見出し画像

【短編小説】 冷たくなったオニオンスープ|加筆修正版

約9,700字



第一話 「朝焼け」

 朝焼けを眺める。
 砂の上で。
 冷たい砂が、じわりと背中に沈む。
 指先を動かすと、乾いた砂が爪の間に入り込んだ。

 
波が引くたびに、音だけが近づいてくる。
 
 
 ぼんやりと目を凝らすと、明るくなり始めた鈍色の空が顔色を変えた。
 
 
 かさっという音に、体が跳ねる。
 
 小さなカニが、私の手から離れていく。
 
 ……潰さないで、よかった。
 
 ざわめく胸は、規則的な波の音でかき消されていた。
 
 このまま、砂に飲み込まれていたい。
 

 
 ……でも。

「あー、何やってんだよ」

 
声と同時に腕を引かれ、上体を起こされた。
 
 私の背中に張り付いた、さらさらの砂をはたく。

「これ、ちゃんと取れねーぞ」

 
丁寧に背中をさするように砂を払う。
 
 それから、私の長い髪に指を通した。
 途中、髪は何度も絡まり、彼の手に巻きつく。
 
 
 まるで――
 
 
 ……やめる。
 


「いいよ、もう」

 
私は仕方なく、立ち上がる。
 
 
 その時、向こうから複数の男女の姿が見えた。
 
 
 ……早く、行かなきゃ。
 
 
 息が、うまく吸えない。

 
「じゃあ……」

 
そう言って、みんなとは反対方向に向かう。
 サンダルが砂に沈み、思うように足が進まない。
 


「おい」


 ……何も聞きたくない。

「ねー、何してんのー?」


 他のメンバーが合流したようだ。
 

 でも、少し距離が開いている。
 


「さおりと何話してたのー?」
 
 やけに耳につく声だった。

「……別に。朝日でも見てたんだろ」

「ふーん」

「それよりも、戻ろうぜ。朝食ビュッフェだってよ。」

「いいねー」

「俺、パンね。」

「私、ご飯。」

「やっぱ、家で違うよな」


 誰もいない海に、声だけが響く。
 


「さとるは?」

「……俺、ごはん」
 
 

 足が止まる。
 
 

