ひとひら 第九話
守護者
4月2日 AM 9:30
潮風の奥に、森のやわらかな匂いが混じる。
この森は、不思議なほど深い。
巨木を目印に、今度はログハウスへ向かう。
混ざりあう胸の奥を押さえながら、
歩みを進める。
ふと、ノアの横を飛び跳ねていたうさぎがいないことに気付く。
振り返ると、巨木の泉の側で、こちらを見ていた。
一緒には来ないのね。
なんとなく、そんな気がして、うさぎを見つめる。
そんな私の足を、ノアが尻尾で足元を撫でる。
――早く行こう。
そう言われている気がした。
なんだか名残惜しくて、うさぎに手を振る。
うさぎはぴょんっと飛び跳ねて、
泉の浅瀬でピシャピシャ遊び始めた。
ログハウスが見えた瞬間、
胸の奥がざわついた。
見慣れたはずの家なのに、
どこか、違う。
十年後には、知らないエプロンを着た女性が住んでいた。
五年後ならどうなんだろう。
少し離れたところから様子を見るが、
どうやら、人の気配がない。
少し、近づいて窓を覗く。
……私の部屋だ。
家具や置いてあるものが私のもので間違いなさそうだった。
後ろから着いてきたノアが、
扉をガリガリする動作をする。
思い切って、チャイムを鳴らす。
ジリリリリっ。
馴染みのある音が響いて、分かっているのに驚く。
しばらく待っても誰も出てこない。
この時間だと、普段の私がいても留守にしているかもしれない。
色んなことを考えすぎてしまう前に、
ポケットから取り出した自宅の鍵をさしてみる。
かちゃっと小気味よい音がして、扉が開いた。
「……開いた」
当たり前かも知れないが、
他人の家の鍵を開けてしまったかのように、
一瞬、罪悪感に襲われる。
中に入ると、すかさずノアが先に立って、二階に上がっていった。
「……ノア」
一階の周囲を見回して、特に変化がないか確かめる。
ダイニングテーブルの上に、
紅茶を入れたカップが置かれていた。
……二つ。
私のカップに間違いない。
一人で住んでいるわけではないのか。
鼓動がまた少し早くなる。
カレンダーを見ると、やはり五年後のようだ。
……あっ、そうだ。スマホを充電しなきゃ。
私は二階に上がり、デスクの引き出しを開ける。
やっぱり。
そこに充電器があり、取り出してケーブルをさす。
ちょっとだけホッとして、周囲を見渡すと、
ノアがいない。
確かに二階に上がったのに。
ふと、目に入ったのは戸の開いたベッドルーム。
「ノア?」
戸を広げると、
ベッドの上にノアがちょこんと座って、
窓の外を見ている。
戸をしめて近づくと、
ベッドに書きかけと思われる日記帳とペンが置いてある。
私の手帳?
似てるけど、表紙が違う。
五年も同じノートを使うわけないもの。
私はベッドに腰掛け、日記帳を手に取った。
『20××年4月2日(Thu)
また、春がきた。』
私の筆跡で間違いない。
今日の朝、書いたものだ。
……やっぱり、私がここに住んでる。
また、鼓動が早くなり、ため息をつく。
日記帳を掴んでベッドに腰掛けると、
ノアが私と日記帳の間に入って、膝の上で丸くなった。
ノアを優しく撫で、その温かさに肩の力が抜ける。
その時だった。
キィ……
ゆっくりと、戸が開く。
首だけをそちらへ向けた瞬間、
呼吸が、止まった。
「……」
向こうも同じように、動きを止めていた。
目を見開いて、まるで信じられないものを見るように、
私を見つめている。
時間が止まったかのように、静寂だけが流れていく。
先に動いたのは――
向こうだった。
「しずく」
久々に聞いた声。
五年後、
――私は、彼とここにいるのだろうか。
でも、なんで。
彼の目元が、やがて驚きから、
いつもの優しい榛色の瞳に戻る。
そして、端正な顔立ちに笑みを浮かべて、
もう一度「雫」と呟き、ゆっくりと近づいてきた。
彼の指先が、私の頬に触れようとした時、
ノアの背中の毛が、ぶわりと逆立った。
一瞬、シュッと鋭い音がして、白茶の影が目の前に飛び出す。
獣のような声がして、見ると、
ノアが彼の手を引っ掻いて威嚇している。
「…ノア?」
戸惑って、声を出すと、少し冷静さが戻ってきた。
複雑に絡み合った感情が、落ち着きを取り戻す。
私は日記帳を置いて、立ち上がる。
「どうして悠がいるの」
私の声は、震えていた。
この状況は、悠にとってもおかしいはずだ。
私は五年前の私なのだ。
それほど、変わらないのかもしれない。
けれど、
今の私と五年後の私が、
まったく同じはずがない。
悠は、細かな違いに気づく人だ。
私とノアに威嚇されても、
それでも、落ち着いているように見えた。
悠は何か知っているのだろうか。
ノアが引っ掻いた手を、
困った子を見るような顔でさすっている。
「……怪我、してない?」
急に心配になり、手を差し出そうとすると、
強く引かれる。
気がつくと、
馴染みのある体温と香りが私を包み込んだ。
どきっとして、離れようとするが、
びくともしない。
……離して。
そう言おうとした瞬間だった。
「ただいま~」
下から呑気な声が聞こえる。
……私。
上がった体温が、一気に凍りついた。
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