見出し画像

ひとひら 第五話 

静かな町 

3月31日 AM5:00


この町に来て、三週間しか経っていないのに、
もう何年も前から、ここで暮らしていたような気がする。
時間の流れが、ゆるやかだ。

朝は、東京より少しだけ早く明るくなる。

海と森に挟まれた細長い土地は、
夜明けが近づくと、淡くミルク色に染まって、
外を歩くと、潮と草の香りが混じった空気で胸いっぱいになる。

——この感覚が、好きだ。

都会で働いていた頃は、朝はただの準備の時間だった。

着替えて、身支度して、電車に飛び乗って、
気付けば、もう、気持ちのどこにも余白なんて残っていなかった。

あの頃の私は、無理をしていたと思う。

仕事も、人間関係も、それから

……恋も。

あれこれ考えすぎて、
自分のための時間がどんどん削られていった。

そんな時に、偶然見つけたのが、
この森の中のログハウスだった。
ネットの写真で見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。

「暮らしてみたい」というより、
「ここで深呼吸がしたい」と思ったのだ。

両親にはすぐに連絡をして、
少し疲れた、とだけ伝えた。

両親は驚きながらも、反対はしなかった。

……実家に遊びに来なさいと強く言われたけど。

そして、落ち着いたら、また仕事を探すと約束して、
私は珍しく積極的に動いた。

見学に来た時は、海の音がよく聞こえていた。
風が強い日は、波の形まで分かる気がしてくる。
森の中を吹き抜ける風が、
まとわりついていた疲れをふっと剥がしてくれるようで。

——ここなら、何かが変わる気がした。

「逃げた」と言われれば、たぶんそうなんだろう。
仕事を辞め、あの人との関係も終わりにした。
大切にしていたはずなのに、
私でなくてもいいのかもしれないと思ってしまった。

そのまま、隣にいる勇気がなかった。

だから、ここに来た。
都会の喧騒も、人の視線も、
答えを急かす毎日も、
一度、手放したかった。

この町の朝は、そんな私を責めない。

ざわざわした心も、
張り詰めた気持ちも、
ここでは、ただの風の音に溶けていく。

森には名前の知らない色とりどりの草花が多くて、
白い花びらが道の端にひらりと落ちているのを見つけることがある。
誰に聞いても、
「そんな花、咲いてたっけ?」
と首をかしげられるけれど、
私は好きだ。

理由はうまく言えない。ただ、
ここに来てよかったと、柔らかく教えてくれる気がして。

今日も、静かに朝が始まる。
深呼吸して、白湯を飲んで、
ページをめくるときの指の動きまで、
全部がやさしい。

この町には、海と森の反対側に家々が立ち並んでいる。

駅まで徒歩15分くらいで着く便利な場所にある。
駅前に行けば大好きなカフェもスーパーも病院も、
役場もあって、
住むのに困らないベッドタウンだ。

都心は遠いけど、自然は豊か。
住むにはちょうどいい場所を見つけた、と我ながら思う。

町に繰り出せば、知らないおじさんもおばさんも、
みんな気さくに話しかけてくれる。
東京に住んでいた時には忘れていた感覚が蘇る。

温かな空気に触れて、心が解けていく。

まだ誰も知らない、私の新しい生活。
……今日はどんな日になるんだろう。
そんなことを考えながら、
カーテンを開ける。

眼前に広がる青々とした森の木々と、
砂浜と海と空。

思いっきり伸びをすると、
なんとも言えない開放感に包まれた。

自然と笑みがこぼれる。

——この朝が、いつまで続くのかも知らずに。








▶︎ひとひら 物語の入り口 第五話🌿

(YouTubeショート)



いいなと思ったら応援しよう!

COBITo|物語を書く人 【のんびり率120%🌿】 この物語を楽しんでいただけたら、そっと応援していただけると嬉しいです。いただいたチップは、物語を続けていく力に使わせていただきます。