【天才その内宇宙】番外編 第十回 平賀源内
志度の土から世界をハックした、境界なき越境者
著:中村明敬 & TeamsLabyrinth
協働AI:ジミー/チャッピー
前回の関孝和の物語では、不条理な現実の底で、誰に見せるためでもなく自らの脳内に完璧な「数理の聖域」を築き上げた天才の姿を見つめた。それは世界から隠されるようにして深まった、孤高の「内包型宇宙」――閉じた宇宙の深海魚のような生き様だった。
しかし、僕たちの地元・香川(讃岐国)の土壌からは、それとは真逆のベクトルを持つ、もう一人の規格外の怪物が飛び出している。
その男の名は、平賀源内。
彼にとっての「マイワールド(脳内宇宙)」とは、自分の殻にこもるための部屋ではない。本草学、物産、工芸、文学、広告、鉱山開発……あらゆるジャンルの境界を軽々と踏み越え、己のアイデアと科学の力で、現実世界の側を力づくでお祭りに塗り替えていくための、圧倒的に攻撃的な「設計図」を持った――歩き回る火花発生器だった。
1. 出発点は「讃岐志度浦」――知の温室が育てた異才
享保13年(1728年)、瀬戸内の穏やかな海に面した讃岐国寒川郡志度浦、現在の香川県さぬき市志度。平賀源内は、高松藩の蔵番を務める白石家に生まれた。幼名は伝次郎、あるいは四方吉と伝えられる。
後世の私たちは、彼を「突如として現れた孤高の奇才」と呼びたがる。しかし源内という大輪の才能を育てたのは、何もない荒野ではなかった。志度の自然、栗林の薬園、松平頼恭公の博物学への熱量、精度高い西洋知の風。讃岐には、源内の好奇心を発火させるための、静かな知の燃料庫があった。
特に高松藩5代藩主・松平頼恭は、単に文化好きの殿様というより、博物学や本草学を殖産興業の基礎として重視した、極めて高い知性と現実感覚を持った藩主であった。頼恭の命を受けて制作されたと考えられる精緻な植物図鑑『衆芳画譜』には、若い頃の源内が深く関わっていた。さらに頼恭は、現在の形へと繋がる栗林公園を整え、そこに大規模な「薬園」を営むが、その管理を任されたのもまた、当時高松藩士であった源内である。
高松藩は、源内という規格外の異物を最終的には抱えきれなかった。しかし、少なくとも松平頼恭の時代の讃岐には、源内の異常な好奇心を一度は優しく受け止め、薬草、図譜、物産,、工芸へと接続するだけの知的な「余白」と度量があった。源内は、その豊かな温室の熱量を吸い上げて、自身のマイワールドを開花させていったのだ。
2. 温室から飛び出す――「知のフリーランス」への覚醒
やがて源内は、藩という安定した身分の枠から、二度にわたって外へ出ていくことになる。
一度目は、長崎遊学後に藩務の退役を願い出たとき。そして二度目は、名が高まった源内を高松藩が再び召し抱えたあと、宝暦11年(1761年)に再び辞職したときである。このとき源内には「仕官お構い」という処分が下され、他藩へ仕官する道を閉ざされることとなった。
幕幕の土佐藩で坂本龍馬たちが敢行した「脱藩」が、厳しい政治的・身分的逸脱としての“檻を破る物語”であったとするならば、源内のそれは、讃岐の柔らかな土壌が育んだ“温室から飛び出す物語”であったと言える。
それは、現代的に言えば、安定した所属やセーフティネットをすべて捨て、組織の名刺ではなく、自分の知識と腕と文章だけで生きていく道だった。退路を完全に断たれた源内はここで、日本史上まれに見る、己の知性だけを武器にする「知のフリーランス」へと変貌を遂げたのである。
3. 身体をともなった科学眼と、志度の土
江戸に乗り込んだ源内は、ジャンルという境界線を消し去っていく。
彼がフリーランスとして生き抜くための最大の足腰となったのは、決して大衆を騙すような軽薄なハッタリではなく、当時屈指の本草学・物産調査・鉱山開発の実務家としての実力だった。
現代で言えば、地質調査や鉱山開発の技術アドバイザーである。源内は全国の藩や商人から請われ、秩父や秋田などへ自ら足を運び、地層や鉱物、産物の可能性を見極めながら、資源開発に関する技術的助言を行っていた。
それは、机上の知識ではなかった。山に入り、石を見て、土を嗅ぎ、土地の産物をどう活かすかを考える、身体をともなった科学だった。