 ――嘘つき。

 
ふと、視線を感じた気がして、足を速めた。

 
部屋に戻ると、誰もいなかった。
 みんな朝食を食べに行ったんだろう。

 修学旅行は、明日までだった。
 
――早く、帰りたい。
 
悟の顔が浮かぶ。

 この場から、離れたかった。
 浴室に行くと、腹が鳴る。

 さっとシャワーを浴びて、食事の会場へ向かった。

 
一階に降りると、食器の触れ合う乾いた音が絶えず響いていた。
 ざわめきのような生徒たちの声も、朝はどこか静かに感じる。
 お盆を取る。

 食事を終えている人たちも多かった。
 


「おはよう、さおり。遅かったね」

「ゆたか、おはよう」

「どこ行ってたの?」

「……海」


 豊の目が輝く。


「いいな、俺も行きたかった」


 近づくと、影が深くなる。

 いつも豊の匂いがすると、少しドキッとしてしまう。


「明日……行く?」


 そっと、仰ぎ見ると、豊の耳が赤く染まった気がした。



「はいはい!列が詰まってるよ。先に食事摂りなよ」

 
悟の声が大きい。
 
 ……いつの間に。


「もう、食べたんじゃないの?」


「……食後のデザートだよ」


 フルーツを入れた器を見せてくる。

 私はため息をついて、手を動かした。
 

 ブロッコリーと、キャベツ、コーンにトマト。

 あとは……。


「はい、ゴマドレ」


 悟がかけてくる。


「……気分じゃないかもしれないだろ。」


 豊が口を挟んだ。


「さおりは、いつもこれなんだよ」


 また、ため息が出てしまう。

 何やら言い争いが始まったので、距離を置くことにした。

 
朝は、野菜とスクランブルエッグとハム。

 パンがあれば、ちょうどよかった。

 でも、今日はビュッフェだったから、オニオンスープを追加した。
 


「いただきます」


 スプーンを沈めると、薄茶色の表面がゆっくりと揺れた。

 そのまま口へ運ぶ。

 やわらかい甘さが、舌の上でほどける。

 喉を落ちていく温度だけが、静かに残った。

 朝の気分がスッと晴れる。


 顔を上げると、豊が隣にいた。



「いただきます」


 豊が盆を置いて、箸を持ったまま手を合わせる。

 ……随分、食べるのね。



「さおり、おはよう!」


 ミカだ。


「二人とも、まだ食べてなかったの?」

「薄情な~。さおり、探してたんだよ~。どこ行ってたのよ」

「ごめん、せっかく来たから、海を散歩してて……」

「えー、誘ってよ」


 私は苦笑した。

 ミカの手が私の肩を揺らしていると、
悟がどさっと前に座る。

 フルーツヨーグルトとコーヒーだ。

 ヨーグルトをスプーンですくって、「うま」と呟いている。
 
……困る
。 

 横を見ると、豊はバクバク食べている。

 みんな美味しそうに食べる。


「さおり-食べないの。」

「……食べるよ」


 私は箸を動かした。

 お腹がいっぱいになると、
余韻に浸ることもなく、ミカが私の肩を抱いた。

 引き寄せられると、耳元でヒソヒソと囁く。

「アンナのやつが、あんたの悪口言いまくってるよ。
さっき、悟も独占してたし、マジ、ムカつくんだけど。」


 私はミカの耳元に手を添えて、こそっと話す。


「気にしないの」


 本当はしているけれど、仕方ない。

 ミカの眉が歪む。

 
その時、私の肩を豊の指がトントンと叩いた。

 
振り返ると、
頬杖をついて、指を自分の方に向ける。


「俺にもして」

 ……何を?


 私が目で訴えると、豊は自分の耳を指した。

 私は首を傾げる。
 今度は、後ろから大きなため息が聞こえた。

「あんたたち、女に生まれればよかったんじゃない」

 ミカはさっと立ち上がると、私に「行こっ」と言って、お盆を持った。
 私もあとに続く。
 振り返ると、豊はまだ私を見ていた。


 その向かいで、悟は空のコーヒーカップに目を落としていた。

第二話 「二番目」

 見学を終え、午後は自由時間だった。
 
私はミカにぴったりと腕を組まれていた。
 触れた腕から伝わる体温に、胸の奥が少しだけ緩む。
 
……本当なら、彼氏と回りたいはずなのに。

 考えていることを見透かしたように、ミカが私のおでこを軽く叩いた。
 
にこっと笑う彼女は太陽みたいだ。
 
通りの向こう側で、アンナたちがこちらを見ていた。
 
……関わりたくない。
 
付き合っているわけじゃないけれど、
 なんとなく、悟と距離をおきはじめたのは、アンナの一言が原因だった。

 ——三ヶ月前。

「悟っていいな~」


 軽い発言だった。

 教室のみんなが振り返った。
 
……でも、アンナは本気だったのかも。
 
悟はすぐに「ふざけんな」と断っていたけど、アンナは気にしていないようだった。
 
 
 そして、一ヶ月前だった。
 
急に、教室で悟が言ったのだ。

「付き合おう」

 
――アンナに。
 


 彼女は、いつも可愛らしく、男子に囲まれていた。

 あまりいい噂を聞かない。

 心配じゃないかといえば、嘘になる。
 

 でも……どこかで、許せなかった。

「そういえば、お土産見てなかったー。雑貨屋さん行こうよ」

 ミカの声に、沈んでいた意識が引き戻される。

「賛成」

 
微笑むと、ミカがもっと笑った。

 部屋は、ミカと陽子と相部屋だった。
 
二人は今、それぞれ彼氏のところへ遊びに行っている。

 窓を開けてベランダへ出ると、夜風が頬を撫でた。
 
早く、卒業したい。

 大学は悟と違った。
 
このまま、静かに離れられる。

 そのことに安堵する。

 
ふと、朝の会話が頭を過ぎる。

 ――豊を誘おうか。
 


 私は、部屋を出た。

 廊下を進むと、会いたくないのに、会ってしまう。
 
無視しようか迷う。
 

 でも、悟は私から視線を逸らさなかった。

「……なに?」
「どこ行くの?」

 
深く、息を吐く。

「言わないといけないの」

 
悟は一瞬だけ黙り、視線を逸らした。


「夜だし、部屋にいろよ」

 
どこを見ているのか……

「そうだね……」

 
そう言って、通り過ぎようとする。
 
パシッと腕を掴まれる。
 
手が熱い。
 
非難の目を向けると、それは無視された。

「……部屋まで送る」
 
 

