独り占めしたい夜
誰にも見せたくない顔がある。

一、帰り道の横顔
エレベーターの鏡に、並んだ二人の姿がぼんやりと映っていた。
創矢はいつもと変わらない。片手には玲奈から渡された紙袋を提げ、もう片方の手はコートのポケットに入っている。黒いシャツの袖口も、少し緩めた襟元も、出かけたときのままだった。
違うのは、律の方だった。
鏡越しに創矢と目が合いかけるたび、視線をわずかに落とす。頭上の数字だけが静かに変わっていく狭い箱の中で、二人の間に空いたわずかな距離が、いつもより広く感じられた。
共用廊下へ出ても、律は隣へ寄らなかった。
創矢が歩幅を緩めれば、律も同じだけ速度を落とす。それでも半歩ほどの距離だけは縮めず、黒いシャツの背中を追うように歩いた。
玄関の前で、創矢がゆっくり振り返る。
「疲れた?」
律は口元を確かめてから、首を横に振った。
それだけで終わらせる。
言葉を足せば、胸の奥へ押し込めているものまで、形になってしまいそうだった。
鍵が回り、玄関の向こうに灯りがともる。
先に気づいた音羽が、リビングから小さな体を揺らしながら駆けてきた。創矢の足元をひとまわりしてから、律の靴のそばで立ち止まる。
律はしゃがみ込み、淡い毛並みへ指を沈めた。
音羽には目を向けられる。
けれど、創矢の顔は見られなかった。
肩の後ろで空気がわずかに動く。
律が顔を上げると、創矢の口元がゆっくりと名前を形づくっていた。
「律」
撫でていた指が、一度だけ止まる。
それでも返事はせず、音羽の首輪へ触れた。小さなクローバーのチャームが、指先の下で揺れている。
「何かあった?」
律は視線を外し、立ち上がった。
脱いだ靴を揃え、そのまま廊下の奥へ進んでいく。
拒んでいるわけではない。
創矢が後ろから来ることも、きっと何も言わずについてくることも分かっている。
だからこそ、今は立ち止まれなかった。
二、俺の知らない顔
ソファには向かわず、律はダイニングテーブルの椅子を引いた。
少し遅れて、向かい側の椅子が動く振動が床から足元へ届く。創矢は正面に座った。横から覗き込まず、隣にも来ない。律が顔を上げれば、表情も口元も見える位置だった。
「俺、何かした?」
責める色はない。
その穏やかさが、今は少しだけ困る。いっそ強く聞かれた方が、黙っている理由を作れたかもしれない。
律は膝の上で指を組んだ。
二人きりの部屋なら、声にできることもある。それでも、胸の奥に引っかかっているものは、うまく形にならなかった。
「……べつに」
短い声が、唇の間からこぼれる。
創矢の眉がわずかに動いた。
「別に、って顔じゃない」
律の指先が、カーディガンの袖口をつかむ。
創矢は笑わなかった。
玲奈の家では、よく笑っていた。
姉に昔の失敗を話されたとき。友人に学生時代のことを振られたとき。律の知らない時間を知っている人たちに囲まれていたとき。
目尻までやわらかくして、隠すこともなく。
律の前でも、創矢は笑う。
それなのに、同じではない気がした。
自分の知らない創矢を知る人たちへ向けられた表情が、胸の奥に小さな棘を残している。
創矢は急かさず、律が次の言葉を探すのを待っていた。
「今日……楽しそうだった」
「うん。久しぶりに会ったから」
分かっている。
玲奈は創矢の姉で、友人たちも昔からの付き合いだ。創矢には、律が知らない時間がある。
そんなことは、最初から分かっていた。
「よく、笑ってた」
「そうだな」
否定されなかったことに、胸の奥がまた狭くなる。
律は視線を落とし、袖口を握る指へ力を込めた。
もう言わなくてもいい。
こんなことで不機嫌になる自分を、創矢には知られたくなかった。
けれど、テーブルの下で膝へ触れた温度は離れない。
創矢の手ではなかった。長い脚が、ほんの少し律の膝に触れている。
追い詰めるほど近くなく、逃げられるほど遠くもない。
律はゆっくり息を吸った。
声にするのは、まだ怖い。
それでも、今夜だけは隠したくなかった。
「……あの顔、俺だけが、いい」
言葉が途切れながら落ちる。
耳の先まで熱くなるのが分かった。すぐに俯きたくなったけれど、律は椅子から動かなかった。
創矢の目が、律の唇に向く。
聞き取れたふりをせず、一度、もう一度と、今の言葉を確かめている。
律はその口元を見られなくなり、膝の上で両手を重ねた。
笑われるかもしれない。
子どもみたいだと、困らせてしまうかもしれない。
正面の椅子が引かれ、振動が足元へ届く。
それでも、創矢の口元は緩んでいなかった。
テーブルを回り込み、そのまま律の前まで来る。床に片膝をつき、伏せていた律の視線と同じ高さまで下りた。
「律」
名前を形づくる唇に、律が顔を上げる。
創矢の手が伸びてきたものの、頬には触れなかった。律が選ぶのを待つように、指先が膝の上で止まっている。
律は自分から、その手へ指を重ねた。
そこで初めて、二人の間に残っていた距離が消える。
「じゃあ、律にしか見せない顔もある」
冗談めかした笑みはなかった。
静かな目が、まっすぐ律だけを映している。
いつものように、額へ唇が触れると思った。
けれど、創矢の顔はその少し下へ降りてくる。
唇が重なった。
ほんの一瞬、触れただけのキスだった。
それでも、離れたあとまで熱だけが残っていた。
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