿を変え、最後の名残を空へ浮かび上がらせた直後、近づく車から身を引くように、ふっと黒へ沈んだ。
『日が変わった』
新たな日の始まりは、何も変わらない現実をそのまま引き継いでいる。
車窓の外を流れる都会のビル群は、今日を迎えたばかりだというのに、これから眠りにつこうとしている。
動きを止めた車の中で、赤信号が雫を落としながら目の前で揺れている。いつの間に下道に降りたのだろうか。記憶をたぐり寄せると、汐留の高層群が黒い輪郭で近づき、新橋の道路標識が通り過ぎ、駅前の灯りが雨を銀色に染めていた。
緑に変わると、足がアクセルをゆっくり押し、車はどこへ吸い寄せられているのか分からないまま、タクシーの並ぶ大通りへ滑り出した。向こうに並ぶネオンを眺めているうちに、客として幾度となく訪れた店の名前や、そこで一緒に飲んだ人たち、夜に生きる人間の光と影が頭の中に蘇り、かつて店の人間と並び、得意先の背中へ頭を下げて見送ったとき、目に映っていたアスファルトの世界を、今夜はハンドルを握る側から見ていた。
フロントガラスに弾けて泣いている雨をワイパーで優しく拭いながら、空の車線を緩やかに走り、速度を和らげると、もう心の中で永遠に消えることのない『リュエール・デ・ゼトワール』の名を刻んだ看板がゆっくりと視界に現れ、後ろに流れていく。灯りは消えていた。
扉の向こうでキャサリンが……踊っている。
この場所にしがみつこうとする心をそのまま映したように、身体に任せて走っていた車は銀座という街に呑み込まれ、見知った通りをぐるぐると回りながら、そこから外へ出ることを拒んでいるようだった。
『何がしたいんだ俺は』
脇へ寄せた車の中で、大きく息を吸いながら頭を整理する。激しくなった雨が車の屋根を叩く音に耳を澄ますが、何も見えてこない。しかし、再び走り始めると、何かを思い出したように、車は身体を街の外側へ運び出す。
さっき記憶に浮かんだ新橋の駅前が、今度はぼんやりした記憶ではなく、意識の戻った目の前を過ぎていく。雨に洗われた道路の先で、暗い空にぽっかり口を開けた違う色が、灯りを受けて浮かんでいる。近づいていくと、東名高速入口の道路標識がゆっくりと顔を見せた。
【小田原・箱根 方面】
――彼女は箱根にいる。
『箱根の遊覧船、乗ってみたいの。晴れてると富士山も見えるんでしょ』
あの日、彼女の言葉が内側の襞を撫でた。先を知るのが怖くて閉じた景色の向こうから、彼女の行きたかった場所が痛みを連れて戻ってくる。
『連休に箱根に行こうか』
簡単な言葉で繋がれたはずだった。彼女をいつまでも近くで見ていたかったのに、それを素直に自分の中に落としていけなかった。その『いつまでも』が幻想だったのだと気づいた時、巻き戻せない流れの渦に吸い込まれて、息ができなくなっている。
焦りの止まない身体を乗せた車は、速度を上げていく。周囲で雨が横殴りに流れ、ガラスを叩く音の向こうで、サービスエリアの灯りが一瞬だけ現れては、すぐ闇の中へ呑み込まれていく。大型トラックが水飛沫を上げて追い越していく。
小田原厚木道路へ入るころには、雨はさらに深くなっていき、やがて山の気配が近づいてくると、闇の輪郭が濃くなる。道路脇の木々がヘッドライトに照らされ、一瞬だけ白く浮かび上がっては消える。
箱根口の標識が目に入った。大きく吸い込んだ息をしばらく止めて、肺の奥へと流し込み、出ていく空気を惜しむようにゆっくり吐き出した。
そこから先に続く山道が、運命を決める最後の関門だと身体が知っている。
濡れたアスファルトが蛇の皮膚のように鈍く光り、カーブを曲がるたびタイヤが水を噛み、車体がわずかに外へ流れる。奥へと進むにつれて、空気が白く濁り始め、霧が世界を狭め、ヘッドライトの光を散らして視界を曖昧にする。まるで、この世界そのものが輪郭を失っていくように。
湖へ向かう山道の先で、何かが待っている気がする。救いなのか、終わりなのか、それはまだ分からない。ただ、今は行くしかない。
雨の箱根へ。
午前二時三十三分。
目的地に到着したと同時に雨が止んだ。
月灯りのない深夜の芦ノ湖は、水面に黒さを広げている。
元箱根の湖畔にある二十四時間オープンの駐車場には、週末旅行で来たらしい車が何台も眠っていたが、深夜の端にまだ空きが残されていた。エンジンを切って外へ出ると、東京にはなかった肌寒さが肌に触れ、時折吹いてくる風が、十数メートル先に広がる湖面から湿った温もりを運んでくる。すぐ近くにある遊覧船乗り場には人影はない。
今、彼女が箱根にいたとしても、この港へ来るとは限らない。他の場所から船に乗り、別の港で降りてしまえば、ここへは来ない。会える可能性は限りなく低いかもしれないが、もしも奇跡的に出会えたら……きっとうまくいくはずだ。
会えない確率を頭から取り除いた。
