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それぞれの一日

何もない日を、君と。

一、朝の支度

掛け布団の上を、カーテンの隙間から入り込んだ光がゆっくり横切っていた。

律が目を開けると、隣の枕には浅いくぼみだけが残っている。手を伸ばしてシーツへ触れれば、指先にはまだ温かさが返ってきた。

視線をベッドの端へ移す。

創矢は腰を掛けたまま、腕時計を手首へ巻いていた。留め具を確かめたところで律の視線に気づき、朝の光を背にした顔がこちらへ向いた。

「おはよう」

補聴器を外した耳には届かなくても、毎朝最初に見る口の形なら分かる。

律は返事の代わりに、掛け布団を鼻先まで引き上げた。

創矢の目元が少し緩む。起きるよう急かすことも、布団を剥がすこともなく、伸びてきた手が布越しの肩へ一度だけ触れた。

その重みが離れ、マットレスがわずかに揺れる。

創矢が寝室を出たあと、律はもう一度まぶたを閉じた。けれど眠りへ戻るには、窓辺から広がる光が近すぎる。

鼻先まで引き上げていた布団を下ろし、創矢が使っていた枕へ手を置く。残っていた温度は、触れているあいだにも少しずつ薄れていった。

あと数分もすれば消えてしまう。

律は指先を離し、ゆっくり体を起こした。

洗面所の鏡に、眠気の抜けきらない顔が映る。冷たい水で目元を濡らし、タオルで拭ったあと、ケースから淡い青の補聴器を取り出した。

耳の後ろへ本体を掛け、透明なチューブの先を指で確かめる。イヤモールドを両耳へ収めるにつれ、水道から落ちる細い音が戻り、廊下の奥では食器が触れ合う気配がかすかに重なった。

床からは、音羽の小さな足取りも伝わってくる。

リビングへ出ると、その気配の主が律の足元まで駆けてきた。

音羽は目の前で急に止まり、少しだけ首を傾げる。律がしゃがんで手のひらを差し出すと、鼻先で確かめてから、淡い毛の体をそっと寄せてきた。

背中を撫でながら顔を上げると、その向こうにキッチンへ立つ創矢が見える。

白いシャツの袖口はまだ開いたままで、折り返された布が手首の近くで揺れていた。仕事へ向かう服なのに、ジャケットを羽織っていない背中には、まだ家の中のやわらかさが残っている。

