「僕が悪い子なんだ」と思い続けた私の正直な半生【#アダルトチルドレン 番外編】
静岡県静岡市で活動する心理カウンセリングルーム
「なりた心理相談室」です。
いつも記事を読んでいただきありがとうございます。
ここでは、私がカウンセリングを行う原動力にもなっている「私の半生」を聴いていただけたら嬉しいです。
なお、この文章はHPでもご覧いただけます。ぜひ、こちらものぞいてみてください。
私の半生
興味をもっていただいて、ありがとうございます。
ここでは、私の半生を正直に綴っていきます。
なぜ私が静岡の地で心理相談を行っているのか。
それは間違いなく、私の過去の経験が深くかかわっています。
そうした様々な経験が、心理セラピーを通じた苦痛の緩和や、よりよい未来をつくっていくためのカウンセリングとしての効果――
すなわち、相談者さまと共に歩む支援者としての志として、今日まで私の心を育んできました。
読む方の状況によっては、胸の奥がざわつくかもしれません。そのときは、読むのを少しだけ止めてみてください。
そして、もし私の思いが少しでも届いたなら。
あなた自身が、自分の中にある変化への可能性に一ミリでも気づいてくださったのなら。
私はこれからも、静岡でメンタルヘルスケア事業を通じて、皆さまのこれまでの苦悩が明日を生きる勇気に変わるよう、
精いっぱいの努力を続けていきたいと思います。
それではご一緒に、人生を振り返っていきましょう――
『プロローグ』
私は20代のころ、人間関係に行き詰まるたびに、「消えてしまいたい」と考えていました。
ある時、そんな現実から逃げるために入った図書館で、一冊の本に出会います。
「アダルトチルドレン(AC)」
――そう書かれた表紙を開いた瞬間、思わず息を飲みました。
そこに書かれていたのは、まるで私自身のことだったからです。
皆さまも、なにかこの言葉に“ピン”とくるものがあるでしょうか。
もしあるならば、もう少しだけ私の話にお付き合いくだされば幸いです。
『私が覚えた、生きる術』
私はいつも、母の機嫌をうかがっていました。
母は気に入らないことがあると、私の頬を思い切り叩きました。
「バシンッ」という、頭の骨にまで響く音。
あのジンジンとした頬の熱さを、私の身体は今でも覚えています。
手も足も口もガムテープで巻かれ、押入れに閉じ込められることもありました。
カビ臭い暗がりの押し入れの中で、私は舌でテープをなめながら、必死に拘束を解こうとしていました。
なぜ、きょうだいの中でいつも私ばかりがこんな仕打ちをうけるのか。
理由を告げられたことは、一度もありません。
なにか悲しいことがあると、決まって私はトイレにこもり、自分の頭を叩きながら私自身にこう言い聞かせていました。
「僕が悪い子なんだ」
「神さま、ごめんなさい。ダメな僕を許してください」
――今なら痛いほどわかります。
子どもの頬を叩いたり、押し入れに閉じ込ることは暴力行為であり、あってはいけません。
でも幼い私は、母や家族の「機嫌」の責任をとる役割を自然と背負っていました。
母を責めたり、怒りを向けることは、私にはできなかった。
それは、家族という存在を自ら否定することだったから。
だから、自分を責めるほうがまだ耐えられた。
そうやって自分を責めることで、かろうじて家族の一員でいらたのでした。
私が幼いころに学んだこと。
それは、何か人間関係にまつわるトラブルやつらい経験があると、自分自身に原因があると容赦なく責めることでした。
『顔色をうかがう、という知恵』
小学校では、いじめられるようになりました。
いじめっ子にリコーダーで脇腹を叩かれ、悔しくて毎日泣いていました。
「キレショー、キレショー(笑)」
大泣きして取り乱す私は、絶好のイジられキャラでした。
ある日、勇気を出していじめを母に打ち明けたとき、返ってきた言葉は「相手を見下してやりなさい」でした。
私が欲しかったのは、ただ「つらかったね」の、その一言だったのに。
わたしにとって、相手に勝つことよりも、ただ、今のつらさを認めてほしかった。
――人は、信用できない。
――自分で、すべて解決しなければいけない
その言葉にならない感覚は、大人になってからも続いていきます。
人への失望感、それは、私が幼いころから感じていた、小さな積み重ねでもありました。
力で勝てないと悟った私は、別の方法を選びます。
先生に褒められること。誰からも好かれる「いい子」でいること。
相手の喜びそうなことを、先回りして考えること。
相手の顔色ひとつで、私自身の考えや行動を変えること。
それは弱さではなく、生き残るための知恵でした。
居場所のない世界で、私が編み出した、たったひとつの安全策でした。
