となりで見る景色
同じものを見ても、同じ景色になるとは限らない。
一、行きたい場所
大学で見かけてから、律はその個展の案内を何度も読み返していた。
若手グラフィック作家による、小さな個展。
白い壁に並ぶのは、駅前の信号機や夕暮れ時の窓、雨を含んだアスファルト、コンビニの袋を提げて帰っていく人の背中。
どれも日常の中で何度も目にしている景色なのに、現実の色を削ったり、そこにはない色を重ねたりすることで、知っている街が少しだけ遠い場所のように見える。
大学から持ち帰ったリーフレットには、そのうちの何点かが小さく載っていた。
会期も場所も確認した。
駅からの道も調べてある。
一人で行けない理由はない。
それなのに、土曜日をどうするかだけは決められないまま、リーフレットを持ち帰ってから三日が過ぎていた。
ダイニングテーブルの向かいには創矢がいる。
律は冷たいグラスのそばで、もう一度リーフレットを開いた。
何度も見たはずの一枚で、また指が止まる。
夕暮れの集合住宅。
並んだ窓のいくつかに灯りがつき、その周囲だけが、夜になる少し前の色から浮かんでいる。
「行きたいんだろ?」
顔を上げると、創矢がこちらを見ていた。
いつから見られていたのか分からない。
律はリーフレットへ目を戻し、それから小さくうなずいた。
「じゃあ行けばいい」
それだけ言って、創矢はマグカップへ手を伸ばした。
誰かについていこうとも、送っていこうとも言わない。
一人で行けることを、最初から疑っていない。
そういうところが、律は好きだった。
リーフレットへ視線を落とす。
さっきと同じ作品が載っている。
けれど今度は、絵そのものではなく、その向こうに別のことが浮かんだ。
創矢なら、どこを見るのだろう。
建物を描いた作品なら、外形だろうか。
窓の配置。
線の角度。
空間の切り取り方。
建築を仕事にしている創矢と、グラフィックを学んでいる自分では、たぶん同じものを見ても残るものが違う。
同じ一枚の前に立ったら。
創矢の目には、何が見えるのだろう。
知りたいと思った。
作品だけではなく、その隣で創矢が何を見るのかを。
律はリーフレットを閉じかけて、やめた。
向かい側の創矢を見る。
目が合う。
創矢がわずかに眉を上げた。
律は手にしていたリーフレットを少し持ち上げ、自分を指す。
それから創矢。
最後に、リーフレット。
創矢が一度だけ目を瞬かせた。
「俺も?」
律はうなずいた。
「俺、こういうの詳しくないぞ」
分かっている。
むしろ、だから一緒に行ってみたい。
思わず口元が緩んだ。
「その顔、知ってるって顔だな」
律の笑みが少し深くなる。
創矢もつられるように笑った。
テーブルの上には、読みかけのリーフレット。
律のグラスと、創矢のマグカップ。
いつもと変わらない午後だったはずなのに、その間に週末の予定が一つ入り込んだ。
創矢が自分のスマートフォンを確認する。
「土曜なら午後空いてる」
律はすぐに顔を上げた。
「土曜にする?」
うなずく。
今度は迷わなかった。
「じゃ、決まり」
創矢がスマートフォンを置く。
律はもう一度リーフレットを開いた。
載っている作品は何も変わっていない。
それでも、さっきまでとは少し違って見えた。
次にこの景色を見るときは、印刷された小さな写真ではない。
白い壁に掛けられた本物の作品の前に立つ。
そしてきっと、少し離れたところには創矢がいる。
同じものを見ても、同じものを持ち帰るとは限らない。
まだ行ってもいないのに、それが少し楽しみだった。
律はリーフレットを閉じた。
土曜日まで、あと三日。
テーブル越しに創矢を見ると、また目が合った。
今度はどちらも、すぐには逸らさなかった。

二、となりにいない時間
土曜日の午後、ギャラリーは想像していたよりずっと小さかった。
