『地雷を踏んだらサヨウナラ』を観ても泣けなくなった理由
高校生の時に『地雷を踏んだらサヨウナラ』を見た時、自分はたぶん、一ノ瀬泰造という人物そのものよりも、浅野忠信がまとっている空気を見ていた。
浅野忠信は、今でもカリスマがある。
そこは変わらない。

ただ、高校生の時に感じたそれは、もっと直接的だった。
多くを語らず、感情を説明せず、どこか飄々としている。
何を考えているのかわからない。
でも、画面にいるだけで、普通の場所には収まらない感じがあった。
その浅野忠信が、一ノ瀬泰造として画面に現れる。
当時の自分には、それだけで十分だった。
かっこいい。
こういう空気をまといたい。
浅野忠信みたいになりたい。
映画の思想や戦争の構造より先に、浅野忠信の存在感を見ていた。
『地雷を踏んだらサヨウナラ』は、戦場カメラマン・一ノ瀬泰造を描いた映画である。

一ノ瀬泰造は、アンコールワットを撮りたいという思いを抱き、ベトナム戦争、カンボジア内戦の時代に東南アジアへ向かった報道写真家だった。
高校生の時は、その奥にあるものまでは見えていなかった。
アンコールワットを撮りたい。
戦場へ行く。
カメラを構える。
戻ってこない。
それは「夢を追った青年の悲劇」として見えた。
泣ける映画だった。
今見ても、泣ける。
今でも浅野忠信はカッコいい。
一ノ瀬泰造の若さも、熱も、危うさも、胸にくる。
ただ、昔みたいには泣けない。
泣けるけれど、泣いて終わらせてくれない。
むしろ今は、そのカッコよさ自体が少し危うく見える。
浅野忠信が演じることで、一ノ瀬泰造の無謀さは「美しい無謀」になる。
敵地へ入っていく行為も、若さの暴走も、写真家の業も、どこか神話のように見えてしまう。
高校生の時の自分が憧れていたのは、一ノ瀬泰造ではない。
戦場カメラマンでもない。
アンコールワットへ行きたいと思ったわけでもない。
ただ、浅野忠信みたいになりたいと思っていた。
多くを語らなくても成立している感じ。
何を考えているのかわからないのに、なぜか目が離せない感じ。
普通の場所に収まらない感じ。
映画の中身より先に、そういう浅野忠信の空気にやられていた。

でも今見ると、その浅野忠信のカッコよさが、一ノ瀬泰造という人物の危うさを、美しいものとして見せてしまうことにも気づく。
カッコいいからこそ、見落としてしまう。
美しいからこそ、戦争の構造がロマンに変換されてしまう。
一ノ瀬泰造は、もちろん一人の人間だった。
アンコールワットを撮りたいという衝動を持ち、写真家として戦場へ向かった若者だった。
そして作中で現地の人の死に涙を流すように、彼は目の前の人間を、敵味方や陣営だけで見ていたわけではない。
そこにいる一人の人間が死ぬ。
その死を前にして、泣く。
そこには、思想も陣営もないように感じた。
その意味では、一ノ瀬個人は中立だったのだと思う。
少なくとも、目の前の人間に対してはそうだった。
彼は「西側のため」に泣いていたわけではない。
日本人として泣いていたわけでもない。
報道写真家として泣いていたわけでもない。
ただ、一人の人間として、目の前の死に泣いていた。
そこは消してはいけない。
ただ、戦場は人間を「一人の人間」としてだけ見てくれない。
彼がどれだけ個人として中立であろうとしても、現地の権力や武装勢力から見れば、彼は別の意味を帯びてしまう。
日本人である。
西側寄りの国から来たカメラマンである。
西側メディアに接続し得る報道写真家である。
カメラを持って、支配地域へ入ってくる。
本人の涙とは別に、戦場の構造は彼を「危険な目」として処理する。
ここが残酷なのだと思う。
個人としては中立でいられる。
目の前の死に泣くこともできる。
人間として向き合うこともできる。
でも戦場は、その人間性ごと、陣営の記号に変えてしまう。
本人がどれだけ純粋に「撮りたい」と思っていても、クメール・ルージュ側から見れば、彼はただの若者ではなかったはずだ。
敵側へ情報を流す可能性のある外国人。
支配地域に入ってきた不審者。
戦争を外へ持ち出す目。
カメラを持った危険人物。
そう見られた可能性は高い。
いくら美談にしようが、殺す側には殺す側の論理がある。
それが正しいという話ではない。
ただ、戦場では純粋さは免罪符にならない。
「俺は一人の人間として来た」
「俺はただ写真を撮りたいだけだ」
そう思っていても、世界はそう見てくれない。
日本人である。
西側に属している。
報道に接続している。
カメラを持っている。
敵地へ入ってくる。
それだけで、もう個人では済まない。
戦争の構造の中で、勝手に役割を割り振られる。
ここが、今見るとかなり重い。
高校生の時は、浅野忠信の空気を見ていた。
今は、その奥にあるものまで見えてしまう。
西側。
報道。
戦争。
消費される死。
そして武器。