 何それ。


 ざわめきが心を埋める。
 
叫んでしまいたい。
 

 でも、……逆らえない。
 部屋に押し戻され、背後で扉が閉まった。
 
扉越しに小さな声が聞こえる。


「危ないから、出るなよ」


 
従う気なんてなかったけど、
 悟の声は、ちゃんと心配する声だった。
 
だから、扉の前から動けなかった。

 翌朝、海に出ようとサンダルを履く。

 ミカと陽子はまだ眠っていたから、そのまま部屋を出た。
 
ふと、昨日、話せなかった人のところへ足を向ける。

 豊が本当に海へ行くかは分からない。
 それでも、会えたら誘ってみようと思った。
 ロビーに行くと、豊がソファに座って水を飲んでいた。

 本当にいたことが、少し嬉しい。
 
 

「豊、おはよう」
 


 私の声に、豊の顔が上がる。
 
 

「おはよう、さおり」


 
豊の表情が、ぱっと明るくなる。
 
私が駆け寄ると、後ろから声がした。
 
 

「お似合いじゃない~」

 
アンナが悟と腕を組みながら、大きな声で言った。

 悟はこちらを見ない。


「ふふ、行こうよ、悟」


 悟は黙ってついていく。

 嬉しそうじゃないことが、心配だった。


「……あいつ、大丈夫かよ」

 
返事ができない。

 私の顔がもっと曇る前に、豊が背中をポンと叩いた。


「行こうか」
 
 

 元の笑顔に戻っている。


 
「うん」

 
私も笑う。

 
扉を開けると、朝の海が迎えてくれた。
 
潮の香りが全身を包む。
 
早朝なのに、日差しはもう目を細めるほど強かった。

 
「いい天気だなぁ」


 同じように光を遮りながら、豊がはしゃいだ。

 豊は裸足になると、波へ足を浸して私を振り返った。
 
私もビーチサンダルを脱いで、足を浸した。
 
くすぐったい冷たさに、思わず足の指が縮こまる。
 
目を閉じて、息を大きく吸い込むと、少しだけ色んなことがどうでも良くなる。
 
ゆっくりと目を開けると、豊と視線が絡む。

 笑う豊を見て、少しだけ安堵した。


「……もう、終わりだね。修学旅行」

「そうだね」

 
波を蹴って歩く。
 豊が追って、横に並ぶ。
 


「卒業したら、一人暮らしするの?」


「……悩み中。親は良いよって言ってくれたけど。実家からだと遠いしね。豊は?」


「俺は、一人暮らし予定。……遊びおいでよ。大学の近くにしたんだ」


 豊とは同じ大学だった。
 学部は違うけど。

 
「うん。行こうかな」

 
笑って言うと、豊の耳が真っ赤に染まった。
 
……分かりやす過ぎるのよね。
 
なんだか、私も恥ずかしくなってくる。


「なぁ、さおり」

「……ん?」

「俺にしないか」

 
豊の瞳が、私をまっすぐに射る。


「……二番目でもいいんだ」

 
息が止まる。

 
言葉が出ない。

 
潮風が、私の肌に張り付いた。
 
私は逃避するように、視線を逸らして海を眺めた。
 静かな波が、ずっと、行ったり来たりしている。

 
まるで、
 私みたいに。


第三話 「放課後」

 
修学旅行から戻ると、荷物も片付けないまま、ベッドへ倒れ込んだ。

 手触りの好きなクッションを抱きしめ、天井を見上げる。
 
深い、深いため息が、何度も零れた。
 
頭の中に、帰りのバスを降りた時に、ミカに言われた言葉が消えない。

「……豊にしたら?」


 ――わかってる。
 

 わかってる、けど……。
 


 その時、インターホンが鳴った。
 
……こんな時間に、誰?
 