白い外壁に大きなガラス扉。脇に貼られた個展のポスターも、通り過ぎれば見落としてしまいそうなほど控えめだ。
駅から歩いてきた七分ほどの間に、夏の日差しが服の肩へ残っている。
ガラスに映った隣の創矢は、深いオリーブの半袖シャツにストーングレーのパンツ。
律はダスティローズのサマーニットTに、濃いインディゴのデニムを選んだ。
朝、その色を見た創矢に「珍しいな」と言われた。
褒めたのかどうかは分からなかったけれど、玄関を出る直前まで少しだけこちらを見ていたので、少なくとも変ではなかったのだろう。
扉の向こうを人影が横切る。
外では、補聴器を通して車や人の気配がいくつも重なっていた。言葉として拾えるものではなく、輪郭のぼやけた揺れが途切れず流れている。
それに比べれば、ガラスの向こうはずいぶん静かに見えた。
創矢がこちらへ顔を向ける。
「入る?」
うなずく。
扉をくぐった途端、腕にまとわりついていた熱がほどけた。
冷えた空気と一緒に、床を歩く誰かの振動がかすかに届く。
受付の人が口を動かしながら頭を下げた。
声の内容までは追えない。
けれど、渡された目録と作家プロフィールがあれば困ることはなかった。
展示室へ入る手前で、創矢がこちらを見る。
「一緒に回る?」
律は目録へ視線を落とした。
少しだけ考え、首を横へ振る。
創矢の眉がわずかに上がる。
「別々?」
今度はうなずいた。
ここへは創矢と来たかった。
けれど、作品を見る時間まで一つにする必要はない。
気になれば長く止まりたいし、そうでもないものは通り過ぎたい。
隣に創矢がいれば、その速度を気にしてしまう気がした。
同じ場所へ来たからこそ、最初は別々に見てみたい。
律が奥の展示室へ目を向けると、創矢もその先を見る。
最後の壁の近くに、木製のベンチがあった。
「あそこで待ち合わせにする?」
律は親指を立てた。
創矢はそれ以上理由を聞かなかった。
「じゃあ、あとで」
二人はそれぞれの方向へ歩き出した。
最初の一枚は、雨上がりの交差点だった。
車も信号も描かれていない。
路面に残った水だけが、青と紫の細かな色面で構成されている。
近くではただの色のかたまりにしか見えず、距離を探るように数歩下がると、青と紫がようやく濡れた道路の輪郭を結んだ。
律はそこで足を止めた。
背後を誰かが横切り、床から小さな揺れが伝わる。
視界の端には、三枚ほど先に深いオリーブのシャツが見えた。
創矢は律のほうを見ていない。
作品横の説明を読み、それから絵へ戻っている。
待たれていない。
見守られてもいない。
同じ空間のどこかにいるだけ。
その距離が心地よかった。
作品を追ううち、立ち止まる長さも自然に変わっていった。
長く見たくなるものもあれば、数秒で次へ進むものもある。
気づけば律は、自分の速度で展示室を歩いていた。
ときどき遠くに創矢の姿があることだけ確かめる。
それで十分だった。
展示室の中ほどで、大きな一枚の前から動けなくなった。
夕暮れの集合住宅。
無数の窓が並んでいるのに、人は誰も描かれていない。
洗濯物。
半分だけ閉じたカーテン。
ベランダの植木鉢。
ガラスの向こうの黄色い灯り。
まだ暗い窓。
人はいない。
なのに、暮らしだけが残っている。
手元の目録には、『帰る前の灯り』とだけ記されていた。
最上階の端には黄色。
その下は青。
隣はまだ暗い。
同じ建物でも、同じ時間に帰ってくるわけではない。
その当たり前のことが、窓の数だけ並んでいる。
律はしばらく動かなかった。
どれほど経ったのかは分からない。
視界の端へ、見慣れたオリーブが入ってきた。
創矢は隣には来ず、少し斜め後ろで止まった。
声をかけない。
律が自分から作品を離れるまで、そのまま待っている。
やがて振り返ると、創矢が絵へ顎を向けた。