車に戻ってシートに腰を沈めると意識が下へと引っ張られて、次の瞬間、ダッシュボードを震わせる携帯のアラームが、朝七時半へワープした身体を揺らした。
しばらくすると観光客がぽつぽつと姿を現し、遊覧船の出航十五分前には、湖へ流れ出る水のように人が乗り場へと四方八方から集まりだした。彼女がいるかもしれないと期待を込めて流れに近づくと、増えていく人の中で、長い髪や白い服を見つけるたびに、彼女じゃないと分かっていても、足が勝手にそちらへ向いてしまう。
幸せそうな表情を浮かべた家族連れやカップルを中心とした群衆の中に、ひときわ背の高い女性の姿は見当たらない。こうして近くで探さなくても、彼女がこの中に紛れて佇んでいれば、絶対に分かる。
最初に出航していく船に彼女はいなかった。
一時間もしないうちに、どこかで出航した船が港に着いたが、降りてくる乗客の中にも、船上でこちら側を眺める人たちの中にも、彼女の輪郭を見つけることはできなかった。もしかしたら、あの船のどこかに座って、外を見ているのかもしれないという不安が落ちてきた。
そして一時間、二時間、三時間。
空はどんより曇ったまま、太陽からの光は地上に届くことなく、白っぽいグレーの時間だけが過ぎていく。ポケットの中で握りしめた携帯は何度見ても沈黙し、濡れた靴底だけが少しずつ重くなっていく。
今日、最後の遊覧船がその姿を小さくすると、営業を終えた船乗り場から観光客の気配が消え、閑散とした空気が戻ってきた。時間が逆戻りしたように、寂しい湖と空だけが残り、その静けさが虚しい内側を覗き込んでいた。
箱根に来ていないということなのだろうか。
ここにいることに気づいて、どこかへ行ってしまったのだろうか。
それとも、今もどこかからこちらを見ているのだろうか。
期待が空振りになったと思うと、また不安が蘇ってくる。
夜の訪れは東京よりも早く、グレー交じりの白い空から白さが薄れていくと、すぐに暗さが下りてきた。箱根の湖畔から動けないまま日曜の夜だけが更けていき、帰る理由よりも、ここに残る理由のほうが大きくなる。ようやく駐車料金を精算した頃には、明日の仕事を休むことも、近くの宿で一夜をやり過ごすことも、もう決まっていた。
翌朝八時、ホテルをチェックアウトしたあと、休めたはずの身体を連れて車を湖畔の北へと走らせた。桃源台港の駐車場に停めてみたものの、月曜の朝は観光客が少なく、遊覧船乗り場は活気に溢れていない。
彼女を見つけるためなのか、彼女が見たかった景色を代わりに追いかけるためなのか、目的が曖昧になってきたまま、海賊船の一日周遊券を買い、徹底的にこの地を散策してやろうと、なぜかムキになっていた。
桃源台を離れた船は、ゆっくりと湖心へ向かった。背後には深い緑の山並みが迫り、進行方向には湖岸に寄り添うような街並みが見えている。白いホテルの壁が曇った空を受けて、より明るく見える。晴れていれば姿を現す富士山の方向には、湖面近くまで低い雲なのか、霧なのかが立ち込めている。
『キャー素敵、綺麗すぎる』
晴れた空の下、湖の山間から見える壮大な富士山を見た彼女の声が、耳元で響いた。
『ありがとう。一緒に来られてよかった。超幸せってこういうことなのね』
『来週は熱海に行こうか』
『マジで言ってる?』
『ああ』
『行く行く。もちろん行くわよ。当たり前に行くわ。今からホテル予約しちゃっていいかしら? ずっと前にテレビで見たことあるんだけど、山手になってるんでしょう? 私、上の方の豪華なホテルから街並みと海を眺めたいのよね。夜は街の灯りが揺れるのを楽しんじゃうの。露天風呂ありのホテルがいいわ』
オフホワイト一色のサマードレスに身を包み、同じ色の薄いカーディガンを風に靡かせながら、笑っている彼女が横に立っている。
彼女が本当に横にいるはずはないと分かっているのに、船に揺られながら、その笑顔も声も消すことができず、普通の幸せに似た時間の中へ迷うことなく入っていった。海賊船は輝く湖面と青い空に挟まれて、元箱根港へと滑っている。
『箱根神社に行こうよ』
『ということは、次でいったん降りるということか』
『さすが商社マン、どこに何があるか知っているのね』
『それ、商社マンと関係なくないか』
『要望にすぐに返答できるのが商社マンなのかなって。だって今は中東のエネルギーを動かしてるんでしょ!』
『東堂さんの会社がカタール国営会社とうまく繋がっているからね。俺がLNGを動かしてるんじゃないよ』
『LNG?』
『ごめん。天然ガスのこと』
『LNGって言うのね。あらお勉強できちゃった。そうそう、そのLNGも、東堂さんと繋がれたから、あなたの会社を満たしてくれてるんでしょ?』
『まぁ、そうだけど』
『じゃあ、やっぱすごいんじゃん。それに、東堂さん繋がりで私とも会っちゃったしねー。私たちって運命的な出会いをしたってことよ』