 宅配便にしては、声が聞こえない。
 
動く気力がなくて、顔だけを扉へ向ける。
 
その時だった。
 
 
 ノック音。

「さおり、悟くん、きてるわよ」
 


 ――は。


 
まだ、解散してから一時間ちょっとしか経っていない。
 
私は、制服のままだった。


「入るわよ」
 


 焦って、起き上がると服を整える。

 無駄だと思っていても、髪を撫でつけた。
 
戸が開き、お母さんの肩越しに悟が見えた。


「妙子さん、ありがとうございます」


 普段では考えられないような、まともな挨拶をして頭を下げる。



「あら、良いのよ、ごゆっくり」


 ただ、呆然とお母さんの去っていく姿を見る。
 
悟は慣れたように部屋に入ると、
ローテーブルの前に座って、ビニール袋を置いた。
 


「……どうしたの」

 
悟は笑いもせず、ビニール袋の持ち手を何度も折り曲げていた。


「小腹が空いてるかと思って」
 


 袋の形を見ただけで、中身が何か気づいてしまう。


「作ってきてくれたの?」


 
悟は少しだけ頷いた。

 ため息が出る。
 
私はローテーブルを挟んで座り、袋の中から、まだ温かい容器を取り出す。
 
悟お手製のオニオンスープだった。
 
昔から、料理上手で遊びに行くたびに食べさせてくれた。
 
私はこれが一番好きだった。
 
しょっぱすぎなくて、すごく甘い。
 
飴色になるまで煮込まれた玉ねぎの甘さも、舌の上でほどける食感も。
 
全部。
 
聞きたいことが山のようにあった。
 
でも……聞きたくない。



「……食べていい?」

 
悟の目が大きく開く。

「あぁ」

 
私はビニール袋に入っているプラスチックのスプーンを取り出す。

 本当に、準備がいい。
 
スプーンですくい、口へ運ぶ。
 
まろやかな感触に目を閉じる。

 うん……この味。


「おいしい」

 
呟くと、悟の目が緩んだ気がした。
 

 私は、ぱくぱく口に運ぶ。
 
悟は何も言わず、黙って見ている。

「……じゃあ、俺、帰るわ」

 手が止まる。
 


「どうして?」


「……どうしてって」

 
驚いたように返ってくる。
 
これじゃ、餌付けにだけ来たようじゃないか。
 
少し、苛ついてくる。
 
睨むように見上げると、悟がため息を落とした。
 
カチンときて、手を伸ばした。
 服の裾を掴む。

「触るな」

 悟の肩が、わずかに揺れた。
 普段、聞かない強い声に体が震える。

 

「あ……」


 
私の様子を見ると、悟が声を漏らし、顔を歪めた。

「ごめん」
 


 それだけ言うと、背を向けて出ていく。
 パタンと戸が閉まると、ぽたりと何かが膝に落ちた。

「……いったい、何しにきたの」

 
静かに零した言葉は、
 冷たくなったオニオンスープだけが聞いていた。

 次の日は、学校に行く気分じゃなかった。
 
でも、あとちょっとだし、親に言い訳するのも面倒だった。
 
いつも通りに登校して、ミカと陽子に挨拶する。
 
授業中は、何度も窓の外を眺めた。
 体育の時間、校庭を駆ける豊だけが眩しく見えた。
 
廊下で悟とすれ違ったけど、お互いに相手が見えていないふりをした。

 
心が砂に埋もれて、
 世界から色が消えていく。

 職員室を出る頃には、夕陽が顔を出し始めていた。
 
当番の仕事を終え、帰ろうとカバンを取りに教室に戻る。
 
教室の前まで来て、胸が冷えた。
 
……アンナの声がする。
 
嫌だな、と思いながらも、カバンを取りに入らなければならない。

 窓からそっと覗く。

 

「本当にちょろかったね」


「だから、言っただろ」

 
ケラケラと笑うアンナは悪魔のように見えた。

 
一緒にいるのは……
 心臓が跳ねる。
 口元を手で覆い、飛び出しそうな声を喉の奥へ押し戻す。

 