「これ?」
うなずく。
創矢が作品へ向き直る。
今度は律が、その横顔を見た。
最初にどこへ目がいくのだろう。
建物の輪郭か。
窓か。
灯りか。
見ている場所までは、横顔から読み取れない。
だから何も伝えずに待った。
創矢がしてくれたのと同じように。
白い壁の前で、二人の視線だけが別々の場所を動いていた。

三、どこを見ていたの
最後の展示を見終えたころ、創矢は先ほど決めたベンチに座っていた。
律の姿に気づいても大きく手招きはせず、隣に一人分の空間を残したまま待っている。
そこへ腰を下ろすと、木の座面を通して隣の重みがかすかに伝わった。
手を伸ばせば届く。
けれど、触れないくらいの距離。
創矢がこちらへ顔を向ける。
「どうだった?」
律は手元の目録を開き、『帰る前の灯り』の番号を指した。
「やっぱり、あれ?」
うなずく。
創矢の口元が少し緩んだ。
何かおかしい。
眉を寄せると、笑いを隠す気もなくなったらしい。
「いや、ずっといたから」
律は目録の端で創矢の腕を軽く叩いた。
「痛くない」
もう一度叩こうとすると、今度は先に避けられた。
その拍子に、ベンチの上で肩の距離がほんの少し縮まる。
律はそれ以上追わず、目録を膝へ戻した。
今度は創矢を指し、そのまま展示室のほうへ指先を向ける。
創矢の番。
意味を汲んだ創矢が、自分の目録を開いた。
「俺はこれ」
示された番号を追って、律は目を瞬かせた。
建物でもなければ、複雑な構図でもない。
そこに載っていたのは、窓辺に置かれた二脚の椅子だった。
片方は木製で、もう片方は細い金属フレーム。
背もたれの高さも形も揃っていないのに、どちらも同じ窓の向こうを向いている。
律は作品写真と創矢を交互に見た。
その顔がおかしかったのか、創矢が眉を上げる。
「何だよ」
律は椅子を指し、それから創矢を見る。
「椅子が好きなわけじゃないぞ」
さらに首をかしげる。
創矢の指が、二脚の間をゆっくりなぞった。
「並び方」
作品へ目を戻したまま、口が続けて動く。
「違う椅子なのに、同じ方向向いてるだろ」
律も改めて写真を見る。
自分が最初にこの作品の前を通ったときは、木と金属の質感の違いや、床へ落ちる影ばかりを見ていた。
創矢が見ていたのは、椅子そのものではない。
二脚がどこを向き、その間にどれだけの空間を残しているのか。
もう一度見てみると、さっきまでは何もないと思っていた場所まで、作品の一部に見えてくる。
創矢の指が、今度は律の目録へ移った。
「律は、あれのどこがよかった?」
『帰る前の灯り』。
律は掲載された小さな作品写真へ目を落とした。
色。
構図。
光。
それだけなら、指差すだけでも伝えられる。
けれど、あの前から動けなくなった理由はそこではない。
伝えたい形を探すように、しばらく写真を見つめる。
やがて、人の姿が描かれていない部分を指した。
そこから窓を一つずつなぞり、最後に自分の胸元へ手を置く。
創矢は急かさず、その動きを目で追っている。
律はゆっくり口を動かした。
声にはしない。
『誰もいないのに、人がいるみたい』
手話と口の形を混ぜながら伝える。
創矢の視線が作品へ戻った。
律はもう一度、いくつもの窓を指す。
『帰ってくる場所が、いっぱいある』
少し間が空いた。
創矢は写真を見直してから、律へ顔を戻す。
「俺、それ見てなかったな」
律が眉を上げる。
「窓の配置と、建物の切り取り方ばっかり見てた」
やっぱり。
思わず笑うと、創矢が怪訝そうにこちらを見る。
「何?」
律は創矢を指し、それから両手を軽く広げてみせた。
創矢っぽい。
「絶対褒めてないだろ」
律は答えず、笑った。
同じ一枚を見ていた。
それでも、自分の中に残ったものと、創矢が持ち帰ったものは違う。
最初から隣で説明し合いながら見ていたら、どうだっただろう。
