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「日本の未来のために何ができるのか?」コロナ禍で見えた3度目の起業、クラウド人材バンク金居代表に聞いた創業の原点

本記事では、当社も利用している採用支援サービス“ツクチム”を運営する株式会社C(以下、C社)にインタビューしていただきました。

以下はインタビュー記事です。


クラウド人材バンクは2021年に設立し、「人材の流動化によって、日本の競争力を強化する」をミッションに、デジタル人材(特にフリーランスのハイスキル層)と企業のDX案件のマッチングプラットフォーム「デジタル人材バンク」などの運営を行う企業です。

そんな企業の代表が金居です。今回は金居がどういった人間なのか、なぜクラウド人材バンクの創業に至ったのか、なぜ壮大なミッションにたどり着いたのか、半生について伺っていきます。

金居 宗久| 代表取締役
千葉県出身。早稲田大学人間科学部卒業後、朝日アーサーアンダーセン株式会社(現PwCコンサルティング合同会社)に入社。ITコンサルタント、戦略業務コンサルタントとして4年間従事。その後、教育系ベンチャー企業を経て、2度の起業を経験。2021年3月、株式会社クラウド人材バンクを設立。フリーランスのデジタル人材と企業を繋ぐマッチングプラットフォームを開発・運営。人材の流動化を通じて、日本の競争力強化に貢献。



小学校〜高校時代|やんちゃな少年時代、高校では恩師と出会う

ー まずは金居さんの幼少期について聞かせていただけますか?

金居:生まれは母の実家である東京都江戸川区で、それから18歳までは千葉県で育ちました。3人兄妹の長男で、妹が2人います。
母は教育熱心だったので、学校の勉強は割と得意でした。足も速かったので、小学校時代が最初で最後のモテ期でしたね(笑)

将来の夢は特になくて、卒業文集で将来の夢を書く欄では、何とか捻り出して書いた記憶があります。当時から漫画を読んだり書くのが好きだったこともあり「漫画家」と書いたり、水泳を習っていたので「水泳のオリンピック選手」と書いたり、その場しのぎの夢でした。

ー 小学校高学年になると、やんちゃ少年に憧れた時期があったそうですね(笑)

金居:ヤンキー漫画が全盛期の時代で、不良に憧れる時期がありました。『ビー・バップ・ハイスクール』や『クローズ』、『特攻の拓』を全巻持っていて、不良たちの反骨精神や仲間の絆に惹かれていましたね。

進学予定だった地元の千葉の公立中学は荒れていたので、自分もヤンキーになれることを楽しみにしていましたが、母はお稽古もしないでプラプラ遊んでいた私を心配し、中学受験の塾に入れました。今では感謝していますが、当時はヤンキーの道が閉ざされた反抗心や、そもそも塾にも興味もなかったので、塾をさぼったり、帰路によくゲームセンターで遊んでいて、塾の先生に叱られていました。いま社外取締役にいる佐藤は、進学塾の同級生なので、私の悪行をよく知っています(笑)
とはいえ、進学塾に通っているうちに、下のクラスに落ちたくないと言ったプライドから、自宅から近い中高一貫校に進学しました。

ー 中学時代はどのように過ごされていましたか?

金居:中学時代はあまり勉強をせず、バスケ部、彼女、バンド活動しか頭にないような生活でしたね(笑)

バスケの神様であるマイケル・ジョーダンと『スラムダンク』の影響で、当時のバスケ部は大人気で、同学年の部員数も20~30人ほどの大盛況ぶりでしたが、その後、Jリーグブームが到来した途端、部員が一気に辞めたり欠席して、チームは崩壊寸前となりました。中学3年の引退試合では、同学年は5人しか試合に出ていませんでしたね。苦い思い出で上書きされたキャプテン生活でした。

今だから言えますが、授業をサボってカラオケに行ったり、ゲーセンでは当時大流行していたストリートファイターで遊んでいたような自由奔放な生活を送っていました。学校の成績も下位10%でした。

部活を引退した中学3年生の夏、いつも嫌味ばかり言う英語教師から「だから、バスケ部はバカばっかりで嫌なんだ」と厳しい言葉を浴びせられました。その言葉にカチンときた私は、夏休みの間に、進学塾に籠って、冷房の部屋で勉強に勤しんだ記憶があります。夏休み明けの学年テストでは、
トップ50名までが廊下に貼り出され、上位に食い込んだ私は、嫌味を言った先生を見返した記憶があります。
生意気で勉強しない生徒を鼓舞するために、叱咤激励いただいたと今では振り返っておりますが(笑)

ー 高校時代はいかがでしたか?