創矢が振り返った。

「眠れた?」

律は口元を追い、小さくうなずく。

ダイニングテーブルには、焼いたパンと卵、それから二つのカップが並んでいた。創矢の前にはコーヒーがあり、律の席には湯気の穏やかなミルクティーが置かれている。

椅子へ向かいかけた律の視線が、開いたままの袖口へ戻った。

創矢のそばまで寄り、垂れている布の端へ指を触れる。

その動きに気づいた創矢が、自分の手首を見下ろした。

「ああ、忘れてた」

ボタンへ伸びかけた指が途中で止まり、代わりに腕が律の前へ少し差し出される。

律は小さなボタンをつまんだ。

穴へ通そうとすると、布がわずかに指先から逃げる。位置を合わせ直し、爪の先で押し込んでも、創矢の腕は動かない。律が通し終えるまで、同じ高さで静かに待っている。

片方を留め終えると、今度は反対側の袖が差し出された。

律は創矢の顔を一度見上げる。

目元に浮かんだ笑いを確かめてから、もう一つのボタンへ指を掛けた。

二つ目を留め終えたところで、髪の上に手のひらが重なる。大きく撫でられることはなく、一度だけ置かれた温度が、指を離したあとの袖口より長く残った。

律は何も言わず、先に席へ座った。

朝食を食べるあいだ、創矢の視線は何度か腕時計へ向かう。パンを口へ運びながら、律も窓の外へ目をやった。

夏の光は、朝とは思えないほど強い。薄いカーテンを通り抜けた白さが、テーブルの端まで伸びている。

創矢が食べ終えて席を立つと、さっきまで向かい側にあった体温が離れ、椅子の脚から軽い振動が届いた。

律が最後のミルクティーを飲み終える頃には、食器を片づけた創矢の姿が寝室の方へ消えている。

戻ってきたとき、その肩にはチャコールのジャケットが掛かっていた。

同じ白いシャツを着ているはずなのに、律が留めた袖口も、バッグを持つ手も、もう家の中にいたときとは違って見えた。

音羽は創矢の足元を一度回り、そのまま玄関までついていった。

律があとを追うと、靴を履き終えた創矢が、口元の見える角度へ顔を向ける。

「今日は、少し遅くなるかも」

律は唇の動きを確かめ、うなずいた。

創矢の手がドアノブへ伸びる。

そのまま見送るつもりだった。

けれど、背中が外へ向く寸前、律の指はジャケットの裾へ触れている。

強く引くほどの力は入っていない。創矢の体を止めるのではなく、黒に近い布の端を、指先がほんの少しだけ留めていた。

創矢は振り返る。

理由を尋ねることも、先を急ぐこともない。律が次にどうするのかを、目の前で静かに待っている。

律は見上げたまま、自分の指の中にある布へ意識を落とした。

行かないで、ではない。

早く帰ってきてほしいと、伝えたいわけでもない。

ただ、外へ向かう前に、もう一度だけこちらを見ていてほしかった。

指先から布を離すと、創矢の目元がやわらぐ。

「行ってくる」

今度は、はっきり口元を追えた。

律は短く息を吸う。

「……い、てら」

声を外へ出したあと、唇をゆっくり閉じた。

創矢は聞き返さず、律の頬へ指先をそっと触れさせる。

そこに残った温度が離れる頃、玄関ドアが開いた。共用廊下の明るさが細く差し込み、創矢の背中を外側へ連れていく。

扉が閉じたあとも、音羽は同じ場所から動かなかった。

律はその横へしゃがみ、小さな背中へ手を置く。

しばらく閉じた扉を見上げていた音羽が、やがてリビングの方へ向きを変えた。律も立ち上がり、その淡い背中についていく。

創矢が帰るまでの時間は長い。

その中には、律が進めたいデザインも、午後から向かう大学もある。

朝の食器が片づいたテーブルの向こうで、制作室の扉まで伸びた光が、律の足元を静かに照らしていた。

引き止めたいわけじゃない。 ただ、もう一度だけこちらを見てほしかった。

二、それぞれの昼

玄関の向こうから創矢の姿が消えると、家の中には朝とは違う静けさが広がった。

さっきまで向かい側にあった椅子はテーブルの内側へ戻り、二つ並んでいたカップも、すでに棚へ戻されている。人の姿を示すものは片づいているのに、頬へ触れた指先の感覚だけが、まだ薄く残っていた。

リビングへ向かう律の少し前を、音羽が歩いていく。途中で何度か振り返り、律がついてきていることを確かめてから、制作室の入口で足を止めた。

机の上には、昨夜まで作っていたデザインが残っている。

画面を開くと、文字と図形の間にある余白が、昨日より狭く見えた。

椅子へ座った律の横を抜け、音羽は入口近くのクッションへ向かう。体を一度回し、淡い毛を丸く収めると、こちらへ顔だけを向けた。

律がペンを画面へ置く。

文字を少し右へ動かし、隣の図形との距離を確かめる。色を薄くすると輪郭まで頼りなくなり、元へ戻してから彩度だけを落とした。

一つ変えるたび、その隣にあるものまで違って見える。

ペン先がタブレットへ触れる細い音は、補聴器の中で途切れながら届いた。椅子を動かしたときの低い揺れや、音羽がクッションの上で寝返りを打った気配の方が、足元には分かりやすい。