創矢が「窓の配置」と先に言えば、自分もそこへ目を向けたかもしれない。
律が「人の暮らし」を先に示していたら、創矢も違う場所から作品を見始めたかもしれない。
別々に見たからこそ、あとから渡せるものがある。
自分にはなかった景色を、相手の言葉や視線を通してもう一度見ることができる。
木の座面から伝わっていた重みがふっと変わった。
創矢が立ち上がる。
「もう一回見る?」
律が顔を上げる。
「さっきの椅子、もう一回見たい」
今度は律も一緒に立った。
二周目は、別々にはならなかった。
けれど、ずっと肩を並べて歩くわけでもない。
創矢が立ち止まれば、律は少し先で待つ。
律が気になった作品へ戻れば、創矢も遅れてついてくる。
ときどき同じ絵の前に立ち、そのたびに一周目とは違う場所へ目が向いた。
二脚の椅子の作品へ戻ると、その間には思っていたより広い空間が残されていた。
形も高さも違う。
ぴたりと寄り添っているわけでもない。
それでも、二脚とも同じ窓のほうを向いている。
律はしばらくそこを見た。
一周目には気づかなかった場所だった。
『帰る前の灯り』へ戻ると、創矢の視線はやはり先に建物全体へ向かった。
律は黄色い灯りを見る。
最上階の端。
自分が最初に長く見ていた窓。
少しして、創矢の指が同じ場所へ伸びた。
律はその指先を見てから、もう一度窓へ目を戻す。
今度は二人とも、同じ灯りを見ていた。
四、一枚だけ
出口近くの小さなショップには、展示作品のポストカードが並んでいた。
律はほとんど迷わず、『帰る前の灯り』を手に取る。
壁いっぱいに広がっていたときには細かく見えていた窓も、手のひらに収まる大きさになると、輪郭は少し曖昧になる。
それでも、夕暮れの中に浮かぶ黄色い灯りだけは残っていた。
隣では創矢もカードを見ている。
何を選ぶのか気にはなったけれど、律はそちらを覗かず、自分の一枚を持って先に会計を済ませた。
入口近くで待っていると、少し遅れて創矢が戻ってくる。
その手にも、小さな紙袋があった。
律の視線に気づいたのか、創矢が口元を緩める。
「見る?」
律はすぐにうなずいた。
袋から出てきたのは、窓辺に置かれた二脚の椅子だった。
やっぱり。
思わず笑うと、創矢がわずかに眉を上げる。
律も自分のカードを取り出し、その隣へ並べた。
夕暮れの窓と、同じ窓のほうを向く二脚。
展示室では離れた場所にあった二枚なのに、こうして並べると、一つの部屋の内側と外側のようにも見える。
「そっちも買ったんだな」
律はうなずいた。
創矢の視線が二枚のカードを行き来する。
「どこに置く?」
すぐには決められなかった。
制作室なら自分が長く見る。
リビングなら二人とも通る。
寝室なら、夜には目に入る。
どこでもいい気もしたし、まだ決めたくない気もした。
律は自分の胸元を指してから、家へ帰る方向を示す。
帰ってから。
創矢は一度その動きを見て、すぐにうなずいた。
「了解」
二枚のカードは、それぞれの紙袋へ戻された。
ギャラリーを出ると、昼間より太陽が低くなっていた。
路面にはまだ夏の熱が残っているのに、建物から伸びる影だけはずいぶん長い。
駅へ向かう人の流れに混じると、創矢は自然に律の少し外側へ回った。
前へ出て道を作ることも、腕を取ることもない。
人が増えたときだけ、離れすぎない距離まで肩が近くなる。
横断歩道の白線へ、夕方の光が斜めに落ちていた。
灰色の道路には砂埃が残り、ところどころタイヤの跡も見える。
何でもない景色のはずなのに、影の縁だけが少し青く見えた。
最初に見た、雨上がりの交差点。
現実にはなかったはずの色が、展示室を出たあとも目の奥に残っている。
一度作品の中で見つけた色は、元の景色に戻っても消えないのかもしれない。
人の流れが動き始めた。
