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濡れた髪に触れるまで

雨の向こうで、君を待つ

あと五分の帰り道

店を出たときには、まだ傘のことなど考えていなかった。

雲は広がっていたものの、その向こうには夕方の明るさが残っている。家までは歩いて五分ほど。買い物袋も軽く、急ぐ理由もなかった。

交差点を渡り終える前に、腕へ冷たいものが落ちた。

ひと粒、またひと粒。

律が空を見上げたときには、灰色の雲から太い雨が一斉に落ちてきていた。

歩道の色がみるみる濃くなり、跳ね返った雫がパンツの裾へまとわりつく。信号の向こうに見えていた建物も、白く煙る雨の奥へ薄れていった。

近くの軒下へ滑り込むころには、前髪の先から水が落ちていた。

肩に掛けたバッグを抱え直し、律は通りの先を見る。

角を曲がれば、住んでいるマンションがある。

ほんの五分。

けれど、雨脚は強くなるばかりで、屋根を打つ振動が足元まで細かく伝わってくる。

律は濡れた指を服で拭い、耳の後ろへ触れた。

淡い青の本体を片方ずつ外す。

律は濡れた指を服で拭い、耳の後ろへ触れた。

淡い青の補聴器を片方ずつ外す。雨粒が触れていないことを確かめてからケースへ収め、蓋を閉じた。

バッグの内ポケットへ補聴器のケースをしまい、その隣へスマートフォンも入れる。ファスナーを最後まで引くと、律は白く煙る道路へ目を向けた。

雨は、すぐに弱まりそうになかった。

ここで待つより、走ったほうが早い。

バッグを胸へ抱え、軒先から一歩踏み出す。

冷たい雨が頬へ叩きつけた。

律は一瞬だけ目を閉じ、それから見慣れた角へ向かって走り出した。

家まで、あと少し。それでも律は、雨の中へ踏み出した。

雨の中の「ただいま」

玄関のドアが開いた。

リビングにいた創矢が顔を上げる。窓の外を白く曇らせる雨を見てから、何度目か分からないほどスマートフォンを確かめていたところだった。

廊下の先に現れた律を見て、持っていた端末をテーブルへ置く。

濡れた前髪が額や頬へ貼りつき、シャツは色が変わるほど雨を吸っていた。袖口から落ちた雫が、玄関の床へ次々と丸い跡をつくっていく。

バッグだけは両腕でしっかりと抱えられていた。

「律」

創矢が名前を呼んでも、反応はない。

代わりに、律は創矢の顔を見上げた。濡れた髪の間からのぞく両耳には、淡い青の補聴器がない。

創矢はすぐに律の正面へ回った。

玄関脇に掛けてあった大きなタオルを取り、冷えた肩を包むように掛ける。頬へ貼りついた髪を払おうと伸ばした手は、触れる直前で止まった。

今は、それより先にすることがある。

浴室の方を手で示すと、律の視線が創矢の口元へ移った。

「先にお風呂に入っておいで」

いつもより少しだけゆっくり話す。

律は唇の動きと、浴室へ向けられた手を交互に見たあと、素直にうなずいた。

濡れた靴を脱ぎ、バッグを持ったまま廊下へ上がる。けれど、数歩進んだところで立ち止まり、振り返った。

創矢はまだ玄関に立っていた。

何か言いたそうな律の表情に、創矢は小さく首を横へ振る。

「大丈夫。あとで」

短くそう伝え、もう一度浴室を示した。

律はタオルの端を握り直す。

今度は立ち止まらず、廊下の奥へ消えていった。

浴室のドアが閉まるのを見届けてから、創矢は玄関へ視線を戻した。

床に続く濡れた足跡を拭きながら、テーブルに置いたままのスマートフォンを見る。

送った二つのメッセージには、まだ既読がついていなかった。

冷えた髪を包むように、 創矢の手がゆっくりと雨を拭っていく。

淡い青が戻る場所

浴室のドアが開いたのは、それからしばらく経ってからだった。

柔らかな部屋着に着替えた律が、首へタオルを掛けてリビングへ戻ってくる。

濡れていた頬には色が戻り、湯気を含んだ髪が額の上で少し跳ねていた。

テーブルには、温かい飲み物が二つ置かれている。

律はソファへ座る前にバッグを開き、内ポケットから補聴器ケースを取り出した。

蓋を開ける。

中に並んだ淡い青を見て、律の肩からわずかに力が抜けた。

創矢が隣へ座り、手のひらを上へ向ける。

律はその意味を受け取り、ケースを手渡した。

補聴器に濡れた様子がないことを確かめたあと、創矢は片方を持ち上げる。

律は自分で髪を耳へ掛け、少しだけ顔を傾けた。

淡い青の本体が耳の後ろへ収まり、透明なチューブに沿ってイヤモールドが耳の中へ入る。

反対側も同じようにつけ終えるまで、律はじっとしていた。

最後に位置を確かめる指先が、耳の後ろへそっと触れる。

部屋の気配が、少しずつ律の周りへ戻ってくる。

エアコンの低い揺れ。

テーブルに置かれたマグカップのわずかな振動。

そして、すぐ隣にいる創矢の声。

「大丈夫?」

律は補聴器へ軽く触れ、うなずいた。

創矢の指が、まだ乾ききっていない髪を耳の後ろへよける。

「心配した」

律の視線が、テーブルの端に置いたスマートフォンへ移った。

画面を開くと、創矢からのメッセージが二つ並んでいる。

『雨、大丈夫?』

『迎えに行こうか?』

律の指が、画面の上で止まる。

「家まで近くても、次からは連絡して」

創矢の声が、補聴器越しに静かに届いた。

「近くても、迎えに行くから」

律はスマートフォンの画面を消し、創矢の袖をつまむ。

その指先へ、創矢の手が重なった。

少しして、律は創矢の肩へ寄る。

まだ乾ききっていない髪に、創矢の指が触れた。

今度は確かめるためではなく、乾かすようにゆっくりと撫でていく。

テーブルの上には、蓋の開いた補聴器ケース。

その隣で、二つのマグカップから細い湯気が上がっていた。

耳元に触れる指先。 その近さに、創矢の気配がそっと戻ってくる。

あとがき

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

家までは、ほんの少しの距離。

それでも創矢にとっては、迎えに行きたいと思うには十分でした。

雨の日の二人を、楽しんでいただけたら嬉しいです。

Thank you for reading! ❤️

I hope you enjoyed this quiet rainy-day moment with Soya and Ritsu.

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Clover Room🍀


Tomo E|Clover Room
『サイレント・マイ・ヒーロー』
瀬尾 律/橘 創矢
オリジナル創作BL

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