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車輪の下(ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳) を読んだ感想

 この小説を初めて読んだのは中学生の時でそれ以降も何回か読んだ。
けど、最近は全く読んでいない。読む気もしなくなったから売って(若しくは捨てて?)しまった。救いの無い話だし、当時の別に思い出したくもない思い出が甦るからだ。それでも感想を書こうと思う。過去を暴く感じ、墓に埋めたモノを掘り返す感じもするがちゃんと感想を書いてけじめ?をつけたい。著者と出会ったのは国語の教科書でだった。「クジャクヤママユ」という作品だ。蝶や蛾の昆虫採集や標本作りに熱中している少年がつまらない奴だと思っていた同級生が憧れだったクジャクヤママユという蛾の標本を持っていて盗んでしまう、という話だ。当時の自分にとっては衝撃的な作品だった(エーミールの例の台詞とか)。周りでも少し流行っていた?と思う。
高校時代に "尊大な羞恥心と臆病な自尊心" や "檸檬爆弾" が流行ったのと同じく。そして夏休み。読書感想文。私は車輪の下を選んだ。クジャクヤママユが衝撃的だったというのもあるけど、それ以上に同級生の何気ないひと言が大きかった。「車輪の下の主人公って〇〇(私の名前)みたいだな。」
私はそれを聞いて腹が立った。主人公のハンス・ギーベンラートはガリ勉で勉強は出来るけど、神学校を中退したり同世代の娘にからかわれて失恋したり、機械工として出直そうとしてそれも失敗して最後は死んでしまうからだ。だから初めて読んだときは自分はハンス・ギーベンラートとは違う!というスタンスで読んでいた。そして読書感想文も悪いのはハンス。こいつが意志薄弱だからだ!という結論に達した(当時の自分は自分の頑張り次第で人生は全て何とかなると本気で思っていた、多少はコントロール出来る…!ではなくて、全てである)。そしてその後はしばらくその本のことは忘れていた。車輪の下の他にもこころや人間失格の様な思春期に刺さる作品とどんどん出会っていったから。車輪の下は埋もれた。
 ちゃんと再読したのはそれから10年後、大学生時代か社会人成りたての頃だったと思う。きっかけは同じ著者による作品、デミアンだった(個人的にはこっちのが好きだけど内容はここでは書かないでおく)。ヘルマン・ヘッセってこういう作品も書いてるんだ。車輪の下もこの機会に読み直してみるか、と成った。そして読んだ感想は180度変わった。え、これって周りが悪いじゃん。ハンスが気の毒すぎる…。本人のことをまだ理解してくれているのは靴屋のおやじだけだし、ヘッセ本人も同じように挫折して、その時は母親が支えてくれたらしいけどハンスにはいないし(夭折している)…。そして周りに対する怒りの感情が湧いてきた。息子のことを理解しない父親、こっちは惚れてるのにただからかっただけの娘、そして牧師や先生たち。友人だったヘルマン・ハイルナーや機械工の友達もハンスを置き去りにして自分の道へまっしぐらだし。なんというか書いている今でも、自分の中のハンス・ギーベンラート的な何かが苦しんで怒っていると感じる。やっぱり自分は自分の墓を書くことで暴いてしまったのだろうか。ゴールデンボーイでアーサー・デンカーが全米代表といった感じの少年にクルト・ドゥサンダーを暴かれた様に。けど、自分の中でハンス・ギーベンラートが生きているなら、これからはそういったものたちに復讐?ちょっとした仕返し?をしていくのもありなのかもしれない…。彼の為にも…。いや、それはないか。自分の中にハンス・ギーベンラート的なモノはまだあるだろうが意図的に復讐するでもない。楽しくなさそうだし。ただ、気づいたら復讐してた、みたいな感じにはなるのかも。自分はその意図はなかったけど、実は相手を傷つけている、みたいな(自分の人生を振り返ったらそういうことは意外と多い気がする。なんだろう、ただ自分は被害者だと思いたくないから、そうこじつけているのだろうか)。そういう意味では自分もハンスの周りの先生や父親、からかっただけの娘的なモノも持っているのだろう。そしてこれから年をとってますます世間に慣れ、そっちの要素が強くなっていくのかもしれない。ただ、だからといってハンス・ギーベンラートを傷つけたくはない。その心は傷つきやすいし、簡単に壊れてしまうのだ。そんな心は弱いから要らない!ではなく、ある程度持ち続けられる人こそ人として成長するし、輝くのだとも思う。それを忘れずに生きていきたい。これで中学生の頃よりは良い "読書感想文" が書けたと思う。

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