ただいまを、君と
ふたりで迎える、帰省の夏

一、帰ってきた町
高速を降りてしばらくすると、窓の外に並ぶ建物の高さが少しずつ低くなり、見覚えのない店のあいだから、昔のまま残った屋根や塀が時折のぞいた。律は助手席の窓へ顔を向けたまま、そのひとつひとつを目で追っていた。
後部座席では、固定したドライブベッドの中で音羽が伏せている。長い移動に疲れたらしく、途中から体勢を変えることも少なくなっていた。
信号で車が止まったとき、色褪せた看板が視界の端をかすめる。
小さなパン屋だった。
外壁は塗り直されている。それでも、軒先の形と看板の文字には覚えがあった。航と何度も寄り、ショーケースの前で迷っているうちに兄が先に会計を済ませてしまって、慌てて残ったパンを選んだ日のことまで、店先の景色に重なってくる。
隣から視線を感じて顔を向けると、創矢は前を見たまま信号を待っていた。
青へ変わる少し前、口元が短く動く。
「まだあるな」
律は窓の向こうへ目を戻し、ゆっくりうなずいた。
車が進み出すにつれてパン屋は後ろへ遠ざかり、創矢もそれ以上は何も続けない。ただ次の交差点へ入る直前、一度だけこちらを見る。
その視線に、律も小さく目を細めた。
住宅街へ入ると、記憶より道幅が狭く感じられた。低い塀の向こうにあった大きな木はなくなり、空き地だった角には新しい家が建っているのに、曲がり角の並びや坂の傾きには、まだ昔の輪郭が残っている。
その先に小さな公園が見えた。
ブランコの色が変わっている。
創矢が横目でこちらを見た。
「覚えてる?」
すぐにうなずくと、そのまま車は次の角へ。
創矢はナビを見ない。
律も、この先をどちらへ曲がるのか知っている。
同じ町を離れて長い時間が経ったはずなのに、道順だけが二人の中に同じ形で残っていることが、少し可笑しかった。
瀬尾家が見えてくると、律の指先が膝の上でわずかに動いた。
門扉の前で車が止まり、エンジンの振動が消える。
正面には、見慣れた家。
けれど創矢の車の助手席から眺めると、昔とは少し違った景色にも見えた。
「降ろすよ」
律もシートベルトを外す。
外へ出た途端、夏の空気が肌へまとわりついた。車内の冷気に慣れた腕には、その熱さが余計にはっきり分かる。
創矢が荷室からバッグを取り出しているあいだに、律は後部座席へ回り、音羽を外へ。
地面へ降りた音羽はすぐには進まず、鼻先を小さく動かしながら周囲を確かめている。やがて律の足元へ寄り、そのまま一歩だけ前へ出た。
リードに伝わる、ほんのわずかな重み。
「緊張してるな」
顔を上げると、創矢も音羽を見ていた。
律が頭を軽く撫でているあいだに、バッグは門の内側へ置かれている。
そこから先には運ばれていない。
律がもう一度顔を上げると、創矢がこちらへ戻ってきた。
「じゃあ、俺も家戻る」
律はうなずいた。
分かっていたはずなのに、車へ戻ろうとする創矢の袖が近くを通った瞬間、指先が布へ触れ、そのままほんの少しだけつまむ。
振り返った創矢と目が合うと、律は指を離さないまま、小さく手を振った。
創矢の口元がやわらぐ。
「うん。またな」
指を離すと、創矢は音羽の頭をひと撫でして車へ戻っていった。
車体がわずかに揺れ、タイヤが動き出す。
律は門の前からその姿を追い、角の向こうへ消えるまで見送った。
足元でリードが軽く引かれる。
振り返れば、音羽はすでに家の方へ鼻先を向けている。
門扉へ手をかけたところで、玄関が開いた。
航だった。
律より先に足元へ目を落とし、音羽を見た瞬間だけ目を丸くする。そのあとすぐ、口元に笑みが広がった。
「来たな」