『運命か』
『そう、結ばれる運命なの』
船から降りる観光客の流れに身を任せるように、元箱根港で船を降りた。左側に昨日の駐車場が曇り空の下で寂しい表情を浮かべている。その灰色が目に入ると、一人の現実が蘇ってきた。
観光客に交じって神社へ行く気がしない。降りた船に引き返していると、後ろからまた彼女の声がした。振り返ると、さっきと同じ姿のまま、風の中で笑っている。
『疲れたの?』
『いや』
再び広がる青空の下、鳥居をくぐり、大きな石畳の上を通って、境内へと進んだ。
『神社の参拝って結構ルールあるんでしょ?』
『そうだな。何もしないで鳥居の真ん中をくぐったけど、本来は立ち止まって手を合わせてから、鳥居の端をゆっくり通り抜けるのが最初の作法かな』
『じゃあもうだめじゃない』
『大丈夫だよ。誰もそんなこと気にしてないよ。ほら、みんな同じように歩いてるし』
『そうなんだけど、ちゃんとお願いをしたから』
『何を願うんだ?』
『うふ。それはヒ・ミ・ツ』
財布から五百円玉を取り出して、賽銭箱へ入れた。
『彼女にもう一度会わせてください。今度は傷つけたりしません。絶対に。彼女の気持ちを大事にします。だから、お願いします。彼女に会わせてください。そして、私の想いを伝えさせてください』
目を閉じて真剣にそう願った。
このまま目を開けたくない。
開ければそこに現実があるから。
彼女が横にいないことを思い知らされるから。
そう思いながら、たった五百円しか入れていないことに罪悪感を覚えた。そんな金で願いを叶えたいと思っていることが恥ずかしい。もし叶うなら、いくらでも払う。五万でも、五十万でも、五百万だって惜しくない。
『それがだめなんだよ。金でどうにかしたい。高額な金で何かを変えられると信じている。お前は、何も変わってない』
別の声が頭の中でそう叫んだ。
『長くない? やなぎんのお願い』
目を開けると彼女が横に立ってくれていた。晴天の光に包まれて。
このまま彼女が消えないでいてくれればと願いながら、箱根町港を歩き、箱根関所を見て回った。そして再び海賊船に乗っても、彼女は一緒にいてくれた。妄想だと分かっているのに、湖面を渡る風が頬に触れるたび、横にいるはずのない気配まで本物のように感じられ、本当は一人でいるほうが妄想なのかもしれないと錯覚するほど、境界線が曖昧になってくる。
『次は箱根ロープウェイよ』
桃源台駅を発ったロープウェイのゴンドラは、音もなく地面を離れた。彼女は窓際に立ち、両手を腰の後ろで組んだまま外を見ている。夏の陽射しを受けた横顔は、ガラス越しの光に薄く透けて見えた。
眼下では芦ノ湖がゆっくりと遠ざかっていく。
湖面は午後の光を受けて銀色に煌めき、その周囲を囲む山々の線が、水彩画のように淡く滲んでいた。さっきまで歩いていた元箱根も湖畔も、海賊船が発着していた桟橋も、もう掌にのるほどに縮んでいる。
『高い所、怖くないのか?』
『ニューヨークにいたのよ。高層ビルから下を見下ろすのには慣れてるの。実際に住んでたのはクイーンズってとこの古いアパートの二階だったけどね』
『ニューヨーク』
その街の名前が頭の中で響いた途端、窓の外を見る彼女が消えた。
雲に覆われた白い世界の中で、ひとりだけを乗せたゴンドラが支柱を越えるたびに微かに震えていた。
降り立った山頂は、その高さを見せない白さを広げて、霧雨に濡れている。一緒に見る人を失い、見る景色すら失われている世界で、心に残った微かな彼女の温もりを手がかりに、雲の向こうに聳えるはずの壮大な富士山を視ていた。しかし、ゆっくりと山が溶け出し、現実に引き戻されると、独りの重みで潰れそうになる。
地上へ降りるゴンドラに、跳ねる声も、弾ける笑顔も、青い空や緑の山も戻ってくることはなく、霧に包まれた支柱を一つ越えるたび、さっきまで隣にいたはずの温もりだけが少しずつ遠ざかっていった。駅に着き、観光客の流れから外れて駐車場へ戻ると、停めていた車だけが寂しい表情で待っていて、誰かと歩くために広がったかのように思えた一日は、夕陽のない夕暮れの中で静かに片づけられていく。何も見つけられないまま箱根を後にする頃には、昨日と同じ気配をまとった空が低く垂れ込み、ハンドルを握る指先から力が抜けていった。
東京へ戻る車の助手席に、彼女が現れることはなかった。見ていたものが妄想でも、壊れかけた頭が作った理想でも、彼女のせいにだけはしたくなかった。
来た道をそのまま引き返しているだけなのに、箱根へ向かう道の上にあった期待は、もうどこにも残っていない。山を下り、高速を抜け、いつもと変わらない光を夜空に投げるレインボーブリッジを越えて有明へ戻ると、車はガラスの塔の地下深くへ滑り込み、会社を休んでまで続けた箱根の旅は、何ひとつ持ち帰れないまま終わった。
