The Emulator - ザ・エミュレータ - #45
5.10 サブセット=ラビリンス
ワールドセットを少し使ってみて分かったが、抽象化レイヤーが常に現実を緩衝しているわけではなかった。基本的にはプロセッサからの感覚信号をフックして網膜投射のVRSへバイパスしてVRS上の経験を介して本物のライフログと蓄積データに還元することで抽象化レイヤーとして機能させているようだった。
シンタロウたちは地下迷宮が存在することで栄えている城壁の街『ビッグウォール』にある民家の納屋を出発点として買い出しに出かけたが、実際には自習室A201から出ていない。そして、その後は地下迷宮の攻略に向かったのだが、実際には各自の部屋に戻って各個人がプロセッサに定義していたルーティンが実行されていただけだった。
シンタロウたちが地下迷宮に降りて、1階の玄室まで進んだ経験はニアリアルタイムとして数秒おきの経験が蓄積データ上にインストールされ、それを追体験していただけだ。その間、シンタロウやカミラはルーティンプロセスとして自室で学術データの定着フォロープログラムを実行していたに過ぎなかったし、クレトにいたっては自室でプロセッサ上にルーティンとして定義していたゲームのレベル上げを行っていただけだ。
今回のエミュレータ機能のアップデート内容として、今の段階ではインプット部分をフックして信号そのものを変換して還元する緩衝機能、つまり本来の意味での抽象化レイヤーが機能する部分は少なそうだ。もっとも使われているのはプロセッサ経由のルーティンプロセス実行中にVRSを見せるというパラレル処理が中心だった。このリージョンのプロセッサは事前に定義しておけばルーティンプロセスとしてフィジカルの制御を行うことができる。VRSの中の経験をマニュアルにして、フィジカルはルーティンプロセスを使ったオートにすると、フィジカルの経験は記憶としてのライフログではなく、蓄積データ化することができる。
ルーティン実行中の蓄積データはリアルタイム性が損なわれるものの、その経験を思い出すように後から追体験することが可能だった。VRSの経験とフィジカルの追体験の切り替えを脳内で行うことは慣れない間は著しく神経の消耗を伴う。こちらのリージョンではコンテキストの切り替えの方法論を学ぶ授業や実際にそのトレーニングを行うための授業がカリキュラムとして組み込まれている。シンタロウにはまだ馴染がなかったのですぐ疲れてしまった。
翌朝、ワールドセットを有効化したままシンタロウとグエンが朝食をとっていた。ポインタのグエンと一緒にいるのでなんとなく混合席を選んでいる。シンタロウを見つけて久しぶりにサクラが隣に座った。そしてシンタロウはサクラを見て息を呑んだ。
「サクラもワールドセットのファンタジーやってるんだ。ハイエルフを選んだの?」
サクラは元々整った顔をしていたがハイエルフのもつ華やかさと繊細さが加わり、人間よりも長くとがった耳の皮膚は薄くサクラの肌そのものでなまめかしい質感だった。それはサクラがまだ見せたことのない肌の一部をシンタロウは見てしまった気がして恥ずかしくなり、それ以上サクラのとがった耳を直視できなかった。朝日がステンドグラスの彩光を取り込みサクラの頬に淡い色を付ける。サクラの黒い髪とその瞳に見慣れていたはずのシンタロウでさえサクラのその美しさから目を離すことが出来ず、息を呑むしかなかった。
ヴィノは基本的に美しい容姿でデザインされる。しかし、美しいヴィノに見慣れたこのリージョンのネイティブの生徒でさえ、サクラの近くを通り過ぎる際に振り返ってサクラを見ていた。それだけサクラの美しさが際立っていると言うことでもあるが、それに気が付く生徒がこれだけたくさんいるということは、多くの若者が早速ワールドセットを有効にして過ごしていることの現れでもあった。
「そう、みんなで相談して役割を決めたんだよ。それで昨日は3階まで行ったわ。」
そう言ってサクラは嬉しそうに笑った。
「俺たちよりもかなり早いな。俺たちは昨日、1階の4つ目の玄室まで行ったんだ。結構時間がかかって夜遅くなってたからカミラが帰るっていうし、俺もコンテキストの切り替えですごく疲れたからそこまでにしておいたんだよね。」
サクラたちヴィノは眠る必要がない。効率は良くないが通常の食事から接種した栄養素からエネルギーを生成することができるし、極端にチャージが少ない場合は、近接チャージャーのそばに一定期間いればそれで済む。有機物の菌糸の発育やタンパク質生成のために暗室でおとなしくしている時間を取ることが推奨されているが必須ではない。
「あー、あそこかぁ。その次がほんとにすごいんだよ? ゲイミーなんてこんなになってたんだから。」
そう言ってサクラは目を丸くして鼻を膨らませてゲイミーの真似をして笑っている。サクラはずいぶん明るくなった。サクラと一緒にいる時間がどんどん少なくなっている。サクラが楽しそうにしているのでこのままでいいのかもしれない。
自分だけのインプットを持ち、自分だけの蓄積データを持つ今のサクラの方が本来のサクラなのかもしれない。もしかしたらこのままサクラ固有の蓄積データを積み重ねていけばわざわざ人間にならなくてもサクラは自分自身になれるし、それで幸せなのかもしれない。そう思うとなぜかシンタロウは気分が沈むようだった。
次話:5.11 コンフュージョン
前話:5.9 ワールドセット=ファンタジー