さらにその科学眼は、故郷の「産業の未来」へも向けられる。
源内は志度の陶工たちを指導し、東洋と西洋の色彩が融合した精緻な「源内焼」をプロデュースした。彼が作らせた「南北アメリカ地図大皿」の通り、まさに、志度の土が、世界地図を焼いたのである。
それだけではない。彼の著した『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』の付録に記された砂糖製造法は、のちの讃岐地方の特産品、あの「和三盆」へと繋がる偉大な第一歩となった。彼は「電気の人」である以上に、故郷の土や資源のポテンシャルを誰よりも見抜き、ブランド化しようとした真のイノベーターだった。
4. 「世の中、ぜんぶ広告なのだ」――境界なき翻訳者
この超一級の科学の地盤の上に、「人間をおもしろがらせる、現代的なプロデュース感性」が融合したとき、平賀源内という男の言葉が江戸の町を爆発させる。
売れずに困っていたうなぎ屋のために彼が授けたとされる、あまりにも有名な「土用の丑の日」の逸話。たとえそれが後世の俗説であったとしても、源内という男が「広告的発想の象徴」として語り継がれてきた事実こそが重要だ。
歯磨き粉のコピー、博覧会の元祖「薬品会」のプロデュース、そして「風来山人」の名で放った大ヒット社会風刺小説の数々。
これらは、1980年代のコピーライターブームの寵児であった糸井重里さんの「おいしい生活。」や、仲畑貴志さんの「甘い生活。」がそうであったように、「言葉ひとつで大衆の潜在意識を突っつき、社会現象という名のお祭りを仕掛け、新しいライフスタイル(文化)を創り出す」という、極めて高度な現代的プロデュースそのものだった。
彼の代名詞である「エレキテル」にしても、彼はゼロからそれを発明したのではない。長崎から持ち帰った壊れたオランダ製の摩擦起電器を、私財と歳月を投じて見事に「修理・復元」してみせたのだ。
当時、日本人は「電気」という概念すら持っていなかった。源内は、この机の上の冷たい科学を、学者だけのものにしておかず、バチバチと光る青白い火花を飛ばしてみんなで手を繋がせる「体験型エンターテインメント」へと翻訳した。彼が添えた「体に溜まった悪い気を取り除く健康器具」というストーリーは、未知のテクノロジーを一般の文脈に接続するための、彼なりの親切なインターフェース(翻訳)だったのである。
5. 非常の天才、その熱量の継承
しかし、時代を二世紀も先走りすぎた天才の最期は、あまりにも唐突で、悲劇的なものだった。
エレキテル、鉱山開発、陶器、戯作、物産会。源内のアイデアは、どれも時代の先を見ていた。しかし、先を見すぎた事業は、必ずしも同時代の理解や安定した収入に結びつくとは限らない。評価と誤解、期待と失望、喝采と冷笑。その激しい振幅の中で、源内の心身はしだいに追い詰められていった。
安永8年(1779年)、源内は殺傷事件を起こし、伝馬町の牢内で世を去る。事件の原因には諸説があり、いまなお断定は難しい。ただ確かなのは、彼の死が、彼を知る人々に深い衝撃を与えたということだった。
彼の死を悼んだ終生の親友であり『解体新書』の翻訳者・杉田玄白は、墓碑にこう刻んだ。
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何非常死」
(非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや――お前は常識外れの天才であり、常識外れの事を成し遂げ、そしてどうしてこのような常識外れの死を迎えてしまったのか……)
関孝和は、紙の上に宇宙を閉じ込めた。
対する平賀源内は、志度の土と江戸の言葉で、世界そのものを騒がせた。
既存の枠組みをぶち壊し、おもしろさだけで現実世界をハックしようとした「侵略型マイワールド」の権化。その最期はあまりにも切ないが、彼が讃岐の温室から携えて飛び出した「言葉とアイデアで人間を、世界を盛り上げる」という熱量は、形を変え、時代を超え、現代の僕たちのクリエイティブの血脈へと、今も確実に、そして激しく流れ込んでいる。