「さおりの名前出した途端に、奴隷かよってくらいいいなりなの。
もう、すっごい可愛くて」
 


 ……異常だ。
 

 アンナは、本当に嬉しそうに笑っているように見えた。


「本当は、さおりとも遊びたかったんだけどなー」

 その言葉に、心臓が冷えていく。
 

 不服そうなアンナが、手を伸ばす。

 途端に、乾いた音が響く。

「いったいなー。ひどい~」

「さおりに手を出したら、今度はお前が全部失うぞ」

 
声が冷たかった。
 アンナは一瞬だけ顔を強張らせ、それから甘えるように笑う。


「やだな、冗談だよ」

「……まぁ、よくやったからな。お礼はするよ」

 
豊の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
 
アンナの目が輝く。
 

「じゃあな」

 
そう言って、豊は教室を出ようとする。


 ——何もなかったみたいに。

 震えが止まらない。

 ――ここにいてはダメ

 音を立てないように後ずさり、階段をそろりと降りる。

 教室が見えなくなったところで、誰もいない廊下を走り出した。
 
とりあえず、外へ。
 校舎の裏庭に出ると、止まる。
 

 息を整える。

 もう、帰ってしまおう。
 
カバンはいらない。
 怖い。
 私、何も……。
 熱いものが込み上げてくる。

 校門へ向かおうとした時、呼び止められた。

「さおり」

 ビクッと、体が震えた。


「かわいいなぁ」

 
ゆっくりと振り返る。
 
豊はハンカチで手を執拗に拭きながら近づいてきた。

 
足が震える。

「見て、あの女に触れられて、手が汚れてしまったんだ」

 
いつもみたいに笑っている。

 
ハンカチをポケットにしまうと、
手を握られ、そのまま豊の口元に引き寄せられる。

 背筋が凍る。

 ……あぁ、悟もこんな気分だったのかな。

「いい香りがする……ずっと、知りたかった。なんの香水?」

「……そんなの、使ってない」

 豊の口元が、ゆっくりと弧を描く。

 それなのに、眩しかったはずの笑顔には見えなかった。

「……覚えてる?二番目でいいんだ」

 視界が滲む。

 ……さとる

 目を伏せる。

 零れた涙を拭われると温かい腕の中に包まれる。
 体だけが、震えていた。


第四話 「オニオンスープ」

 修学旅行の翌日には、私たちは付き合っていることになっていた。
 なぜか噂は一斉に広まった。
 ミカは少し驚いた顔をしていたけど、「よかったじゃん」と言われた。
 傍から見れば人気者の彼を彼氏にできて幸せそうに見えるのかもしれない。
 本当のことは、誰にも言えなかった。
 悟も、何も言わなかった。ただ、ひどく顔を歪め、その日のうちにアンナと別れた。
 そして、その日の夜に、悟はまた家に来た。

 部屋に入ってきた彼の手には、またオニオンスープがあった。
 私は言った。

「悟……ごめんね」

 涙が止まらなかった。悟はそっと私を抱き締めた。

「俺の方が、……ごめん」

 悟はビニール袋に入ったオニオンスープをテーブルに置くと、私の頬と口にキスをした。

 涙が止まる。

「初めて」

 囁くと、悟は眉を寄せたまま笑った。

「……やったね」

 強く抱き締められる。

「ごめん。俺は奪われちゃった」

 掠れた声に、抱き締め返そうとした手が止まった。

「……そんな気がしてた。それで、触られたくなかった?」

 悟は答えない。
 私は、その背中をそっと撫でた。
 重みがかかってベッドに押し倒される。
 毛布の上に置いたままの雑誌に手が触れた。
 悟は雑誌をローテーブルに置くと、私の顔を覗き込む。
 悟の顔がよく見えた。

「脅されてた?」

 小さく頷く。

「……お前を標的にするのが嫌なら、付き合えって」

 悟の顔が歪む。

「ヤバい奴らが絡んでたから、逆らわなかった」

 ……アンナはやっぱり怖い人たちとつるんでいたんだ。

「ただ、……まさかあいつが黒幕だなんて思わなかった」

「私もだよ」

 おでこに熱を感じると、目の前が陰る。
 熱い手が私の頬に触れた。

「……あいつより先がいい」

 ふと、言われた意味が理解できずに悟を見つめた。

 悟の顔がゆっくりと近づき、服の中に手が滑り込むと、やっと腑に落ちる。
 不思議と怖くはなくて、悟の首に手を回す。

 そのまま、甘い夢を見た。

  高校を卒業する頃には、豊に抱き締められても、震えなくなっていた。
 豊は明るくて、優しかった。
 付き合う前と変わらない、太陽のような人だった。
 私の好きな紅茶を揃え、読みたいと言った本を、いつの間にか棚に並べていた。
 私が行きたい場所を口にすると、次の休日には地図を広げている。
 悟は、豊には怖い人たちとのつながりがあるから気をつけろと言った。
 それでも、私の前で豊が裏の顔を見せることはなかった。
 何より、私が悟を優先しても、何も言わなかった。
 だから私は知ってしまった。
 この人は、本気で私を好きなのだ。
 それから私は、悟を優先するたび、豊がどんな顔をするのか確かめるようになった。
 
