ド素人の四十代行き遅れが語彙力3くらいで語る「特別展 運慶」(東京国立博物館)
当初、この記録を書くにあたって「かっこいい感想を書こう」と思ってキーボードをたたき始めた。イメージするのはアート系のサイトが公開している展覧会の紹介記事。なぜかわからないが、その時の私はちょっと気取った感じでこの特別展の感想を残しておきたかったのだ。
しかし、限界はすぐにやってきた。そもそも私は芸術に対して造詣が浅い。加えて語彙力もかなり少ない。行き詰った私に、天の声(なんでも都合よく捉えるもう一人の自分とも言う)がこうささやいた。
「そういうかっこいい記事は、プロにまかせておけばええやん。所詮はド素人さかい、あんたはあんたの語彙力で書けばええやないの」
謎のインチキ関西弁の天啓に、私は全力でうなずいた「ほな、そうする」。というわけで、「特別展 運慶」を語彙力3でお伝えいたします。
そもそも、私がこの特別展に行こうと思ったきっかけは、ネットの紹介記事に添えられた写真だった。そこには以前何かの展示で観て「うわ、これすっげえ」と思った「仏像の後ろに立っているおじさんたち」らしき姿が写っていたのである。いつぞや見たそのおじさんたち(表現上おじさんと言っていますが、きっと仏様です。無知ゆえの無礼をお許しください)は、まるで生きているみたいにリアルだったのだ。
しかし、果たしてそのおじさんたちが運慶作だったのか、そもそもネット記事の写真にあった「おじさん二体」がそのおじさんたちなのか、確信はない。でもまあ違ったら違ったでいいや、くらいのノリで行くことにした。私の良いところは、無知でも臆することなくノリで美術館や博物館に行けることだ。
そして9月のある日曜日に私はトーハクに向かった。少し並んで会場に入る。今回の特別展は一室のみだが、部屋の真ん中にどーんとラスボス的な仏様が座っており、その背後に見覚えのある姿が二体。私は思わず叫びそうになった。
「おじさん、久しぶり! 」
そう、そこに立っていたのは、あのおじさんたちだったのだ。
ラスボスの前には人だかりができている。しかし、おじさんたちの近くも負けてはいない。私は人だかりの隙間を狙って、おじさんたちを凝視した。
すげえ。布の波打っている感じがめちゃくちゃリアル。肩が丸まっている感じも人っぽい。いや、仏様だから人ではないのか。それにしても、凄い存在感だ。仏像って「細かいところまでよく彫ってあるな」とか、「表情が柔和だな」とか、そういう見方をされることが多い気がするけど、このおじさんたちはそういうピンポイントなところが目に入らないくらい、圧倒的な存在感を放っている。そこに仏像が置いてあるというよりも、そこに人が立っている感じ。いや、人ではない。そこに崇高なものが立っているという感覚がいちばんしっくりくる。
おそらく芸術に造詣が深い人はもっと細かい部分に注目するのだろうけれど、たぶんこのおじさんたちは、そういう見方をするものではない気がする。そもそも見るというよりもその存在を感じるというのが正しい。木でできているのにその中に魂が込められているのが感じ取れるのだ。
以上を語彙力3でまとめると以下のとおりである。
「あのおじさんたち、たぶん生きてる。だってオーラがやべえもん」
結局私は相手が人間だったら確実に「変態だ」と通報される勢いで、おじさんたちを凝視した。見ても見ても見たりなくて、おじさんたちの周りをぐるぐる回りながら結構な時間を過ごした。
私以外のお客さんはみな見るからに知的レベルが高く、おそらく運慶がどれだけすごい人なのかも、歴史的な背景も、そして何よりこのおじさんたちが何者なのかも、当然分かっているように見えた。そんな中、芸術の知識がない上に異国人かと自問したいほど日本史の知識がない私は、明らかに場違いだ。けれども、その場にいたお客全員が、今自分の中に湧き上がっているほどの感動を覚えているかというと、そうでもないような気がした。
知識があれば理解は深まるけれど、理解が追い付いていなくても感じることは出来る。知識が感動の邪魔になるとは決して思わないけれど、感動に知識は必須ではない気もする。
すれ違った見知らぬリアルなおじさんが「これはいいや、また来よう」と呟いていた。あやうく「私もー」と答えてしまいそうなほど圧倒された特別展だった。
つーかあのおじさんたち、家に欲しいな。でも家にいたら夜中トイレに起きた時とかに「うわっ! 」ってなるか。