音羽は律の足へ寄ったまま、航をじっと見ている。
航もすぐには触れず、少し離れたところでしゃがんだ。
そのまま律へ顔を上げる。
「おかえり」
見慣れた口の動きに、律はゆっくりうなずいた。
航が手の甲を音羽へ向けると、しばらく迷っていた鼻先が少しずつ近づき、ようやく指先へ触れる。
「長かったな」
音羽のしっぽが一度だけ揺れた。
玄関へ入ると、冷房の風が足元を抜けていく。
廊下の奥から漂う炊いた米の匂いに、洗剤の残るタオルの匂い。床を踏んだときの感触も、記憶にあるものと少しずつ違っている。
それでも、知らない家にはなっていなかった。
居間の奥から母が出てくる。
律の顔へ向いた視線が、淡い青の補聴器を通り、腕のそばにいる音羽へ落ちた。
目元がゆるむ。
「おかえり」
律は母の口元を見た。
喉の奥がわずかに動いたものの、声にはせず、少しだけ深くうなずく。
足元へ寄ってきた音羽を抱き上げると、外の熱を残した毛が腕へ触れた。
母が音羽を覗き込み、航もその横から何かを話している。
律は二人の口元を順番に追いながら、腕の中の小さな背中を撫でた。
窓際には、午後の夏の光。
その中へ、久しぶりの家の時間がゆっくり重なっていった。

二、別々の時間、同じ町
翌日の昼、航と入った商店街には、真夏の光がアーケード越しに薄く落ちていた。店先ののれんが風を含むたび、床へ伸びた影もゆるやかに揺れ、その向こうを人の流れが途切れずに通り過ぎていく。
子どもの頃に覚えた店並びとは、ところどころ違っていた。文房具屋だった角には小さな雑貨店が入り、窓辺には淡い色の器やガラス小物。その先へ目を滑らせたところで、深い藍色ののれんが視界に残る。
のれんの向こうには、昔からあった甘味処が残っていた。
看板も入口も少し新しくなっているのに、そこだけは記憶の中から抜け落ちずに残っていたらしい。
足が自然にそちらへ向くと、航も隣で歩幅をゆるめた。
ショーケースの中には、水ようかん、わらび餅、水まんじゅう。冷えたガラスの内側には細かな水滴がつき、透明な器の縁へ白い光が細く反射している。
律は少し身を寄せ、淡く透ける水まんじゅうの奥に見えた札へ目を凝らした。
水ようかん。
見覚えがあるような気もするのに、味までは戻ってこない。
「どれ?」
航の口元を見て、ケースの奥へ指先を向ける。
視線がひとつ隣へずれたので、小さく首を振り、もう少し左を示した。
今度は同じ場所を見る。
「水ようかん?」
うなずくと、航の眉がわずかに上がった。
「昔もそれ食べてなかった?」
律は少し考えてから首を傾ける。
航は笑い、すぐに別の甘味へ目を移した。その横顔を見ながら、律もケースの中へ視線を戻す。
ガラスの表面には、買い物袋を下げた手や、薄い色のシャツ、子どもの帽子が次々に映り込んでは流れていった。その人影の間に、見慣れた濃い色が混じる。
最初は気づかなかった。
けれど、次に顔を上げたとき、少し離れたところで創矢がこちらを見ていた。
玲奈と美琴も一緒だった。
創矢の足がほんの少しだけゆるみ、それに気づいた玲奈が同じ方向へ顔を向ける。美琴もあとを追うように店先を見て、すぐに表情を明るくした。
「あ、いた」
小さく上がった手に、律も軽く手を返す。
その頃になって、航も三人へ気づいたらしい。
「そっちも来てたんだな」
創矢が玲奈たちへ一度目を向ける。
「二人が見たい店あるっていうから」
そのあとで視線が律へ戻り、ショーケースの中を一度見てから口元が動いた。
「何見てた?」
律は水ようかんの札へ指先を向ける。
「ああ」
そこへ美琴まで身を寄せてきた。
「水ようかん? いいな」