朝の続きを確かめるように、律は何度も画面から少し離れた。位置を直し、元へ戻し、それでも納得できなければ、また別の案を選び直す。

時計を見たのは、窓から差し込む光が机の奥まで届いてからだった。

三限の始まりまでは、まだ少し余裕がある。ただ、ここで別の案まで試せば、支度を急ぐことになる。

画面の端には、まだ手を入れたい部分が残っていた。

律はペンを置き、保存する。

途中のまま閉じることに、指先がわずかにためらった。それでも、続きを考える時間までなくしてしまえば、今よりよくなるとは限らない。

タブレットを伏せると、音羽の耳が小さく動いた。

「……お、とわ」

顔を上げた音羽へ手を伸ばす。額の毛を撫でると、手のひらへ鼻先を寄せてきた。

「……い、く」

声の意味が届いたかは分からない。それでも律が立ち上がると、音羽もクッションを離れ、寝室まであとをついてきた。

大学へ行く服に着替え、バッグへ講義資料とタブレットを収める。補聴器のケースと予備電池に指を触れ、中にあることを確かめた。

玄関へ行くと、音羽は朝と同じ場所に座った。

律が靴を履くあいだも、閉じた扉と律の顔を交互に見ている。

「……い、てくる」

今度は朝より短く、息に近い声になった。

音羽は首を傾げただけだったが、律がドアを開けても前へ出ようとはしなかった。

扉を閉じる直前まで見えていた小さな顔が、細くなった隙間の向こうへ消えていく。

外には、朝より熱を含んだ空気が溜まっていた。

駅へ向かう道では、道路の照り返しが足元から眩しさを返してくる。車の音と人の声が重なり、補聴器へ入る輪郭も少し荒くなった。

律は音量を一段下げる。

聞こえるものを増やせば、分かることまで増えるとは限らない。電光掲示板と周囲の人の動きを確かめ、ホームへ入ってきた電車へ乗った。

大学の校舎には、外の熱から切り離されたような冷気が残っていた。

自動ドアを通った瞬間、光の強さが変わり、行き交う学生の姿が一度だけ暗く沈む。声は壁や床へ跳ね返り、言葉より先に大きな気配となって周囲を満たした。

教室では、教員の口元とスクリーンの両方が見える前方寄りの席を選ぶ。

資料を机へ出したところで、隣からスマートフォンの画面を向けられた。

『教室変更、見た?』

朝に連絡をくれた友人だった。

律はうなずき、自分の画面へ指を滑らせる。

『見た。ありがとう』

友人は短く笑い、前を向いた。

講義が始まると、律は教員の口元とスクリーン、その横に置いたタブレットの画面へ順に視線を移した。

画面には、教室の音声を拾った文字が少し遅れて流れていく。正しく変換される言葉もあれば、意味の違う漢字へ置き換わる部分もある。声が文の途中で輪郭を失ったときは、資料と文字起こしを見比べ、それでもつながらない箇所には余白へ小さな印を残した。

