小さな足音を、迎えにいく
隠れていた君が、そばに来るまで
一、始まりは、一通のLINE

昼過ぎのリビングには、薄い雲を通した光が入っていた。
ローテーブルの上で開いたままのノートパソコンは、少し前から同じ画面を映している。律はそこに視線を戻そうとして、結局、手元のメモへ目を落とした。
線は引けている。
けれど、その先が決まらない。
麦茶のグラスに指を添えたとき、テーブルの上に伏せていたスマホが小さく震えた。
音ではなく、木の板を通って指先に届く揺れ。律はグラスから手を離し、画面を起こす。
通知の差出人を見て、少しだけ瞬きをした。
橘美琴。
創矢の妹から直接LINEが来ることは、あまり多くない。
急ぎの用事だろうかと思いながら開くと、最初に短い謝罪があった。
『律さん、急にすみません』
『友達の家で子犬が生まれて、今、新しい家を探しています』
『その中に、人が来ると隠れてしまう子がいて』
『まだ迎え先が決まっていません』
『お兄ちゃんに先に言ったら、律さんに聞く前に断っちゃいそうで』
『だから、先に律さんに聞きました』
律は、画面を一度閉じかけて、閉じなかった。
下に添えられていた写真へ、指先がゆっくり滑る。
淡いクリーム色の毛。
丸い黒い目。
体を小さく寄せるように座った子犬が、少し離れた場所からこちらを見ていた。
隠れている。
けれど、見ている。
その感じが、なぜか目に残った。
かわいそう、という言葉は浮かばなかった。
ただ、写真の中の小さな体が、こちらへ背中を向けきっていないことだけが、律の中に残る。
返事を打つまで、少し時間がかかった。
『会ってみたい』
送信してから、律はもう一度写真を開いた。
画面の中の子犬は動かない。けれど、見ているように感じる目だけが、さっきより近くにある気がした。
夕方、玄関の方からわずかな振動が伝わってきた。
ドアの開く気配に顔を上げると、黒いバッグを肩から下ろす創矢が見える。
「ただいま」
口元の形を追って、律は小さくうなずいた。
そのままスマホを持って立ち上がる。
創矢は靴をそろえてから、差し出された画面に視線を落とした。
美琴からのLINEを、ひとつずつ読んでいく。最後の写真で、少しだけ目が止まった。
「……この子?」
律はうなずく。
スマホを持つ手に、少しだけ力が入った。
創矢はすぐに答えを出さなかった。
断るとも、迎えようとも言わない。画面から律へ視線を移し、律が何を見ているのかを待っている。
その沈黙が、律にはちょうどよかった。
律は画面に、短く文字を置いた。
『会ってみたい』
創矢はその一文を読んで、すぐには何も言わなかった。
画面から律へ視線を移し、ほんの少しだけ目を細める。
「うん」
それから、律が読み取りやすいように顔を向ける。
「一緒に行こう」
律はスマホを胸元に引き寄せる。
返事の代わりに、創矢の袖を軽くつまんだ。
その夜、ローテーブルの上には閉じたノートパソコンと、まだ開いたままのスマホが並んでいた。
画面の中で、小さな子犬がこちらを見ていた。
二、ソファの陰