金居:高校はバスケ部に入り、恩師との出会いから、文武両道の大切さを学びました。
バスケ部は県大会に参加できたらよいレベルで、決して強豪チームではありませんでしたが「部活も勉強も手を抜かず打ち込め」という先生だったのです。
常に全力でプレーすること」「妥協しないこと」「自分の限界を超える」「切り換え」という恩師の教えは、今の私の人生においても大きな基礎となっています。


大学時代|親友を救いたい思いで臨床心理を学ぶ

ー 大学で臨床心理を学び始めたのは、高校時代の友人がきっかけとのことですが・・

金居:高校の時の親友が心の病で、突然不登校になってしまったことが、臨床心理を目指すきっかけです。親友は勉強もトップクラスで元気な愛嬌のある人だったので、学校に来なくなった時は本当にショックでした。連絡は途絶えたまま、何が起きたのか全く分からず、ただただ心配で。
自分を責めることもありましたが「もしかしたら心の病かもしれない」と徐々に気づくなかで、どうにかして親友を支えたい、力になりたいという気持ちが強く芽生えていったのです。
そこで、親友をサポートできる方法はないかと探し始めました。そんなとき、心の病に苦しむ人を支援する臨床心理士という仕事を知り、早稲田大学の人間科学部に進学を決めました。

ー その後、親友とはどうなったんですか?

金居:受験が終わった日、親友の家をすぐ訪ねたのですが、やはり会うことはできませんでした。それでも諦めきれず、親友を早くサポートしたい一心で、大学で臨床心理を積極的に学びましたね。
大学1年生の途中になると、ついに親友と再会することができましたが、少しばかり臨床心理を学んでみて感じたのは、実際に人をサポートすることの難しさや大変さです。想像以上に、臨床心理学は難しく、人の心に寄り添うには相当な覚悟や知見が必要だと痛感しました。それは友人に対しても同じで、自分の未熟さから支えきれず、結果的にそれから会わなくなりました。

ー 親友と離れたことで、大学進学の目的を失ってしまったのでしょうか?その後はどのように過ごされていたのですか?

金居:親友と疎遠になった後、大学へ行く目的を完全に見失ってしまい、糸の切れた凧のように、無気力になってしまいました。大学には単位を取るために最低限通うだけで、あとは他の友達と毎晩遊んで泊まり歩いたりと、自堕落な生活を送っていました。そんな生活にも飽きた大学2年の時に「このままではダメだ、自分を腐らせてしまう」と危機感を強く抱き始めたんです。

ー どのようにして、抜け出すことができたのでしょうか?

金居:転機となったのは、あるインタビュー誌との出会いです。早稲田の学生が中心となって作っているインカレサークルで「自分なりの大学生活を作ろう」というコンセプトのミニコミ誌を制作していました。芸能人から起業家、体育会に打ち込む学生、パントマイムで生計を立てている学生など、様々な領域で活動している個性豊かな人たちへのインタビューを通して、自分らしい生き方、自分なりの大学生活を築いている姿を伝える雑誌です。その雑誌が大手新聞の記事に取り上げられていて、コンセプトや内容に衝撃を受けて、すぐに編集部へ会いに行きました。そこから日常が大きく変わり始めたんです。
学者や芸能人、学生など様々な人にインタビューをして、自分なりの大学生活や人生に辿り着いたのかをうかがい、雑誌として編集制作に携わりました。
そのような活動のなかで、全国の学生と繋がり、著名人17名にインタビューを行って、書籍「モラトリアムで歩き出そう (大学時代を楽しむための17のテキスト)」を出版するプロジェクトにまで発展しました。雑誌制作と出版プロジェクトに熱中するあまり、大学を留年してまでハマってしまいました(笑)


若手社員時代|「辞めます」の一言で、新生の戦略チームに参画

ー 就職活動のことや大学卒業後の進路について教えてください。

金居:就職氷河期だったものの、就職活動は楽しかったですね。100社以上の企業説明会に参加し、いろいろな業界や企業に触れて、様々なビジネスパーソンと出会える非常に貴重な機会でした。
そのなか、リクルート社に勤めていた早大卒のリクルーターの方から「金居くんのやりたいことはうちじゃないと思う。恐らくコンサルティング業界で、人事コンサルタントが向いているのでは?」とアドバイスをいただきました。
そこでコンサルティング業界を深く調べ始め「人事制度改革」という書籍を当時出していた朝日アーサーアンダーセン株式会社(現PwCコンサルティング合同会社)に興味を持ち、入社しました。

ー アーサー・アンダーセンでの社会人経験について振り返ると、いかがですか?

