龍と星のあいだで 番外編 わたしの神様 —祈りのきっかけ—
わたしにとって、神社とは――
子どものころ、お祭りに連れて行ってもらう場所だった。
太鼓の音。屋台の匂い。人のざわめき。
お祭りの意味なんて、よく知らなかった。
初詣はお正月の家族の行事。友達と行くのも、ひとつのイベント。
結婚式で神様の前に立ち、杯を交わす。子どもたちの成長を願う儀式。
そう、儀式の場。
なんとなく。それが「しきたり」だから。
こんな大人になるまで、神社はいつも近くにあったのに、どこか遠い存在だった。
神様の名前も、どんな神様が祀られているのかも、深く考えたことはなかった。
ただ、手を合わせる。それだけで十分だと思っていた。
――あの日までは。
娘は看護師だ。あの日も、いつものように仕事へ向かった。
朝、少し熱っぽいと言っていた。
その頃はコロナ禍のさなかだった。発熱と聞けば、まず「コロナかもしれない」と思う。私も、そう思った。
けれど、検査の結果は別のものだった。
肝臓にウイルスが入り、このまま数値が悪化すれば急性肝炎になる可能性もある、と告げられた。
そのまま入院が決まった。
あまりにも突然で、呆然とした。その日の朝に交わした言葉が、しばらく会えない別れになるなんて、想像もしていなかった。
面会もできなかった。
ただ、祈ることしかできなかった。
そう、祈ることしか。
わたしは近くの神社やパワースポットを調べて、車を走らせた。
一言主神社。御岩神社。泉神社。大甕神社。
何日も何度も、すごい距離を走って。
そして、ある日、花園神社に向かった。
⸻
― 異世界の扉 ―
海沿いから離れ、山へと向かう。
山へ入っていくと、次第に雰囲気が変わっていく。空気が変わった。
さっきまであった生活の音が、すっと遠ざかる。信号も、人の声も、街の匂いもない。
あるのは、エンジン音と木々のざわめきだけ。
もう、一台も車とすれ違わない。前にも後ろにも、誰もいない。
ナビだけが淡々と「この先、右方向です」と告げる。
進むたびに道は細くなり、山は深くなる。光は緑に吸い込まれ、昼間なのに少し暗い。
「本当に、合ってるのかな」
不安が胸をかすめる。
けれど、なぜか引き返すことはなかった。むしろ、“何か”に近づいているような感覚。
目的地に到着です。
誰もいない駐車場。私は車を降り、川の流れる道を歩いていった。
やがて赤い橋が見えた。花園神社。
その橋は、まるで境界線のようだった。下には川が、少し荒々しく、澄み切った風のように流れている。
石段を渡り、鳥居をくぐる。静止した雰囲気。川の音と遠くで鳥が鳴いていた。
まっすぐ拝殿へ向かう。朱色の社。神前には灯りがともり、神様が静かにこちらを見つめるようだった。
私は祈った。
どうか、娘が無事に治りますように。
拝殿の裏へ回ると、さらに石段が続いていた。本殿はこの先にある。
石段はとても急で、上が見えない。
上り切ってようやく現れる本殿。緑の森に囲まれたその場所には、狛犬ではなく神猿が並んでいる。
本殿のお賽銭の前へ向かおうとした瞬間、大きなスズメバチが二匹、御神前の前をブンブンと飛んでいた。
前に進めない。
石段の途中から手を合わせ、急いで降りた。呼吸が荒くなる。
もう何も音は聞こえない。私の呼吸の音だけ。
見渡す限り人の気配はない。この山で、私は一人きりだった。
社務所に向かうと灯りがついていたが、やはり誰もいなかった。書き置きの御朱印があり、私はお金を置いてそれをいただいた。
どれだけの時間ここにいたのかわからない。一瞬だったようなのに、だいぶここにいたような気もする。
赤い橋へ戻る。
山は相変わらず静まり返っている。川の音だけが低く流れていた。
橋を渡りかけた、そのとき。
山の上から一台の白い車が、ゆっくりと降りてきた。白いレクサス。
こんな山奥で。しかも、あれほど誰ともすれ違わなかったのに。
車は私の前で止まった。
白髪のおじいさんが降りてきて、穏やかな声で尋ねた。
「ここに、お手洗いはありますか?」
私は少し戸惑いながら、「社務所の横にありました」と答えた。
おじいさんはエンジンをかけたまま車を降り、そのまま橋を渡り、赤い門へと歩いていった。
え? エンジン、止めないの? 窓も開けっぱなしだよ。
わたしは振り返って、おじいさんを見た。もう遠くの方を歩いている。
少し不安があったけれど、誰もいないし、私は駐車場へ戻った。白いレクサスが降りてきたら後ろを走ろうと思い、少し待った。
山は静まり返っている。暗くなるのが早い。
レクサスは、降りてこない。
胸の奥が、ざわりとした。
もしかして。
ほんの一瞬だけ、あのおじいさん、神様?
そんな考えがよぎる。
そんなわけあるかい、あほかー、と自分に突っ込んだ。
そんなはずはない。
そう思いながらも、山の空気はどこか異様だった。
消えたレクサス。
気になるけれど、わたしは車を走らせた。
帰ろう。
ナビの通りに走り出す。
「この先、左方向です」
言われた通りに曲がる。
また山道。深い山の中、またカーブ。
走っても、走っても、山から抜けない。
さっき来た道とは違う。
どこ?
景色がどれも同じに見える。
登る。下る。また登る。
山の輪郭だけが黒く浮かび上がる。
焦りが胸を締めつける。
おかしい。迷ったの?
電波もある。なのに、出口がない。
木々が揺れ、その影が長く伸びる。まるで大きな龍がこちらを見下ろしているよう。
沢山の龍達が、眠っている。
ここは、龍の棲家。
起こさないように、祈る。
泣きそう。
長い山道。無事に帰れるのか。
わたしは本当に、異世界に入ってしまったんじゃないのか。
怖い。
怖い。たすけて。
落ち着け。
ハンドルを握り直す。
戻ることはできない。
ナビを信じるしかない。
孤独な時間。
娘のことを考えた。
どうか、あの子を助けてください。
どうか。どうか。
そのとき――
突然、視界が開けた。
見覚えのある道。
え?
そこは、御岩神社の前だった。
なんで?
花園神社から、どうしてここへ出るの?
永遠に山を越えて、わたしは御岩神社へたどり着いた。
胸の奥が、すっと静まる。
さっきまでの不安が、嘘のように消えていく。
あー、助かった。
帰れる。
そう思った。
もうすっかり夜。
私は御岩神社の神様に、必ずまた来ます。今日はごめんなさい。ありがとうございました、と心の中で告げた。
そう言って、見慣れた道を二時間半かけて家へ帰った。
もう心は軽かった。
その後、しばらくして娘は無事に退院した。
わたしは娘とお礼参りに神社をまわった。もちろん花園神社にも、お礼参りに行った。
あの夜とは、まるで違っていた。
厳かさは変わらないけれど、光が満ち、人がたくさんいて、とても美しく、やさしかった。
あの夜は、あの夜だけのものだったのかもしれない。
そして――
わたしは御岩神社へ通うようになった。
あの夜、なぜか辿り着いた、あの場所へ。
あれから四年。
月に一度。
森の空気を吸い、自分を整える。
私の還る場所。
あの夜が、わたしの祈りの始まりになった。
🌙