玄関のドアを開けると、誰かの気配を待つだけだった頃の静けさが暗い廊下の奥から戻ってきていて、灯りのつかないリビングも、まだ一人分の呼吸しか知らなかった広さを何事もなかったように取り戻していた。ただ元に戻っただけではない。咲きかけた未来だけが抜き取られた沈黙が、以前よりも広く深い空白を部屋の中へ落とし、踏み出した足から重い身体へ冷たさを押し上げてきた。
窓の外から薄く滲む湾岸の灯りだけが、誰もいない乾いたリビングに届いている。ひょっとしたら彼女が部屋にいるのかもしれない、そしてもう眠っているのかもしれないと、形を成さない独り言が内側で広がった。部屋の前まで息を整えて、ノックする。一回、二回。指の骨が木目に跳ね返る音だけが、返事もない廊下に落ちた。
『私の部屋に勝手に入らないでね。いる時はノックしてね。いない時は扉に触れるのも禁止よ』
彼女の決めたルール。数ある決まりごとを一度も破らなかった声が、ドアの向こうで蘇る。
「ごめん」
そう言って取っ手を握り、ゆっくり回すと、抵抗を返すことなく扉がすーっと開いた。空っぽの部屋が目の前に広がる。清掃された床を、閉まった窓から入る光が淡く照らし、風が通り抜ける扉の開いたクローゼットには、ハンガーにつるされた空の輪だけが薄い影を落としていた。急いで靴箱を覗くと、並べられたヒールの列も、小さいスニーカーも姿を消して、空間に穴をあけている。洗面所にも風呂場にも彼女の愛用品は記憶ごと消されたように見当たらない。エスプレッソマシンも小さなカップも、最初からなかったように消えていた。
膝が折れた。壁に手をつくと指先に鉄筋の冷たさが伝わる。箱根で彼女の幻を追っている間に、本当の彼女はここへ立ち寄り、広げたすべてを元に戻して立ち去ったのだと分かった瞬間、かろうじて形を保っていたものが、身体の中で音もなく崩れた。
リビングの空間が気力を吸い取っているかのように、意識がどこかへ行きそうになり、立っていることを諦めるようにソファへ身を沈めた。狭くなった視界の先で、ローテーブルの上に、折りたたまれた便箋と定形外の封筒が並んでいる。そこに何が書かれているのか、分かっているからこそ受け入れたくないはずなのに、彼女が触れていた便箋を、開きたくない指先が温もりを求めて、紙の端を撫でた。便箋のしわが指の腹に残る。
お世話になりました。そして勝手に出て行ってごめんなさい。
三か月分の家賃を置いていきます。ルームキーは私が作ったものなの
で、自分で処分します。
終わりを告げるためだけに置かれたような短い文字を目で追っても、そこに自分の納得できる終わりはなく、理由ならもう分かっているはずなのに、彼女の声でその言葉を聞くまでは、この部屋で何もかも失くした人間のまま膝を抱えていることなどできなかった。
スーツに着替え直し、鏡の中の顔に仕事用の表情を戻すと、その気合だけを頼りに銀座へ向かった。
「いらっしゃいませー」
マネージャーに案内されて、いつものテーブルに着くと、入口近くにあった彼女の香りが、今日は薄くなったように感じられた。
「奈美のほうが先ほど出勤したばかりですので、五分ほどお時間いただけますでしょうか」
彼の丁寧な言葉が、今、ここにキャサリンがいないことを伝えているが、そうだと分かっていても、テーブルで華やぐ彼女の姿を探していた。
「いらっしゃいませ。お仕事帰りにお一人でお越しいただきありがとうございます」
艶のある声にスーツの袖を引っ張られるような緊張を覚えたが、ママは至って冷静に、いつもの微笑みを見せながら腰を下ろすと、何もなかったように丁寧な所作で、ナプキンを整えている。
「今日は特別に何かございましたか?」
来た理由は分かっているはずなのに、ママはあえてそこに触れず、今夜は何かあったのかと流暢に尋ねながら、「明日には戻る」と偽った時と同じ表情を見せている。
本心を投げたところで、うまくかわされると思うと、乾いた喉から出てくる言葉が見つからない。グラスの冷たさが、触れた指先から身体へ広がっていく。
「ごめんなさい。白々しい言い方をしてしまって。キャサリンのことですよね」
「……」
「先日は嘘を言ってしまいました。本当に申し訳ございません」
相手の内心を読み取りながら言葉を提供してくるのは分かっていたが、本音のような変化球を投げられて、何も返せない。ただ、ママの告白に、さっきまで膝の上で握っていた拳の爪が掌に食い込む感覚がゆるんでいった。
「あの子から立柳さんのマンションを出ると聞いた時は驚きました」
「出る。そう言ったんですか」
「はい。もう一緒に暮らせないと。理由は聞いてません。でもわかります。あの子のことだから、立柳さんの立場を考えてのことだと思っております」
沙理衣の言葉が、耳の奥で響いている。
「でもね。それもあるとは思いますが、自分を守るためでもあるんだと思いますよ。立柳さんと一緒にいるとあの子自身が一番つらいから」