金居:アーサー・アンダーセン(現PwCコンサルティング)には4年間在籍しました。
2000年前半のコンサル業界は、今と違ってまだ1/10くらいの企業規模で、当時のアーサー・アンダーセンの日本事務所も600名程度の社員数、今はグローバルファームですが、当時はベンチャーのような勢いがあり、非常に大好きなファームでした。
しかし、米国のエンロン事件に関与して、アーサー・アンダーセンは解体され、日本事務所もKPMGコンサルティングに統合されていきました。私が入社して、三か月くらいの出来事です。

アーサー・アンダーセンでは、人事コンサルタントを希望していましたが、人事組織チームがスピンアウトしてしまい、選択肢がなくなってしまいました。
いきなり退職するのも気が引けたので、最初の2年間はITコンサルタントとして、ERP導入やBPRプロジェクトに従事していました。
ただ、生意気な社員だったので、結果を出したら半期単位でプロモーションさせてほしい旨を上司に伝えていました。それが実現されなかったので退職を決意しました。今思えば若さゆえに生意気でしたね。チームの業績もありますし、個人評価だけでは昇進は決まらないですからね(苦笑)

退職を決意したところに、一期上の先輩が「退職する前に、新しく作った戦略チームに異動してみれば」と幸運にもお声がけいただきました。
当時、最年少でマネージャーに昇進していた勢いのある先輩からのお誘いだったので、辞める前に新しいチームで挑戦しようと感じました。さらに当時のパートナーからは「ITコンサルタントでは2年の経験があるが、戦略コンサルタントとしては新人だから、報酬も新人レベルからスタートだ」と言われましたが、退職する気だったので受諾しました(笑)

半年あたりで成果を出したら、すぐに報酬をあげると言われ、誘っていただいた先輩の顔も潰すわけにはいかず、必死に頑張りましたね。

ー 退職するつもりが、新生である戦略チームに異動されたのですね!

金居:はい、そうなんです。当時は異動はレアでしたよ。戦略案件に従事するコンサルタントになってからは、それまで調子に乗っていた自分を猛省する日々に様変わりしました。それまでの要件定義や基本設計を担っていたITコンサルタントでは、決まった型にクライアント業務を調整して当てはめる形でしたが、中計策定やSCM戦略などの戦略案件では、論点設計から考えるため、全く違う脳の使い方で本当に苦労しました。

1つ目のプロジェクトでは、誘っていただいた先輩と一緒だったので、彼の面子を潰さないように意識し、1年は必死で食らいついていきました。
何とか無事に終えた1つ目のプロジェクトが終わり、先輩達とは別れ、2つの目のプロジェクトに参画。そこでは自分の力不足もあり、部下の力も引き出せず、上司とも折り合いが悪くなり、プロジェクトからリリースされました。
これは、いわゆるクビ宣言で「お前は使えない」という意味です。それまでの3年間は何とか成果も出せたという自負はあったのですが、プライドが一気に瓦解して、放心状態でしたね。

これを機に、出世レースに夢中になっていた自分に気付き、キャリアを改めて考えるようになりました。
そもそもなぜコンサル業界に入ったのか「本当にやりたいことは何か?」と自問自答する中で、臨床心理に興味があり人間科学部に入学し、大学時代の雑誌制作から、人事コンサルに興味があったことを思い出し始めました。そこで、「この延長戦上には自分のキャリアはない」という直感が働き、すぐに退職することにしました。

次の転職先も決まっていませんでしたが、直感に従って即行動するタイプなので、上司や先輩などから慰留されていたものの、躊躇や逡巡は一切なかったです。


起業時代|コロナ禍で問い直した「本当にやりたいこと」

ー 退職してから、1社目の起業に至るまで、どのようなキャリアを歩まれたのでしょうか?

金居:1社目を退職してから半年は働かずにふらふらしていました。
そんな暇な時間も飽き始めたころ、コンサル時代の先輩に掴まり「金居くん、暇なら友人のプロジェクトを手伝って」と声をかけられ、いつしかフリーランスのコンサルタントとして働いていました。当時のフリーコンサルタントの報酬は、会社員時代に比べて、倍以上だったので、金銭感覚が少し麻痺したような感覚でした(笑)大手コンサル会社のプロジェクトでしたが、最後まで続けて、1年ほどフリーランスコンサルを経験しました。フリーランスの途中で、自分のキャリアを探究する考え方やフレームを学びたく、GCDF-Japanキャリアカウンセラーも取得。
その後、半年ほど職探しをしている時に、社員20〜30名の教育ベンチャーを見つけて入社しました。

この企業は、かなりの資金調達や融資を受けていたベンチャーだったので、リーマンショック後に業績が一気に不安定になり、給料が遅配/欠配、社員もどんどん減っていく事態が生じました。そんななか、会社からの退職強要や過度な競業避止などもあり、それはおかしいと言うことで、裁判まで発展しました。
1年半ほど在籍した会社と、約2年の裁判のはじまりです。
裁判で戦い続けるためには、裁判費用や生活費もかかるので、自分達で稼ぐために、仲間達と起業することを選びました。
そんな流れで1社目を立ち上げたので、起業家精神がもともとあったというよりは、環境に流される中で始めたというのが正直なところです。

ー 1社目の起業後、どのように連続起業へとつながっていったのでしょうか?

