私のブレヒト論 《多分続きは数年後になるだろうけれど一先ずの序文》
1月18日に一般公演の幕を開けるSPAC「ガリレオ~endless turn~」(台本/演出:多田淳之介)に、演出助手として参加しています(詳細こちら)。
ベルトルト・ブレヒトの『ガリレイの生涯』を原作とした今作。
今回仕事をお受けした理由の2割は、ここ2年くらいずっとブレヒトやその演劇論に関して時間をかけて考えたかった(すが面倒臭がっていた)からです。何故考えたかったのか。それは異化効果やブレヒトが買いかぶられ過ぎているように常々感じていたから。
予め断っておくと、この先に異化効果とブレヒトが苦手な理由について書いています。でもそれはイコール今回SPACで創作している作品が嫌いということにはならないです。何故それが嫌いなのかをそれと接しながら考えられる場ってとても豊かだと思う。
まず、異化効果とは何なのか。
異化効果とは
《〈ドイツ〉Verfremdungseffekt》ブレヒトの演劇論用語。日常見慣れたものを未知の異様なものに見せる効果。ドラマの中の出来事を観客が距離をもって批判的に見られるようにするための方法の意に用いた。
もう少し具体的に。
以下はSPACが2019年に「セチュアンの善人」を原作とした創作を行った際のブログからの引用です。
ブレヒトの初期作品(『バール』や『夜うつ太鼓』など)は表現主義の影響を受け、ほとばしるエネルギーのようなものをそのまま主人公に託して描いている。
1920年代になるとマルクス主義の影響を受けます。(『三文オペラ』など)
その頃アジプロ演劇(アジテーションとプロパガンダを前面に打ち出す、革命の思想を説くための演劇)の第一人者であるエルヴィン・ピスカートルと出会います。ブレヒトは彼の影響を受けながらも、舞台上で革命を起こしても現実では革命は起きないことを思い知ります。
どうやったら舞台を観た人が現実を変えたくなるか……。
そう考えた時に思いついたのが、いわゆる「異化効果」!
見慣れたものを見慣れないものにすることによって、観客に、感動することより以上に、思考することを促したのです。
どのような方法で異化を行っていたかというと……
1.役からの離脱
…ナレーター的立場に移ったり自分が演じている役について露骨にコメントをしたりする。
2.歌、朗唱
…台詞の流れを断ち切り、歌っている時は演じている時と居方が違ってくる。
3.記号的身体
…ブレヒトは中国の「京劇」のような、型が既にある演技方法に影響を受けた。
4.多面的演技
…感情と行動が一致していないなど、ブレヒトが最後にたどり着いた異化の技法。
ブレヒトといえば異化効果というのは知っていましたが異化効果にも様々な技法があるんですね!
観客が作品と距離を取り、舞台上で喋られている内容を批評的に聞こう!という演劇論、みたいな解釈でまずは良いのではないでしょうか。
雑談のような序文
異化効果嫌い
「異化効果」という言葉はインタビューに疲れた演出家と怠惰な批評家のためにあると思っています。そのくらい僕は「異化効果」という言葉に対しては眉を顰めるか鼻で笑ってしまいます。
観客は想像力が豊か、という言葉と異化効果は矛盾しているように思うのです。そして僕は前者を信じている。
観客は如何ようにも自分に引き付けて自分の良いように受け取れる能力を備えています。異化するも、同化するも全ては観客の手の中だと思うのです。サルトルの言うように人間はお互いに芝居を演じるもの、だからこの言葉は辛うじてその遊びの中で生き残っているというだけなのだと思う。観客(の観劇後に出す言葉と感想を言う用の観劇態度?)と演劇人の化かし合い。そしてそれに気付いていないのは演劇人だけなのでは無いかと。
僕が異化効果を信じていないという話をしたときに、多田さんが稽古場で「僕もそれを意図していないのに批評では異化効果と書かれたりすることがある」とおっしゃっていましたが、それにはとても共感をしました。他の演出家の作品とそれの批評でも同じことを感じることがあります。いや、悲劇的な場面で明るい音楽をかけたらそれは異化効果じゃなくて、より感情が揺さぶられてうねりができてエモーショナルな気分になるんだよ、みたいな。多田さんがそれを意図していったかどうかはわからないけれど。
便利使いされてしまっている言葉ですが、異化効果は実現不可能なことだと思うんです。それをできるのは神だけだと思う。もっと異化効果というのは実現できれば観客にとって耐えられない暴力なはずなんです。「異化効果」だ、と言えてしまう/書けてしまう時点でそれはもう異化効果では無いと言っているに等しいのではないかと。
ブレヒトと戦争
そしてブレヒトという存在もどうも好きになれず。
戦後、自分の権威獲得に奔走したどこにでもいる演劇人、としか僕には思えないんです。戦後彼はなぜ自身の演劇で戦争を止めることができなかったのか、を踏まえて自身の演劇論を客観的に見て再構築するべきだったのに彼はそれをしなかった。それは演劇が戦時中に何が出来て、何が出来なかったののかということの考察に成り得ると思うんです。後世の演劇人たちもそこに時間を割くべきだったのに、彼を偶像化するに留めてしまった。そこにも問題があると思う。
近年日本ではブレヒトの上演が増えています。いや、元々ドイツ以外の国の中ではずば抜けて上演歴が豊富だとは思うのだけれど。因みにドイツでもいよいよブレヒトの上演権が切れるのでそれで今は盛り上がっているとのこと。しかしそんなブレヒトの作品を「もはや戦後ではなく『戦前』」の現在、反戦やその時代への危機感から警鐘を鳴らすためという理由から上演することには果たして意味があるのだろうか。それは歴史の安直/安易な繰り返しに過ぎなさすぎやしないか、というか。ただ、その検証のために上演という手段が必要だとも思いますが。
僕自身、ブレヒトの「バール」や「マハゴニー」、「コミューンの日々」等はいつか演出したいと思っています。でも、それは彼の全作品に共通するテーマが実は「男性という性は何故世の中に存在しているのだろうか」なのではないかと考えているからです。それであれば僕はブレヒトと一緒に作品とともにそれを考えたい。そのテーマについて考えるために、現実に起こっている戦争を取材したのではないか、と私はいつものようにねじ曲げながら妄想をしています。こんな感じで、もっと彼の作品の上演意図は戦争とズレたところにあって良いのではないかと思うんです(結局は戦争に帰着するのだけれど)。
一先ず入口としてはこんなところかしら。
因みに。
ミヒャエル・エンデが戦後、ブレヒトの創作現場に立ち会っているのですが(彼は元々俳優です)、彼曰くブレヒトが自作を演出したときは異化効果っぽくなかったとのこと。ノーツとしてもそこに言及されてはいなかったと。オリザさんの外向けの演劇論と実際のやり方が真逆ということとも通じるように思います(し演劇論なんて大概そんなものだろうとも思う)。
