第45回 3つのお題(ファンタジー) 「海の底にある古い劇場」
還暦を過ぎた私が、その当時に体験した不思議な話があります。
私は豪華客船世界一周の旅を楽しむべく用意を始めていました。
本当は船旅など私にとっては大いなる勇気を必要とするものでした。
泳ぎも知らない私が、如何なる風の吹き回しか前後の見境もなく人生に一度は憧れの船旅に出掛けるようにと決心させたのは亡き大叔母だったのかと思えるのです。
甥に無理を言い仕事を休ませて付き合って貰う事にしました。
飛行機も船も乗り物には命を預けての移動と心得、
ワクワクしながら途中で不慮の事故にでも遭えばどうなるかと、死を覚悟しての旅立ちです。
意外と大きな船は揺れも感じなく穏やかに航路を順調に進んでいきます。 港から離れるにつれ不安は無くなり気楽に趣味の合う乗船客との御付き合いを楽しんでいました。
ある日の夜、私は眠りに就きましたが、中々寝付くことが出来ずに起き出してガウンを羽織り甲板に出ると暗い海を眺めていました。
海で動く何かが、キラキラと輝く得体の知れない物も目に映り、ついに身を乗り出してしまったのです。
「アッ」と言う声と共に私は海へ真っ逆さまに落ちて行きました。
泳げない私はどうなったのでしょう。
気が付くと、其処は海底でした。
所が、私は溺れても居ません。生きているでは有りませんか。 其れに驚きも恐れもなく普通に呼吸もしています。
落ち着いて辺りを見渡すと、目の前には古びてはいますが、嘗ては豪華であったろうと思われる小劇場が見えます。
吊るされたシャンデリア、キラキラ光るクラゲが移動しながら辺りに光を投げ掛けています。
観客席には美しく着飾った貴婦人たちや紳士たちに交じって若き日の美しい大叔母が居るのです。
手招きする大叔母に近付いて行くと
「まあ、貴女も此処に来られたのね。美しい御嬢さんになられて」
「あらあら、其の格好はなんて事でしょう」と言いながら叔母が私に触れるとナイトガウンが素敵なドレスに変わりました。
そして、大叔母はダイヤが散りばめられた自分のネックレスを外して私の首に着けてくれました。
大叔母の隣の席に着いて、暫くすると舞台の袖から一人のピアニストが現れました。
「あっ」と声が出そうになった私は口を押えました。
私が若い頃、話に聞いたタイタニック号に乗って大叔母と船旅を共にしたピアニストでした。
大叔母もピアニストも亡くなったと聞いていましたが...。
其の日は2012年4月14日タイタニック号が100年前の1912年に沈没した日でした。
劇場と観客席は、船から滑り降りたかのように破損もなく海底に置かれたような状態です。
観客席の人々も自分たちが命を失った事も知らずのままのように見えます。
演奏が始まる前の静かな囁き声も聞こえていました。
長身のスマートなピアニストが鍵盤に指を触れ弾き始めました。
ショパンの「華麗なる大円舞曲」
私は夢見心地で叔母に凭れて素晴らしい演奏を聴きいっていました。
幾つかの曲の最後にショパンの「ノクターン第2番変ホ長調」の演奏が始まりました。
演奏が終わりに近付くにつれ目の前の古い劇場が海の波に揺られて存在が薄れて行くと同時に演奏も静かに終わり全てが海の泡となり消えて行きました。
暗闇に包まれた海の中で大きく息を吸った私の肩を誰かが揺すって
「叔母様、大丈夫ですか」と問いかけているのが聞こえました。
気が付くと毛布に包まった私に付き添った甥が
「叔母様、驚きましたよ。夜の海に落ちて助かるなんて奇跡ですよ」
「凪の海だったのが幸いでした。夜の散歩も一人は駄目ですよ。
未だ、先の長い旅です。次からは申しつけてください」
私の耳には、今もあの時のピアニストの巧みな演奏や旋律が鮮明に残り
古い写真でしか見たことのなかった大叔母との触れ合いが夢現として記憶のクリスタルのように輝いているのです。
いいえ、其れだけでは有りません。
あの時、私の首には大叔母が着けてくれたネックレスが.....
夢の出来事でなかったと....

