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サイレント・マイ・ヒーロー -Love Echo-

聞こえないセカイの真ん中で、感じる熱と鼓動

第1話 白いカーテンと、秘めた願い

朝の光は、音もなく部屋へ差し込んでいた。

新しく取り付けた白いカーテンが、やわらかく揺れている。
薄く光を通す布越しに、部屋全体が淡い白に包まれていた。

瀬尾律は、ゆっくりとまぶたを開ける。

視界の先には、ベッドの端に腰かけた橘創矢がいた。

創矢の唇が、ゆっくり動く。

――おはよう、律。

まだ補聴器をつけていない律に、声は届かない。
けれど、その口の形は分かった。

創矢はいつも、律に話しかけるときだけ、少しだけゆっくり唇を動かしてくれる。
目を合わせて、逃げないように。
律が読み取れるように。

それだけで、朝から胸の奥があたたかくなる。

創矢の大きな手が、律の耳元に伸びてきた。

補聴器に触れる指先は、今もまだ慎重だった。

宇佐美の事件で痛めた手首も、体に残っていたかすり傷も、もうすっかり治っている。
それでも創矢は、律に触れるときだけ、まるで壊れやすいものを扱うようにやさしい。

カチリ、と小さな感覚が耳元に戻る。

世界が、少しずつ音を取り戻していく。

エアコンの低い音。
カーテンのかすかな揺れ。
創矢の衣擦れ。

そして、低く落ち着いた声。

「……どこか、痛まないか?」

律は首を横に振った。

声を出そうとして、少しだけ喉がつまる。

創矢の前なら、話せる。
でも、聞こえない時間が長かった律の発音は、いつも少し不安定になる。

だから律は、まず目で答えた。

『大丈夫です』

創矢は律の目を見て、ふっと表情を緩める。

律の言葉を、ちゃんと受け取ってくれる顔だった。

それでも創矢は、確認するように律の手首に視線を落とした。
まだ心配している。

律は小さく息を吸う。

「だ……い、じょ……ぶ、です」

少し途切れた声。

自分でも、なめらかではないと分かる。
けれど創矢は、笑わない。

ただ、世界で一番大切な声を聞いたみたいに、律を見つめる。

その目が好きだった。

守られている。
愛されている。
大切にされている。

それは、嫌じゃない。

むしろ、どうしようもないくらい嬉しい。

けれど最近、律の胸の奥には、小さな焦れったさが生まれていた。

創矢は、律を大切にしすぎる。

傷が治っても。
事件が過ぎても。
同じ家で暮らすようになっても。

創矢はまだ、律を“守るべき相手”として見ている。

もちろん、それが創矢の愛情だと分かっている。

でも、律は思ってしまう。

もっと、恋人として見てほしい。

壊れ物じゃなくて。
守られるだけの存在じゃなくて。

創矢の理性を少しだけ乱せるような、ひとりの男として。

そんなことを考えた瞬間、頬が熱くなった。

創矢が気づく。

「律?」

律は慌てて目をそらした。

『なんでもないです』

そう伝えるように、首を小さく横に振る。

けれど創矢は、律の赤くなった耳を見逃さなかった。

「……嘘が下手だな」

低い声が、少しだけ甘くなる。

律はますます顔を背けた。

白い朝に、創矢の手から世界が戻ってくる。

出勤前。

玄関でコートを羽織る創矢を、律は少し離れた場所から見ていた。

創矢が振り返る。

「昼、ちゃんと食べるんだぞ」

律は少しだけ眉を寄せた。

『子どもじゃないです』

そう目で訴えると、創矢は困ったように笑う。

「分かってる」

分かっていない顔だった。

律はスマホを手に取り、文字を打った。

【今日は早く帰ってきてください】

創矢の目が、画面の文字で止まる。

それから、ゆっくり律を見る。

「寂しいのか?」

律はすぐに首を横に振ろうとして、やめた。

寂しい。

でも、それだけじゃない。

律はもう一度、スマホに文字を打つ。

【寂しいだけじゃないです】

創矢の表情が、わずかに変わった。

穏やかな顔の奥で、大人の男の目が一瞬だけ揺れる。

律はその変化を見逃さなかった。

創矢は何も聞かず、律の頬に触れた。