「彼女はいつ復帰するのでしょうか? いろいろなことが一気に起こって。でも彼女とちゃんと話せないまま。僕の……私の気持ちをちゃんと伝えていないです。ちゃんと話したいんです」
「お気持ちはすごく分かります。でも……あの子は話したくないのだと思います。立柳さんが何をどう考えているのかは十分に分かっていると思います。なので、あえて会わないことを決めたんだと思います」
「しかし、このままでは、私の気持ちは……すみません。散々なことをしてきたのに、自分の気持ちを聞いてほしいなんて」
「それと、キャサリンがここへ戻ることもないんです。私の所に店を辞める報告も兼ねてやってきたので」
「辞める! ここを辞める?」
「はい。なので、キャサリンとして働くこともないんです」
「辞めて、どこで働くのでしょうか?」
「お金は心配しなくても大丈夫なので。たぶん、ご存知だと思いますが」
もうこの店で、キャサリンと会うことすらできない。グラスの中の顔が、溶ける氷に揺らされて崩れていく。店の甘い香りの奥から、彼女だけが抜き取られていく。
「すみません、ひょっとして、彼女を追ってアメリカからやってきた白人男性の元へ帰るとか、そういうことでしょうか? ぶしつけなことを聞いてしまって申し訳ないのですが、その男性が私のマンションの前で彼女と話しているのを見かけて」
「ああ、カイルさんのことですね」
「カイル?」
「あの方は、あの子のお友達です。ニューヨークでいろいろ助けてもらったようです。カイルさんの気持ちは知らないのですが、あの子が彼に特別な気持ちを持ったことはないみたいです。それにあの方ならもう帰られたと思いますよ」
『カイル』
名前を知ると、あの日の光景が生々しく目の前に現れて、男への感情よりも、壊れかけたあの日のことに、また胸を切られたような痛みがはしった。
「怖い顔してますよ」
「あっ? えっと、すみません」
ママが少し遠くを見た。別の席が気になっているのだろうか。戻ってきた視線からは笑顔の面影が消え、真剣な厳しさだけが残っていた。
「立柳さん」
「はい」
「大変申し上げにくいんですが……ちょっと失礼します」
ママは言いかけた言葉を途中で切って、立ち上がると奥へ消えてしまった。一人になると店内の楽しい笑い声が、この席を置き去りにしていく。しばらくして戻ったママの手に二つに折られた便箋を見つけた時、その数分の孤独への答えを差し出された気がした。今日、二度目の、二つ折りだ。胸を軽くするものではないと、ママの表情が物語っている。
「何かあったんですか? 何か失礼なことをしてしまったのでしょうか?」
「……」
ママは黙ったまま、俺へ目を向けている。言いにくそうに、それでもこちらに逃げ道を残さない。
「これを」
紙の角が、テーブルの木目に小さく触れた。
「これは? 今、読んでもいいのでしょうか?」
「もちろんです」
<明日 18時15分 成田発―シカゴ行 JAL56便 第2ターミナル>
「明日! アメリカに戻るんですか!?」
「はい」
「なぜこれを私に?」
「あの子には言わないでくれと頼まれたのですが、もし立柳さんが明日までにお越しになったら伝えることになっています。そして、今日、あなたが来られたことは、あの子に伝えません」
「なぜ?」
「あの子を連れ戻したいからです。立柳さんの役目です」
『役目』
「でもどうして成田で、行き先がシカゴなんですか? ニューヨークじゃないんですか?」
「本当に変な子でしょ!」
ママの顔が急に明るくなった。いつもの笑顔に戻っている。
「まず羽田が嫌いなんですって。綺麗だけど狭くて外国の街へ飛び立つ感じがしないとか。初めてニューヨークに行ったのが、成田の第二ターミナルだったようで、ロビーの広さや、ガラス越しに見える飛行機とか、すべてが好きって。シカゴは行きたいというよりも、現在、成田の第二からニューヨークへ向かう便は全部、ニューアーク空港に着くみたいで、それが嫌だって。ジョン・エフ・ケネディ国際空港に降り立ちたいらしいの。ニューアークはお隣のニュージャージー州だから気分が乗らないとか。だったらシカゴのオヘア国際空港の方がいいって。シカゴに寄ってニューヨークに帰るって言うのよ。二、三日シカゴに滞在して、本場のブルースを聴いてから帰るらしいです。私は羽田の方が綺麗だし、コンパクトで移動も簡単だし、何よりも都内から近くて便利だから、断然羽田の方がいいと思うのですが」
ママと同じで、空港へのこだわりは近くて、きれいで、使いやすいことだけだ。成田なんて遠くて、広すぎて、歩く時間が無駄な気がする。それなのに彼女は、こんな時まで遠回りを選んでいる。選び方まで、彼女らしかった。
