ひとひら 第三話
手紙
4月1日 AM 9:10
巨木の感触が、まだ消えない。
——あの手紙。
『しずくへ
こんにちは。
引っ越してきて三週間目ですね。
新しい暮らしには慣れてきましたか。
朝の光が差し込む窓辺を、あなたが気に入るだろうと
私はなんとなく思っていました。
少し疲れが出る頃かもしれませんが、
どうか無理をしないでください。
深呼吸をして、ゆっくり過ごすだけで十分です。
あまり遠くへ歩き回らず、
今日は家の近くの森の方へ散歩するのをおすすめします。
理由は、うまく説明できません。
ただ、
今日は、海には行かないで。
悪いことが起こるわけではありません。
ただ、あなたが悲しい思いをしなくてすむように、
そうしてほしいだけです。
小さな幸せを、丁寧に大切にして暮らしてください。
また書きます。』
一体、誰が手紙を書いたのだろう。
私は、そこで目を止めた。
見覚えがある。
——はずなのに、思い出せない。
封筒の中に残っていた二枚目をカサっと取り出す。
「……何も書いてない」
一枚目は綺麗な花柄の便箋で書かれていたのに、
二枚目は真っ白な便箋が入っているだけ、
裏表見ても光にかざしてみても、
何も書かれていない。
「んー……」
ザワッと風が吹いて、
手紙から視線を外して巨木を見る。
白い花がひらり、ひらりと舞った。
私は便箋を封筒へ戻すとワンピースのポケットにしまった。
「ふぅ」
ため息をついて、肩を落とす。
雰囲気が変わったような帰り道を振り返り、
不安を感じながらも、帰ろうと足を進めた。
頭の中は混乱したままだけれど、
ひとまず自宅でゆっくり休めば、
少し落ち着くはずだ。
歩みを進めながら、
ふと考えたのは手紙の内容。
海に行ったら何があるのだろう……
ただ、自分でも不思議なくらい、
海には近づいてはいけない気がした。
胸の奥に小さな違和感が広がっていく。
さらに目に飛び込んでくる景色は、
来たときよりも、
森の草木が濃くなっているように見えた。
草を踏む音が、やけに大きく響く。
森を抜け、町の風景が見えたとき、
私は無意識に歩調を速めていた。
自宅への道は、こんなに長かっただろうか。
息が上がり、
額に汗がにじむ。
ようやくログハウスが見えたとき、
私はほっと息をついた。
——はずだった。
……明かりが、ついている。
胸の奥が、きゅっと縮む。
近づくにつれ、
中からキッチンで作業する音が聞こえてくる。
——なんでうちに誰かいるの?
怪しい気配ではない。
むしろ、生活の音だ。
何かが、ずれている。
何となく見て見ぬ振りして通ってきた森の感じも、
帰り道も、
ログハウスの生活の匂いまで、
私を拒んでいる。
巨木の下で触れた感触、花びら、めまい、手紙の文字。
その後から——
ジリリリリリー
混乱した頭のまま私の指はチャイムを押していた。
こちらに向かってくる足音がする。
「はーい」
木の扉越しから女性の声が聞こえる。
かちゃっと音がすると、
扉が開いてベージュのシンプルなエプロンをつけた、
長い髪を束ねた女性が顔を出す。
「どちら様ですか?」
穏やかな表情を作って顔を出した女性は、
20代後半か30代前半といったところだろう。
柔らかい雰囲気の、どこにでもいそうな人。
——誰?
頭が真っ白になる。
ここは私の家のはずなのに。
「……あの……」
喉が、ひくりとなる。
何か言わなきゃ--。
意を決して、静かに訪ねる。
「すみません。この辺りに稲森という者は住んでいませんか?」
女性は、一瞬キョトンとした顔をした後、首を傾げる。
「……すみません。稲森、ですか?
稲森は私の旧姓ですけど。」
——この人も稲森……?
胸の奥が、すうっと冷える。
私は、何も言えなくなった。
そのまま一礼し、
ログハウスを背に歩き出す。
少し離れたところで振り向くと、
昼食を作っている途中だったのだろう。
窓からキッチンへ向かう女性の姿がチラッと見える。
中の間取りを知っているだけに、
導線も想像できてしまう。
このログハウスは一人で暮らすには、広いのだ。
恐らく二人で住んでいるのだろう。
玄関には、男物の帽子とジャケットが掛かっていた。
何が起きているのか。
震える肩を抱きながらも、腹が鳴る。
「……お腹空いた」
郵便局の帰りで良かった。
カバンに必要なものは入っている。
とりあえず、コンビニでも行って何か買おう。
でも、その後、いったいどうしたら……
その時、
ミャー。
背後から、小さな声がした。
ドキッとして振り返ると、
朝、家にいたはずの猫が、そこにいた。
「……え」
ありえない。
置いてきたはずなのに。
なのに、確かにそこにいる。
ミャー。
猫は迷いなく駆け寄ってきて、
胸元に跳び込んできた。
「わっ……」
反射的に抱きとめる。
温かい。
確かに、現実の重さがある。
「……あなた」
頬にすり、と柔らかな毛が触れる。
その瞬間、張り詰めていた胸の奥が、
ふっと、ほどけた。
呼吸が、戻る。
……あぁ。
説明できない出来事よりも、
居場所がないかもしれない。
その事が、何より怖かった。
「びっくりしたよ……」
猫は何も言わず、
ただ喉を鳴らしている。
それだけで、
私はまだ、ここに立っていられた。
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