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「ナガノ的思考」にみる分断の超克

得体の知れないインタビュー


『映画ちいかわ』のナガノ先生インタビューを読んで、正気と狂気の境界が揺れた。

及川監督について語る場面で、まず出てくるのが「飴を口に入れてから噛むまでの速度が早い」という話だ。リモート会議中に聞こえる「カリ…」という音から、相当な量を舐めているのではと推理している。

今福プロデューサーについては、実績でも人柄でもなく、腕に食器のフォークを巻いていることを挙げる。そして「緊急時は地面も掘れますし」と、実用性まで評価する。

さらに、今回の映画のキーとなるキャラクター・島二郎の声優が最上嗣生さんに決まった理由として、『日本酒舐郎』というアカウント名でXをやっていることを挙げている。これを受けて最上さんは「まさかこれが正解の世界線があるとは」と感嘆している。

こうした言説が、全部「普通」ですというトーンで語られる。

ナガノ先生は、これまでの誰とも違うカテゴリーにいる。


笑いはズレから生まれる


ちいかわは面白い。「かわいい」とか「ほっこり」もあるが、基本、笑える。しかしその笑いは、自分の知っている笑いとどこか異質だ。

笑いの理論を簡単に整理しておく。

古典的なのは不調和理論だ。カントやショーペンハウアーが定式化したもので、笑いは期待と現実のズレから生まれるとする。①ズレを検知して驚く ②そのズレに筋の通った別の解釈を見つける、という2段階で笑いが生まれる。

①だけだと不気味さや不安になり、②が成立して初めて笑いになる。

この構造を制度化したのが、漫才のボケとツッコミだ。ツッコミは、ボケの何がズレているかを言語化し、観客が自力で②に到達する手間を肩代わりする。同時に「常識側の人間がここにいる」と示すことで、笑っても安全だと保証する。

NHKのファミリーヒストリーで、錦鯉の長谷川雅紀(まさのり)さんのピン芸人時代の映像を見た。

やっていることは今とほぼ同じなのに、まったく受けていない。観客が不安だったのだと思う。笑っていいのか戸惑っている感じだ。

それを相方の渡辺さんの名人級のツッコミが変えた。この人は大丈夫です、笑ってやってください、と観客に安心感を与えることで、錦鯉はM1を制覇した。


「なんでやねん」ではなく「それ普通だから」


ところが、この構造が『ちいかわ』には通用しない。ナガノ・ワールドは別の原理で動いている。

普通、変なことが起きたら「なんでやねん」と突っ込む。真面目な会議で飴をカリカリ噛む監督は、ベースラインからズレている。だから普通は「それがおかしくて」というコメントになる。

ナガノ先生は違う。飴カリカリを「変だ」と言わない。それを受け入れた上で、噛む量の推定へと議論を進める。フォークも同じだ。「おかしくて」ではなく「ちょっといいなと思っています」と受け止め、地面が掘れるという実用性へと議論を進める。

これを仮に「正常化ツッコミ」と呼ぶことにする。ツッコミの位置に立ちながら、ベースラインをボケのさらに外側に引き直し、「それ普通だから」と異常性を無視して先へ行く。ボケを否定して正常側に引き戻す、ということをしないのだ。

ちいかわも同じ流儀だ。例えば、アニメの第1話、巨大なプリンが目の前に現れる。普通なら誰かが「プリンでかすぎ!」とつっこむ。しかし誰もつっこまない。うさぎがやってきて上で滑って遊び、カラメルまみれになる。ちいかわが楽しそうだと寄っていき、なすりつけられて嫌な顔をし、でもいい匂いがするので嬉しくなる。

プリンの大きさは完全に放置される。ちなみにエピソードのタイトルも「かためのプリン」だから、そもそも大きさは眼中にはないのだ。

ここで観客は、不在のツッコミ役を担わされる。え、誰も突っ込まないの、これが普通なの、と。笑いの対象が巨大なプリンそのものから、それを平然と受け入れている世界の態度へ移動している。そして同時に、異常が普通である世界に、うっすらとした不穏さを感じる。