隣のメニューへ目を移しながら、
「かき氷もある」
と、今度は玲奈の方を見る。
玲奈も入口近くの品書きを眺めながら笑った。
「せっかくだし、入る?」
誰か一人が決めたというより、その言葉をきっかけに五人の足が自然と店の方へ向いた。
中へ入ると、外の熱を残していた腕へ冷たい空気が触れる。
窓際の席へ通され、律が端へ腰を下ろしたところで、すぐ隣から椅子を引く気配が伝わった。顔を向けるより先に、見慣れた肩が視界へ入る。
創矢だった。
向かいでは航がメニューを開き、美琴は玲奈へ何かを見せながら笑っている。
しばらくして、透明な器がいくつもテーブルへ運ばれてきた。
律の前には水ようかん。窓から差し込む光が表面へ細く映り、その隣には美琴のかき氷が高く盛られている。
スプーンを入れると、なめらかな表面が静かに崩れた。
ひと口分を口へ運ぶ。
冷たさのあとから甘さが広がり、ぼんやりしていた記憶の端に、昔の味がほんの少しだけ触れたような気がする。
そのとき、横から視線を感じた。
創矢がこちらを見ている。
「どう?」
律はすぐには返さず、もう一度だけスプーンを入れた。
二口目を飲み込んでから小さくうなずくと、創矢の目元がやわらいだ。
向かいでは、美琴のかき氷から氷がひと欠け落ち、それを見た玲奈が笑っている。航は窓の外へ目を向け、通りを行き交う人たちを眺めていた。
創矢の体は、律から口元の見える角度へ自然に向いている。
誰もそこには触れない。
律もその距離を確かめ直すことなく、また水ようかんへスプーンを入れた。
朝はそれぞれ別の家を出て、歩いてきた道も違う。それが今は同じテーブルを囲み、目の前には五人分の器が並んでいる。
窓越しの夏の光が少しずつ傾き、透明な縁だけを静かに明るくしていた。
店を出れば、帰る方向はまた別々になる。
人の流れに創矢たちの姿が混じり始めたところで、律は一度だけ振り返った。
向こうも同じようにこちらを見たのかまでは分からない。
それでも、姿が見えなくなるまで、その方向から目を離せなかった。

三、昔と違う隣り方
瀬尾家を出てしばらくすると、昼間の熱を残した住宅街へ少しやわらいだ風が通り始め、庭先の葉を揺らしながら、低い塀の上へ細かな影を落としていた。
音羽は律の少し前を歩いている。塀の根元へ鼻先を寄せたり、植木鉢のそばで足を止めたりしながら、気が済めばまた前へ進んでいく。
そのたびに、手の中のリードが張ったりゆるんだりを繰り返す。
知らない家が増えた。
古い塀がなくなった場所もあれば、空き地だった角には新しい家が建っている。それなのに次の角をどちらへ曲がればいいのかは、考えるより先に足が覚えていた。
少し先に見えたのは、緩やかな坂。
その傾きを目で追ううち、今よりずっと大きく見えていた頃の景色が重なってくる。
航のあとをついて歩いた帰り道。その向こうには、少し先を行く創矢の背中があった。
追いつこうとして歩幅を広げると、遠かったはずの距離がいつの間にか縮まる。人通りが増える場所では、前にいた背中がふと近くなり、振り返った顔がこちらを確かめる。
追いつけば、また前へ。
坂そのものより、そんな断片ばかりが先に浮かんだ。
隣へ視線を戻すと、創矢の歩幅もいつの間にかゆるくなっている。
音羽が立ち止まれば、その場で待つ。
律が坂の向こうを見ているあいだも、急かすことなく隣にいる。
顔を上げたところで、目が合った。
「覚えてる?」
ゆっくり動いた口元を見て、律はもう一度坂へ目をやる。
それから、少し笑うようにうなずいた。
創矢も口元をわずかに緩める。
「俺、ここもっと急だった気がする」