律もその中へ歩き出す。
隣で揺れる創矢の手が、視界の下に入った。
差し出されたわけではない。
律は歩幅を変えず、指先だけを少し外へ寄せた。
小指が触れる。
ほんの一瞬だけ離れて、もう一度。
今度は創矢の指がわずかに開いた。
そこへ、自分の指を滑り込ませる。
強く握られない。
引かれもしない。
律が重ねた分だけ、創矢の指が静かに返ってくる。
人の多い横断歩道では、そのくらいがちょうどよかった。
向こう側へ渡りきるころには、人の流れも少しずつばらけていた。
それでも律は手を離さない。
創矢も、ほどこうとはしなかった。
ギャラリーで選んだ二枚のカードは、それぞれの紙袋の中にある。
違うものを選んだ二人の手だけが、帰り道では同じところでつながっていた。
そのまま二人は、同じ速度で駅へ向かった。

五、見る側のままで
玄関を開けると、廊下の奥に淡い毛が見えた。
音羽だった。
小さな身体が近づくたび、床を通して細かな振動が伝わってくる。
律がしゃがむと、音羽は一度だけ創矢を見上げ、それから律の膝へ鼻先を寄せた。
柔らかな頭を撫でる。
創矢が靴を脱ぎながら口を動かした。
「ただいま」
音羽の尻尾が小さく揺れる。
その様子を見ていた律も、少しだけ息を吸った。
「……た、だいま」
自分の声が音羽にどう届いたのかは分からない。
創矢は何も言わず、ほんの少しだけ笑った。
家へ戻ると、外にあった人の気配が一気に遠ざかる。
エアコンの低い輪郭と、音羽が床を歩く振動。
キッチンへ向かう創矢の気配。
いつもの部屋だった。
ダイニングで紙袋から『帰る前の灯り』を取り出す。
カードの向こうでは、創矢が冷蔵庫を開けている。
ソファも、テーブルも、音羽のスペースも、飲みかけのグラスもある。
誰かに見せるために整えたわけではない生活が、窓の灯りの向こう側と重なって見えた。
律はポストカードを持ったまま、制作室へ向かった。
机には途中のデザインデータ。
大学の資料。
棚には、これまで作ってきたものをまとめたファイルが並んでいる。
カードをどこへ置こうか考えていただけだったのに、気づけばその一本を抜いていた。
ページをめくる。
二年のポスター。
三年の冊子。
自主制作。
アルバイトで作ったもの。
今見ると、直したいところはいくらでもあった。
文字の大きさも、余白も、色の選び方も。
当時はこれで完成だと思っていたはずなのに、時間が経つと見えるものが変わる。
それでも、閉じようとは思わなかった。
今日の展示室には、いろいろな人がいた。
一枚の前で長く立つ人もいれば、ほとんど足を止めない人もいた。
通り過ぎてから、また戻ってくる人もいる。
作者が何を考えて作ったのか知らなくても、それぞれが自分の目で見ていた。
自分の作品を人の前へ出したら、どうなるのだろう。
一番見てほしいところを通り過ぎられるかもしれない。
自分では何とも思っていなかった場所に、誰かが立ち止まるかもしれない。
創矢が、あの二脚の椅子の「並び方」を見つけたように。
入口の気配に振り返ると、創矢がグラスを二つ持って立っていた。
「入っていい?」
律はうなずく。
一つを机の端へ置いた創矢の視線が、開いたファイルへ落ちた。
「懐かしいな。これ前にも見た」
低いスツールへ腰を下ろす。
律と同じ方向から、作品を見られる位置だった。
ページがゆっくり進んでいく。
律は何も説明しなかった。
何の課題だったのかも、どこを意識したのかも。
先に答えを渡さずに、創矢がどこを見るのか知りたかった。
数ページ進んだところで、指が止まった。
「これ好き」
律は目を瞬かせた。
小さな冊子の表紙だった。
提出直前までレイアウトが決まらず、自分の中では失敗に近いものとして残っている。
思わず創矢を見る。
「何、その顔」
律はそのページを指した。
これ?