翌日の午後、駅から少し歩いた住宅街は静かだった。
創矢の隣を歩きながら、律はスマホの画面を一度だけ確認する。
美琴から送られてきた住所と、昨日見た小さな写真。画面の中の子犬は、今日も同じ顔でこちらを見ている。
家の前で足を止めると、創矢がインターホンを押した。
すぐに扉が開いて、美琴と同じくらいの年頃の女の子が顔を出す。
口元が、少し申し訳なさそうに動いた。
「来てくれてありがとうございます」
全部が聞こえたわけではない。
けれど、表情と頭の下げ方で、言葉の輪郭は分かった。
玄関で靴を脱ぐ。
見慣れない家の床は、いつもの部屋より少し硬く、足裏に返ってくる感触も違っていた。
案内されたリビングは明るかった。
窓際のレースカーテンが揺れて、床に薄い影を落としている。犬用の小さなベッドと水皿が置かれているのに、そこに子犬の姿はない。
友達が少し困ったように笑い、ソファの方へ視線を向けた。
律も、その先を見る。
ソファの下の影の中に、淡い色があった。
アプリコットに近いクリーム色の毛が、クッションの隙間で小さく丸まっている。子犬は体を隠しているのに、目だけはこちらへ向けていた。
律はすぐに近づかなかった。
立ったまま見下ろすと、それだけで遠くなる気がしたから、ゆっくり膝を折る。
床に近づくと、見えるものが変わった。
ソファの脚。影の濃さ。小さな前足。緊張したまま動かない鼻先。
創矢は少し後ろにいた。
律の横に入り込まず、けれど離れすぎもしない距離で、静かにしゃがむ。
「大丈夫」
その口元が、そう動いた。
誰に向けた言葉なのかは、たぶん半分ずつだった。
律は手を伸ばした。
けれど、届かない場所で止める。指先を床に置き、ただそこに残した。
呼ばない。
触らない。
待つ。
子犬は動かないまま、律の手を見ていた。
部屋の中で誰かが小さく息をのむ気配があったけれど、律はそちらを見なかった。
時間が少しだけ伸びていく。
長いようで、ほんの数分だったのかもしれない。
やがて、影の中から小さな前足が一歩出た。
すぐに止まる。
また見上げる。
律は動かない。
手のひらを上に向けることもしなかった。ただ指先を床に置いて、来ても来なくてもいい場所を残す。
もう一歩。
子犬の鼻先が、律の指に触れた。
あたたかくて、すぐに離れてしまいそうなくらい軽い。
律は動かなかった。
指先に触れたままの小さな体は、まだ震えている。
けれど、逃げない。
甘えるわけでも、安心しきっているわけでもない。
ただ、そこにいることを選んでいるみたいだった。
律はゆっくり顔を上げた。
創矢が、すぐ後ろで見ていた。
何かを尋ねる前に、律の目が創矢を捕まえる。
言葉にはならない。
スマホを出すことも、少し違う気がした。
それでも、伝わってほしかった。
創矢は律の目を見て、それからソファの陰にいる子犬へ視線を落とした。
ほんの少しだけ、口元がゆるむ。
「……連れて帰ろうか」
律は、小さくうなずいた。
その返事に合わせるように、指先のそばで子犬の鼻がもう一度だけ動いた。
三、開いた扉の前で

帰ってきた部屋は、いつもより少し広く感じた。
クレートを置いた場所だけ、空気が違う。
さっきまで外の揺れを抱えていた小さな箱が、ラグの上で静かに影を落としている。
扉は開いていた。
けれど、その奥にいる子犬は、まだ新しい部屋の光を測っているみたいに動かない。
丸い目だけが、クレートの外へ少しずつ出てきて、床の色や、カーテンの揺れや、離れた場所にいる創矢の手元を確かめていた。
律は、その視線の邪魔にならない場所に腰を下ろす。
早く出てきてほしいとは思わなかった。
出てこないままでも、ここにいることは変わらない。
クレートの中の小さな体が、タオルの端に鼻先を寄せる。
その動きだけで、部屋の中にひとつ、知らない呼吸が増えた気がした。
夕方の光が、部屋の端に薄く残っている。
カーテンの向こうで車が通ったのか、床にかすかな揺れが伝わった。補聴器越しには、形のない気配だけがぼんやり混ざる。
創矢は少し離れた場所で、犬用のベッドを整えていた。
丸い縁を軽く押さえ、クレートの正面をふさがない位置へそっとずらす。そこに置かれた小さな寝床は、まだ誰の形も覚えていない。
「ここでいいかな」
律が見上げると、創矢はベッドの方を軽く指した。
唇の動きを追ってから、律は小さくうなずく。
それから、もう一度クレートの中へ視線を戻した。
仮の名前は、ちぃちゃん。
美琴からそう聞いていた。呼ばれ慣れているなら、そのままでもいいのかもしれない。
けれど、これからこの部屋で一緒に暮らすなら。
ここで眠って、少しずつ床を歩いて、いつか律の足元まで来るようになるなら。
律はスマホを手に取った。
音は、いつも遠い。
はっきり届く日ばかりではない。人の声も、街のざわめきも、全部が輪郭を持っているわけじゃない。
それでも、気配は分かる。
床を伝う小さな振動。
服の布が動く気配。
隣に誰かが座ったときの空気。
名前を呼ばれたとき、声そのものではなくても、こちらへ向けられたものがあると分かる瞬間。
律は画面に、ゆっくり文字を打った。
『音羽』
創矢が手を止める。
律のスマホを見て、口元を少しだけ緩めた。
「おとは?」
律はうなずいた。
声に出して呼ぶのは、まだ先でいい。
今は文字だけでいい。画面の中に置かれたその名前を、創矢と律が同じように見ている。
それだけで、部屋のどこかに新しい場所ができた気がした。
クレートの中で、小さな耳がわずかに動く。
偶然かもしれない。
けれど律は、ほんの少し笑った。
創矢はその顔を見て、それ以上何も言わなかった。
ただ、開いた扉の前に空けておいた床の余白を、そのままにしておいた。
四、膝のそば