律は坂を見直し、それから創矢へ目を戻した。
同じことを思っていたらしい。
思わず笑うと、創矢もつられるように笑った。
「やっぱり?」
律はうなずく。
昔より短く見える坂を、今は同じ歩幅で上っていく。
坂を越えた先には、小さな公園が残っていた。
遊具の位置は少し変わり、砂場のそばには見覚えのないベンチ。それでも奥の大きな木は、昔見上げたときと似た形で枝を広げ、西日に透けた葉の隙間から細かな光を落としている。
音羽が入口の方へ寄っていった。
律もその先を眺める。
「寄る?」
すぐ隣で動いた創矢の口元を追い、公園の中へもう一度視線を戻した。
少し迷ってから、首を横へ振る。
創矢はそれ以上聞かず、音羽がいくつか匂いを確かめるのを待ってから、また律の隣へ並んだ。
公園を過ぎた先では、道幅が少し細くなる。
低い塀と庭木に挟まれた道を歩いていると、創矢の腕がさっきより近く感じられた。
歩調が重なるたび、揺れる手の距離まで狭くなる。
指先が一度だけかすめた。
離れたあとも、創矢は前を向いたままだった。
律は音羽のリードを持っていない方の手を、ほんの少しだけ隣へ寄せる。
もう一度、触れる。
今度は、離れない。
歩く揺れで位置がずれても、次の一歩でまた指先が重なり、そのうち創矢の指が律の手をそっと受け止めた。
強く握り込むわけではなく、引き寄せることもない。
ただ、重なったところから伝わってくる熱が、手のひらへゆっくり広がっていく。
律が横を見ると、創矢はまだ前を向いていた。
けれど、その口元にはわずかな笑みがある。
律も何も言わず、つながった手をそのままにして前へ向き直った。
少し先を歩いていた音羽が、ふと振り返る。
二人が来ているのを確かめるように少しだけ足を止め、それからまた夕日の方へ歩き出した。
その小さな背中の向こうには、昔から知っている曲がり角。
並んだ二人の影が道の上で重なりながら、その先へ長く伸びていった。

四、ちゃんと伝える夜
橘家の居間には、障子越しの午後の光が淡く残っていた。テーブルの上では冷たいお茶の氷がゆっくり傾き、その向こうに創矢の両親。母の隣には玲奈、美琴は少し離れたソファに座っている。
律が創矢の隣へ腰を下ろすと、音羽はその足元へ寄り、しばらく辺りを見回したあとで丸くなった。
隣では、創矢が膝の上で指を組み直している。
その横顔を追っていると、ふと視線がこちらへ向いた。
ほんのわずかな間だけ目が重なり、律は小さくうなずく。
創矢もそれを見てから、両親へ向き直った。
「ちゃんと話しておきたいことがある」
母の手が、カップのそばで止まる。
「俺と律は、一緒に暮らしているだけじゃなくて」
そこで一度、言葉が切れた。
「付き合っています」
父の目が創矢から律へ移り、母はゆっくりまばたきをする。
玲奈はほとんど表情を変えず、その隣で美琴の指だけが膝の上でもぞもぞと動いていた。
最初に口元をゆるめたのは母だった。
「……そうだったのね」
創矢の肩から、わずかに力が抜ける。
「驚いた?」
「それは、少しね」
母は律へ目を向け、それからまた創矢へ戻した。
「でも、あなた、律くんの予定だけは昔からよく覚えてたでしょう」
玲奈が伏せた目のまま笑う。
「母さん」
「だって本当じゃない」
美琴の肩まで揺れた。
創矢が何も返さず眉を寄せていると、それまで黙っていた父の口元が動く。
「二人で決めたことか」
その言葉を読み終えるより先に、律は父を見てうなずいた。
しばらく視線が重なったあと、父も一度だけうなずく。
「分かった」
母も律へ向き直り、やわらかく笑った。
「また今までみたいに来てね」