「そう」
首をかしげる。
創矢は少し考え、紙面の白い部分へ指を置いた。
「ここ」
さらに眉を寄せる律へ、
「余白」
と続ける。
何もないところだった。
「なんか、好きなんだよな」
律は白い部分を見る。
そこは意図して残したものではない。
最後まで何を入れるべきか決められず、そのまま提出した場所だ。
律は自分を指し、それから余白を示して首を横へ振った。
創矢がその動きを追う。
「わざとじゃない?」
うなずく。
「何入れるか決まらなかった?」
もう一度うなずいた。
創矢は作品へ目を戻した。
「でも、俺はそれ知らないから」
白い部分へ視線を置いたまま、少し間を空ける。
「最初に見たとき、ここで一回待てる感じがした」
律の指が止まった。
待てる。
自分にとっては、埋められなかった場所だった。
足りなかったところ。
決められなかったところ。
けれど創矢には、別のものとして見えている。
次のページへ進もうとした手に、律はそっと指を重ねた。
創矢がこちらを見る。
律は開いた作品を指した。
それから今日のポストカード。
自分。
壁。
作品を並べるように、両手を横へ広げる。
創矢はその動きをしばらく追ってから、
「展示?」
と口を動かした。
律はうなずく。
一度、唇を閉じる。
ここには創矢しかいない。
長く話さなくてもいい。
「……ぼ、くの」
途中で声が切れる。
創矢は続きを促さない。
律はもう一度、自分の作品を指した。
「……み、てもらう」
言い終えて、息を整える。
誰かに見てもらう。
その言葉にした途端、少しだけ現実に近づいた気がした。
創矢は「見てくれる」と簡単には言わなかった。
開いたファイルを見て、それから律へ視線を戻す。
「並べてみたい?」
すぐには答えられなかった。
見てもらいたい。
でも、怖い。
通り過ぎられるかもしれない。
自分が好きな場所とは、まったく違うところを見られるかもしれない。
それでも、今日の白い壁が浮かぶ。
一枚の作品の前に誰かが立ち、自分なりの何かを見つけていた。
そこに、自分の作品が一枚あったら。
律はしばらくファイルを見つめた。
それから、小さく息を吸う。
「……い、つか」
創矢は大きくうなずくことも、背中を押すような言葉を重ねることもしなかった。
「そっか」
それだけだった。
いつやるのか。
どこでやるのか。
何を準備するのか。
そこまでは決めない。
律の「いつか」は、まだ「いつか」のまま置いておける。
そのことに、少しだけ肩の力が抜けた。
創矢が好きだと言ったページへ目を戻す。
白い部分は、何も変わっていない。
何かが増えたわけでもない。
けれど、ずっと失敗だと思っていた場所に、別の見え方が一つ増えた。
律は机の端へ『帰る前の灯り』を立てかける。
黄色い窓の隣に、白い余白が残る。
今はまだ、そこを埋めなくていい。

六、二枚の景色
夕食のあと、ダイニングテーブルには二枚のポストカードが並んでいる。
一枚は、律が選んだ『帰る前の灯り』。
もう一枚は、創矢が選んだ二脚の椅子。
ギャラリーの白い壁で見上げた作品より、ずっと小さい。
それでも二枚を隣に置くと、別々だった景色の間に、どこか続きが生まれる。
キッチンから戻ってきた創矢も、それに気づいたらしい。
「場所、決まった?」
律は部屋の中へ目を巡らせる。
制作室なら、自分の目に触れる時間がいちばん長い。創矢の部屋に置けば、今度は創矢のものになるような気もする。
寝室も悪くない。
けれど、どちらか一人の場所に置くより、二人が何度も通るところがいい。
リビングとダイニングの間にある木製のキャビネットへ視線が止まる。
朝、出かけるときも、夜、帰ってきたときも、自然とそこを通る。
意識しなくても、何度もそこを通る。
律がカードを並べると、創矢も隣から眺めた。
「ここ?」
うなずく。
しばらくして、創矢の指が二枚をほんの少し近づける。
