ひとひら 第六話
ノア
4月1日 AM10:10
——白い花が舞っていた。
ひらり、ひらり、と。
青空。
青々とした緑。
美しい情景が目に入る。
ん~、と伸びをしてから、私は気づく。
自分が巨木に背を預けていることに。
……寝ていた?
膝の上に、温かい重み。
視線を落とすと、猫が目を閉じて丸くなっていた。
「夢を見ていたのかしら」
夢にしては鮮明すぎるし……
猫を抱き上げて立ち上がる。
お尻を払って歩き出すと、
不思議なくらい、さっきまでの違和感が消えている気がした。
巨木を見上げる。
白い花は風に揺れ、落ちて、また揺れて。
裏へ回ると、巨木の根元から流れる水は、
泉のようで、そのまま森の奥へ続いている。
「夢と一緒……」
そう思った瞬間、
私はふと、手元にあるはずのものがないことに気づいた。
「あっ……スマホ」
さっきまで持っていた。
確かに、あの画面を見た。
なのに、ない。
カバンを探っても、周囲を見渡しても見当たらない。
猫に視線を送っても、返ってくるのは、
「ミャー」
だけだった。
——私は、ひとまず時間を確認したくて、ログハウスへ戻ることにした。
歩きながら、頭の中で同じ言葉が何度も反芻される。
十年後。
知らない家。
知らない女性。
手紙。
白い花。
そして、巨木。
ログハウスが見えたとき、胸がぎゅっと縮んだ。
けれど——
扉を開けると、そこは間違いなく私の家だった。
見慣れたソファ。
自分で選んだカーテン。
いつもの木の匂い。
時計を見る。
20××年4月1日 AM10:23
「……」
西暦も、月日も合っている。
元に戻っている。
けど、巨木の下では十二時だった……
まるで時間が戻ったみたいだ。
混乱した頭で、私はぽつりと言ってしまう。
「私、疲れているのね……」
玄関に、エプロン姿の女性の気配はない。
家具も間取りも、私が用意したもののまま。
——私の生活が、ちゃんとここにある。
ほっとした途端、どっと疲れが押し寄せた。
「はぁ……」
声に出して、ソファに身を投げる。
だらしなくひっくり返った私の横へ、
猫がすっと来て丸くなった。
「猫ちゃんのご飯を買わなきゃね」
白と茶の混じった毛並みを撫でながら、つぶやく。
「……名前も、どうしようかな」
猫は目を細めたまま、喉を鳴らす。
そうだ。
この子は、ただの猫じゃない。
そう思ってしまうくらい、
私の恐怖を、何度もほどいてくれた。
手紙のことも、白い花のことも、まだ整理できていない。
それから——
白い花。
「……ノア、ってどう?」
ふいに口から出た名前に、自分でも驚く。
理由は分からない。
でも、その響きだけが、胸の奥にすっと落ちた。
しっぽが、ゆらりと揺れた。
……いいの?
わからないから呼んでみる。
「ノア」
ピクッと猫が反応する。
「ノア、おいで。」
私が腕を広げると、猫は迷わず私の胸に飛び込んだ。
「気に入った?」
小首を傾げながら聞くと、
「ミャー」と返事が返ってくる。
しっぽがまたゆらりと揺れる。
「ふふっ」
私は顔を綻ばせると、ノアを抱き上げる。
腹にスリッとして匂いを堪能する。
広がるのは、花束のような緑と花の香り。
ミャっと抵抗されたが、気にしない。
……ふわふわ、やわらかい。
私はしばらく逃げようとするノアにくっついていた。
結局、ノアに逃げられ、買い物に出た。
ログハウスにノアを残し、今度は間違いなく、スマホもカバンにしまう。
そして、割れてなかった……
ペットショップとホームセンターをざっと見て、
定番そうなキャットフードを買う。
……ケージはノアには必要なさそうだけど、おうち的なものは用意しよう。
寝床や生活がしやすいように、
猫用の寝床クッション、水受けとブランケット、
可愛いボールのおもちゃも買ってしまった。
スーパーで買い出しも済ませると、そそくさと家に帰る。
待っている子がいると思うと、
早く帰ろうという気持ちになるものね。
口元に笑みを浮かべて、ログハウスへと向かう。
森に差し掛かると、白い花がひとひら見えた。
『……なにか、いい事でもあった?』
ふっと、親しんだ声が聞こえた気がした。
ピタッと足を止める。
振り返ると、特段変わりない町の風景。
私がよくニヤニヤして歩いていると、
横から声をかけてくる人を思い出した。
……こんなところに居るはずないのに。
ちょっとだけ、胸がキュッと締め付けられる。
私のいい事をまるで、自分のことのように喜んでいた彼。
私を甘やかして、何もかも許してしまう人だった。
大好きだった。
先月、別れたばかりだからか、まだ喪失感がすごい。
自分で決めたのに、未練が残っている。
ほっぺをぐっとつねって痛みに集中する。
そして、ログハウスへ向かう足を早めた。
私の知らないところで、
白い花はひらりと舞う。
——海へ。
「ただいま。ノア」
自宅に戻ると、ソファに丸まっていた猫が目に飛び込んでくる。
私に気づくと、しっぽを振って近づいてくる。
ふふ。気に入ってくれるかしら。
荷物を置き、ダイニングの横の小さなスペースに猫グッズを広げる。
庭に出やすいし、ここならお世話するスペースも十分だ。
クッションに、水うけ、ブランケット、
次々と並べて猫をクッションの上に置く。
「ここがおうちよ」
にっこり笑うと、ノアも「ミャー」と答える。
キャットフードと水受けに水を用意し、ノアへ「どうぞ」と渡す。
「お腹空いたよね」
私はそういうと、自分の遅い昼食も軽く作った。
戻ると、ノアは窓辺に立ち、
海の方角をじっと見つめていた。
「ノア?」
名前を呼ぶと、何事もなかったかのように振り返る。
私は、少しだけ笑った。
その日は、それ以上何も起こらなかった。
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