親指が、そっと頬を撫でる。

「……早く帰る」

律は頷いた。

『待ってます』

声にはしない。

けれど、創矢には伝わった。

玄関のドアが閉まる。

ひとり残されたリビングには、二つのマグカップが並んでいた。

創矢のものと、律のもの。

ただ並んでいるだけなのに、胸がきゅっとする。

ここは、もう創矢だけの部屋じゃない。

二人で暮らす場所になった。
二人で帰る場所になった。

だからこそ、律は思った。

今夜は、自分から伝えたい。

守られるだけじゃなくて。
待っているだけじゃなくて。

自分も、創矢を求めているのだと。


夜。

玄関のドアが開く気配に、律はすぐ顔を上げた。

「ただいま」

創矢の唇がそう動く。

律は、その言葉が終わる前に立ち上がっていた。

いつもなら、少し照れて距離をとる。
スマホに文字を打ってから近づく。

でも今日は違う。

律は玄関まで駆け寄ると、コートを脱ごうとしていた創矢の胸に、そのまま飛び込んだ。

創矢の身体が驚いたように固まる。

「律?」

律は答えない。

創矢の背中に腕を回し、その胸に顔を埋める。

外の冷たい空気。
創矢の匂い。
帰ってきてくれた体温。

全部が近い。

律は創矢の服をぎゅっと掴んだ。

『待ってました』

『寂しかったです』

『でも、それだけじゃないです』

目を上げる。

創矢と視線が合う。

律は喉に力を込めた。

「そ……や、さん」

創矢の息が、わずかに止まった。

発音は、きれいではなかったかもしれない。
少し掠れて、途中で揺れた。

それでも、創矢の名前を声で呼びたかった。

創矢の目が、熱を帯びる。

律はその目を見たまま、背伸びをした。

唇が触れる。

ぎこちない、律からのキス。

創矢の手が、律の腰に触れた。

最初は支えるように。
けれど次の瞬間、その指先に力がこもる。

「律」

創矢の声が低くなる。

律は逃げなかった。

『もう、大丈夫です』

『守られるだけじゃ、いやです』

『ちゃんと、恋人として見て』

声にするには、まだ難しい。

だから律は、目で伝えた。

創矢の表情が変わる。

いつもの過保護な顔じゃない。

律を守りたい気持ちと、恋人として求めたい気持ちの間で、必死に踏みとどまっている顔だった。

「……そんな目で見るな」

創矢の親指が、律の唇をそっとなぞる。

「本当に、止められなくなる」

律は創矢の手に、自分の手を重ねた。

そして小さく、たどたどしく声を出す。

「と……め、ないで」

創矢の目が、深く揺れた。

次の瞬間、律は強く抱き寄せられていた。

苦しいくらいの腕。

でも、怖くない。

白いカーテンの揺れる部屋で、二人の夜は静かに深くなっていった。

言葉にならない願いが、創矢の理性を静かに揺らした。

第2話 無音の海で、君を感じる

寝室の灯りは、少しだけ落とされていた。

律はベッドの端に座り、創矢を見上げていた。

創矢の手が、律の頬に触れる。

いつもより熱い手だった。

けれど、その触れ方は乱暴ではない。
抑えきれない感情を抱えながらも、最後のところで律を大切にしようとする手。

その迷いが分かるから、律は胸が苦しくなる。

「怖くないか?」

創矢の唇が、そう動く。

律は首を横に振った。

『怖くないです』

創矢はまだ不安そうだった。

事件のあと、創矢はずっと律を守ってくれた。
眠れない夜も、声が出せない朝も、補聴器をつけるのが怖かった日も。

いつも、そばにいてくれた。

だから分かる。

創矢が怖いのは、自分の気持ちじゃない。

律を傷つけてしまうことだ。

律は創矢の手を取った。

その手を、自分の胸に当てる。

心臓が速い。

創矢の手のひらに、その鼓動が伝わっていく。

律は、ゆっくり口を動かした。

『創矢さんだから、怖くない』

声にはしない。

でも、創矢はちゃんと読み取った。

息を飲むように、創矢の喉が小さく動く。

律は少しだけ笑った。

それから、自分の補聴器に触れる。

創矢の目が揺れた。

「外して、いいのか?」

律は頷く。

音のある世界では、創矢の声を聞きたい。