課題の説明へ移ったとき、周囲の学生が一斉にページをめくった。

律の目は、まだタブレットに残る前の文章を追っている。教員の顔へ視線を戻した頃には、説明は提出方法へ進んでいた。

分からないままでも、その場は過ぎていく。

誰かに止められることもない。

律は資料の端につけた印を指でなぞり、講義が終わるまで消さなかった。

学生が教室から減り始めたあと、教員の前へ向かう。

スマートフォンへ短く入力し、画面を見せる。

『課題の提出形式を、もう一度確認してもいいですか』

教員は資料を開き、律から口元が見える角度へ体を向けた。指で項目を示しながら、先ほどよりゆっくり説明する。

律は示された文字と唇の動きを交互に追い、自分の理解した内容をもう一度画面へ打った。

『PDFと元データの両方ですね』

教員がうなずく。

律も頭を下げ、資料の印を指先で消した。

廊下へ出ると、窓から伸びた午後の光が床を斜めに横切っている。

資料の端に残っていた印は、もう消えていた。

そのページをバッグへ収めると、さっきまで引っかかっていた箇所だけが、ようやくひとつにつながった。

聞き取れないところも、画面と視線を重ねながら、自分の方法でつないでいく。

三、先に帰る家

玄関の扉を開けると、廊下の奥で淡い毛が揺れた。

音羽はすぐには駆け寄らず、その場から律を見ている。靴を脱いで上がり、大学のバッグを肩から下ろしたところで、小さな足取りが床を伝って近づいてきた。

「……た、だいま」

足首へ触れた体温に、外の熱で乾いていた手を伸ばす。しゃがんで背中を撫でると、室内で過ごしていた毛のやわらかさが、指の間へゆっくり戻ってきた。

音羽の向こうには、廊下の灯りだけが続いている。

創矢がまだ帰っていないことは、大学を出る前から分かっていた。それでも一人で開けた玄関から家の奥を見ると、朝には意識しなかった空間が、ひとつ分だけ広く感じられる。

律が歩き出すと、音羽も横へ並んだ。

制作室へバッグを置けば、机の上には午前中に閉じた画面が残っている。直しかけたデザインは、出かける前と同じ位置で続きを待っていたが、律の指はタブレットへ向かわなかった。

大学で使った資料を机の端へそろえ、部屋着へ着替える。

ベランダ側の窓を開けると、夕方に近づいた空気にも昼の熱が残っていた。頬へ流れ込んだ風は涼しさより湿り気を運び、ハンガーに掛かった服の裾だけを軽く揺らす。

最初に外した創矢のシャツが、律の腕へ滑り落ちた。

その上へ自分のトップスを重ね、乾いたタオルを一枚ずつ載せていく。別々の場所へしまう服も、ベランダから運ぶあいだは持ち主の境目をなくし、ひとつの重さになって腕の中へ収まった。