ハチワレという案内人


とはいえ、ハチワレなら「プリンでかっ」と言いそうだ。実際、主要3キャラクターで彼だけが言葉を持っている。ちいかわはほとんど発語せず、うさぎは意味を持たない奇声を発する。ハチワレの役割の一つは、二人の言葉を翻訳することだとされている。

ここで思い出しておきたいのは、『ちいかわ』の連載開始が2020年1月1日で、ハチワレの初登場が同年5月1日だということだ。最初の4ヶ月、あの世界には言語化する主体が一人もいなかった。

大切なのは、ハチワレの言語化は否定ではない点だ。「プリンでかっ」と言ったとしても「変だね」とは言わない。彼なら「でも、美味しそう」と言うに違いない。

これは、飴を噛む音に和み、腕のフォークに実用性を見出すナガノ先生自身の語り口とまったく同じ操作だ。全肯定型の正常化はあの世界に元からあった原理で、ハチワレはそれを言葉にする役として後から現れた。読者は暗黙の正常化をすべて託される代わりに、同志を得たことになる。

笑いは正常と異常を対置させる点において生来的に残酷さをはらむ。しかし、ナガノ先生の笑いには対置構造がない。

これが『ちいかわ』大ヒットの根底にあるように思う。


認めるのではなく、最初から普通


いまはポリコレと露悪が対峙する時代だ。筆者はもちろん、ポリコレ側に立つ。しかし、考えてみれば、多様性という理念は、「普通(マジョリティ)と違うこと」=マイノリティをまず認定した上で、「でも認めます」と肯定する行為だ。普通と普通以外を分け、後者を多様性と言い換えるのがポリコレ、その言い換えを許さないのが露悪だ。しかし、どちらも、境界線を引く点では同じ操作をしている

ナガノ先生は違う。あらゆる差異を、まず「それ普通だから」と飲み込んで先に進む。正常も異常もない。認めるのではなく、認める必要がない。承認する側とされる側という非対称そのものが生じない。

この究極の包摂性が、不穏であるにもかかわらず『ちいかわ』の世界に癒しを感じてしまう理由だと思う。


ディストピア的ユートピア


『ちいかわ』はユートピアかディストピアかという議論があるという。多くの結論は、一見和やかだが、構造を見れば労働も討伐も貧しさもあるディストピアだ、というものだ。

筆者は、『ちいかわ』の世界は両者が未分化な状態、ディストピア的ユートピアと呼ぶべきものだと思う。

構造はディストピアに見えても、ちいかわたちの日々の暮らしは心象においてユートピアだ。「ユートピア的ディストピア」ではない。それだと、表面が楽園だが本質は地獄という構図になってしまう。

そして重要なのは、この「ユートピア」と「ディストピア」が表裏一体になっている点だ。誰も逸脱を指摘しない。だから誰も排除されない。同じ理由で、誰も不当な労働や貧困を告発できない。ズレを名指す言語は、批判の言語であると同時に、排除の言語でもある。片方だけを捨てることはできない。

ツッコミのない世界では、地獄と楽園が同じ形をしている


時代の縮図と未来の希望


異常なことが次々に起こる時代の現実。誰も排除しない優しい世界という時代の要望。ちいかわはその両方を取り込み、大きな構造を所与としたまま、小さな幸せと助け合いを描いていく。

問いかける言葉を失った代わりに、責める言葉もない世界。それを諦めと呼ぶのか、優しさと呼ぶのか。

筆者は社会科学者として、問いかける言葉を失うつもりはない。

ただ、それが責める言葉になっていないか、自問自答することはできる。

正常と異常を分けて「認めてやる」では分断を超えられない。

「それ普通だから」

全てを包摂して先に進む。

ナガノ先生の思考は、分断の時代を超えていくための重要な示唆を与えているように思われる。


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