「このくらい?」
近い。
律は首を横へ振り、自分のカードを少し右へずらす。
二枚の間に、指二本ほどの白い壁が残る。
今度は、しっくりくる。
創矢もその隙間へ目を向けて、
「そっちなんだ」
と笑う。
それから、こちらを見た。
「余白?」
律は思わず、その腕を軽く押す。
触れたところから、笑っている気配が返ってくる。
カードはもう動かない。
少し離れた二枚が、同じ棚の上に収まっている。
足元には、いつの間にか音羽が来ていた。
律の足首へ身体を寄せても、棚の上には興味がないらしい。そのまま近くで伏せている。
やがて二人がソファへ移ると、音羽も少し遅れてついてくる。
そこからでも、二枚はよく見える。
『帰る前の灯り』には、黄色い窓がある。
その隣では、形の違う二脚が同じ窓のほうを向いている。
二枚の間には、細い白が残っている。
昼間、自分は窓の向こうにある暮らしを見ていた。
創矢が見ていたのは、建物の形や窓の並び。
制作室では、自分が何もないと思っていた場所を、創矢は「好き」と言った。
同じものを見ても、同じものを持ち帰るわけではない。
だから、あとから渡せるものがある。
律は隣の創矢へ身体を寄せる。
背中に腕が添えられるまで、ほとんど間はなかった。
強く囲われるわけではない。
ただ、そのまま預けていられるくらいの近さがある。
肩口へ頭を置くと、胸元から小さな振動が伝わってくる。
呼吸とは違う揺れが混じり、顔を上げると、創矢の口元がゆっくり動いていた。
「楽しかった?」
律はうなずく。
それだけでも、きっと伝わる。
けれど今日は、それだけでは終わりたくない。
家の中には、二人と音羽だけ。
視界の先には、さっき決めたばかりの二枚がある。
律は小さく息を吸う。
「……ま、た」
創矢は何も挟まない。
ただ、続きを待っている。
律の指が、オリーブのシャツの裾をつまむ。
「……い、こ」
「うん」
返事はすぐだった。
「また行こう」
指は、そのまま裾に残る。
律も離れない。
キャビネットの上では、それぞれ違う景色を選んだ二枚のポストカードが、指二本分の白い余白を挟んで並んでいる。
あとがき
最後まで読んでくださり、ありがとうございました☘️
今回は、律と創矢が同じ個展を、それぞれの目で見る一日を書きました。
同じものの前に立っていても、心に残るものまで同じとは限りません。
そんな違いを見せ合える二人の時間と、律の中に生まれた小さな「いつか」まで感じてもらえたらと思います。
二人らしい休日の景色として、楽しんでいただけていたら何よりです。
Thank you so much for reading! ❤️
I hope you enjoyed this quiet day at the gallery with Soya and Ritsu.
I’d be happy if their different ways of seeing the same world—and Ritsu’s small “someday”—stayed with you. ✨
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
匿名や絵文字(ハートだけなど)での感想も大歓迎です。
一言でもいただけると、これからの執筆の励みになります…!✨
『サイレント・マイ・ヒーロー』
瀬尾 律/橘 創矢
オリジナル創作BL
Tomo E|Clover Room🍀
オープンチャット
Clover Room☘️|小さな物語の部屋
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作品を読んでくださってありがとうございます。
応援していただけると、これからの創作の励みになります。
そっと支えていただけたら嬉しいです。