リビングの床へ腰を下ろし、膝の前でシャツの襟を整える。

袖を内側へ重ねようとしたとき、隣に置いたタオルがわずかに沈んだ。

音羽の前足が布の端を踏み、そのまま柔らかな場所へ体を預けていく。前足を折り、顎まで載せる頃には、畳むはずだった一枚がすっかり音羽の居場所になっていた。

律はタオルの端へ指を掛ける。

少し引けば、音羽も起きるだろう。

けれど、半分閉じたまぶたの下で黒い瞳が細くなり、背中からはゆっくりした呼吸が手元へ伝わってくる。

「……そこ、すき?」

問いかけても、音羽は顎をわずかに沈めただけだった。

律の口元が緩む。

残りの服だけを畳み、創矢のシャツと自分のトップスを同じ籠へ重ねる。最後のタオルには触れず、音羽の背を一度撫でてから立ち上がった。

窓の外では、強かった光が少しずつ角を失っている。

冷蔵庫を開けると、前の晩に創矢と決めた夕食の材料が、上段と野菜室へ分かれて入っていた。

献立を考え直す必要はない。

律は肉と野菜を取り出し、調理台へ並べる。包丁を入れるたび、刃がまな板へ当たる細い振動が指の付け根へ返った。

切りそろえた野菜の中で、最後の一切れだけが少し厚い。

横からもう一度刃を通すと、隣と同じくらいの幅に分かれた。

鍋へ水を張り、火をつける。

フライパンへ肉を入れると、表面の色がゆっくり変わっていく。後から加えた野菜に油が回り、立ち上がった香りがキッチンからリビングへ広がった。

タオルの上にいた音羽が顔を上げる。

いつの間にか律の足元まで来ていた鼻先が、調理台の方へ向いた。

「……だめ」

律が先に告げると、音羽は踏み出しかけた前足を床へ戻した。

言葉がどこまで届いたのかは分からない。それでも律の手元を見たまま、少し離れた場所へ腰を下ろす。

味を確かめるため、スプーンの先へ少しだけ取った。

口へ含むと、思っていたより薄い。

創矢なら、もう少し濃くするかもしれない。

調味料をわずかに足し、鍋の中をもう一度混ぜる。湯気の向こうで変わった色を見てから、火を弱めた。

ダイニングに置いていたスマートフォンの画面が光る。

表示されたのは創矢の名前と、帰宅を知らせる短い文だった。

『今から帰る』

律はそれだけを確かめ、返信欄には触れなかった。

画面を伏せ、戸棚から皿を二枚取り出す。

一枚を自分の席へ置き、もう一枚を向かい側へ滑らせた。箸も二膳並べると、朝から空いていたテーブルの片側に、帰ってくる人のための形が整っていく。

「……もう、すぐ」

声は誰かへ届けるほど大きくなかった。

それでも、少し離れた場所にいた音羽の耳が動く。

律はコンロへ戻り、弱い火の上で揺れるスープを見つめた。

向かい側の皿には、まだ何も載っていない。

けれど、その横にはもう、創矢の箸が置かれていた。

二人分の洗濯物を畳むそばで、音羽の場所だけがまだ残っていた。

四、おかえりの気配

外の明るさが薄れるにつれ、窓ガラスには室内の灯りが映り始めた。

弱い火にかけたスープの表面では、小さな泡が浮かんでは鍋の縁で消えていく。律が火を止めようと手を伸ばしたところで、ソファのそばにいた音羽が顔を上げた。

耳が、玄関の方へ向いている。

律には、まだ何も届いていない。

それでも音羽は迷わず立ち上がり、廊下へ駆けていった。少し遅れて、玄関の照明が壁へ淡く広がる。

律は火を止め、キッチンの外へ出た。

廊下の奥でドアが開く。

朝と同じチャコールのジャケットを着た創矢が、仕事用のバッグを手に立っていた。肩の位置は朝より少し低く、襟元にも外で過ごした時間が残っている。

足元へ寄ってきた音羽を見下ろしたあと、創矢の顔が律へ向いた。

「ただいま」

見慣れた唇が、朝にはなかった言葉を形づくる。

律は廊下の途中で足を止めた。

うなずくだけでも伝わる。毎日、声にしなければならない言葉でもない。

それでも、朝から空いていた場所へ創矢が戻った瞬間、喉の奥に音が浮かんだ。

「……お、かえり」

声を出したあと、律の唇がゆっくり閉じる。

創矢は聞き返さなかった。

目元をやわらげると、靴を脱ぐ前に片手を伸ばす。頬へ触れるかと思った指は少し下へ降り、律の手を軽く包んだ。

外気に触れていた手は、律よりわずかに冷たい。

「ごはん?」

創矢の口元を追い、律は小さくうなずいた。

「……でき、た」

そう答えてキッチンへ視線を向けると、包まれていた指がゆっくりほどける。創矢が靴を脱ぎ、並んで廊下を戻るあいだ、律の手には外から持ち帰った冷たさが薄く残っていた。

着替えを済ませた創矢がリビングへ来る頃には、テーブルに夕食が並んでいた。

向かい合う二枚の皿と、温め直したスープ。二人分の箸のあいだを、音羽が見上げながら行き来している。

