Yuの向こう側 ③ Yuと…
「母が何を見ていたのか」
裕美の言葉が残る。
俺はすぐには答えられなかった。
何を見ていたのか。
そんなこと、
俺だって知りたい。
コーヒーカップへ手を伸ばす。
もう半分ほど冷めていた。
「お母さんって」
気付けば、
そんな言葉が出ていた。
裕美が顔を上げる。
「はい?」
「昔からあんな感じだったの?」
「あんな感じ?」
「世話焼きというか」
少し考える。
「放っておけない感じ」
裕美が笑った。
「ああ」
納得したように頷く。
「それは昔からです」
即答だった。
「友達が来ても世話焼くし」
「近所の子にもお菓子出すし」
「頼まれてもないのに心配するし」
少し呆れたように笑う。
「たぶん性格ですね」
俺もつられて笑う。
その姿は想像できた。
「おばあちゃんもよく言うんです」
裕美が続ける。
「裕子は昔から放っておけないんだからって」
俺は顔を上げた。
「裕子?」
裕美が一瞬だけ不思議そうな顔になる。
「あ、母です」
さらりと言う。
だが。
俺は言葉を失った。
裕子。
初めて聞く名前だった。
何度も会った。
何時間も話した。
一緒に笑った。
悩みも聞いた。
それなのに。
俺は今、
初めて彼女の名前を知った。
「知らなかったんですか?」
裕美が少し驚いた顔をする。
俺は曖昧に笑う。
「そうみたいだ」
それしか言えなかった。
裕美は何か言いかける。
だがやめた。
代わりにアイスティーを一口飲む。
俺もカップへ視線を落とした。
裕子。
頭の中で繰り返してみる。
不思議な感覚だった。
知らない名前なのに。
どこか懐かしい。
「そうか」
「Yuって」
俺は顔を上げる。
「たぶん裕子のYu…?」
「今さらですか」
裕美が小さく笑った。
「メッセージを見た後、
少しだけ調べたんです」
「調べた?」
「母のこと」
少し言いにくそうな顔だった。
「ブログを書いてたことも知らなかった」
俺は黙って聞く。
「全部読んだわけじゃないです」
「でも」
「Yuって名前は昔から使ってたみたい」
そこで言葉が止まる。
「なんか不思議で」
「不思議?」
「うん」
裕美は頷く。
「母のことって、
知ってるつもりだったから」
窓の外へ視線を向ける。
「家族だし」
「ずっと一緒にいたし」
「何でも話してくれてると思ってたし」
少し笑う。
「でも違ったんだなって」
俺は何も言えなかった。
それは俺も同じだった。
俺はYuを知っているつもりだった。
好きなコーヒーも。
映画の好みも。
機嫌が悪い時の癖も。
笑うポイントも。
知っていると思っていた。
けれど。
裕子は知らない。
本名すら知らなかった。
「変ですよね」
裕美が苦笑する。
「私はYuを知らないし」
そこで言葉を切る。
そして俺を見る。
「あなたは母を知らない」
否定できなかった。
「そうかもしれない」
それが精一杯だった。
しばらく沈黙が続く。
店内の雑音だけが聞こえる。
食器の音。
遠くの笑い声。
ドリンクバーの機械音。
平日の昼下がり。
どこにでもあるファミレスだった。
それなのに。
今ここで交わしている話だけが、
妙に現実感を失っていた。
裕美はYuを知らない。
俺は裕子を知らない。
同じ一人の女性の話をしているはずなのに。
まるで別人の話をしているみたいだった。
声をかけられてからここへ来るまで。
俺は何を知られているのかばかり考えていた。
どこまで気付かれているのか。
何を問い詰められるのか。
そればかり恐れていた。
けれど。
実際に知ったのは俺の方だった。
裕子。
その名前を。
そして。
Yuの向こう側に、
確かに家族がいたことを。
俺は今さら思い知らされていた。
(続く)
