うたた寝の境界線|サイレント・マイ・ヒーロー
眠っていた時間より、目覚めたあとの沈黙のほうが甘かった。
夕方になる少し前のリビングは、いつもより静かだった。
創矢は窓際に置いた小さなデスクで、ノートパソコンを開いていた。
画面に映る図面を見ながら、時々ペンを走らせている。
律はその少し後ろ、ソファの端に座って本を読んでいた。
淡い青の補聴器は、今日も耳元にある。
けれど、そこから入ってくるものは、はっきりした音ではない。
机の上に紙が触れる気配。
創矢が椅子に座り直した時の、床を伝うわずかな揺れ。
エアコンの空気がカーテンを撫でる、薄い動き。
声としては聞こえない。
でも、創矢がそこにいることは分かる。
それだけで、律は少し落ち着いた。
ページをめくる。
文字を追う。
けれど、同じ行を何度も目でなぞってしまう。
昨日から、少し疲れていた。
大学のことも、家のことも、創矢の前では平気な顔をしていたけれど、身体は正直だった。
ふ、と意識が揺れる。
本を持つ指先から力が抜けた。
まぶたが落ちる。
ソファの背に肩を預けたまま、律はゆっくり眠りに沈んでいった。
創矢がそれに気づいたのは、ノートパソコンを閉じた時だった。
振り返ると、律が本を開いたまま眠っている。
首が少し横に傾いていて、膝の上の本は今にも落ちそうだった。
創矢は立ち上がった。
音を立てないように、椅子を戻す。
本をそっと受け取って、ページの間に近くのメモを挟む。
律のまつげが、少しだけ揺れた。
創矢は動きを止める。
起こしたくなかった。
棚から厚手のブランケットを取り、律の肩に掛ける。
冷えないように、腕のあたりまで包む。
それから、少し離れた大きめのソファに座り直した。
デスクの明かりは消して、手元の小さなランプだけを点ける。
リビングは、ゆっくり夕方から夜へ変わっていった。

目が覚めたら
目を開けた時、最初に感じたのは、肩まわりのあたたかさだった。
律はしばらく動かず、ぼんやりと視線を落とす。
自分の身体には、厚手のブランケットが掛けられていた。
創矢の部屋に置いてある、いつものものだ。
律は指先で布の端に触れた。
まだ寝起きで力の入らない手に、やわらかな感触だけが返ってくる。
いつの間に。
そう思いながら、ゆっくり顔を上げた。
部屋はもう薄暗い。
窓の外の光はほとんど消え、リビングには小さなランプだけが灯っている。
創矢は、大きめのソファの端に座って本を読んでいた。
さっきまで開かれていたノートパソコンは閉じられ、デスクの明かりも消えている。
律はブランケットを少しだけ握った。
自分が眠っている間に、創矢が仕事を切り上げたことだけは分かった。
それ以上は考えず、もう一度、ランプの光の中にいる創矢へ視線を戻した。
胸の奥が、少しだけくすぐったくなる。
律が身体を起こすと、ブランケットが膝の上で揺れた。
それは本当に小さな動きだった。
それでも創矢は気づいた。
本から目を上げて、ゆっくりこちらを見る。
急に話しかけることはしない。
律が口元を読めるように、少しだけ身体の向きを変える。
創矢の唇が、ゆっくり動いた。
『起きた?』
声は、ほとんど分からない。
けれど、口の形は読めた。
律は小さくうなずく。
創矢は笑いすぎない。
心配しすぎた顔もしない。
ただ、本を閉じて、隣の空いている場所を指先で軽く叩いた。
とん、とん。
音は聞こえない。
でも、動きは見える。
おいで。
そう言われた気がした。
律の指先が、ブランケットの端を握る。
行ってもいいのか。
隣に座ってもいいのか。
創矢は答えを急がせなかった。
ただ待っている。
昔からそうだった。
律が言葉を探している時も。
スマホに打つ文字を迷っている時も。
声を出せなくなった時も。
創矢は、律が立ち上がるのを見ると、膝の上の本を端へ寄せた。
律はブランケットを肩に掛けたまま、創矢の隣へ腰を下ろす。
ソファが少し沈み、二人の肩が軽く触れた。
近い。
さっきまで部屋の向こう側にいた創矢が、今はすぐ隣にいる。