創矢は椅子を引く前に皿へ目を落とし、それから律を見た。

「作ってくれたんだ」

律はうなずいたあと、少しだけ視線をそらす。

「……あじ、みた」

「うん」

創矢はそれ以上すぐに言葉を足さず、律の向かいへ腰を下ろした。

二人で箸を取る。

創矢が最初の一口を運ぶあいだ、律の視線は自分の皿より向かい側に残っていた。表情だけではまだ分からない。けれど創矢の箸は止まらず、もう一度同じ料理へ伸びていく。

それを見てから、律もようやく自分の皿へ箸をつけた。

「おいしい」

律は顔を上げる。

「……ほんと?」

「ほんと」

創矢の返事を確かめてから、律ももう一口食べる。

向かいの皿と同じ味が、自分の口にも広がった。少し足した調味料の濃さも、創矢が二口目を選んだ理由も、今なら同じ食卓の上で確かめられる。

食事のあいだ、互いの一日を初めから順に説明することはなかった。

創矢は、仕事が予定より長引いたことを短く話す。律は必要なところだけ口元を追い、ときどきうなずいた。

話が途切れたところで、律は大学のバッグへ手を伸ばした。

講義資料を取り出し、課題のページを開く。提出形式が書かれた箇所へ指を置くと、創矢の視線も紙面へ移った。

「これ、今日の?」

「……うん」

律の指先は、資料の端に薄く残った消し跡をなぞる。

講義中、一度聞き取れなかった。

そのあと、自分から教員に確認した。

長く声にしようとはせず、教員のいる前方を示すように手を動かしてから、もう一度消し跡へ指を戻した。

創矢はその動きを急かさず見ている。

「先生に確認した?」

律は小さくうなずく。

「……きいた」

声を出したあと、視線が資料へ落ちる。指先は、提出形式の文字の上から離れなかった。

創矢は大げさに褒めることも、代わりに答えを整理することもしない。ただ一度、はっきりとうなずいた。

「そっか」

それだけを受け取ると、律の指がようやく紙面から離れた。

自分で確かめたことを、特別な出来事にされない。その日の一部として、そのまま向かい側へ置いてもらえることが、律には心地よかった。

テーブルの下では、音羽が創矢の足元と律の椅子のあいだを何度か行き来している。やがて二人のちょうど中間に近い場所へ伏せ、顎を床へつけた。

朝には知らなかった創矢の時間と、創矢の知らなかった律の時間が、少しずつ同じ食卓へ重なっていく。

創矢が外した腕時計は、講義資料の横に置かれていた。二人分の皿にはまだ料理が残り、その下では音羽の背中がゆっくり上下している。

律は資料を閉じる前に、消し跡の残るページへもう一度目を落とした。

向かい側では、創矢の箸がまた同じ皿へ伸びていた。

五、同じ夜

食器を片づけ終えると、リビングにはテレビの淡い光と、ソファ脇の間接照明だけが残った。

創矢が片側へ腰を下ろし、その隣へ律も座る。二人の間には、音羽ひとりが入れるほどの隙間があった。

床にいた音羽は迷わず前足を律の膝へ掛ける。律が脚の位置を少し変えると、そこへ体を預け、淡い毛を丸く収めた。

テレビでは映画が始まっている。

けれど、律が膝の横へ置いたのは、午前中に閉じたタブレットだった。

画面を開き、三つのデザイン案を並べる。創矢の方へ少し傾けると、テレビへ向いていた視線が手元へ移った。

「今日やってたやつ?」

「……うん」

律は指先で画面を送る。

最初の案は、文字の間隔を広げたもの。次は色を少し抑え、最後の案では余白の取り方を変えている。

創矢はすぐに一つを選ばず、行き来する画面を静かに見比べた。律の指が中央の案で止まっても、先に答えを口にしない。

「律は、どれがいい?」

選んでもらうつもりで見せたはずなのに、創矢は律の考えを先に待っている。

律は中央の案へ指を置いた。

わずかに残っていた迷いも、自分で選んだ形として画面の上に落ち着く。

創矢はその案をもう一度見てから、ゆっくりうなずいた。

「俺も、それが好き」

律は画面から創矢へ目を移した。

「……おなじ」

「同じだな」

やわらかく動いた口元を確かめ、律はタブレットを閉じた。ローテーブルへ置くと、膝の上の音羽が小さく体勢を変える。

隣から伝わる重みは、少しずつソファの背へ預けられていた。

創矢の目はテレビへ向いているものの、まばたきの間隔が長い。朝より低く見えた肩も、まだ普段の位置へ戻りきっていない。

律は音羽の背を撫でながら、体を少しだけ横へずらした。

残っていた隙間が狭まり、肩が創矢の腕へ触れる。

創矢がこちらを見た。

「眠い?」

律は首を横に振る。

「……そ、やが」

最後まで言い切る前に、創矢の目元が緩んだ。

「俺?」

