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【第9回】不登校支援って言葉が嫌い──「する/される」関係にある違和感

支援の「構造」に潜む違和感

私はかつて、“支援される側”だった。
そして今は、子どもたちのそばで、“支援する側”に立っている。
その両方の立場を経験してきたからこそ、どうしても消えない違和感がある。

たしかに、「支援は大事」「まずはつなぐことが大切」と言われることは多い。
それ自体が間違っているわけではない。
でも、支援の現場で使われるその言葉の背後に、いつの間にか「してあげる人」と「してもらう人」という関係性が生まれてしまっていることがある。

その構図が固定されると、“支援される”ことが、いつしか「応えなければならないもの」になってしまう。
ありがたいはずの支援が、重荷や緊張、そして無言のプレッシャーに変わっていく。


腫れ物のような扱いが生む疎外感

私が以前、引きこもっていたとき、いくつかの「居場所」とされる場を紹介された。
けれど、そこにいたスタッフの態度に、私は強い違和感を覚えた。
まるで腫れ物に触るように、あるいは幼児を扱うように接してくる。

私はすでに成人で、確かに社会的には“支援が必要な状態”だったかもしれないが、それでも「一人の人間として対等に見られていない」感覚に強い不快感を覚え、足が遠のいた。

支援される立場にいたからこそ、私は「してあげる支援」に敏感だ。
善意なのだとわかっていても、そこに上下の関係性が生まれてしまう。

「支援する/される」という構造には、する側の優位と、される側の依存や劣位が、無意識に組み込まれてしまうのだと思う。

私が支援という言葉にどうしても距離を感じてしまうのは、この「する/される」の関係が根本にあるからだ。


「善意」がもたらす無意識の力学

もちろん、誰かの手助けが必要な場面もある。
でも、こと「不登校」や「ひきこもり」のような、生き方や在り方そのものが問われているような状態に対しては、ただ“してあげる”というスタンスではうまくいかない──というのが私の実感である。

“する”側には、善意とともに「気持ちよさ」や「自己効力感」が生まれることがある。
知らず知らずのうちに、相手を“される”側に固定してしまうこともある。
すると、「してやっているのに」「ここまでしてあげているのに」という思いが顔を出してしまうことがある。

一方、“される”側は、常に自分が「支援される存在」であることを意識させられる。
ありがたいはずの支援が、どこか自分を“下に置くもの”に感じられてしまう。

「する」には、気持ちよさや達成感、時にコントロール欲求が潜んでいる。
そして「してあげているのに」という感情を生み出すこともある。
一方で、「される」側には、依存への怖れや介入への嫌悪感が生まれる。

これはどちらにとっても、柔軟さを欠いた、苦しい関係だ。


支援が奪う「主体性」と「決定権」

人は本来、自分のことを自分で決めることにこそ、喜びや充実感を感じる生き物だと思う。

けれど、私が見てきた生徒の中には、支援されることに慣れてしまい、「してもらえないこと」に不満を感じるようになっていた子がいた。
自分で動く前に、まず誰かの助けを待つようになってしまった。
気づけば、自分で決める力や、自分から動き出すエネルギーが弱まり、何かをしてもらうことが前提になっていたのだ。

支援のつもりが、相手の主体性を奪い、「依存」や「無力感」を強化してしまうことがある。
それもまた、“する/される”という構造の持つ怖さなのだと思う。

一方、「する側」に立つことで、安心や達成感を得ようとする心理(支援者・教師・親)は、自分の存在意義や専門性を守るために、「関わること」「変えること」への欲望を生み出す。
「する」側には、善意だけではなく、無意識の“気持ちよさ”や“正しさ”が混じっている。


「共にある支援」とは何か

「助けてあげている」「理解してあげている」「寄り添ってあげている」──
この「あげている」が顔を出したとき、関係は対等ではなくなる。

一方、「される側」は、変化や応答を求められ続け、関係に主体性を持てず、依存/反発/適応過剰などで応じるしかなくなる可能性がでる。

この構造は、いかに“優しい言葉”や“合理的配慮”で包まれていても、非対称性と管理性を内包している。

ありがたい支援であるはずなのに、どこかに「支配されている」ような感覚。 何かを期待され、何かを回復させられようとする空気。

この「する/される」という構造の中では、
人と人との関係が“行為”になってしまう。
支援とは本来、関係性のなかで生まれるものであったはずなのに、
いつのまにか“手段”や“操作”になってしまう。


そんなとき私は、もっと違う形の関係性──
ただただ、人と人が対等な関係でいられるような空間を、
心の奥で求めていたのだと思う。

評価も期待も急がず、何かを「する」でも「される」でもなく、
ただ共にいられる時間と関係。支援という「構造」ではなく、
その外側にある関係の中にこそ、人間としての回復があると感じている。

私は、そうした空間のことを“場”と呼んでいる。

 「支援する/される」という関係の外側にある、
ひとりの人間としていられる場所。それはきっと、回復や変化を焦らないからこそ、じわじわと力を持ちはじめるのだと思う。

子どもと向き合うなかで、また、私自身の経験を通しても、
“場”というものが、人の回復や変化のきっかけになりうることを実感している。

次回は、“する/される”の関係を超えた、“場”について、深堀して、言葉にしてみたいと思います。



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