【香菓|KōKa】ナツメグの記憶
冬になると、わたしは決まってキッチンに立ち、ナツメグをすりおろす。
古びた小さなホーローの器に、金属のグレーがかすれてきた小型のおろし器。一見クルミのようなナツメグを、ぎこちなくも丁寧にこすっていた。
その香りを最初に覚えたのは、小学2年生の冬だった。
「これは、ちょっと大人の香りよ」
そう言って、母はわたしの鼻先に、すりおろしたばかりのナツメグを差し出した。ひと息吸うと、ふわりと温かい香りが広がった。甘いようでいて、どこかスパイシー。木の皮を細かく砕いたような、温かさの奥にかすかに苦味を感じる香り。やわらかなミルクティーのようでもあり、冬の空気のような静けさもある。だけど不思議と、どこか懐かしい気配がした。
その香りは、わたしのなかに「冬のはじまり」として刻み込まれた。
あれから何年も経って、母はもうこの世にいない。
最後の冬、台所に立てない母に代わり、ナツメグを削った。母がよく作ってくれたミルク煮や、スパイス入りの焼きプリン。シナモンではなく、決まってナツメグを入れていた。どこか和の空気を残す、洋風すぎない香り。それが母の味の、影の主役だったのだと思う。
20代の終わり、わたしは東京を離れ、古い木造の一軒家に暮らしはじめた。家の中はとても静かで、風が吹くと少しだけ柱が軋む音がする。
週末の午後、オーブンの予熱を待ちながら、わたしはナツメグをすりおろしていた。
削るたびに立ち上る、深くてまろやかな香り。部屋の空気が少しずつ、冬の匂いに移り変わっていく。ナツメグの香りには、なんとも言えないやさしさがある。甘くなりすぎず、尖った鋭さもなく、ただじんわりと心を温めるような。それは香りというより、“記憶の手ざわり”に近い。
オーブンのタイマーが鳴った。
焼きあがったのは、ナツメグを練り込んだヴィーガンタルト。母の味とは違うけれど、香りだけは、あの頃のままだ。ひと口かじると、温かい香りが鼻に抜けた。ああ、これだと思う。母が残してくれたものは、レシピでも、言葉でもなく、たったひとつの“香り”だったのかもしれない。
夜が更けて、ストーブの火が小さくなったころ。マグカップを両手で包み、少しだけ目を閉じる。
部屋にはまだ、ナツメグの香りがほんのりと残っている。目には見えないけれど、たしかにそこにいる。そんな存在が、冬の支えになることもある。母が教えてくれた「ちょっと大人の香り」。
今のわたしは、その意味が少しだけわかる気がする。
本日の香菓
ナツメグとシナモンのヴィーガンタルト
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¥ 10,000
