私の、生きてる事の意味みたいなもの。
本当の本当にぶっちゃけて言うと、生きてることも、死ぬことも、とくに意味なんてなくて、人生を歩むのに、幸福でいる必要なんて、実はどこにも無い。
でも、それを安易に言っちゃうと、誤解を生むし、自分たちの存在意義を見失って、絶望しちゃう怖さがあるから、誰も認めたがらないだけで、どんなに目を背けたところで、現実的にはぶち当たる部分ではある。
私は、子供のときから、何となくそれに気がついていた。言語化できるほどの語彙を知らなかっただけで、色々な人との関係性の中でや、読んだ本や経験の中で「やっぱりな」と、なんか納得した。
人間なんて、所詮、孤独だし、わかりあえないし、わかったフリはできても、本質的な部分では違うと感じるし、もうそいうものだと、それ丸ごと食べてくらって、生きていくしか無いんだろうな…と、なんとなく傷ついたり、諦めたりしながら、それでもできることは何か?を考えていた。
どっかのフィクションみたいに、一気になにかが襲って、全部壊れちゃえば、絶望しちゃえば、楽なのに…とか、90年代の終わりに思ってた。
そんなの思っちゃダメだよくらい、言う人がいるけど、いや、思ってしまうし、それは誰にも止められない。
頭の中で思うことと、現実にそれを実行するかどうかは、またべつの話で、別の作用だから、変なところでブレーキを踏むと、揺り戻しで、起こらなくて良い事故を起こしてしまう。
そういう仕組みを知らないことの方が、後で取り返しのつかないことになる。
回避した方がいい危険と、向き合った方がいい危険がある。
感染しない方が絶対に良いウィルスもあるし、少し感染して免疫を強化した方が良いウィルスがあるように。
外側をしっかりさせた方がいいこともあるし、そんなことよりも、内側の芯をしっかりと通した方がいいこともある。
だから、絶対のわかりやすい答えみたいなものは、ほぼ存在しない。
飲み込み易いように、形状を変えているだけで、いずれ飲み込まなきゃいけない、事実と現実。
多分、誰よりもそれを私は知るからこそ、孤独だし、家族も友人もそれに気がついている。
私は、思考の深海に潜って、しばらく出てこないという特性があるから、私を知る身近な人は、時々、心配するんだろうと思う。
私の見る内省の世界は、とてもとても霧が深くて、不安と共にあり、かつ美しく透明で、際限が無い。時々、飲み込まれそうになって、酷く痛くて、火傷もする。
それを、私の親しい人達は知っているから、気にかけてくれている。
人間なんて、その自分の愚かさと弱さを受け入れてなんぼみたいな所がある。
所詮、自分の身体や心も、他人のことすらも、世界もコントロールできない。
コントロール出来てると思い込むことはできても、実際は、たまたま上手くいっているように、表面は見えているだけで、全部は支配できたり独占したりはできない。
何もかも、思い通りになんていかない。
行かせることもできない。
成功の確率を上げることは出来ても、その確率が上がる度、失敗というマイナスもデータに積み上がっているはずである。
かといって、実際にその動きを止めたくても、止められないのが人間だから、複雑なのである。
万能感は得られても、万能はない。
プロセスなくして、結果は出ない。
ネガティブを受け止めなれば、真のポジティブには行き着かない。
そう簡単に、世界はひっくり返らない。
ひっくり返るとしたら、それは人類の力でも英智でもない。ただただ、色々なたまたまが積み上がった結果、反転しているに過ぎない。
大体のことが、じわりじわりである。
10年〜20年先の未来から今現在から、過去を振り返ってみて、やっとたどり着く。
その過去だって、変えられないと思っていても、自分が振り返ったタイミングや、気分や、時代背景、知識、考え方…多くの経験値みたいなものや時間の流れ方、景色の見え方ひとつで、思い違いに気がついたりすれば、その過去の意味合いが変わることは往々にしてある。
全ては未知だから、私たちは不安になる。
確信がなくて揺らぐ現実を受け入れて行くのは、とてつもなく怖いことだ。
だから、数字で数えて、できるだけ想定できる可能性を探る。

ただ漠然と不安でいるよりは、不安に食い殺されずに済む。
思い込みだって、時には有効に働く。明日死ぬかもしれないとするより、間違いなく明日も生きて、コーヒーを啜る自分を想像した方が、可能性として同じ状況でも受け止めやすくなる。
私たち人間は、そうやってバランスをとって、綱渡りや波乗りをしている。
誕生を祝い、生きた年数を数えて、誕生日ごとに自分と仲間を安堵させる。
今日までなんとか、生命を守れた。
その約束を守れた。
ほらね、なんとか、生きてるでしょう?
無意味なものに、意味を見つけて、生きるのに必要なだけの承認欲求を満たす。
私たちには、問題が必要で、解決が必要で、そのプロセス(過程)と意味が必要なのだ。
だから、結果こうなるんだよと。
それが、ポジティブであろうが、ネガティブであろうが。
脳というハードウェアは、経験とか記憶とかのソフトウェアのデータをインストールして、動かさないと、その機能を停止するしか無くなる。
だから、方向性があちこち間違っても、簡単に動きを自分で止めることはできない。
だから、不快でも不安について考えてしまうし、悩みを抱え込む。
本当は、心地よい情報だけインストールしたいけど、そうなってくると、他の人間の脳というハードウェアがそれを許してくれなかったりする。
難しいものだ。
結局、どこへ逃げても、ひたすら人間関係の影響は受けてしまうし、表現するかどうか意識するかどうかとは別に、何故か傷つくこともあったりする。
生きるとは、生い茂る植物や木をかき分ける作業に似ている。
邪魔だと思っても、何とかしなければならない時がある。たまたま何とかなることもあれば、頑張ってみてもどうにもならない事もある。

(イラスト:chatGPT)
本当にめんどくさい。でも、そのめんどくさいが愛おしいと思う時がある。
人間とは、生きるとは、人生とは、実にめんどくさいのである。