夜になって、部屋の明かりは少し落とされていた。
ローテーブルの上には、創矢が淹れた温かい飲み物がふたつ並んでいる。
湯気はもう薄れて、カップの縁にだけ白く残っていた。
音羽は、犬用ベッドの端にいた。
入ってはいる。けれど、体の半分は、いつでも逃げられるように外へ向いている。
律は床に座ったまま、スマホを伏せていた。
何かを打つ必要はなかった。
呼ぶ必要も、急ぐ必要もない。
創矢が隣に腰を下ろす。
肩が触れるほど近くはない。
でも、少し手を動かせば袖に届く距離だった。
「少し慣れたかな」
口元の形を追って、律は小さくうなずく。
音羽の目が、こちらを見ていた。
昼間より長く、さっきよりも少しまっすぐに。
最初に動いたのは、前足だった。
ベッドの縁から、ふわりと小さな足が下りる。
そこで一度止まり、音羽は律の顔を見上げた。
律は動かなかった。
膝の上で、指先だけが少し丸まる。
もう一歩。
それから、また止まる。
創矢の視線が音羽へ向いているのが、横顔で分かった。
けれど、手は出さない。
声もかけない。
部屋の真ん中に、小さな道だけが残っている。
音羽はその道を、少しずつ進んできた。
律の膝のそばで、鼻先が服の裾に触れる。
くすぐったいほど軽い感触だった。
律はゆっくり手を下ろし、逃げ道をふさがない角度で止める。
音羽は逃げなかった。
小さな頭に、指先が触れる。
毛はやわらかく、思っていたよりも細い。
手のひらの下で、かすかな震えが続いていた。
それでも音羽は、そこにいることを選んでいる。
隣で創矢が、ほんの少し息を吐いた。
律が顔を向けると、創矢の口元がゆっくり動く。
「よかったな」
全部は聞こえなくても、分かった。
律は目を伏せて、小さく笑う。
返事の代わりに、創矢の袖をつまんだ。
膝のそばで、音羽の体温が少しだけ近くなる。
部屋の隅には開いたままのクレートがあり、ローテーブルの上には伏せたスマホがある。
画面を開かなくても、もう名前はそこにあった。
音羽。
小さな足音は、律の膝のそばで止まっていた。

あとがき
小さなチワプーの音羽が、律と創矢の部屋に来るまでを書きました。
音羽は、すぐに誰かの腕の中へ飛び込める子ではありません。
でも、怖がっているだけで、近づきたい気持ちがないわけでもない。
隠れて、見て、迷って、それでも少しずつそばへ来る。
その小さな歩幅を、律がちゃんと待てるところを書きたかったです。
律も、創矢に決めてもらうのではなく、自分で見て、自分で選びます。
守られるだけではなく、選ぶ。
その一歩が、このお話の大切なところでした。
Thank you for reading.
Otoha is a tiny and timid puppy, but she has taken her first step into Soya and Ritsu’s quiet home.
This story is not only about being protected, but also about choosing where to belong.
もし作品を気に入っていただけましたら、チップで応援していただけると嬉しいです。
今後の小説・イラスト・楽曲・動画制作の励みになります。
If you enjoyed this story, your tip support would mean a lot to me.
It helps me continue creating novels, illustrations, music, and videos.
オープンチャット
Clover Room☘️|小さな物語の部屋
👉こちら
Tomo E|Clover Room
『サイレント・マイ・ヒーロー』
瀬尾 律/橘 創矢
オリジナル創作BL
いいなと思ったら応援しよう!
作品を読んでくださってありがとうございます。
応援していただけると、これからの創作の励みになります。
そっと支えていただけたら嬉しいです。