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短編小説|書き置き

深夜2時。鍵を開けて静まり返った部屋に入る。リビングのテーブルの上、最初にその書き置きを見た時、僕はわずかに身構えた。手で乱暴にちぎられた黄色い付箋には、見慣れた妻の文字があった。

『私の怒りは冷蔵庫で冷やしました。安心してね』

え、怒っている?
心当たりはなかった。何か致命的な地雷を踏んだだろうか。戸惑いながら冷蔵庫を開けると、そこにはラップにかけられた冷たいハンバーグがあった。翌日も、妻の変な書き置きは続いた。

『私たちの関係は冷えていますので、食べる前にしっかりレンチンしてね』

さすがに気になって、週末に一度、恐る恐る問いただしてみたことがある。

「あぁ、あれ? 面白いでしょ?」

歩美は悪びれもせず、悪戯っぽく笑った。僕の焦る顔が見たかっただけらしい。それからというもの、彼女の面白い書き置きは我が家の定番になった。

『今日のカレーは私への愛と同じくらい辛口。胃薬は薬箱の二段目、愛の特効薬はここ』

朝が早い歩美と、夜が遅い僕。平日は一度も顔を合わせない。だからこそ、この少しおかしな書き置きのやり取りが、僕たちの壊れないルーティンであり、唯一の繋がりだった。

⸻ ⸻ ⸻

木曜日の深夜、いつものようにネクタイを緩めながらキッチンに向かった。深夜の静寂の中、テーブルの上を見て、僕の動きが止まる。

そこにあったのは、これまで一度も見たことがない、市販の四角い、何の変哲もない真っ白な付箋だった。文字もいつもの丸文字ではない。定規で引いたような、無機質でどこか事務的な筆跡。

『冷蔵庫に肉じゃががあります。温めて食べてください』

それだけだった。歩美特有の、あのふざけた軽口も、ハートマークもどこにもない。

(ずいぶんと疲れているんだろうか)

僕はそう自分に言い聞かせ、少しだけ胸の奥に冷たい澱のような違和感を覚えながら、淡々と肉じゃがを口に運んだ。

いつもより、少しだけ味が薄かった。ただの体調不良か、あるいは何か別の理由があるのか。四角い白い付箋を指先でなぞってみたが、紙切れは何も語らない。僕はその夜、言いようのない嫌な予感を覚えながら、一人で冷えたベッドに潜り込んだ。

⸻ ⸻ ⸻

土曜日の朝10時。
遮光カーテンの隙間から明るい光が差し込むリビングで、歩美がコーヒーを淹れていた。お気に入りのマグカップから湯気が立ち上っている。僕はダイニングチェアに深く腰掛け、テーブルの端にまとめられた一週間分の付箋の束を指先で弄りながら、何気ない口調を装って切り出した。

「今週もごちそうさま。あとさ、木曜日のやつ。急に普通の四角い付箋だったから、体調でも悪いのかと思って心配したよ」

「木曜日?」

歩美がマグカップを置いた。トーストを裏返す手を止め、怪訝そうにこちらを振り返る。

「ほら、『肉じゃががあります』ってやつ。やけに丁寧だったからさ」

歩美の眉が、不自然に中央へ寄った。その瞳には、冗談を言っているようには見えない。

「……何言ってるの。私、木曜日は実家に泊まるって、先週からLINEで伝えてたじゃない。冷蔵庫は空っぽにして出かけたよ。私、書き置きなんて残してない」

頭の芯が、急激に凍りついていくのが分かった。では、あの真っ白な付箋は。
あの薄味の肉じゃがは、一体誰が。

⸻ ⸻ ⸻

誰かが、僕たちの家に侵入している。
土曜日のうちに、僕は歩美に悟られないよう、リビングのエアコンの隙間に動体検知機能のある小型のネットワークカメラを仕掛けた。

もしも歩美が普通の書き置きを残す妻だったら、僕はあの付箋に違和感を抱けただろうか。彼女がいつも突飛で異常な言葉を綴ってくれていたからこそ、他人が残したあの淡々とした「正常」が、我が家にとっての致命的な歪みとして浮かび上がったのだ。

それから数日後、再び歩美が用事で夜を留守にする日がやってきた。僕は会社のデスクで、喉の渇きを覚えながらスマホの専用アプリを開いた。遠隔でリアルタイムの映像へとアクセスする。

画面のタイムスタンプは21時15分。カチっと小さな音がして、人影が映った。それは歩美でも、見知らぬ泥棒でもなかった。会社の同僚の女性だった。

以前、居酒屋で彼女に「妻とは生活がすれ違っていて、毎日書き置きでやり取りしている」と自嘲気味に話したことがあった。彼女は静かに、深く頷きながらそれを聞いていた。あの時の、どこか濁った瞳が脳裏に蘇る。

画面の中の彼女は、我が物顔で冷蔵庫から手作りのタッパーを出し、テーブルに例の真っ白な付箋を貼った。

なぜ彼女が我が家の鍵を持っている?
なぜ歩美が不在の日を正確に知っている?
彼女は、どこまで僕たちの生活を覗き見ているんだ――。

付箋を貼り終えた彼女は、僕が昨夜使った箸を愛おしそうに指先でなぞり、それからゆっくりと振り返った。
その視線は、エアコンの隙間に隠したはずの、カメラのレンズを真っ直ぐに捉えていた。

彼女はカメラに向かって、静かに微笑んだ。

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