教育を語る前に見ておきたいこと
209「Bear(黒)歴史帳」
教育についての情報は世の中にたくさんある。
授業づくり。
学級経営。
主体的・対話的で深い学び。
生徒指導。
特別支援教育。
ICT活用。
不登校支援。
働き方改革。
どれも大切なテーマであり、多くの実践や研究が積み重ねられている。
私自身も長い間、その世界の中で教育を考え続けてきた。
しかし、教育について考え続ける中で、少しずつ気になり始めたことがある。
それは、
「私たちは何を見ながら教育を語っているのだろうか。」
という問いである。
現象を見るのか、構造を見るのか
教育に関する多くの議論は、現象を扱う。
なぜ学力が伸びないのか。
なぜ不登校が増えるのか。
なぜ主体性が育たないのか。
なぜ教員が忙しいのか。
もちろん、それらは大切な問いである。
しかし、現象だけを追い続けていると、どうしても対策の話になりやすい。
どう改善するか。
どう解決するか。
どう変えるか。
その方向へ向かう。
しかし事実を丁寧に見ていくと、その手前に共通した構造が存在していることが見えてくる。
教育の問題なのか、人間の問題なのか
例えば、
子どもを管理したくなる。
失敗させたくなくなる。
正解を教えたくなる。
評価したくなる。
比較したくなる。
こうした働きは教育だけに存在するわけではない。
会社でも起きる。
家庭でも起きる。
社会全体でも起きる。
つまり教育の問題というより、
人間の認知の働きそのものが現れているとも言える。
教育は、その構造が見えやすい場所なのである。
その手前にあるもの
私の記事では、
授業の技術や教育手法を中心には扱っていない。
もちろんそれらを否定しているわけではない。
しかし私が関心を向けているのは、その手前にあるものである。
なぜそう考えるのか。
なぜそう反応するのか。
なぜそう判断するのか。
なぜそう解釈するのか。
つまり、
現象を生み出している認知の仕組みそのもの
である。
事実と考え
その中で繰り返し扱っているテーマが、
「事実と考えは違う」
ということである。
例えば、
ある子どもが授業中に発言しない。
これは事実である。
しかし、
やる気がない。
理解できていない。
主体性が低い。
指導が必要だ。
これらは考えである。
もちろん考えが悪いわけではない。
人間には自然に考えが生まれる。
ただ、
考えと事実が混ざると、
現実が見えにくくなる。
私はそこを、ただ静かに観ていく。
自覚という視点
そのために重要になるのが自覚である。
自覚とは、
「私が○○と考えているんだなぁ。」
と気づくことである。
そして、
そのまま内側へ意識を向ける。
私を観る(感じる)。
この文章の通り方
正しいか間違っているか。
賛成か反対か。
役に立つか立たないか。
そうした見方もある。
一方で、
記事を読んでいると、
「私はこれを読んで何を考えているんだろう。」
「私は今、何を感じているんだろう。」
「私はなぜそう反応しているんだろう。」
そんなことが見えてくることもある。
記事の内容だけではなく、
それを読んでいる自分自身にも意識が向く。
すると、
記事の内容とは別に、
自分自身の認知の働きに気づくこともある。
おわりに
教育について考え続けていると、教育そのものよりも先に、人間の仕組みが見えてくる。
人間の仕組みが見えてくると、社会の仕組みも見えてくる。
そして、その手前にはいつも、
事実と考え、
観察と判断、
自覚と反応、
というテーマが存在している。
教育について語ることは、人間の仕組みを語ることでもある。
この記事は教育を入り口としながら、その手前にある認知の仕組みをただ事実として観察する試みである。