律はその口元を追ってから、もう一度うなずく。
足元では、音羽が創矢の靴へ鼻先を寄せていた。
それを見た美琴がとうとう笑い出す。
「音羽が一番いつも通り」
「美琴」
玲奈に名前を呼ばれても、今度は母まで笑っていた。
さっきまでテーブルの上へ差していた午後の光は、いつの間にか少し低い位置へ移っていた。
夜、瀬尾家のリビングには夕食の余韻が残っていた。片づけたあとのテーブルには麦茶のグラスが置かれ、向かいに父と母、その少し横には航。
律の隣へ創矢が腰を下ろすと、音羽は二人の足元を一度まわり、律のそばへ体を寄せた。
創矢が口を開く。
「前から、伝えておきたいと思っていたことがあります」
母の視線が創矢へ向き、律もその口元を追った。
「律とは、同居人として暮らしているわけじゃありません」
そこで創矢がこちらを見る。
すぐに続きを言わず、律の目が返るまで待つ。
律は膝の上に置いていたスマホへ指を伸ばした。
打ったのは、短い一文だけだった。
『俺も、創矢と一緒にいたくて決めた』
画面を向けると、母が少し身を寄せ、父もその文字を追う。
律はスマホを下ろさないまま、父の顔を見た。
その隣で、創矢の口元がもう一度動く。
「恋人として、一緒にいます」
母の指先が、膝の上でそっと重なった。
「……そうなの」
視線がもう一度スマホの画面へ落ちる。
その横で、航の口元がわずかに緩んだ。
「やっと言ったんだ」
母が振り返る。
「知ってたの?」
「まあ」
「いつから?」
航は少し考えてから、創矢へ目を向けた。
「いつっていうより、だいぶ前から分かりやすかったし」
創矢の眉間に小さな皺が寄る。
「航」
「ほら、それ」
航が笑うと、母の口元にも笑みが混じった。
父はしばらく三人を眺めてから、創矢へ向き直る。
「これからも、一緒に暮らすんだな」
「はい」
今度は律へ。
「律も?」
律は迷わずうなずいた。
父の手がテーブルのグラスへ伸び、少しだけ端へ寄せる。
「なら、分かった」
母ももう一度律を見る。
「ちゃんと自分で決めたのね」
うなずくと、その視線が創矢へ移った。
「これからもよろしくね」
創矢が頭を下げる。
「はい」
そのあと、母はテーブルのグラスへ目をやった。
「お茶、足そうか」
航の足元には、いつの間にか音羽。指先へ顎を預け、そのまま撫でられている。
父もテーブルの端に置かれたリモコンへ手を伸ばした。
律はスマホの画面を消す。
膝のすぐ横には、創矢の手。
顔を上げると、創矢もこちらを見ていた。
律から指先を寄せる。
テーブルの陰で触れた手が、そのまま静かに重なった。
誰にも見えない場所で、その熱だけがしばらく残っていた。

五、ただいまを、君と
帰る朝、玄関には来たときより少しだけ荷物が増えていた。母が持たせた容器に父からの野菜、橘家でもらった菓子箱まで加わって、数日前にはなかった袋が足元に並んでいる。
門の向こうで母が手を振り、父の口元が「また来い」と動く。その隣では、航が音羽へ笑いかけながら、最後までしゃがんだまま手を振っていた。
律も一度だけ振り返る。
見慣れた門と、その向こうに並ぶ家族の姿を目に残してから、ゆっくり前へ向いた。
橘家へ寄ると、玲奈と美琴も玄関先まで出てきていた。美琴は名残惜しそうに音羽へスマホを向け、玲奈は創矢に何かを言いながら笑っている。その後ろでは父が片手を上げ、母も穏やかな顔で二人を見送っていた。
律が軽く頭を下げると、母の唇がゆっくり動く。
「また来てね」
律はその口元を見て、うなずいた。
