長い旅の終わりに vol.13 「正しいことを言う人」と「正論」はイコールではない。
最近、私は「正論」という言葉に少々疲れている。
テレビをつければ正論。
SNSを開けば正論。
政治家も評論家もコメンテーターも、皆さん大変に正しい事をおっしゃっている。
にもかかわらず、世の中はちっとも住みやすくなっているようには見えない。
不思議なものである。
若い頃の私は、「正しいことを言う人=正しい人」だと信じていた。
ところが七十年以上も生きてくると、どうやら世の中はそんなに単純ではないらしいと分かってくる。
政治家という肩書きが単なる「政治屋」という職業になってしまったのはいつ頃からだろう。
どの位の給料と引き換えに、人間は「政治家」を志すのだろうか。
正論とは、論理の上に組み立てられて述べられる言葉の正しさである。
実際の所、その言葉は「立派で正しい生き方をしている人」が口にするから言葉としての説得力を持つ。
だから、正しい人とは、言葉だけではなく、その人の生き方の正しさが必要になるのである。
ところが、この二つが乖離してしまうとややこしい話に展開する。
自分の経験上、声高に正論を語る人ほど、他人に厳しく、自分には驚くほど寛大である場合が少なくない。
そして、最近の政治家(というか政治屋ですな)の殆どがこの類なのには驚いてしまう。
第一に「品格」のある政治家が少なくなった。
現在のアメリカや日本のリーダーを見れば顕著だが、品性や品格のカケラもない。
品格などない訳だから、当然国民から尊敬される事もあり得ない。
第二に本当に信頼できる人というのは、言葉で自分を正当化しようとはしない。
彼らは、人生には「正しいことだけでは片付かない事情」があることを知っている。
だから、人を追い詰めるような正しさは潔しとしない。
そして時には、正しいことを知りながら、あえて黙る。
若い頃には、私はそれを優柔不断だと思っていた。
だが今は違う。
それは弱さではない。
人間の成熟というものなのである。
考えてみれば、昭和の世代は子供の頃から「正しい人になりなさい」と教わって生きてきた。
これは大変結構なことである。
自分より目上の人で社会的な職業を担っている人、警官や先生や政治家やetc.etc. そう言った人たちを「正しい立派な人」だと思ってきた。
だが、困ったことに昭和→平成→令和という時代を経て、自分が彼らよりも年齢が上になってくると、そうでもない事が分かってきた。
「正しい立派な人」が平気な顔で「正しくない、立派ではない事を行って」いる時代になったのである。
そして、大人の世界に目をやると、「正しい人」よりも、「自分が正しいことを証明したい人」が増えて来た。
これがなかなか厄介なのである。
18歳に与えた選挙権の価値の本質がどこなのか、未だに私は理解できないでいる。
人間というものは不思議なもので、年を取れば取るほど丸くなるかと思えば、そうでもない。
むしろ、頑固になり、理屈っぽくなり、自分の経験を金科玉条のように振りかざし始める。
「だから言ったじゃないか。」
「そんなことは常識だ。」
「昔から決まっている。」
この手の言葉を使い始めたら危ない。
本人は正義のつもりなのだが、周囲から見ると、単なる「面倒くさい人」になっている可能性が高い。
なにしろ正論というのは、使い方を間違えると、包丁と同じなのである。
私も含めると、そうなるのかも知れないが、これを「老害」と一般的には呼ぶらしい。
一度「老害」と決めつけられた意見は「正論」の価値さえ失う。
包丁は野菜を切ることもできれば、人を傷つけることもできる。
包丁は「銃刀法違反」には当たらない。
厄介なのは、正論で人を傷つけた人には、あまり罪悪感がないことである。
「だって私は正しいことを言っただけですから。」
と胸を張る。
本人に悪意がないだけに始末が悪い。
タチの悪いことに、今の時代はアメリカに倣ってすぐに自分のやった事を正当化するために「弁護士」を担ぎ出して、自分の正当化を金で買ったりも出来る世の中になった。
私は若い頃「正論を述べられる人」を「立派な人」だと思っていた。
その頃は、自分が言っている事が「正論」なのか否か、の判断もできなかった。
しかし、長く生きていると、どうもそうではないらしい。
本当に立派な人というのは、正しいことを知っていても、それを振り回さない。
相手が傷ついている時には、正論より先に慰めの言葉をかける。
失敗した人には、「だから言っただろう」とは言わない。
若い人の無茶を見ても、すぐに説教を始めたりしない。
つまり、人間関係において最も大切なのは、正しさではなく、思いやりなのである。
そして、このことに気づくのに、私はずいぶん長い時間を要した。
二十代の頃の私は、正しいことを言う人間こそ立派なのだと信じていた。
三十代になると、自分の正しさを人に認めてもらいたくなった。
四十代になると、正論で人を説得できると思い込んでいた。
五十代になって、それがほとんど無意味であることを知った。
六十代になると、人間は理屈では動かないことを知った。
そして七十代になった今、ようやく分かった。
人間というのは、正しい人について行くのではない。
思いやりのある、優しい人について行くのである。
だから私は最近、「正しい人」になろうとは思わない。
それよりも、「この人と一緒にいると、なんだか安心する。」
そう思ってもらえる老人になれたらいい。
もっとも、その境地に達するまでには、あと十年くらいかかるかもしれない。
思い起こせば、昔から「お前は独善的過ぎる」と父親に言われ、説教を受けていた記憶がある。
何しろ私は、七十五歳になった今でも、時々、自分が正しいと思っているのである。
そして、そういう時に限って、家内から一言、
「はいはい、正論はそのくらいにして、お風呂でも入ってきたら?」
と軽く嗜められる。
まことに、夫婦というものはありがたい。
世の中には、正論よりも強いものが存在する。
それは、おそらく愛情と、少々のユーモアなのであろう。