彼女を取り戻すために残された時間は一日もなかった。何もしなければ明日のこの時間には、彼女はシカゴへ向かう飛行機の中だ。
迷いはなかった。
翌朝、休んだ後ろめたさを引き連れて出勤した。
「おはようございます。体調は大丈夫ですか?」
「おはようございます。お体のほうはもうよろしいのですか?」
「おはようございます。無理しないでください」
オフィスに入ると営業部の部下たちから次々と声が飛んできた。一応、本部長と課長、営業リーダー、営業事務担当には体調不良だと連絡しておいたが、仮病で休んだ経験がなく、足の裏が床に吸い付くように堂々と歩けない。その挙動がかえって体調の悪さに見えるなら、早退するときに都合がいい。
十六時三分発の成田エクスプレスに乗れば、彼女が出国審査へ向かう十七時頃には着ける。ぎりぎりだが、間に合うはずだ。
午後になり十五時を過ぎると、椅子に座っていること自体が急に落ち着かなくなる。机の上に並ぶ書類の文字は目に入っているのに、意味だけが紙の上を滑っていき、意識は何度も時計へ戻っていった。嘘を一つ言って会社を抜けるだけなのに、身体の隅々まで緊張が走る。
十五時半。十六時三分発の成田エクスプレスに乗るには、この辺りで会社を出る準備をしなくてはならない。もし次の電車に乗り遅れれば、計画が台無しだ。
「すまないが、早退させてもらう。ちょっと気分がすぐれないんだ」
課長と営業リーダー、営業事務担当にそう告げ、丸の内のビルの間を縫って駅へ向かう足に、心臓の高鳴りが追いついてくる。本部長にはあとで電話しておこう。地下中央口から改札を抜け、総武線・横須賀線の案内表示に従って地下深くへ降りていく。空へ飛び立つ前に、人はこうして地下へ潜るのか。妙な皮肉だと思った。四・五番ホームに着くと、電車はすでに入線していた。指定された【7号車10A】に腰を下ろすと、関門を一つ突破した気がして、安堵した息が心地良く漏れ出てくる。
ここから数十キロ先の成田に彼女が立っている、そう思うと、一秒でも早く会いたくて、目の力で時間を進められるかのように、何度も視線が携帯の画面に落ちる。
【8月21日 火曜日 16時01分】
あと二分で、電車がこの身体ごと彼女のもとへ運んでくれる。
<本日も、JR東日本をご利用くださいまして、ありがとうございます。成田エクスプレス39号、成田空港行きは発車準備を進めておりましたが、ただいま、総武本線内で先行電車の車両点検を行っているため、当列車は東京駅を発車することができません。お客様にはご迷惑をおかけいたしますことをお詫び申し上げます。
運転再開の見込みが立ちましたら、改めて車内放送にてご案内いたします。恐れ入りますが、そのままお席でお待ちください>
そわそわと浮足立っていた気分に皹が入り、ざわつき始める。
突破したはずの関門の先に、新たな壁が立ちはだかっている。
『間に合わないかもしれない』
焦る身体に不安がゆっくり降ってきて、胃の底に沈んだ。
このまま座って待つか、今すぐタクシーへ乗り換えるか。時間を逆算しながら頭をフルに稼働させるが、道路が混んでしまう可能性も、自分が降りたあとで電車が数分後に動き出す可能性もあり、結局すべて運まかせでしかないことに、居座り始めた不安が重みを増す。ネットのマップ上では、今のところ成田までの渋滞はない。一か八か、タクシーに賭けた。
急いでエスカレーターを駆け上がり、八重洲口の自動ドアを抜けた瞬間、むっとした空気が頬を撫でる。流しのタクシーに空車の赤いサインが見え、後部座席のドアが開くのを待ちきれないほどの勢いで身を滑り込ませた。
「成田第二ターミナルまでお願いします。急いでください」
「成田空港ですか。今の時間だと少し混みますよ」
運転手とバックミラー越しに目が合った。
「構いません。お願いします」
「分かりました。飛行機は待ってくれませんからね」
その軽い一言に、胸が痛んだ。飛行機だけではない、人も、いつまでも待ってはくれない。
タクシーは夕方の東京へ滑り出した。窓の外では高層ビルのガラスが西日に鈍く光り、横断歩道を行き交う人たちがいつも通りの一日を生きているように見える。世界は普通に進んでいる。夕方に差しかかる都内の下道では信号が優しく通してくれたが、首都高速都心環状線へ入るころには、車列はすでに数珠つなぎになり始め、ブレーキランプの赤が夕暮れ前の空を汚すように伸び、車は少し走っては止まり、また少しだけ動く。
「湾岸まで出れば少しは流れると思いますけどね」
運転手が前方を見ながら呟いたが、返事をする余裕もない。会えなかったら——その考えが頭をよぎるたび、胸のどこかが軋む。遠くに有明のタワーマンションが見える。あそこにいた。あの窓から、この街を見ていた彼女が。