ただ……その“知恵”は、いつしか、私自身を苦しめる“クセ”となっていきます。
「消えてしまえ」と聞こえた日
高校生のある朝、自転車で登校していると、すれ違う人たちが、私の顔を見てコソコソとつぶやいてきました。
「お前なんか、消えてしまえ」
私はその異様さに、足が棒のように凍ってしまい立ち止まりました。
そして、ふとビルを見上げると、屋上から飛び降りる「もう一人の自分」が見えました。
――統合失調症のはじまりでした。
今ならそれが幻覚だったとわかります。でも当時の私には、今起きていることが現実そのものでした。
不思議なことに、唯一の心の救いは、机の引き出しに住む小人とお話しするすることでした。
今こうして書きながら、思い返しています。
あの体験は、自分という存在がおかしくなっていく「症状」というより、
「もう僕の心は限界だ」と知らせる、私の心からの叫びだったのかもしれない、と。
言葉にできなかったSOSが、症状というかたちをとって、あふれ出していたのでしょう。
色とりどりに個包装された薬をたくさん飲むうちに、何もかもがどうでもよくなり、一年間のひきこもりの末、私は高校を中退します。
ひきこもりにとって、朝はいちばんつらい時間でした。
通学する子どもの笑い声、自転車の音。そのすべてが、「お前に価値はない」とせせら笑うような声に聞こえました。
外に出るときは、人の視線が怖くて、前が見えないほど深く帽子をかぶっていました。
銀色の学生自転車を見るだけで、みじめさと緊張で身体が凍りつきました。
『心のリストカットで安心していた』
この不安な毎日を、そしてやり場のない不甲斐なさを、
私は自らを「ゴミクズ人間」と呼ぶことで、笑いに変えていました。
そうしなければ、生きていてはいけない気がしたのです。
でもあれはきっと、心のリストカットでした。
なぜなら、笑う私の瞳からはしっかりと悲しみの涙が出ていたからです。
それでもひとつだけ、確かなことがあります。
そんな散々たる日々の中でも、私はまだ生き続けていました。
壊れそうな心のいちばん奥のほうで、何かがずっと私を生かし続けていました。
唯一心残りなのは……その「生きていたい」という心の声に、私自身も、そして家族のだれもが気づいてあげなかったことです。
『嘘で自分を守った20代』
高校中退後、私は通信制高校に転校し、そのあとも進学を続けます。
病気とだましだまし付き合いながら、なんとか成人を迎えることができました。
でも、就職活動で私はつまずきます。
精神障碍の経験を正直に話すと、面接者の関心は、いつも病気に向かいました。
「高校を中退した人間は雇わない」
わたしの目を見ながら、ハッキりそう言われ、言い返そうとしても喉がキュウッと締めつけられて、何も言えませんでした。
――この言いたいことが言えない感覚、でも、身体の内側は何かを叫ぼうとしている感覚。
まるで過去の親との関係で感じてきた感覚に似ています。
通常の就職活動はあきらめて、精神障碍者手帳を取得するために、診断書をもらったこともありました。
決して安くないお金を払って頂いた3級の診断書。
でも、俺は障碍者なんかじゃない――
当時の知識のない私にとって、「障碍」という言葉は、大変重たい意味を持っていました。
最後の最後にプライドが邪魔をして、その診断書を、出してもらったその日に破り捨てたのでした。
やがて私は、嘘をつくようになります。
中退の理由は「父の会社が傾いたから」
ひきこもりの期間は「アルバイトをしていた」と。
すると、面接は最終まで進むようになりました。
面接官は同情してくれて、褒めてくれました……嘘で固めた、私の人生を。
それまで落ち続けていた就職試験が、嘘のように順調に進んでいく。
初めて内定通知の封筒を手にしたとき、
「精神障碍の自分を、人生から消してしまおう」
私は、そう心に決めたのでした。
ありのままの自分では認めらないと感じていた人間が、生き延びるために選ばざるを得なかった最後の手段。
それが、私の人生そのものを“私自身が”否定することでした。
でも、当時の私は過去を否定したり嘘をつかなければ、生きることができませんでした。
働き始めても、上司の顔色をうかがい、なんとか機嫌を取ろうと必死でした。
でもある日、叱責されて「あなたのそういうところが嫌い」と言われ
怒りに怒った私は、駐車場にある自分の車のボンネットを思い切り叩きました。
バン。バン。バン。
最後まで、相手への怒りを自分にぶつけていました。
そしてへこんだボンネットを見つめながら、ただ茫然と立ち尽くしていました。
次第に上司への怒りは、酒で晴らすようになりました。
かつておいしかったビールは、嗚咽しながら飲む苦いものに変わっていました。
明日が来ることが、ただ、怖かったのです。
