Hello, my friend 君といた、二十歳の夏
1994年
僕は20歳になったばかりの大学2年生だった。
テレビでは当時流行っていた、いしだ壱成や瀬戸朝香のドラマ「君といた夏」が放送され、その主題歌だったユーミンの「Hello, my friend」が流れていた。
僕は建築学科に通いながら、美術部に入って好きな絵を描いていた。
そこへ2年生から途中入部してきたのが、高瀬真帆さんだった。
学科で一番きれいなんじゃないかと言われていた人。
今書くと恥ずかしいが・・・初めて会った時、人間からリアルに春風が吹いたような気がした(笑)
でも話してみると、気取ったところがなかった。
富山県の八尾町出身だと聞いて、
「うちの両親の実家も富山なんだよ」
と言うと、
「ほんまけ?」
と顔がほころんだ。
八尾の夏の終わりの祭り「おわら風の盆」の話をすると、
「夜のおわら、ほんまきれいなんよ。一回見に来られ~」
「全然、方言抜けてないね」
「なーん。抜けんちゃ」
そう言って、少し顔を伏せて笑った。
美術部だけではなかった。
同じ建築学科だから、教室や廊下でもよく会った。

図面を抱えてすれ違うと、
「たっちー、今日サークル行くが?」
「行くよ。真帆ちゃんは?」
「どうしよっかなあ」
「来ないと、作品が進まないから困るけど」
「一人くらい変わらんちゃ」
そんな、どうでもいい冗談をよく言い合った。
授業が終わったあと、教室の出口で少し立ち話をする。
階段を一緒に途中まで下りる。
それだけだった。
人を好きになる前の時間というのは、たぶんこういう何でもない時間なのだと思う。
その夏、美術部の合宿で小豆島へ行った。
昼間はテニスをした。
真帆さんとペアになった僕が空振りすると、
「もー、たっちー、何しとんがけ」
と大笑いされた。
池では別々のボートに乗った。

少し離れたところから、
「たっちー!」
と彼女が手を振った。
僕も振り返した。
先輩が、にやにやしながら言った。
「お前ら、もう付き合っちゃえば?」
「いやいや」
否定しながら、たぶん僕は嬉しそうだった。
そのころ彼女は、よくChampionのロゴが胸に入ったTシャツを着ていた。
シャツの色はもう曖昧なのに、小さなロゴだけは妙にはっきり覚えている。
夜は何人かでギターを弾いて、ミスチルのシーソーゲームやスピッツのチェリーを歌った。
真帆さんは壁にもたれ、膝を抱えて聴いていた。
ときどき目が合う。
そのたび僕はギターの弦を見るふりをした。
みんなが戻ったあと、線香花火が残っていた。
「やる?」
二人で外にしゃがんだ。

海風で火が消えないよう、僕が手で囲った。
小さな光が、ぱちぱちとはじけた。
「たっちーってさ」
「ん?」
「ほんと優しいね」
「そう?」
「うん。なんか、そういうとこあるちゃ」
彼女は線香花火を見たまま言った。
最後の火の玉が落ちた。
僕が「終わったね」
彼女も「終わったね」
でも僕には、
何かが始まったようにしか思えなかった。

名古屋へ戻って数日後。
僕は彼女のアパートへ電話した。
まだ携帯電話がない時代だ。
「……はい」
寝起きの声だった。
「あ、真帆ちゃん?」
「うん……たっちー?」
名前を言わなくてもわかってくれた。
合宿の話をして、二人で笑った。

そして思い切って言った。
「今度さ、映画でも行かない?」
少し間があった。
「あー、行きたい」
心臓が跳ねた。
「でも夏休み中ちょっと予定詰まっとって。学校始まってからでもいい?」
「もちろん」
「じゃあ、また予定わかったら言うちゃ」
電話を切ったあと、僕は完全に浮かれていた。
映画に行って、そのあとご飯を食べて。
二十歳の僕には、もう半分くらい恋が始まっているように思えた。
そして夏休みが明けた。
ある夕方、美術部のみんなと学校の坂を下っていた。
向こうから男女二人が上がってきた。
真帆さんだった。
隣にいたのは、美術部後輩のかずひろ。
背が高くて、顔もいい。

二人の距離が近かった。
手はつないでいない。
でも、今にもつなぎそうだった。
「あれ?」
誰かが言った。
「えっ、あいつら付き合ってんの?」
みんながざわついた。
僕は何も言えなかった。
すれ違う瞬間、真帆さんがこちらを見て小さくお辞儀をした。
僕は、
「ああ。」
とだけ言った。
二人は坂を上っていった。
僕たちは坂を下っていった。
振り返れなかった。
映画の話は、それきりになった。
あれから30年ちょっと。
ユーミンの「Hello, my friend」を聴くと、今でもあの坂道が浮かぶ。
そしてChampionのロゴを見ると、小豆島の夜まで戻ってくる。
僕は、今でもChampionが好きだ。
たぶん服だけを好きなわけではない。
教室ですれ違って、
「今日サークル行くが?」
と笑った声。
ボートの上から振っていた手。
線香花火を見つめていた横顔。
そういうものまで、小さなロゴの中に残っている。

街でChampionのTシャツを見かけると、
ほんの一瞬だけ、
二十歳の彼女が戻ってくる。
そして、またいなくなる。
僕にとって1994年の夏は、
ユーミンの歌と、
学校の坂道と、
胸元の小さなChampionのロゴの中にある。
あれが僕の、
「君といた夏」だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
※登場人物の名前は仮名です。
