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ひとひら 第二話

境界 

4月1日  AM7:00 


扉を閉めて、

両手で包むように抱っこしていた猫をそっと床に下ろす。

浅いお皿を探して水を入れていると、
猫は逃げ出すこともなく、私の足元で大人しく待っている。
その様子が妙に愛おしくて、胸の奥がふわりと温かくなった。

「さぁ、どうぞ」

お皿を置くと、猫は警戒もせずに水を舐め始めた。
突然現れたとは思えない落ち着きぶりだ。

「……ほんとに、どこから来たの?」

猫は返事をしない。
ただ静かに喉を鳴らし続け、その響きが木製の部屋にやさしく満ちていく。

ペットショップで食べられるものを買うべきか考えながら、
ふと、心の端で思う。

——明日には、もう、どこかへ行ってしまうのかもしれない。

そう思うと、指先が少し冷えた。

猫が水を飲む音をしばらく聞いたあと、そっと立ち上がる。
半袖のグレーのワンピースに黒いジャケットを羽織る。
飾り気のないピアスを付け、髪を右側にまとめる。
肩が凝るから、明日は左にするつもり。
そんな小さな習慣が、なんだか自分を落ち着かせてくれる。

日焼けしないように軽くファンデーションをのせ、リップをひと塗り。
外出は久しぶりで、胸が少しだけ高鳴った。

その時。

ジリリリリリッ——。

肩が跳ねる。

ピンポーンの電子音に慣れていたせいか、
昔ながらの音が、やけに大きく感じた。

「あ、はいっ!」

わざと明るい声を出して玄関へ向かう。

鍵を開けると、
郵便配達のお姉さんが手紙を差し出してきた。

「お届け物です」

定番のセリフに緊張がほぐれる。
しかし差し出されたそれは、書類ではなく、
どこか懐かしさを感じる便箋の手紙だった。

訝しげに顔を傾げながらも、

お姉さんに「ご苦労様です」と言って見送る。

お姉さんは眩しい笑顔で、会釈して去っていった。

手に取った瞬間、

封筒の紙が、朝の光を受けてきらめく。

ひんやりと冷たい。

『稲森 雫 様』

差出人はない。

「誰だろう?」

胸の奥に小さなざわつきを覚えながらカッターを取り、封を切る。
中には二枚の便箋。
けれど、文字が書かれているのは一枚だけだった。

「しずくへ」

その書き出しに、なぜか胸の奥がふっと締めつけられる。
筆跡は見覚えがあるような、ないような。
誰かに似ている気がするのに、どうしても名前が浮かばない。

読み進めるうちに、
穏やかな言葉の中に、
ひとつだけ妙に浮いている文章があった。

今日は、海には行かないで。

理由は書かれていない。
けれど、その行だけが妙に濃く目に残った。

「……どういう意味?」

呟いても、返事はない。
二枚目の便箋は白紙だった。

不可思議な手紙なのに、なぜか怖くはなかった。

ただ、いつもの散歩道には、海がある。
違和感を覚えながらも、

手紙から目が離せない。

ソファに寄りかかり、何度も読み返す。
気がつけば、
時刻はもうすぐ8時30分。

封筒をバッグにしまい、郵便局へ向かう。

ひんやりした空気が頬をかすめ、
さきほどの手紙の一言が、脳裏で何度も繰り返された。

——海には行かないで。

ただの気まぐれかもしれない。
でも、胸の奥の小さなざわつきは消えなかった。


郵便局で用事を済ませ帰る途中、

空気がふっと変わった。
晴れているはずなのに、すうっと温度が下がる。

「……?」

視界の端で白いものが揺れた。
風もないのに、白い花びらがまっすぐこちらへ落ちてくる。

手を伸ばすと、花びらはふわりと方向を変え、

森の奥へ吸い込まれるように飛んでいった。
——まるで誘うように。

『今日は、海には行かないで。』

その言葉が背中を押した。

森へ足を踏み入れると、音がひとつ、またひとつ消えていく。
鳥の声も、

風の気配も遠ざかり、

白い花びらだけがひらひらと舞う。

——その先に。

一本だけ、季節外れの白い花をつけた巨木が立っていた。

椿でも桜でもない。
光を吸い込んだような、透きとおる白。

足元には、昨日感じたひんやりとした空気。
木の周囲だけ、別の季節が流れているかのようだ。

「……綺麗」

惹かれるように近づき、木の幹に触れる。
ざらりとした木肌が確かに現実のものなのに、
周囲の景色が、どこか夢の中のように滲んでいく。

海の匂いがしない。
風が吹かない。
自分の呼吸音だけが、森に溶けていく。

——ひらっ。

落ちてきた花びらを手で受け止める。

光に透かすと、
それは鏡のように私の顔を映していた。

「……!」

驚いて後ずさると、花びらは地面に落ち、ただの白に戻った。

震える指で拾い上げると、
また、ぼんやりと光を帯びて、
今度は幼い頃の私の顔が映る。

「なんで……」

次の瞬間、映像は海辺へと変わった。
白い砂浜。波の音。
けれど私が知る海とは違う、どこか懐かしい景色。

胸が早鐘のように鳴る。

こんなこと、あるはずがない。
それなのに……

そこまで思った瞬間。

ぐらり。

世界が波打つように歪んだ。

木々が揺らぎ、空がねじれ、
地面が、沈む。

「えっ……」

息を吸うと、空気が変わっていた。
冷たく、重く、どこか懐かしくて、知らない空気。

振り返ると、歩いてきたはずの道の景色が変わっている。

戸惑う私を、
木々の陰から猫だけが静かに見ていた。

——その瞳には、白い花びらだけが映っていた。








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