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現代アートが問いかけてくる豊かな時間


このエントリーは、ユタカジン に寄稿しています。


僕は現代アートが好きで、展覧会に行くと
気になる作品の前では、わりと長い時間を過ごしています。

ひととおり会場を回ったあと
特定の作品の前にまた戻ってきて
しばらく、じっと観るっていう感じです。

こういう見方が正しいのかどうかわかりませんが
ただ一緒に時間を過ごす、という感じです。

現代アートが好きな理由はいくつかありますが
一番大きいのは、評価が定まっていないことかもしれません。

誰が見ても同じような答えになるわけでなく
どんなふうに感じても否定されない
そういう自由さ、楽さが、僕は好きなんです。

ピカソやゴッホ、デュシャンのような
いわゆる巨匠の作品ももちろんすごいと思います。

でも同時に、どこかで

「僕は、ちゃんと正しく見ているのだろうか?」

という、そわそわした感じで
どうしても居心地悪くなるのです。

こういう巨匠たちは
歴史の中で、研究され尽くしているから
なんだか正しい評価で観ないと観れていない
気がしてしまいます、

一方で、現代アートや
あまり説明されすぎていない作品の前に立つと

「なんで自分はこれが気になるんだろう?」

という問いが自然に浮かんできます。

だから、本当は作品を見ているようで
実は自分の内側と対話している時間なのだと思うのです。

たとえば このマウリツィオ・カテランの
《ある完璧な一日》という作品があります。


ある完璧な一日(マウリツィオ・カテラン)


タイトルを見て、作品を見たとき、僕は

「あなたは、完璧な一日って、スケジュールを
完璧にこなすことだと思い込んでいないか?」

と問いかけられているように感じました。

完璧を目指すこと自体が
どこかバカバカしく思えてきたり
「そもそも完璧にそんな価値があるんだっけ?」
と思わず考えたりします。

もちろん、解釈に正解があるわけではないですが
自分の中で、思考がぐるぐる回り始める感覚があります。

同じような体験は
高島野十郎の《蝋燭》を見たときにもありました。


蝋燭(高島野十郎)

蝋燭の絵は、よく人生のメタファーとして語られます。

火が灯っている時間、少しずつ短くなっていく蝋
そしていつか消える火。

この作家の高島野十郎は
親しい人、それぞれに宛てて
別々の蝋燭の絵を描いていたそうです。

だからこそ
なんだか、その一本一本の蝋燭に
相手へのまなざしが込められているようにも感じます。

さらに、彼の《りんごを手にした自画像》を見たときに
僕はどこか挑戦的で、「知ったことか」と
世の中に言っているような雰囲気を受け取りました。


りんごを手にした自画像(高島野十郎)

これが正しい解釈かどうかは分かりません。

でも、その瞬間に僕の中で

「ああ、最近自分は、ちょっと世の中に合わせすぎて
息が詰まっていたのかもしれないな」

という感覚が、啓示のように立ちあがった気がしたのです。

面白いのは、こうした抽象的な体験が
ちゃんと生活に影響することです。

例えば、この自画像の絵を見る前は

「今日も、ちゃんと家族が喜ぶ夕食を作らねば」

と、少し肩に力が入っていたのが、、観たあとはなぜか

「ふん、うるさい。俺が美味いと思って
作ったものを、喜んで食え!」

みたいな気持ちに変わったのです。

どうでもいい話のようですが
生活や人生って、たぶんこういう
小さな変化の積み重ねなのだと思います。

もっと軽い話もあります。

フィンレイソンという
北欧のテキスタイルブランドの展覧会で
すごく気に入った一枚がありました。


フィンレイソンの作品(ちょっと斜めですけど…)

たぶんアイニ・ヴァーリのデザインだったと思います。

これを前にして僕が考えていたのは

「家に飾るならどこかな」
「毎日これを見たら、どんな気分になるかな」

とかいうことを、あれこれ考えていました。

まぁ、コピーを買えばいいのですが
あれこれ想像している時間そのものが
もう十分に楽しいのです。

アートでも、音楽でも
映画でも、アニメでもなんでもいいです。

それを受け取るときに

「自分だったらどうするかな?」
「この人はなぜこうしたのかな?」

という視点で、じっくり時間を取ってみます。

すると不思議なことに
なんだか、自分が抱えている
複雑で難しい問題に、答えが出たりします。

(あるいは、出たような気になります)

自己啓発書やセミナーでは
「こんなときはこうする」という答えが
手っ取り早く手に入ります。

それはラクだし気持ちがいい。

でも、僕自身にとっては
具体的すぎて役に立たないんです。

状況が少し違うだけで
その内容が、僕にあわなくなります。

だから、読んだとき
セミナーで聞いたときは
うまくいくような気がするけど
答えだけでは、僕の現実にアジャストできないのです。

その点、アートは答えをくれません。


ただ、言葉にできない
何かを投げかけてくる気がします。

その前で思考をぐるぐる巡らせていると

「抽象的な訴えを、抽象的に受け取る」

ということが起きます。

そしてその曖昧さがあるからこそ
自分なりの形に変換できる余地が残る。

だから、そのあとに

「なんだか新しいことができそうかも!」

という、根拠ははっきりしないけど
確信のような、予感のようなものが生まれてくるんです。

答えが欲しいときに
答えを手に入れると、ラクだし気持ちよいです。

でも、それは
結局のところ誰かの答えであって
僕の答えではないことが多いのです。

だから、答え探しをしていても
豊かになれないんじゃないかと思っているのです。

それよりも

「問いかけてくるもの」

に時間をつかってみる。

その問いかけに
あーでもない、こーでもないと
考えを巡らせて、答えがでたようなでてないような…

そういう時間を過ごしたあとに
よし、ではこうしてみようか、と
答えのようなものがでてきたときに

「この時間は豊かな時間だったんじゃないかな」

と、僕には思えるのです。

ちなみに、最近観て「すごーい」と思ったのは
東京国立博物館でみた、伊能忠敬の地図と

伊能忠敬の地図


栗本丹洲の《千虫譜(せんちゅうふ)》です。


千虫譜(栗本丹洲)


もう、ぜんぜん現代アートじゃないですけどね(笑)

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