ひとひら 第八話
出会い
4月2日 AM8:15
巨木から舞う白い花を、呆然と見上げる。
立ち尽くしていると、
木の後ろから、小さく草木の上を踏む音がした。
身構えて、無意識に腕に抱くノアを強く抱きしめる。
ノアの尻尾が私の顎の下を撫でてくれる。
巨木を見つめる。
突如、ひょこっと根のところから、
真っ白なうさぎが顔を出す。
……こんなところに、うさぎ?
でも不思議と、
「いるはずがない」とは思わなかった。
猫といい、うさぎといい、
……ここは、もふもふ天国?
少し幸せな気持ちになりながら、
あちこち飛び跳ねるうさぎを目で追う。
じっと見ていると、ノアの尻尾が私の頬をやさしく叩いた。
腕の中のノアを見ると、
「ミャー」と鳴いて、私にすり寄ってくる。
……何これ。
胸がきゅっとなる。
思わず、ノアの頭にキスを落とすと、
森の奥へ消えた。
「あ……ノア!」
一瞬の出来事に呆気に取られていると、
足元でうさぎが私を見上げていた。
人間との距離が近すぎる。
それでも、赤い瞳から目が離せない。
「あなたはどこから来たの?ここに住んでるの?」
……それとも、誰かに飼われていたのか。
ここは、そんなに広い森だったのか。
すぐに海に出られる場所だと思っていた。
全く逃げる様子のない、うさぎ。
膝をつき、手を伸ばすと、ぴょんと近づいてくる。
……嘘みたい。
ふさふさの毛を撫でながら、
小さい頃に動物園で抱っこさせてもらったことを思い出す。
「やっぱりニンジン食べるのよね?」
私はポケットに手を入れ……また、スマホを家に置いてきた。
餌の与え方を調べたかったのに。
ため息をつくと、うさぎを抱っこして立ち上がる。
辺りを見渡すと、ガサっと音がする。
「ノア?」
苦笑しながら、呼びかける。
少しすると、ノアが何もなかったかのように顔を出す。
近づこうと、巨木の根の近くまで歩くと、
何かが視界に入る。
……スマホだ。
背筋が凍る。
根の上に置かれたそれを、ゆっくり拾い上げる。
すると、画面が消えていることに気づく。
ヒビの入った、私のスマホだ。
試しに電源を入れたけど、
残念ながら充電がないようだ。
……ということは、
「ここは未来?」
私は記憶を辿って、昨日のことを思い返した。
さっき、泉に触れた時に、あの眩暈がした。
……まさか、ね。
そう思いながらも、心はざわめく。
「……充電したいな。」
何か分かるかもしれない。
そして、今、自分が何も持っていないことを思い出す。
戻っても、あの女性が住んでいるかもしれない。
町で充電器を借りるにも、買うにもお金がない。
親しい知り合いもいないし……。
絶望的な気持ちになりかけた時、
うさぎがぴょんっと腕から降りる。
「あっ…」
私は驚いて、うさぎの後を追った。
うさぎは巨木の裏へ回ると、
根元から湧き出る泉のまわりを、くるりと一周した。
まるで「こっちだよ」とでも言うように。
そして、ぴょん、と一度だけこちらを振り返ってから、
流れの先へと駆け出していく。
「……待って」
私は慌てて後を追った。
泉はすぐに細い小川となり、森の奥へ続いている。
昨日は、こんなふうに続いているようには見えなかったはずなのに。
歩くにつれて、
空気が少しずつ変わっていくのが分かった。
木々の匂いに混じって、
どこか湿った、潮を含んだ風が頬を撫でる。
遠くで、かすかな音がする。
葉擦れとは違う、
水が砕けるような、低い音。
「……海?」
思わず口に出すと、
うさぎはぴたりと足を止めた。
一度だけ、こちらを振り返る。
赤い瞳が、じっと私を見つめている。
――本当に、来るの?
そう問いかけられている気がして、
私は無意識にノアを抱きしめた。
ノアは何も言わず、
ただ、私の胸元で小さく喉を鳴らす。
「……大丈夫だよね」
誰に向けられた言葉かわからないまま、
私は一歩、踏み出した。
木々の間が、ふっと開ける。
その瞬間、
視界いっぱいに、真っ青な色が広がった。
「……うわぁ」
森の中心だと思っていた、その先に、
白い砂浜と、どこまでも続く海。
波は穏やかで、
朝の光を受けて、きらきらと瞬いている。
怖い、と思うより先に、
胸が、すっと軽くなった。
……来てしまった。
感慨に浸っていると、
後ろから、
ひょい、と重みを感じる。
「わっ」
ノアが私の肩に飛び乗った拍子に、
よろけて、その場に尻餅をついた。
「……いたた」
目の前には、
ちょこんと座る白いうさぎ。
じっと、
私の顔を見上げている。
逃げる様子も、怯える様子もない。
私は、はっとして、手に持っていたものを見る。
「……スマホ」
ノアが、尻尾で私の手をつついた。
小川に浸かっていたらしい。
……壊れる。
慌てて引き上げると、
画面が、ふっと明るくなった。
「……え?」
充電、1%
確かに、点いている。
4月2日 AM 8:45
待受は私の好きな海の風景。
見覚えのない画面だった。けれど、私らしい。
とっさにカレンダーアプリを開いて、
年月を確認する。
――20××年
全身から血の気が引く。
……どうして。
――五年後だった。
昨日は、十年後だったのに。
五年後……
この時、私はまだここに住んでいるのだろうか。
それとも……
震える身体にぴとっと、ノアとうさぎがくっついてくる。
目頭が熱くなる。
私は二匹をぎゅっと抱きしめた。
立ち上がって、スカートの泥を払う。
ログハウスの様子を見てこよう。
もし――
「もう一人の私がいたら……」
会わない方がいい、って聞いたことがある。
腕の中の動物たちに目を向ける。
ノアは「ミャー」と言い、
うさぎは私の胸ですんすん匂いを嗅いでいるようだ。
「……そうだよね。」
私は、海を背に森へ歩き出す。
白い花は見えなくなっていた。
――そして、スマホの充電も消えた。
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