中学の頃、一時期サバゲーが流行ったせいで、銃の形だけはなんとなく覚えている。
米国製のM16。
中国・ソ連圏から流れたAK系の銃。
昔なら、ただ「M16だ」「AKっぽいな」で終わっていた。
でも今見ると、それはただの銃ではなく、どの国の影がその戦場に落ちているかを示す記号に見える。
一ノ瀬泰造という個人の物語から、兵器の流通、武器商人、国家、軍需産業の話がチラついてくる。
戦場にいるのは兵士だけではない。
カメラマンだけでもない。
その背後には、必ず武器を作った人間がいる。
売った人間がいる。
運んだ人間がいる。
供与した国家がある。
予算を通した政治がある。
カンボジア内戦も、現地の人間だけで完結した戦争ではなかった。
親米側。
反米側。
アメリカ。
中国。
北ベトナム。
ソ連圏。
大国の思惑が流れ込み、思想が流れ込み、武器が流れ込む。
現地の兵士が撃ち合っているように見えて、その手に握られている銃は、外部の大国が流し込んだものでもある。
つまり、戦争とは現地の憎しみだけで動いているわけではない。
武器が流れる。
思想が流れる。
金が流れる。
メディアが流れる。
死体が写真になる。
写真が物語になる。
物語が遠くの国で消費される。
その構造の中に、一ノ瀬泰造もいた。
彼はカメラを持っていた。
兵士は銃を持っていた。
でも、どちらも戦争という巨大な流通網の中にいた。
そこまで見えてくると、『地雷を踏んだらサヨウナラ』は、ただの泣ける青春映画ではなくなる。
これは今のウクライナとも通じる。
ウクライナ戦争も、「ロシアが悪い」「ウクライナが善い」だけで見ると全容が掴めない。
ロシアによる侵攻責任は明確にある。
ただ、それだけで戦争の全体構造を説明したことにはならない。
その前にはNATO拡大、ウクライナの西側接近、ドンバスでの長年の衝突、ミンスク合意の機能不全があった。
挑発があり、緊張があり、情報戦があり、代理戦争の構造がある。
そして戦争になれば、正義の旗の下で武器が流れ込む。
戦争が起きる。
武器が必要になる。
支援が始まる。
契約が生まれる。
国家予算が軍需産業へ流れる。
戦場の死が、遠く離れた場所で数字になる。
この構造がある。
だからM16もAK系の銃も、ただの小道具ではない。
あれは「この戦争は現地だけで完結していません」という記号に見える。
高校生の頃は、浅野忠信のカリスマに引っ張られていた。
それはそれで本物だったと思う。
高校生の自分がなりたいと思っていたのは、一ノ瀬泰造ではない。
戦場カメラマンでもない。
アンコールワットへ行きたいと思ったわけでもない。
ただ当時は、浅野忠信みたいになりたいと思っていた。
ファッション的に。
今でも浅野忠信にはカリスマがある。
今見ても、一ノ瀬泰造の物語には引っ張られる。
あの危うさには、やっぱり魅力がある。
でも今は、その魅力の奥にあるものも見える。
カッコいいからこそ、見落としてしまう。
美しいからこそ、戦争の構造がロマンに変換されてしまう。
若さ。
情熱。
死。
母への手紙。
アンコールワット。
それらは確かに泣ける。
でもその涙は、もしかしたら西側の消費でもある。
一ノ瀬泰造は、夢を追った青年だった。
それは間違いない。
そして同時に、目の前の人間の死に泣ける人間でもあった。
そこも間違いない。
個人としては中立だった。
対個人では、ちゃんと人間として向き合っていた。
でも戦場の構造は、その個人を個人のまま置いておいてくれない。
彼は西側寄りの日本人カメラマンという記号でもあった。
現地の戦争を外へ持ち出す可能性のある存在でもあった。
そして、戦争を物語に変換する装置の一部でもあった。
だから殺されたのだろうな、と思う。
残酷だけど、そう思う。
それは彼を貶める話ではない。
むしろ、彼を美談だけに閉じ込めないための見方だと思う。
人間の夢や情熱は美しい。
人の死に泣ける心も美しい。
でも、それが戦争の構造に触れた瞬間、ただの美しさでは済まなくなる。
カメラは真実を写す。
でも、戦場では情報を奪う道具にもなる。
写真は記録になる。
でも、同時に消費物にもなる。
報道は必要だ。
でも、報道する側もまた、完全な外部には立てない。
『地雷を踏んだらサヨウナラ』は泣ける。
でも、昔みたいには泣けない。
これは、若者の夢の話であり、
浅野忠信に憧れた高校生の自分の話であり、
目の前の死に泣く一人の人間の話であり、
報道の話であり、
西側の視線の話であり、
武器の流通の話であり、
戦争を美談に変換してしまうこちら側の話でもある。
高校生の時は浅野忠信を見ていた。
今でも浅野忠信にはカリスマがある。
でも今は、その背後にM16が見える。
AK系の銃が見える。
武器商人が見える。
ウクライナが見える。
そして、戦争を物語として見ている自分の位置まで見えてしまう。
だからこの映画は、今見るときつい。
泣けるからきついのではない。
昔みたいには、泣いて終われないからきつい。