 何も言わないことに、少しずつ甘えるようになっていた。
 悟といても、時々、豊に会いたくなるくらいに。

 ――三年後。


 
 カフェテリアで隣同士に座る。
 
 私はいつものオニオンスープと野菜とパン。

 豊は今日もがっつり定食を選んだ。


「今日もそれだね」


 頷く。


「課題、どう?」

「終わったよ」

「さすが、さおり」


 苦笑する。


「俺も、もうすぐ終わらせる。週末、遊びに行かない?」


「いいよ」


 豊を横目で見る。


「……今から、うち来ない?」

「……うん」


 私が笑うと、吸い寄せられるように近づいてくる。

 影が深くなると、そっと人差し指を豊の唇に乗せた。

「人前」


 ひそっと伝えると、止まる。

 そして、耳まで赤く染めると、蕩けるように笑った。

 豊の家は大学の近くだった。
 よく仮眠をとりに来ている。大学に入学してからは、自宅よりもこの部屋にいることの方が多い気がするくらいだった。
 トートバッグを置いてソファに座ると、腰に腕が回る。

「紅茶がいい?」

 耳元で豊が囁く。

「うん。あったかいの」

「わかった」

 温かい体温が離れていくと、なんとなく近くのクッションを抱きしめる。
 さらさらした感触を確かめながら、クローゼットに掛かった自分の服を見つめた。
 いつからここにあるのか、もう思い出せない。
 ケトルの沸く低い音がして、陶器の触れ合う軽い音が響く。
 私はクッションの表面を撫でた。
 さらさらした感触が、いつの間にか別のものに重なっていく。
 指を止めても、それだけは消えなかった。
 クッションに顔を埋める。
 ……豊の匂い。
 かちゃっと音がして顔を上げる。
 木製のローテーブルに置かれたカップから、いい香りが立ちのぼった。
 湯気の向こうで、豊の顔がやわらかな影に滲んだ。

「……アールグレイ?」

「うん。香りが強いの好きじゃん」

 豊が私の横に座る。
 また腰を引かれて、豊の胸に擦り寄る。
 穏やかに微笑む頬に、そっと触れると、彼は簡単に降りてくる。
 温かな感触に包まれると、強く肩を掴まれた。

「好き……アールグレイ」

 囁くと、深いため息がかかる。
 
 目を上げると、豊の眉に皺が寄った。

「……俺も好き」

 鼻の上に口付けが落ちて、思わず目を閉じる。
 豊のことが好きだ。きっと、嘘じゃない。
 でも、時々、これは夢なんじゃないかと思う。
 いつまで、このままでいられるのかな。

 ふと、そんな風に思った。

 自宅の玄関前に着くと、繋いだ手を離す。
 


「また明日ね」

「うん……」


 玄関を開けて、振り返る。
 

 豊の視線は、足元に落ちていた。



「……いや?」

「まさか」

 
笑う。


 豊が手を伸ばし、私の髪ゴムを外す。

 
ほどけた髪から、シャンプーの香りが落ちる。
 


「これ、頂戴」

 
口元に持っていく。
 


「……いいよ」
 
 
 私が言うと、目元がやわらいだ。

 扉を閉めて、部屋に入る。

 荷物を置いて、手を洗う。
 手をタオルで拭きながら、鏡に映る自分の顔を見る。

 洗面台に置かれた別の髪ゴムを手に取り、ほどけた髪を結び直した。
 

 テーブルの上に、ラップのついたオニオンスープが置いてある。

 口角が上がってしまう。
 鼻歌を口ずさみながらラップを外すと、スプーンで一口飲む。
 

 ……もう、冷めてる。


 
「おかえり」

 
 浴室から出てきた悟が、
タオルで髪を拭いている。
 


「……ただいま。お風呂早くない?」
 


「んー、走ってきた」
 
 

腰を引かれ、
石鹸の匂いに包まれる。

「いい匂い」
「お前は、風呂入ってこい」

「……汗くさい?」

「あいつくさい」

 胸の奥が、わずかに冷える。

「……嫌?」
「嫌に決まってんだろ」

「別れる?……何かされるかもだけど」

 悟は、少しだけ黙った。

「されねぇよ」

「なんでわかるの?」
「あいつ、お前が嫌がることだけはしねぇから」

 視線を上げると、悟と目が合った。

「……だいたい、お前、あいつ好きだろ」
 


 やわらかい感触が重なる。

「俺の次にな」

 オニオンスープの味がした――。


(了)



いいなと思ったら応援しよう!

COBITo|物語を書く人 【緊急TAKUMAライブ中|ペイフォワード主題歌120%🌿】 この物語を楽しんでいただけたら、そっと応援していただけると嬉しいです。いただいたチップは、物語を続けていく力に使わせていただきます。

この記事が参加している募集