車が湾岸線に入ると、東京湾が右手に広がり、夕陽に輝く海面の上を貨物船がゆっくり進んでいる。雲のない澄んだ夏のオレンジの空の下を、羽田へ降りていく旅客機がジェット音を轟かせて目の前を横切る。彼女が嫌いな羽田へ着陸する飛行機を見ながら、タクシーは成田へ向かう。近くて便利な空港から離れていくほど、彼女の選んだ遠回りだけが近づいてくる。
速度計が九十キロを超え、ようやく流れ始めたが、まだ安心はできない。東関東自動車道へ入ると、空港方面へ向かう観光バスや配送トラック、レンタカーが現れ始め、少しずつ目の前を塞ぐ障害物に焦る身体が、組んだ足の片方を揺らし始める。落ち着け、この先に成田空港がある、そこに彼女がいる。そう刻みながら、倉庫群と工場を過ぎ、街の密度が薄くなっていく景色を見ていると、やがて広い空だけが残った。東京を離れている。その実感だけが妙に鮮明だった。
十七時三十分。
視界に【Narita Airport】の文字が飛び込んだ。その横を過ぎると鼓動がスピードを上げ、『すでに出国審査のゲートを越えたかもしれない』と呟く心の声に耳を塞いだ。
西の雲が橙色に染まった空を、旅客機がゆっくり横切る。羽田ではない。成田がそこにある。着陸灯が白く瞬き、空港そのものが巨大な生き物のように呼吸しているようだった。
十七時四十三分。タクシーは成田空港第二ターミナル前の車寄せへ滑り込んだ。料金メーターの数字を見る余裕などない。財布から抜いた札を運転手に押しつけるように渡し、開いたドアから外へ飛び出す。
ガラス張りの高いロビーの向こうには、無数の人影が行き交っている。この中のどこかに、まだいてくれることを願いながら自動ドアを抜けると、日本とは違った空気に迎えられた。彼女が好きな空気だと感じた身体が一瞬立ち止まり、広い空間の中で、細く高い輪郭を視界に入れようと、あの香りを嗅ぎ取ろうと、上向きに湾曲する口元から流れる声を聞き取ろうと、それらしき存在を捉えようとしている。
<18時15分発、日本航空56便、シカゴ行きの搭乗を開始いたします。ご搭乗のお客様は61番ゲートまでお越しください>
ここからは見えない出発ゲート待合エリアで、さっきまで座っていた人たちが搭乗しようと立ち上がり、列ができ始める。その光景が頭の中で大きくなり、現実味を帯びてくる。そこに彼女はいないはずだと思っているのに、背の高い女性が立ち上がり、一瞬こちらを振り向いた顔に、キャサリンの笑顔が重なった。
『あの壁の向こうにいるんだ』
諦めに押し出された落胆のため息が、映像を薄くしていく。虚しく戻ってくるロビーの現実が色をなくして動き始めると、数秒前に見た残像が、今度は本物の輪郭を持って重なった。
細く白い腕を、肘まできれいにまくり上げたシャツから覗かせ、右手に小さなスーツケースを握る女性が、群衆の中から立ち上がった。見覚えのあるブルーの縦線のシャツ、やわらかな布地の小さな青いスーツケース。彼女のいる現実に間に合った。
何メートルかわからない。でも届く場所に姿を見せた彼女の背中が、出国審査へ続くゲートのほうへ向かいながら距離を広げていく。ほんの少し前まであったゲート前の混雑はなくなり、並ぶ人が消えている。このままだとすぐに中へ入ってしまうことがわかるのに、足が震えて追いかけられない。
待ってくれ。
行かないでくれ。
声が出ない。
こんな時に、声が出ない。
止まってくれ。
行かないでくれ。
「きょーこー! 京子!」
出せる限り振り絞った声が届いたのだと示すように、その背中が止まった。肩を小さく震わせながら、近づく気配を待つように、その場に静止している。
革靴の足音をロビーの床に小さく響かせながら近づくと、泣いているのかと思ったその震えが、振り返った彼女の笑顔の中で、喜びの光を帯びて揺れていた。
「遅すぎ。もう来てくれないかなって思ったわ」
思いがけないほど普通の声で迎えられ、驚きと喜びが同時に押し寄せるのに、返す言葉だけが見つからない。
「待ってた。ここに座って。最後の最後まで」
「……知ってた…のか?」
「ううん。知らなかった。だって奈美には言わないでって言ってたし、あなたに言った感じもしなかったし。あの子本当に演技派だわ。でも、なんか会えるような気がしてたの。何も言わずに出て行ってごめんなさい。それは後悔してるのよ」
「……」
「どうしたの? 会えたのに何も言ってくれないと困っちゃうわ。あっ、分かった!『好きだ』とか『愛してる』とか告白するつもりじゃない? もしそうなら、言わないで。ずっとそう言われたいって思ってたし、夢見たこともあったわ。でも、いざ言われそうになってるって思うと、恥ずかしいの。だって空港だし。言葉でちゃんと聞きたいけど、聞かなくても、あなたの目がラブリーだから分かっちゃったわ。目ってほんと正直よね。特にあなたって、いつも感情が駄々漏れなんだもん」