でも今は。

声ではなく、創矢そのものを感じたかった。

創矢の指が、律の耳元に伸びる。

そっと補聴器が外された。

途端に、世界が静かになる。

エアコンの音も。
衣擦れも。
創矢の呼吸さえも。

すべてが遠ざかる。

無音の海に沈んでいくような感覚。

けれど、寂しくはなかった。

創矢が目の前にいる。

律を見ている。

その瞳が、声よりもはっきり語っていた。

『大切だ』

『愛している』

『もう、どこにも行かせたくない』

律は創矢の首に腕を回した。

創矢の胸に頬を寄せる。

音は聞こえない。

でも、鼓動の振動が伝わってくる。

速い。

いつもの冷静な創矢からは想像できないほど、強く脈打っている。

その振動に、律の胸まで熱くなる。

自分が、この人を乱している。

その事実が、泣きたくなるほど嬉しかった。

創矢の唇が、律の額に触れる。

頬に。
まぶたに。
耳元に。

言葉の代わりに、何度も何度も触れてくる。

律はそのたびに、創矢の服をぎゅっと掴んだ。

無音の世界では、触れられる場所すべてが鮮明だった。

創矢の指先。
腕の強さ。
胸の熱。
見下ろしてくる瞳。

音がないからこそ、逃げ場がない。

創矢の愛情が、まっすぐ律の奥まで届いてくる。

律はたまらなくなって、創矢の名前を呼ぼうとした。

けれど、うまく声にならない。

喉が震える。

息だけが漏れる。

それでも創矢は、律の口元を見ていた。

言葉になる前の声まで、拾おうとするように。

律は何度か息を整えた。

「そ……や、さ……」

最後まで、きれいには言えなかった。

でも、創矢の表情が変わる。

その目が、痛いほど熱くなる。

創矢は律の両手を取り、自分の首に回させた。

そして、ゆっくり唇を動かす。

律はその形を読む。

――俺を見て。

律は頷いた。

『見ています』

『ずっと』

『創矢さんだけを』

視線を逸らさない。

創矢の全部を受け止めるように。

その夜、律は何度も創矢の名前を呼ぼうとした。

声になったもの。
息に溶けてしまったもの。
途中で崩れてしまったもの。

それでも創矢は、そのすべてを受け止めた。

まるで、律の声にならない声まで抱きしめるように。

そして律は知った。

聞こえない世界の中にも、こんなに深く響くものがある。

声よりも近く。
言葉よりも確かに。

創矢の鼓動が、律の中にずっと残っていた。

音を手放した夜、律は創矢の鼓動だけを聞いていた。

第3話 重なる鼓動の残響

夜が明ける少し前。

律は創矢の胸元に頬を寄せていた。

補聴器は、まだ外したまま。

世界は静かだった。

けれど、創矢の心臓の動きだけは、肌を通して伝わってくる。

とく、とく、とく。

少し速い鼓動。

律は目を閉じた。

音として聞こえるわけではない。
それでも、創矢がここにいることが分かる。

自分を抱きしめていること。
まだ少し息が乱れていること。
何度も髪を撫でてくれていること。

全部、分かる。

創矢の手が、律の背中をゆっくり叩いた。

ぽん。
ぽん。

一定のリズム。

それはまるで、言葉の代わりだった。

『大丈夫』

『ここにいる』

『離さない』

律はそのリズムに合わせて、小さく息を吐いた。

創矢が少し身体を離す。

律は顔を上げた。

創矢の唇が動く。

――痛くないか。

律は首を横に振る。

『痛くないです』

それから、自分の胸に手を当てた。

少し迷う。

声を出すには、勇気がいる。

自分の発音がきれいではないことを、律はよく知っている。

でも、創矢の前なら。

創矢になら、聞かせたい。

律はゆっくり息を吸った。

「し……あ、わ……せ、です」

途切れた声。

少し歪んだ音。

けれど、それは確かに律の声だった。

創矢の顔が、泣きそうに歪む。

「律」

声は聞こえない。

でも、唇の形で分かる。

創矢は律の両手を取った。

そして、ゆっくりと自分の手を動かす。

ぎこちない手話だった。

まだ完璧ではない。
きっと何度も練習したのだろうと分かる、不器用で真剣な動き。

『もう』