律はうなずき、その肩へ額を預ける。

創矢はすぐには体を寄せなかった。律がそのまま離れずにいることを確かめてから、髪へ頬をそっと触れさせる。

膝の上で音羽がもう一度身じろぎし、三人分の体温が一つのソファへ集まった。

テレビの画面では、次々と場面が切り替わっている。

補聴器を通して映画の音も届いていたが、律には肩越しに伝わる創矢の呼吸の方が近い。音羽の背へ置いた手にも、ゆっくりとした上下が続いていた。

朝、創矢を見送ったあと、律も大学へ向かった。

互いに知らない場所で一日を過ごしても、夜になれば同じソファへ戻ってくる。

創矢の指が、律の肩へ軽く触れた。

「そろそろ寝る?」

律は膝の上へ目を落とす。

音羽の目は閉じたままで、前足も力を抜いて重なっている。

「……まだ、ねてる」

声を落とすと、創矢も音羽へ視線を向けた。

「少し待つか」

律は肩を預けたまま、ゆっくりうなずく。

映画を見続けたいわけではなかった。音羽が目を覚ますまで、創矢の隣で急がずにいられれば、それでよかった。

やがて膝の上で小さな頭が動いた。

音羽が顔を上げると、律は両腕を体の下へ差し入れる。眠気の残った柔らかな重みを抱き上げ、リビングの一角にある寝床まで運んだ。

クッションへ下ろすと、音羽は一度だけ律を見上げ、すぐに体を丸め直す。

「……おやすみ」

淡い毛の間から、片方の耳だけが動いた。

創矢が照明を一つずつ消すにつれ、ソファやローテーブルの輪郭が暗がりへ沈んでいく。

寝室へ向かう前、律は一度振り返った。

音羽の寝床には、夕方に残したタオルとは違う、いつもの小さな丸みができていた。

寝室へ入ると、律は両耳の補聴器を外した。

淡い青の本体をケースへ収め、蓋を閉じる。部屋の気配がゆっくり遠ざかり、創矢の動きは視界とマットレスを伝う揺れだけになった。

先にベッドへ入った創矢が、枕元の時計を確かめてから顔を向ける。

「明日、早い?」

律は時計を指し、そのあと部屋の隅に置いた大学のバッグへ目を向けた。

「……あさ、から」

創矢が口元の見える距離まで少し近づく。

「何時?」

律は指で時刻を示した。

意味を受け取った創矢が目覚ましを操作し、いつもより早い時間へ合わせる。

「じゃあ、一緒に起きる」

「……うん」

律は創矢の口元を見たあと、掛け布団の中でそちらへ体を向けた。

二人の間には、朝と同じくらいの隙間が残っている。

律は自分からそこを詰めた。

指先が創矢のシャツの裾へ触れ、そのまま布の端をつまむ。

朝は、外へ向かう背中をほんの少し止めるために触れた。

今は、離す理由がない。

創矢の腕はすぐには伸びてこなかった。律の指が布に残ったままなのを確かめてから、背中へゆっくり回る。

胸元へ額を寄せると、音の消えた部屋でも体温だけははっきりと伝わった。

「……そ、や」

律が呼ぶと、背中に添えられた手が一度だけ動く。

「ん?」

続く言葉は、すぐには浮かばなかった。

それでも律は顔を上げず、指の中の布も離さない。創矢も答えを急かさず、そのまま待っている。

「……おやすみ」

胸元から返ってきた振動が、触れ合った体を通して届いた。

「おやすみ、律」

明日になれば、またそれぞれの場所へ向かう。

律の指先には、朝に離したジャケットとは違う、柔らかなシャツの布が残っていた。

その上から重なった創矢の手が、眠りにつくまで離れることはなかった。

別々に過ごした一日が、同じぬくもりの中へ静かに戻っていく。

あとがき

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

今回は、朝から夜まで続く、二人の何気ない一日を書きました。

別々の場所で過ごす時間も、帰ってきて同じ食卓を囲む時間も、少しずつ二人の暮らしになっていく。

大きな出来事はなくても、見送ること、帰りを待つこと、その日にあったことを同じ灯りの下で分け合うこと。

そんな静かな日常を感じていただけたら嬉しいです。

Thank you for reading! ❤️
I hope you enjoyed this quiet moment with Soya and Ritsu.
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ここまで読んでくださりありがとうございます!匿名や絵文字(ハートだけなど)での感想も大歓迎です。一言でもいただけると、次の執筆の励みになります…!✨

『サイレント・マイ・ヒーロー』
瀬尾 律/橘 創矢
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