好きだ、と口から零れ出そうになっていたのを必死で堪えた。言葉に出さなくても知っているという彼女の笑顔が少し寂しそうに見えるのは、俺の気持ちを反映しているのか、それとも彼女から滲んでいるのか分からない。
「ごめん。本当にごめん」
「らしくないわね。私が許さないってこと知ってるでしょ。わざと謝ってるの」
そう言いながらいつものように沈みそうになる光を上へと引っ張っている彼女から、違う香りがした。何かが変わったのかもしれない。違うなら違うで構わない。そのすべてを受け入れたいと思うと、急に全身が熱くなって想いが溢れ出てくる。
「これからはちゃんとする。色んなことちゃんとする。だから……もう一度……一緒に暮らしてほしい。軽い気持ちじゃないんだ! 君の物が部屋から消えて、何もなくなって、でも……君の…あの香りが残っている部屋が……そこにあって……うまく伝えられないけど…君が…京子が必要なんだ」
「……」
笑顔のまま、何も言わない。でも答えを探している風にも見えない。
「今すぐ、一緒に暮らさなくたっていい。ただ、離れていても会える場所にいたいんだ。会いたいと思ったら会いに行ける距離にいてほしいんだ」
「どこにいたって、会おうと思えば会えるわよ」
「毎日会いたいんだ。毎日会いに行きたいんだ。これから迎える人生の後半を、一緒に過ごしたいんだ。休みの日に、一緒に旅行に行って。温泉に入って、美味しいもの食べて、笑いたいんだ。一緒に。いつまでも一緒に」
必死に言葉を続けながら、これまで一度も口にしてこなかった想いを、すべて吐き出している。彼女を失いたくない一心で、言葉を繋いでいる。
<日本航空、56便、シカゴ行をご利用のお客様に、最終搭乗のご案内を申し上げます。本便はまもなく出発時刻の5分前となり、搭乗口が締め切られます>
「財前様、財前京子様、いらっしゃいましたら、直ちに搭乗ゲートへお越しください」
最後のアナウンスの直後に、彼女の名前を呼ぶグランドスタッフがロビーを駆け回っている。
「ありがとう。そんなふうに私を想ってくれて。急にそんなこと言われると照れちゃうじゃない」
残ってほしいという想いは、たしかに届いたのだと思った。彼女の笑みがやわらぎ、もう一歩こちらへ戻ってくるために、最後の強がりをほどいているように見えた。取り戻せる。長く暗い場所を抜け、ようやく朝の光に触れられるのだと信じかけた。
「今日の香水ね、ラルフローレンのウーマンって言うの。ラルフが理想とした女性の香り。自分の足で歩いていく女性の香り」
彼女は少しだけ微笑みを薄くし、まっすぐこちらを見た。
「ありがとう、本当に嬉しいわ。でも……貴方の理想には……まだ、なれないみたい」
息が止まった。
「……竜也……Bye Now」
彼女の体がすーっと向きを変えた。ほんの一瞬、時間を止めた背中がゆっくり歩き出すと、凛とした後ろ姿はもう迷いを見せず、ゲートの向こうへ静かに消えていった。一度も振り返らず。
止まった肺から吐き出される空気はなく、真っ白になった頭は言葉を失い、感覚が麻痺した口は、何も発せられないまま動かなくなった。目だけが彼女を最後まで追い続け、瞼に残像を永遠に焼き付けようとしていた。鼻先に広がった新しい彼女の香りだけが、いなくなった姿の輪郭を、そこに残していた。
『いやだ。やっぱり戻る。すみませーん。行きませーん。ここから出まーす』
戻ってくる姿を期待する耳が、ゲートの向こう側にあるはずのない声を探している。そんなことは絶対に起こらないと分かっていても、足が床に貼りついたまま、奇跡だけを待っている。
ロビー中央の案内表示板の一番上に【CHICAGO】の行き先名が、遠い、存在しない場所のように浮かんでいた。搭乗終了を告げるように、文字がボードの上から消えた。見えない彼女を乗せた飛行機が、ゲートを離れ、ランウェイへ進んでいるのだろう。それでも、人の少なくなったロビーに、もう一度戻ってくれるような期待を、やめられない。
「立柳さんってベリーハンサム! タイプだわ~」
「立柳さんじゃな~い。やだ、ひとり? ひとりで来ちゃったの? もしかして、私に会いに来た?」
「はいはい。気になっただけね。便利な言葉、その二」
「見ていって。今日の私、ちょっと高いわよ」
「あら、そうだったのね。これからはもっと気をつけるわ。抜き足、差し足、忍び足。こんな感じでいいかしら」
「今日から私のことは京子って呼んでね」
声が、言葉が、光景が、記憶の中で息を吹き返し、戻れないあの日への想いが心を裂いていく。
滑走路を走り出す音が届くと、視界を遮る壁が意識の中で消えた。見えるはずのない空へ浮き上がった機体が、どんどん高く小さくなりながら、夕陽の輝く大空の中へと消えていく。
この身体を通り抜けた気配だけを胸の奥に残して、手の届かない空へと渡っていった。
いいなと思ったら応援しよう!
応援頂き有難うございます!