『遺書を持って、それでも向かった』
病状が悪化し、昼間から酒を飲んでひきこもっていたある日のこと。
私はふと、近くに図書館があることを思い出し、小学生以来に、そこへ足を運ぶようになりました。
時間はたっぷりとありました。
生きている理由を探して本を読み漁るうちに、心理学の棚で、「アダルトチルドレン」という本に出合いました。
変な名前だな。でも、何かそそられるものがありました。
興味本位で開いてみると、まるで私自身のことが書かれているようなエピソードの数々に、思わず息をのみました。
このとき初めて、私は自分の生きづらさに「これまでの経験」が色濃く影響していたことに、納得がいきました。
そして巻末に載っていた、AC当事者団体の案内。
行こうか行かまいか。一か月以上、迷い続けました。
迷っていた本当の理由は、「もう疲れたから消えよう」と思っていたからです。
「こんなところに行って何になる。馬鹿馬鹿しい」
……それでも、気になって仕方がなかった。
「ここでダメなら、もう人生を終わりにする」
私は遺書を書いて、私は最寄りの会場へ向かいました。
―――
会場に着き、緊張で声を震わせながら、私は過去を語りはじめました。
小さな会議室に集まった仲間たちは、静かに、そして穏やかに耳を傾けてくれました。
そのとき、生まれて初めて、“安心という感覚”を味わいました。
ここにいていいんだ、という“安全な感覚”。
気づけば、温かい涙がこぼれていました。
あとになって、わかったことがあります。
あの場所は、私の中にずっとあったもの……
それは、人とつながりたいという小さな願いを、叶えてくれたのでした。
『そして、いま。』
あの当事者の会との出会いが、私の人生をもう一度動かすための、最初の一歩になりました。
でも、そこからの道のりは、まだ長いものでした。
当事者の会に通いながら、少しずつ考え方が変化していく中で、私は何人ものカウンセラーやセラピストの方々と出会ってきました。
自分が感じた“変化の感覚”を、多くの人に届けたい。
その思いが、心理療法を一つ、また一つと学ぶ原動力となっていきました。
家族の相互の力関係を扱う療法。身体や感覚に耳を澄ます療法。
心の中にある“いろいろな自分”と対話する療法。
そして、物語の物語をを編みなおしていく療法――。
学べば学ぶほど、かつて自分を苦しめてきたものの正体が、少しずつ言葉になっていきました。
そして同時に、それを教えてくださる先生方の、一人ひとり関わり方や哲学そのものから、私はたくさんのものを受け取っていました。
不思議な感覚です。 かつて「人は信用できない」「自分一人で解決するしかない」と思い込んでいた私が、 人から学び、人を信じ、人の心に寄り添う姿勢を、自ら選んでいます。
いまの私は、精神障碍から回復を遂げ、アダルトチルドレンやHSP、トラウマ(心の傷)といった生きづらさに寄り添う心理セラピストとして、静岡で心理カウンセリングを行っています。
ここまで導いてくれた、たくさんの方々の顔を思い出します。 止まっていた私の背中を押してくれた当事者の会の仲間たち。
心理療法のいろはを、自らの姿勢をもって教えてくださった、カウンセラーやセラピストの先生方。
そしてなにより、統合失調症を発症したあの頃、私を見捨てずにいてくれた、主治医をはじめとする支援者の方々。
その方々から受け取ってきたものを、今度は私が、目の前のお一人おひとりに、丁寧にお返ししていく。
それが、いまの歓びです。
『ここまで読んでくださった、愛情深い皆さまへ』
皆さまがこれまでしてきたことの、ひとつひとつ。
人の顔色をうかがってきたことも。
自分に嘘をついたことも。
自分という存在を否定し続けてきたことも。
そのすべては、あなたが今日を生きのびるために、そして過去の痛みから今のあなた自身を守るために、心が選ばざるを得なかったのだと、私は思います。
そして、もしかしたら――
こうして読んでくださっている今も、あなたの中の小さなご自身が、
「もう少し、生きやすくなる道はないだろうか」と、探しはじめているかもしれません。
中には、あきらめと可能性が入り混じって、まだ何をしたらよいのか決めかねている方もいるかもしれません。
このページを閉じたあとも、ここで受け取った何かが、皆さまの中にそっと残ってくれたなら。
そして、変化の可能性をご自身の中に一ミリでも感じていただけたのなら。
私は静岡で、そしてオンラインで、皆さまといつかお会いできる日を心から楽しみにしています。
ともに変化の可能性を信じ、ともに新たな道を始められることを祈って。
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なりた心理相談室
成田けんや