『どこにも』

『行かせない』

律の目に、じわりと涙が浮かぶ。

創矢はさらに続ける。

『世界で一番』

『愛してる』

最後の形は、少しだけ崩れていた。

でも、律には全部伝わった。

音がなくても。
言葉が少し不器用でも。
創矢の想いは、まっすぐ届いた。

律は震える手を伸ばし、創矢の胸に触れる。

そこには、まだ速い鼓動があった。

いつも冷静で、強くて、律を守ってくれる創矢。

その人の心臓を、自分がこんなに速くしている。

そう思った瞬間、涙がこぼれた。

律は創矢を見上げる。

『僕も』

『創矢さんがいい』

『これからも、ずっと』

言葉にできない分、目に込める。

創矢は、その目をまっすぐ受け止めた。

律はもう一度、声を出そうとした。

「ぼ……く、も……」

途中で詰まる。

創矢が律の頬に手を添える。

急がなくていい、と言うように。

律はその手に頬を寄せた。

そして、小さく続ける。

「あい……して、ます」

創矢は何も言わなかった。

ただ、律を強く抱きしめた。

苦しいくらいだった。

けれど律は、その腕の中で笑った。

もう怖くない。

ここは、怖かった場所ではない。
誰かに奪われる場所でもない。

二人で帰ってくる場所。

二人で朝を迎える場所。

聞こえない世界で、いちばん確かな音は創矢の鼓動だった。

翌朝。

白いカーテンの向こうから、やさしい光が差し込んでいた。

キッチンには、二つのマグカップが並んでいる。

創矢のものと、律のもの。

律が寝室から出てくると、朝食の支度をしていた創矢が振り返った。

補聴器はまだつけていない。

それでも、律には分かった。

創矢の唇が、はっきりと動く。

――おはよう、律。

律は少しだけ笑った。

音がなくても分かる。

この人が自分を呼ぶ声は、もう律の中にちゃんと残っている。

律は自分の喉にそっと指を当てた。

そして、ゆっくり息を吸う。

「お……は、よ……そう、や……さん」

小さくて、たどたどしい声。

でも、ちゃんと届いた。

創矢の目が、嬉しそうに細められる。

その表情を見た瞬間、律の胸の奥で、また静かに音が鳴った気がした。

聞こえないセカイの真ん中で。

二人だけの鼓動が、今日も確かに響いていた。

たどたどしい「おはよう」が、二人の新しい朝を始めた。

あとがき

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今回は『サイレント・マイ・ヒーロー』のその後として、
律と創矢が同じ家で暮らし始めたあとの、静かな時間を描きました。

事件を越えて、ようやく安心できる場所にたどり着いた律。
けれど、ただ守られるだけではなく、創矢の恋人として、もう少し近づきたい。
その小さな願いが、今回の物語の中心になっています。

律は、言葉で気持ちを伝えることが得意ではありません。
聞こえない時間が長かったからこそ、声を出すことにも少し不安があって、発音もなめらかではありません。

それでも、創矢の前では少しだけ声を出そうとする。
目で伝えて、手で伝えて、それでも足りない気持ちを、たどたどしい声に乗せる。

その不器用さが、律の強さでもあり、創矢にだけ見せる甘えでもあると思っています。

そして創矢は、そんな律を壊れ物のように守るだけではなく、
少しずつ「恋人」として受け止めていく。

補聴器をつける朝。
補聴器を外す夜。
胸に耳を寄せる夜明け前。
二つのマグカップが並ぶ朝。

大きな事件が起きるわけではないけれど、
二人にとってはどれも大切な変化でした。

聞こえる言葉だけが、愛情ではない。
声にならない視線や、背中を叩く手のリズムや、そばにいる体温も、きっと二人にとっては言葉なのだと思います。

これからの律と創矢は、
守る・守られるだけの関係から、
一緒に暮らし、一緒に朝を迎える恋人同士へと、少しずつ進んでいきます。

静かで、甘くて、少し不器用な二人の続きを、
また見守っていただけたら嬉しいです。

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