【ショート】 ひとひら ―あの日の選択―
―― short story ――
「稲森さん。ごめんなさい。今日、娘が熱出しちゃって……」
「いいですよ。私、やっておきますね。」
書類を受け取る。
「申し訳ないけれどお願いします。」
「わかりました。お疲れ様です。」
「お疲れ様です。」
頭を下げて去っていく。
ちょうど、十五時になるところだった。
席に座ると、書類を机の上に置く。
作っていたデータを保存して、付箋に『Excel2/10』と書いておく。
苦くなった口の中に、冷たくなったコーヒーを流し込んだ。
パソコンを叩く音を止める。
額の奥が痛かった。
目元を押さえてから、肘をつく。
ふぅ、と息を吐いて帰り支度を始める。
もう、誰も残っていない。
立ち上がると、少しふらっとする。
でも、達成感はあった。
ちゃんと、工藤さんから受けた仕事を終えたから。
給湯室でカップを洗っていると、気配を感じる。
馴染みのある体温と香水が鼻につくだけで、一気に目が覚める。
「お疲れさま」
仰ぎ見ると悠がいた。
「悠も残業?」
「……うん」
時計の針は二十時を過ぎていた。
「帰ろ。雫」
悠が目を細める。
カップを拭いて棚にしまうと、
少しだけすり寄る。
頭にそっと手が触れる。
見上げると、頬を染めて笑っていた。
「大丈夫?雫」
「ん?」
「仕事」
「へいき」
「……そっか。なら、いいんだ。」
悠はいつも眉を寄せて、息を詰めた。
営業成績は上位。
常に誰かに囲まれている人気者。
どうして彼は私と付き合っているのだろうか。
高級マンションの一室で目が覚める。
窓の外にはミニチュアみたいな朝の東京が広がっている。
空は近かった。
でも、ひしめき合う地上の景色を眺めていると違和感があった。
「雫、おはよう」
お布団とお日様の匂い。
大好きだった。
「稲森さん、知ってるの?」
食堂で声が掛かる。
「何でしょうか?」
「岸本さん……西條さんとデートしてたって」
小声だった。
「あ、やっぱり?」
「湊さん、知ってるの?」
「えぇ、一昨日の夜に友人と新宿にいたのよね。その時に……」
湊さんの私を見る目が曇る。
……西條さんって、悠と同じ営業チームの人だ。
綺麗な人。
今日は、残業しなかった。
『先に帰るね』
返事はすぐに来た。
『気をつけてね』
別にいつもの悠だ。
なのに、嬉しくない。
それでも、悠の部屋に帰った。
彼に、何かを聞かれるのは怖かった。
勇気が、なかった。
ソファに寝転び、ネットサーフィンをしていた。
森や海、旅行やアウトドアのサイトばかり開いていたことに気づいた時には、一軒のログハウスに見入っていた。
すごく、魅力的だった。
窓からは海が一望できる森の中のログハウス。
私の中を涼やかな風が通り抜けていく。
予約ボタンを押していた。
週末、悠に実家に遊びに行ってくると言って、
電車で二時間以上かかる海の町に来た。
不動産屋さんでログハウスの内見を依頼する。
町は昔ながらの雰囲気を感じて、どこか懐かしかった。
車で十分ほどの森の中にログハウスはあった。
車から降りると、土の感触に胸が高鳴る。
森はざわざわと騒いでいる。
中に入ると、木の香りが全身を包む。
部屋を歩く。
寝室のドアを開けると、
波の音が広がる。
――海。
途端に、胸の奥が熱を持つ。
――あぁ、私、ここにいたい。
不動産屋さんにお願いすると、しばらく見学していていいと町へ戻って行った。
すぐに親に電話した。
頷いてくれた。
目から涙がポロポロ落ちた。
息が、できた気がした。
不動産屋さんへ行って、契約書を書いた。
両親の印鑑が必要で、一部、持ち帰る。
ログハウスを購入した。
翌日、退職届を内々に上司へ渡した。
いつも細まっていた目が驚くほど大きくなった。
「驚いたなー。いやぁ、残念だよ」
……思ってもないくせに。
仕事は終えていた。
引き継ぎもスムーズだった。
産休明けの湊さんの勤務時間が増えたから。
私の仕事は工藤さんとやってくれることになった。
書類のデータを提出すると、上司も口の端を上げて、
そそくさと他の仕事を渡す人を探しているようだった。
一ヶ月後に、悠に告げた。
「別れよう」
作業机に向かっていた悠の手が止まった。
振り返った目は、信じられないものを見るように私を捉えていた。
ガタッと椅子が倒れる。
悠は扉に立つ私のところまで駆けて来ると、そっと肩を掴んだ。
「雫、なんて言った?」
まだ、口が笑っていた。
「別れよう」
悠から表情が消える。
震える唇から「どうして……」と漏れた。
吐きそうだった。
心臓の音が耳元で聞こえた。
でも、震えてはいけなかった。
息をゆっくりと吐く。
「……何か、美味しいものでも食べに行かないか?あ、欲しいものは?なんでも、買ってあげるよ。旅行でも行く?」
悠の殺し文句だった。
何もいらないのに。
「最近、忙しくし過ぎちゃったかな。何か、雫の好きな映画でも観る?」
彼の眉が寄る。
必死に微笑んでいるのが伝わる。
やめてほしかった。
他の女性と遊ぶくらいなら。
やめてほしかった。
私にすべて合わせることも。
彼の周りにいる人たちの目線が痛かった。
ずっと。
目を伏せる。
握り締めた手に大きな温かい手が重なる。
「……どうしたら、一緒にいられる?」
――どうして。
「雫のためなら、なんでもするよ」
手を振り払う。
榛の瞳から色が消える。
――やめてよ。
「別れる」
踵を返す。
荷物はもう全部バッグに入っている。
「雫!」
悠の手が空を掴む。
「……別れない。時間が必要なら距離を置こう。でも、別れないから。」
一瞬、足が止まる。
でも、振り返らなかった。
そして、翌日から有休消化に入った。
すぐにログハウスに向かう。
一ヶ月ぶりだった。
胸の中は傷だらけなのに、肩がすごく軽かった。
「逃げた」と言われれば、たぶんそうなんだろう。
でも、
私の中の何かが限界だった。
ここでは、深く息が吸える。
潮と草の香りが混じった空気が、胸いっぱいに広がった。
——きっと、後悔しない。
(了)
お読みいただきありがとうございます🌿
こちらの企画に参加しています☺️
この物語は、
私の唯一の有料記事
『これは、たぶん、始まりの物語。――仕事を辞めた日のこと。』
の気持ちを投影したお話になっています。
有料なので出せないな、と思ったので、
物語に「心の部分」だけを投影しました。
実際の話の内容はだいぶ違います😅
と言いますか、全然、違います。
正直、よくある話ですが、飾らない私を書いたエッセイなので、
勇気が出ず封印しています。
読まれた方は、もう私の友達です。笑
#なんのはなしですか
今回のテーマにピッタリだなぁと思ったのですが、
やっぱり無料にする決心がつかず、少し、弱くなりますが物語にしました。
もし、読みたいと思ってくださる方がいらっしゃいましたら、プレゼントいたしますので、お声がけください☺️
この「ひとひら」の「雫」という人物の性格は、きっと私なんですよね。
臆病なとこも、周りが見えないとこも、夢中になると突っ走るところも。
こんなに可愛くないし、私の経験談にドラマはありませんけれど。笑
でも、「息ができる場所を選ぶ」という気持ちは一緒です。
今も後悔はしていません。
『連載作品』ですが、今回は外伝として読み切りで書きました。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
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