創矢が律の方へ顔を向け、口元をゆっくり動かした。
「よく眠れた?」
律は小さくうなずく。
それから肩に掛かったブランケットを指でつまみ、少し迷ったあと、短く声を出した。
「……あ、りがと」
創矢の目元が、わずかにやわらぐ。
「どういたしまして」
律はその口元を読み、少しだけ視線を落とした。
隣に座っただけなのに、肩が触れるたびに意識してしまう。
落ち着かない。
けれど、離れたいわけではなかった。
律は身体を少しだけ創矢の方へ寄せる。
創矢は何も言わない。
律が寄った分だけ、肩をずらして場所を空けてくれる。
律はそのまま、創矢のシャツの袖口を指先でつまんだ。
創矢の視線が手元へ落ちる。
「どうした?」
律は首を横に振った。
何でもない、と伝えようとして、やめる。
代わりに空いた方の手を動かし、創矢が読みやすいように口元もゆっくり動かした。
『ちょっと、くっついてたい』
創矢は一瞬だけ目を細めた。
それから、律の背中側へ腕を回せるように、片腕を静かに持ち上げる。
律はそれを見て、迷わず創矢の胸元へ身体を寄せた。
まだ、このまま
創矢の腕が、律の背中へゆっくり回る。
律はそのまま、創矢の胸元へ身体を寄せた。
シャツ越しのぬくもりと、背中に添えられた手。
創矢が息をするたび、触れた肩がわずかに動く。
律は袖口をつまんだまま、目を伏せた。
近い。
小さい頃から何度も隣にいたはずなのに、今はそれだけで落ち着かなくなる。
創矢の手が、律の背中で一度止まった。
律は離れず、もう少しだけ身体を寄せる。
それに応えるように、背中へ回った腕に少しだけ力がこもった。
律はゆっくり顔を上げた。
ランプの明かりの中で、創矢と目が合う。
創矢の顔が近づいてきても、律は目をそらさなかった。
少しだけ息を止め、そのまま目を閉じる。
触れた唇は、すぐに離れた。
短いキスだった。
それでも律は、しばらく目を開けられなかった。
背中には、変わらず創矢の手がある。
ゆっくり目を開けると、創矢の顔はまだすぐ近くにあった。
律は何かを伝えようとして、けれど声にはしなかった。
代わりに、つまんでいた袖口へもう一度だけ力を込める。
創矢の目元が、少しやわらいだ。
律はそのまま、創矢の胸元へ額を寄せた。
創矢は何も聞かず、ずれかけていたブランケットを律の肩へ掛け直す。
それから、背中をゆっくり一度撫でた。
「まだ眠い?」
律は口元を読んで、首を横に振る。
眠いわけではない。
ただ、まだ離れたくなかった。
律が創矢の胸元へ頬を寄せ直すと、創矢は小さく笑い、そのまま律を腕の中へ戻した。
手元のランプだけが灯るリビング。
テーブルの上には、読みかけの本と、そこから大きくはみ出した白いメモ。
律の肩にはブランケット。
指先には、創矢のシャツの袖。
律はその袖を離さないまま、静かに目を閉じた。

あとがき
今回のお話は、何か大きな出来事が起こる回ではありません。
同じ部屋で、それぞれの時間を過ごして。
気づけば律が眠っていて。
創矢がブランケットを掛けて、目を覚ました律を隣へ呼ぶ。
ただそれだけの時間です。
でも、律にとっては、創矢の隣に自分から座ることも、袖をつまむことも、少しずつ距離を縮めていく大切な一歩なのだと思います。
幼い頃からずっと知っている相手だからこそ、近づくほど照れてしまうこともある。
言葉にしなくても分かってほしい気持ちと、それでも自分から伝えたい気持ちが、律の中にはいつも一緒にあります。
今回は、そんな律の小さな甘えと、それを急かさず受け止める創矢の時間を書きました。
大きすぎるしおりや、ずれかけたブランケットのような何気ないものも、二人の間にあるやさしさとして感じてもらえたら嬉しいです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
Clover Room🍀
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