信仰
わたし自身は信仰を持ったことがありません。実家の母方の祖母は真面目な浄土真宗の信徒だったらしいですし、たしか実家の母方のなにかは同じく浄土真宗(だったかな?)のお寺のお坊さんだったはずですし、12歳年上の母方の従姉妹は若いころ、たしか仏教の源流を訪ねてインドまで行ったりしていたような気がします。
ですが、わたしには全部遠い話で、母伝いにそんな話を聞いていただけです。
とはいえ、そんなわたしもいちおう倫理の先生ですので、教科書に載っている程度のことなら、世界三大宗教について知っていました。
さて、今年も1学期、青年期のあたりが終わった後、宗教をやりました。戦争の話ばかりニュースで流れる今日この頃です。この方たちが、どんな神の元にまとまっているのか、逆にわたしたちは神や仏ではないにしても何の元にまとまっているのか、知ればなんとなく、ニュースの感じ方も変わるというものです。
今年の授業、わたしはいつもの年にも増して、動画ばかり見せています。それがいいのか悪いのか、分かりません。論理性が育たない、という人もいるかもしれません。
やってみた感じから言うなら、動画の内容を文章でまとめて要所要所で空欄を設けておけば、それを動画を見ながら埋めて、さらにテストの前にはもう一度ちゃんと読み、テストでも文章の論理を追えていないと答えられない問題を作るなら、動画が言っていることが、感情やイメージだけに終わらず、論理性も養うことが出来るのではないか、と思っています。
その、イメージと論理性の両方のバランスがいい番組だな、と思って、よく使うのが、NHKの『100分de名著』です。
というわけで、今年の「キリスト教」は『100分de名著 新約聖書』をみんなで見ました。
もちろん、授業前には、授業の準備で内容を拾いながら、高校生に分かるように、それにちょっと頭を使わせるように、しかも教科書の記述につながりやすいように、B41枚に、内容と、板書書きスペースと、感想欄が入るようなプリントを作るのだから、しっかり何度か観て、自分でよく理解しようと努めます。
でも、限られた時間で作る上、作ることに集中するので、心で観るというより、頭で観る感じ。
そういう状態で教室にパソコンを持って行って、いざ、みんなで見る動画です。最近まで、新しいほうも古いほうも、だいたい同じところを進んでいたので、授業では、同じ動画を7回見ることになります。
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ある、出血病の女性がいました。長くその病気を患っていた女性は、周りの人たちから、汚れているなどと言われて蔑まれていました。イエスのことを聞いた女性は、あるとき、勇気を振り絞って、群衆に混じって、イエスの衣に触れました。それは、イエスの衣に触れることさえ出来れば、救われると思ったからでした。たちどころに、病気が治りました。
イエスは誰かが自分の衣に触れたことに気付いて、触れた人を探しました。弟子たちは、「こんなにたくさんの群衆の中から、衣に触れた人を探すのですか?」とイエスに尋ねました。
女性は名乗り出て、正直に、自分のしたことをイエスに申し上げました。
すると、イエスは女性に「あなたの信仰があなたを救いました。病気はもう治ったから、安心して行きなさい。」と言いました。
これは、動画に出てくる「衣に触れる人を探す」という、新約聖書(マタイによる福音書)に出てくるお話です。
7回のうち、最初の1,2回、それほど何とも思わず、動画のこの部分を見ていたのですが、そのうち、「あ、これは」と、思いました。
ああこれは……、勇気を振り絞って衣に触れたら、それだけで気付いてくれて、群衆の中からそんな自分を探してくれるような人が周りにいてくれたら、それはどんなに幸せなことだろう、と、きっと誰でもそう思うに違いないような話なんだな、と思ったのです。
そういう、わたしたちの切実な、「こんな人がいてくれて、こんなふうに自分に対してくれたら、どんなにいいだろう」がつみ重なっているのが、イエスなんだな、と思いはじめると、信仰とは、みんなの願いの結晶のようなものなんだな、と思われて、「キリスト教」が今まで見えていたものと違って見えました。
思えば、現実にもありそうな話です。
とてもやさしい人がいて、みんなその人のことが大好きになるんだけど、とてもいい人なだけに一部の人の期待の高まりすぎ、羨望、嫉妬、誤解などのせいで、ちょっとしたミスや、もしかしてミスでもないようなことで、その人を誹謗するような事件に至ってしまう。
その人を失ってしまった他の人たちの悲しみは、どうだったんだろう。
あんなにいい人を、なぜ? それにあの人も、どうしてそんな罪なんて背負わない、と言ってくれなかったんだろう? という問いの答えはなかなか見つからず、どうしても見つからず、自分たちにもなにか罪があったんじゃないかと振り返っては悩んだ挙げ句、ただ一つ納得出来るとしたら、きっとあの人のことだから、わたしたちみんなの犯した罪を贖うために、こうなってしまったんだろう、もしかしたら、もともとそのつもりでここに来てくれていたのではないか、そうするようにだれかに言われて来てくれていたんじゃないか、そうでもなければあんな人が自分の目の前にあらわれるなんて、ありそうにもないことだった、それなら、それがあの人の役目でもあったのなら、しかたのないことだったんだ、という壮大な理由以外に、このことを飲み込む術がなかったのかもしれない。
と、動画をその後さらに、4つの教室をまわって見て、車で同じ音楽を何度も聴くときのように、入り込んで7度まで繰り返し見終えたのでありました。