金居:1社目の教育ベンチャーの起業は、前の会社と裁判で争いながらの事業スタートでしたので、心身ともに非常に疲弊しました。また、当初から資金繰りに窮しており、数千万円もの債務超過にすぐ陥りました。しかし、リーマンショック後で景気も冷え込んでいたので借金返済も難しく、自分は教育ビジネスからいったん離れ、フリーランスのコンサルに再び戻り、出稼ぎをしていました。
その結果、フリーコンサルタントの仕事が順調に増えて、仕事を直接いただくようになって、借金返済も終わりました。このような経験と顧客との関係性が、2社目の起業へとつながっていきました。

ー 2社目の起業後は、大きな気づきがあったとのことですが・・

金居:2015年頃はインバウンド観光客が急増していたので、大好きな日本文化や商品を世界に届けるために、コンサル案件で知り合った仲間たちと、2社目を設立しました。具体的には、日中越境ECを開発したのですがマネタイズがうまくいかず、2年ほどでサービスクローズ。同時に開発資金のために続けていた経営コンサルティング事業と、日中越境EC開発で手伝ってもらった優秀なエンジニア陣と共に受託開発事業も始めました。

おかげさまで業績は好調で、収入もどんどん増えていきました。しかし、お金は貯まる一方で、1社目の教育ベンチャーや日中越境EC開発の時のような情熱やワクワク感がいつしか消えていて、どこまで稼げるかゲームにのめり込んでいたのです。
「このままではいけない」という漠然とした焦燥感を抱いていた時に、コロナ禍が訪れました。自分自信と向き合う時間が増えたことで「本当にやりたいことは何か?」を真剣に探求する機会となりました。

「ただマネーゲームをするのではなく、日本の将来のために自分はどのように貢献できるか」を考えました。


クラウド人材バンク設立|子どもたちの豊かな未来を創るために、今できること

ー クラウド人材バンク設立の背景と目指す未来について教えてください。

金居:今の日本は国際的な競争力で見るとOECD加盟38カ国中32位です。経済成長率に関しては、世界190カ国中171位と、かなり厳しい状況にあります。このままでは貧しい国になってしまう。そんな危機感から「人材の流動化を通じて、日本の競争力を高める」ことを掲げてクラウド人材バンクを立ち上げました。

具体的には、フリーランスとして活躍するデジタル人材と企業をつなぐマッチングプラットフォームを運営しています。スキルを持った人が、必要とされる場所で柔軟に働けるようになれば、企業の生産性も上がり、事業開発など新しい挑戦がしやすくなる。
結果として、日本全体の活力となり、国家的な持続的成長につながると信じています。

ー 最後に、会社経営を続ける中で、大切にしている思いを教えてください。

金居:「未来の子どもたちに対して何ができるか」を一番大切にしています。今の日本は競争力が年々落ちていて、このままだと物心共に「豊か」とは言えない時代がきてしまうかもしれません。そうした現状を見ていると「この日本を次の世代に託すのは忍びない」と強く感じるんです。だからこそ、クラウド人材バンクという会社を通じて、日本全体を少しでも盛り上げていきたいです。

そのために、まずは組織としての「器」をしっかり作り上げていきたいと思っています。これまでは「組織をつくること」にそこまで意識を向けてきませんでしたが、会社が組織化されることで、より大きなエネルギーや価値を生み出せるようになる。その仕組みづくり自体が、社会への貢献につながるんじゃないかと考えています。

会社という枠組みを整えることは、エネルギーの源泉になると思うので、今は、組織や仕組みを整えて、大きな力を生み出していくフェーズに挑戦しているところです。それが、クラウド人材バンクの持続的な発展、そして日本の未来に貢献する道だと思っています。


人材の流動化によって、日本の競争力を強化する

クラウド人材バンクでは、人材の流動化によって社会の可能性を広げる仲間を募集しています。あなたの想いや経験が社会をつくる原動力になるかもしれません。キャリア相談だけでもOKです。あなたの想いを、ぜひ聞かせてください。

取材:井端裕輝 / 編集・文:木全彩花 / サムネイル制作:Reika


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