"毒親"という言葉がどうしても好きになれない
はじめに|その言葉が、どうしても苦手で
「毒親」っていう言葉がある。
正直、私はこの言葉がどうしても好きになれない。
たしかに、親との関係に悩んでる人は多いし、
心の傷が、育った環境に根ざしてることもある。
でも、それを全部「親のせい」っていう言葉で切ってしまうのは、なんだかあまりに乱暴で、苦しく感じてしまう。
アダルトチルドレンと「毒親」の違い
私が若い頃、今でいう「毒親」概念に近いのが
「アダルトチルドレン(AC)」という言葉だった。
ACは、親の影響で“生きづらさ”を抱えた人のことを指してた。
でも、“チルドレン”=自分自身のあり方に焦点が当たっていて、
問題の本質は「親がどうだったか」じゃなく、
「その影響を受けて、自分がどうなっているか」だったと思う。
一方で「毒親」は、親にラベルを貼る言葉。
「私はこうなった、なぜなら毒親だったから」
そんなふうに、親にフォーカスを当て続けることで、自分の人生の主語が、いつまでも“親”のままになってしまう。
「親が原因」ではなく、「親に起因した“何か”を抱えている」だけ
たしかに、育った環境の影響は大きい。
でも私は、「親が原因」と決めつけてしまうことが、
本当の意味での“回復”や“自立”から遠ざけてしまうと思ってる。
問題の“きっかけ”は親かもしれない。
でも、人生の“主語”はいつだって「自分」であるはず。
摂食障害の支援を通して見えてきたもの
私はこれまで、摂食障害の当事者支援も、
その親支援もしてきた。
そこで改めて感じるのは──
子どもが摂食に陥る家庭では、たしかに「母親の影響」が大きい。
でもそれは「母親が悪い」って話ではなくて、
母親自身が自分と向き合う時間や言葉を持っていなかっただけなんだと思う。
支援していても、
「娘のために変わりたい」と言う親ほど、
実は心のどこかで「娘を治すために」自分を変えようとしてしまう。
それでは結局、視点が“他人軸”のままで、
自分自身の幸せや感情が置き去りになってしまう。
親を責めることで人生が楽になることはない
「毒親」って言葉が浸透していくたびに、
生きづらさを親のせいにする空気が強くなってるように感じる。
でも、そこにとどまっていたら、
人生はいつまでも“親ありき”でしか進まない。
たとえどんな親であったとしても、
「その親のもとに生まれて、自分はどう生きるか」
そこに自分なりの意味を見出せたとき、
人生はようやく“自分のもの”になる。
おわりに|レッテルではなく、関係性を更新する
私は、親を“許せ”とも“受け入れろ”とも思っていない。
でも、「毒親」というレッテルで終わらせるのではなく、その親との関係性を、自分の視点から更新していくことが本当の癒しや回復につながっていくと信じている。
そのためにも、まずは自分自身と向き合うこと。感情と向き合い、行動を選びなおすこと。
その先に、
「私はもう、誰かを責める人生をやめた」
と言える日がくるのだと思う。