創矢も母へ短く返してから、車の方へ視線を向ける。帰り支度の空気が少しずつ動き出す中でも、美琴だけはまだ音羽の写真を撮っていて、玲奈に肩を軽く叩かれてようやくスマホを下ろした。
その様子に、律の口元もわずかにゆるむ。
車が町を離れていくにつれ、窓の外の景色は少しずつ変わっていった。
昨日歩いた坂も、小さな公園も、見覚えのある屋根の列も、振り返らなくても分かる速さで遠ざかっていく。
律は窓の外へ視線を置いたまま、その一つひとつを追った。
信号で車が止まる。
隣から視線を感じて顔を向けると、創矢と目が合った。
「眠くない?」
律は首を横へ振る。
創矢の口元が少しだけ笑う。
「そっか」
それだけ言って、また前へ向いた。
律も窓の外へ視線を戻す。
見慣れた町並みはもう少なくなっていたけれど、さっきまでそこにいた家族の顔は、まだ近くに残っているように思えた。
車はそのまま、今暮らしている町へ向かって進んでいった。
夜、部屋へ戻ると、先に入った音羽が廊下の奥へ駆けていった。
途中で一度だけ振り返り、そのまま見慣れたリビングの方へ。
律は玄関の先を眺める。
廊下の向こうには、出かける前と同じ灯り。いつものソファも、ダイニングも、そのままの位置にある。
数日しか離れていないはずなのに、そこにあるものをひとつずつ目で確かめてしまう。
隣で創矢の口元が動いた。
「疲れた?」
律は首を横へ振る。
すぐ近くにあった袖へ指先を触れさせると、創矢はそのまま足を止めた。
「ん?」
問いかける口元を見ても、律はすぐには離さない。
創矢も続きを急がず、そのまま待っている。
しばらくして、律が顔を上げる。
目が合った。
一度だけ息を整えてから、唇を開く。
「……た、だいま」
声にしたあと、喉の奥にかすかな震えが残った。
創矢の目元がゆっくりやわらぐ。
「おかえり」
その口元を見たまま、律の指先から少しずつ力が抜けていった。
すると廊下の奥から音羽が戻ってきて、二人の少し手前で立ち止まる。
創矢がそちらへ目を向けて笑った。
「待ってるな」
律も音羽を見る。
しっぽが一度だけ揺れた。
律が一歩進むと、創矢もすぐ隣へ並ぶ。
玄関には、まだ片づけていない帰省の荷物。その向こうには、いつもの夜の灯り。
二人の足元を音羽がすり抜け、三つの影がゆっくりと部屋の奥へ伸びていった。
あとがき
最後まで読んでくださりありがとうございました。
今回は、お盆の帰省の中で、懐かしい町に戻ることと、今の居場所へ帰ってくることを重ねて書いてみました。
昔から知っている道を、今は恋人として並んで歩くこと。
家族にきちんと伝えたあとでも、日常の空気は大きく変わらないこと。
そんな静かな変化が、二人らしく残っていたら嬉しいです。
Thank you for reading! ❤️
I hope you enjoyed this quiet summer homecoming with Soya and Ritsu.
Your support helps me continue creating more stories and illustrations. ✨
ここまで読んでくださりありがとうございます!匿名や絵文字(ハートだけなど)での感想も大歓迎です。一言でもいただけると、次の執筆の励みになります…!✨
『サイレント・マイ・ヒーロー』
瀬尾 律/橘 創矢/音羽
瀬尾 航/橘 玲奈/橘 美琴
オリジナル創作BL
Tomo E|Clover Room🍀
オープンチャット
Clover Room☘️|小さな物語の部屋
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