『椰子の実』の誕生したエピソード/柳田國男と島崎藤村
ペンネームの由来の記事で触れた、
『柳田國男さんと島崎藤村さんのエピソード』の続きです。
ペンネームの由来
ココナッツの木=coconut treeから
椰子の実の歌が好きなこと、
椰子の木が群生する白い砂浜や
南国の青い海への憧れから
発想した名前です🏝️
『椰子の実』/Hue
オフィシャルHue
※Hue
ポップス(POPS)とオペラ(OPERA)の造語である“ポペラ(POPERA)”歌手として、クラシックとポピュラー音楽がクロスオーバーする新ジャンルを開拓し続ける。
PROFILE
2005年 キム・ジヒョン(女声)とリュ・ムリョン(男声)により、韓国初の混声ポペラデュエットとして結成。
「Hueの音楽を聴くすべての人を、癒しと安息の世界に導きたい」という願いのもと、
時代と国境を超えた幅広いジャンルの楽曲を世に送り出している実力派。
椰子の実について
椰子の実の詩の作者は、島崎藤村さんですが、
椰子の実の歌が生まれた背景には、柳田國男さんと島崎藤村さんのエピソードがあります。
柳田國男さんのこと
民俗学者の柳田國男さんのことを知っていますか?
民俗学という分野を確立した方だそうです。
著書に遠野物語、海上の道がある、というくらいの知識で、
私も、あまりわからなかったので調べてみました。
日本の民俗学を確立した柳田國男。民俗学発祥の記念碑的作品「遠野物語」(明治43年)から最後の作品「海上の道」(昭和36年)まで膨大な仕事を残した。
NHKアーカイブスから、お借りしました。
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250141_00000
柳田國男さんと島崎藤村さんのエピソード
(後半の資料から意訳しました)
若い頃、渥美半島の伊良湖崎で療養していた。
海岸を散歩中に、浜で椰子の実を見つけることがあった。
台風の翌日に流れ着く椰子の実をよく見かけた。
しかも椰子の実だけでなくて、藻玉という大きな豆もあった。
※参考 藻玉とは?
アフリカから日本の海岸近くの林冠に太いつるが絡まる姿が見られるマメ科の植物のモダマ。 落ちた種子が 海藻に覆われた姿から「モダマ」(藻玉)と呼ばれ、海流に乗って種が広く分布される
こんなところにまで、椰子の実が流れてくるのがうれしかった。
その話を、東京に帰ってから、
近所の島崎藤村くんに話した。
「柳田くん、それ使わせてくれる?
他の人には言わないでさ。頼むよ」
と言って(原文を意訳)
こうして生まれた詩が『椰子の実』の歌だ。
柳田國男さんと島崎藤村さんは、
ご近所に住まれていて親しかったんですね!
※参考資料
柳田国男「藤村の詩「椰子の実」」
※参考資料
柳田国男「藤村の詩「椰子の実」」
僕が二十一の頃だつたか、まだ親が生きてゐるうちぢやなかつたかと思ふ。少し身體を惡くして三河に行つて、渥美半島の突つ端の伊良湖崎に一ヶ月靜養してゐたことがある。
海岸を散歩すると、椰子の實が流れて來るのを見附けることがある。暴風のあつた翌朝など殊にそれが多い。椰子の實と、それから藻玉(もだま)といつて、長さ一尺五寸も二尺もある大きな豆が一つの鞘に繋つて漂着して居る。シナ人がよく人間は指から老人になるものだといつて、指先きでいぢり廻して、老衰を防ぐ方法にするが、あれが藻玉の一つなわけだ。それが伊良湖岬へ、南の海の果てから流れて來る。殊に椰子の流れて來るのは實に嬉しかつた。一つは壞れて流れて來たが、一つの方はそのまま完全な姿で流れついて來た。
東京へ歸つてから、そのころ島崎藤村が近所に住んでたものだから、歸つて來るなり直ぐ私はその話をした。そしたら「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」といふことになつた。
小さな資料室487より引用
柳田国男「藤村の詩「椰子の実」」
(故郷七十年拾遺より)
浜に打ち上げられた『椰子の実』は、どこからくるのでしょう…
黒潮にのって大海原を旅して、
そこにたどり着いたのでしょうか?
本州には無い大きな木の実に、柳田國男さんは、驚いたことでしょう。
故郷の南の島を離れ、ひとつここに流れ着いた『椰子の実』の気持ちになってうたった島崎藤村さんの詩心が心を打ちます。
ノスタルジックな歌ですね♪
確か奄美や小笠原諸島は、今のところ椰子自生の北限
奄美には、もっと南の東南アジアや南アジアから辿り着いたのでしょうか?
日本の本州では、辿り着いても椰子の実は定着できなかった、といいます。
最近のような猛暑が続けば、北限が広がっていくかもしれませんね…
