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短編小説|解雇・イッパツ

転職した会社には、異質な就業規則が存在していた。
 
『ワン・スロット解雇権』。
全社員に生涯で一度だけ、同僚や役員を解雇できる権利が与えられている。
 
もちろん不当解雇を防ぐため、1人の通告で即座にクビになるわけではない。通告があると社内暗号システムが起動し、賛同者を募る。賛同者が4人集まり、計5人の通告が重なった瞬間に強制力が働き、対象者はその日のうちに退職を余儀なくされる。解雇事由の妥当性は、AI審査システムが業務データや適性を照合して冷徹に判定する仕組みだ。
 
佐藤の直属の上司である課長は、高圧的なパワハラ気質で社内でも一際嫌われていた。
入社して半年が経ったある日、同僚の伊藤から密かに話を持ちかけられる。
 
「佐藤さん、課長を退職させませんか? 私たち4人は既にボタンを押す覚悟ができています。あと1人、あなたの1押しが必要です」
 
佐藤は躊躇うことなく、自身の「生涯で一度きりのカード」を行使し、専用端末の銀色のボタンを押した。
翌朝、見事に5人のボタンが揃い、課長は社内から即日追放された。誰もが「次は誰が標的になるか」と怯え、空いたポストを辞退する中、佐藤は狙い通り野心を隠して課長昇進に立候補し、まんまとその座を手に入れた。
 
佐藤はこの制度の狂気に戦慄しつつも、すぐにこのルールの本質を理解していた。
 
「出世すればするほど、目立ち、恨みを買う。上に立つ者は絶えず5人の標的になる」
 
だからこそ、誰もが出世を嫌がった。誰もが平社員のままでいようとし、徹底した事無かれ主義を貫いた。ヒエラルキーの頂点を目指す者は、部下たちが一斉に押す銀色のボタンによって即座に撃ち落とされるのだ。
 
しかし、佐藤は違った。佐藤だけは、出世の道を諦めていなかった。
 
(120人の会社だ。1回の発動で行使する5人と解雇される1人、合わせて6人の『カード関係者』が発生する。ということは、この会社で一生の間に起きる解雇は、最大でも20回が限界だ)
 
佐藤は冷徹な確率論を組み立てた。
出社すると毎日、社内アナウンスの解雇通知をカウントした。誰がボタンを押し、残りの「弾数」がいくつあるのかをメモに集計し続けた。
 
さらに佐藤は徹底的に自衛した。極力、同じ位の役職の人間と並び、「あいつよりはマシ」「比較してもいいやつ」と思われるよう好感度を計算し尽くした。目立ちすぎず、嫌われすぎず、しかし着実に実績だけを積み上げる。
 
社内アナウンスが響くたび、佐藤は心の中で笑った。
(また1人、権利を失った。僕を殺せる銀色のボタンが、また一式失われた)
 
⸻ ⸻ ⸻
 
10年が過ぎた。
 
佐藤のアナウンス・カウントは「18回」に達していた。
累計108人の社員がすでに解雇通告の権利を行使したか、あるいは対象者として去っていった。社員の増減を加味しても、社内でカードを残している人間は、数学的にもはや存在しないに等しかった。
 
解雇権という防壁を完全に無力化した佐藤は、誰の脅威にも晒されることなく、ついに「部長」の椅子にまで登り詰めた。
 
誰も佐藤を引きずり下ろすことはできない。全員がすでにボタンを押し切っているからだ。完璧な攻略。この狂ったシステムを自らの頭脳と計算で完全に制覇したのだという全能感が、佐藤の胸を満たしていた。
 
そして、頂点に立った佐藤は、組織を俯瞰する中でひとつの確信に至っていた。
(……このルールは、恐ろしいどころか、実に素晴らしい仕組みだったんだな)
 
かつて猛威を振るっていた陰惨なパワハラや、立場の弱い平社員が言葉にできない泣き寝入りは、この会社には一切存在しなかった。どれほど権力を握ろうと、部下たちを蔑ろにすれば一瞬で喉元を血で染めることになる。
銀色のボタンの存在が、絶妙な緊張感と自制心を上層部に植え付け、平社員の声なきSOSを拾い上げる最強の抑止力として機能していたのだ。
 
かつて理不尽な上司を排除できたのも、いま社内の風通しが良好に保たれているのも、すべてはこの解雇権のおかげだ。佐藤は心底から感心していた。このルールはあって良かったのだ、と。
 
ある月曜日、佐藤の部署に中途採用の青年が配属されてきた。
服装は崩れ、挨拶もろくにせず、デスクに脚を組んでスマホをいじっている。
 
「君、業務中だぞ。最低限のマナーも守れないのか」
 
佐藤は厳しめに注意した。かつての佐藤なら、誰かの嫌われ者になることを恐れてこんな注意はしなかっただろう。だが、いまや自分は安全圏にいる。このナメ切った若造にどれほど嫌われようと、もう痛くも痒くもない。
 
青年はスマホから目を離し、佐藤を薄笑いで見つめ返した。
 
「へえ。厳しいんですね、佐藤部長」
 
青年はポケットから、スマートフォンほどの大きさの重厚なデバイスを取り出した。
青年が親指で、カチリと軽い音を立ててそのボタンを押す。
 
直後、天井のスピーカーから、長年聞き慣れたAIアナウンスの冷気を帯びた声が響き渡った。
 
『システムより通知。佐藤部長に対し、解雇手続きが承認されました。本日付で即刻、解雇となります』
 
佐藤の思考が停止した。
視界がぐらりと揺れる。
 
「な……なんだ……!? 理由がない! 審議は!? それに、賛同者の5人はどうした!? 全員カードは使い切っているはずだ!」
 
佐藤は自分のデスクにしがみつき、叫んだ。
声が震え、計算し尽くしてきた十数年間のロジックが音を立てて崩壊していく。
 
向かいのデスクのベテラン社員が、哀れみと諦めが混ざったような顔で佐藤に歩み寄り、耳元で小さく囁いた。
 
「……佐藤部長、先日全社報告があったじゃないですか。あれ? その日お休みでしたっけ。あの人、うちの社長の実の息子ですよ」
 
佐藤は目を見開いたまま、青年を見た。
青年は金色のボタンがついたデバイスを指先で弄びながら、つまらなそうに息を吐いた。
 
「特別仕様の金ボタン。これ一発で誰でも即解雇。賛同者? 審議? そんなの平社員同士で潰し合わせるための余興だろ。お疲れ様でした、元・部長」
 
佐藤の手から書類が落ち、床に散らばった。
 
自分が讃え、完璧に攻略したはずの美しき秩序。それすらも最初から、特権階級の指先ひとつで壊される、ただの砂の城に過ぎなかった。

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