見出し画像

生成AIが一般化した社会で勉強する意義とは?

近年の生成AI技術の急速な発展により、「人間が勉強する必要はあるのか」という議論が生まれている。現在の生成AIは議事録作成、画像生成、リアルタイム検索による情報要約など、従来人間が行っていた作業を高精度で実行できる。

この状況は、web検索が普及した時代と似ている。当時も「検索があれば暗記は不要」という意見があったが、実際には基礎知識なしに検索を活用することは非効率だった。英単語を知らずに文章を読めば毎回検索が必要になり、専門用語を知らなければ専門書の理解は困難になる。つまり「内部メモリ」としての基礎知識があってこそ、「外付けハードディスク」としての検索が有効に機能する。

生成AI時代でも同様の課題が存在する。著者の経験では、AIはコード作成は得意でも、細かい修正や微調整は困難だった。四角形の位置調整という簡単な作業でも、プログラミングの基礎知識がなければ自分で修正できず、AIの限界を補うことができなかった。

この問題は文章作成、数学、画像生成など様々な分野に共通している。文章生成後の修正には文章力が、量子力学の解説記事の正誤判断には基礎知識が必要だ。

先日,「乱読のセレンディピティ」という本を読んだ。「思考の整理学」の外山先生の本で,その中の一節に以下の文章が記されている。
「ことばの流れは,映画のフィルムのようなものであると考えることができる。(中略)辞書を引いたりして,流れをとめてしまい,むやみと時間をかけると,ことばをつないで意味を成立させている残曵が消えて,わかるものがわからなくなってしまうのである。」辞書を引いて流れを止めすぎると全体の意味を見失うように、生成AIに頼りすぎて作業の流れを止めれば、全体像を見失う危険がある。

結論として、web検索も生成AIも、基礎力があってこそ真の威力を発揮する。勉強が不要になるのは、脳に直接情報がインプットされる技術が実現した時かもしれないが、現段階では基礎的な学習の重要性は変わらない。生成AIは強力なツールだが、それを効果的に活用するためには、人間の基礎的な知識と理解力が不可欠である。


いいなと思ったら応援しよう!